WALKER’S 

歩く男の日日

7月21日 岡山県誕生寺へ

2017-08-15 | 17年青春18きっぷ


 姫路駅を8時01分に出ると、岡山に9時29分に到着、津山線の電車は10時22分発なので1時間近く待つことになります。暇なので瀬戸大橋線のホームに行って瀬戸の花嫁を聞きに行きます、


 津山線誕生寺駅に到着したのは11時28分、駅舎は新しくなったばかり、


 BSジャパンのロケ隊がいっしょに降りてきました、でもこの時点ではよく分かっていません、


 駅舎のすぐ前に左誕生寺の道しるべ、地図を調べてくるまでもなかったようです、


 この撮影が終わったところでダイヤモンドユカイさんに声をかけられましたが、まだ誰かはよく分かっていなくてテレビタレントか歌手かということしか認識できていません、法然上人二十五霊場の納経帳を見せると萩原智子さんと共に大いに感心してくれました、萩原さんはこの時点ではヨーコゼッターランドさんだと思っている。


 ロケ隊を引き連れて二人と話しながら歩き始めたところです。


 駅から400m北へ進んで左折したところ、


 橋に南無阿弥陀佛、


 ここはまだ少し手前、






 久米南町若者定住促進住宅


 左折して500mで誕生寺に到着です、




 大銀杏、本堂は江戸時代初期に再建されたもの、あまり見かけない二層の独特な建物、敢えて撮影はしませんでした。気になる方は画像検索、あるいは来週の月曜19時BSジャパンでお楽しみ下さい。


 丁寧で分かりやすい墨書を頂きました。この納経帳のほとんどがこのようにはっきり読みとれる分かりやすい墨書です、四国のとは全然違います、ときどき四国の納経帳を見返しますが、あの墨書を見ているともう1回という気持はあまり起こらなくなります、西国の納経帳も分かりやすいのが多くて見返しても納得できます。
 時間があるので納経所で休憩、冷水器もあるしお接待のキャンディもあります、本堂の前で住職が二人に解説しているところを撮影しています、ぶっつけなので住職も慌てて着がえておでましです。


 門前のお土産屋さん、ロケ隊は一足先に駅に向かいました、


 このあたりは河童伝説が広く知れ渡っているようで、いくつか前の駅のホームには大きな河童の看板がありました。


 南無阿弥陀仏の橋の由来、



 右折ポイント、


 右折ポイントにある何かの店にロケ隊が入っていきます、追い抜いて先に駅へ向かいます。


 駅舎の中のツバメの巣、大分大きく元気に育っています、

 駅のホームから向こうに見える看板、二層の本堂の写真も見えます。

 12時58分、津山行きの電車が到着、

 ロケ隊は同じ電車に乗ったのですが、誕生寺から二つ目の亀甲駅で降りていきました、誕生寺の人たちに亀甲にいいお店があるというのを聞きつけたようです、
 津山駅に13時20分に到着、姫新線の次の電車は14時30分発なので、津山の町を散策します。


 駅前広場の銅像、

 ぺりー来航時の大統領の国書の翻訳をした人、


 吉井川を渡って城下町に入ります、駅は城下のはずれにあります。

 橋から左に天満屋、

 右には作陽学園、作陽高等学校。ぼくが学生の頃は作陽音楽大学といっていたはず、播州では大阪音大よりも先ずは作陽音大だった、


 大通りに河童の銅像、河童の生息域はかなり大きいようです、






 津山といえば、河童よりこちらでしょう、



 凱旋コンサートがあるみたいです、


 津山城の立派な石垣、


 現在天守はありませんが、立派な縄張りです。帰ってから調べると姫路城より一回り小さい、7割くらいの大きさです。

 この城山をうまく生かした豪壮な典型的な平山城だったことが想像できます。

 津山藩の初代藩主は森忠政、本能寺で討ち死にした森蘭丸の弟です。
 津山藩は4代で取りつぶしになるのですが、その後、浅野内匠頭の変で取りつぶしになった赤穂藩に忠正の孫長継が入ってお家再興を成し遂げ、明治維新まで続くことになります。分家は三日月藩、新見藩も治めいずれも明治まで続きます。



 森忠政の銅像、
 公園内は有料だったので、ここで引き返すことにします、時間もあまりないし。


 入場門の手前でもこれだけ登ってきています、城山だけの大きさを見れば姫路城よりも大きいかもしれません。


 よく見れば街灯の上にも河童、


 40分弱で津山駅に戻ってきました、

 凱旋コンサートは明日でした、
 14時30分発の電車に乗り、佐用、新宮で乗り換えて17時37分に姫路に到着しました。JR佐用駅は「さよ」と読むことを初めて知りました、佐用駅では54分待ち、姫新線は超ローカル線なのでした。

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