万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

危険な橋下氏のゴーン被告擁護論

2020年01月16日 14時03分11秒 | 国際政治

 前代未聞の海外逃亡を計画し、日本国から逃げ去ったカルロス・ゴーン被告。卑怯な手段を用いたゴーン被告に対して日本国民の大半が批判的なのですが、日本維新の会の代表を務め、大阪府知事並びに大阪市長を歴任した橋下徹氏は、数少ないゴーン擁護者の一人のようです。

 

 橋下氏のゴーン擁護論とは、直接的にゴーン被告の無罪を主張するのではなく、海外メディアの大半と同様に、日本国の司法制度を批判するという間接的なものです。もっとも、同氏の擁護論には、中国と香港との関係とのアナロジーから日本国の司法を批判している点に特徴があります。簡潔に述べますと、同氏は、‘中国の司法制度を批判する者には、ゴーン被告を批判する資格はない’と主張しているのです。日本国も中国も司法制度に問題があるのに、中国ばかりを批判するのは不公平、すなわち、フェアではない、と…。雄弁で知られる橋下氏の詭弁に思わず頷いてしまう人も少なくないのでしょうが、よく考えてみますと、この主張には重要な見落とし、あるいは、誤魔化しがあるように思えます。

 

第一に、日中の両国では、犯罪の内容に違いがある点です。日本国の刑法は、利己的な理由から他者の権利を侵害する行為を類型ごとに犯罪として定め、こうした種々の犯罪行為に対して刑罰を設けています。一方、中国では、‘政治犯’という犯罪類型があります。それは、言わずもがな、中国共産党による一党独裁体制を批判したり、民主化運動に身を投じる行為等を意味します。政治的な自由が許されていない中国では、自由な政治的な発言や行動が‘犯罪’とされおり、この点において、日本国、並びに、一般の自由主義諸国とは決定的に違いが見られます。逃亡犯条例の改正に反対した香港市民も、一般の犯罪者ではなく、香港の自由や民主主義を護ろうとする罪なき‘政治犯’の引き渡しに反対しているのです。

 

なお、レバノンとの間に犯罪者引き渡し協定を締結していないため、日本国政府がレバノン政府に対してゴーン被告の引き渡しを要請しても、同国はこれに応じないとする見方が一般的ですが、レバノン政府は、ゴーン被告を少なくとも政府から弾圧や迫害を受けている‘政治犯’とは見なしていないことでしょう。日本にあってもゴーン被告は、自己弁護に熱弁をふるい、日本の司法制度を自由に批判していましたし、海外に易々と高飛びできるほど監視も緩かったのですから。

 

第二に、プロレタリアート独裁の建前の下で権力分立が否定されている中国では、司法は政治からも、‘マネー’からも独立的な存在ではありません。数年来、中国において猛威を振るってきた腐敗撲滅運動も、裁判権を利用した政治的な粛清であったと指摘されていますし、贈収賄は中国の悪習の一つでもあります。一方、日本国では権力分立の原則が制度化されており、司法の独立も確立しています。つまり、日本国の司法制度のほうが、犯罪者にとりましては遥かに‘不都合’なのです。否、財力のみならず、政界にも人脈を有するゴーン被告であれば、中国においてこそ不起訴となったことでしょう(中国では、幹部による企業の私物化は当たり前すぎで‘犯罪’とも見なされていないかもしれない…)。なお、ゴーン被告は、フランスでもルノー社に対する同様の罪状で捜査の対象とされていますが、日本国の司法制度は‘中世並みに野蛮’とこき下ろしたのですが、フランスの司法には服さざるを得ないはずです(ゴーン被告は、フランス司法をも‘中世並みに野蛮’と批判するのでしょうか。日本の司法制度批判を利用していたゴーン被告擁護論は、この時点で根拠を失う…)。

 

そして第三に指摘すべきは、橋下氏の説、否、日本の司法制度批判論は、より大局から見ればフェアな司法判断を困難にしている点です。同説では、刑事事件の被告人が、あろうことか‘被告席’に国家の司法制度を座らせらせています。この構図ですと、如何なる国の裁判所も、中立的で公平な立場から同事件を裁くことができなくなります。裁判所自身が‘裁判’の当事者となるのですから。つまり、ゴーン被告、並びに、その擁護者は、グローバリストの上から目線で自らを裁こうとする司法制度の不当性を訴えたことで、誰からも裁かれない立場に自らを置こうとしたのです(一国の司法制度の是非を法的に裁く国際機関が現状では存在しないことを利用した、巧妙な詭弁では…)。

 

この点、橋下氏は、公平性を主張するならば、上述したように‘中国の司法制度を批判する者には、ゴーン被告を批判する資格はない’として議論を封じようとするのではなく、国家の司法制度を裁く機関はないにせよ、‘ゴーン被告に日本の司法制度を批判する自由があるように、日本国民にはゴーン被告を、そして、香港市民には中国の司法制度を批判する自由がある’と述べるべきでした。一般の人々であれ、是非の判断は、両者の主張を公平に聞かないことにはできないのですから。

 

以上に主要な問題点を述べてきましたが、橋下氏の擁護論には相当の無理があるように思えます。仮に、同説がまかり通るのであれば、自由主義国であれ、ゴーン被告以外の一般のいかなる犯罪者も自国、あるいは、裁判地の裁判所の不当性や不備を根拠として違法に海外逃亡することが正当化されることとなりましょう。この意味においても、同氏の説はアンフェアを帰結するのみならず、司法の独立を実現している自由主義国の司法制度を揺るがしかねない危険性を秘めていると思うのです。

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天皇訪英は何を意味するのか?

2020年01月15日 13時57分40秒 | 国際政治

 英王室は、緊急の王族会議が開かれるほど、目下、ヘンリー王子夫妻の一件で揺れています。いわばお取込み中なのですが、その英王室が、今春、即位から間もない日本国の天皇皇后を国賓として招待するそうです。天皇訪英については、日本の皇室と英王室が親交を深める機会と捉え、令和の時代における日英友好促進を期待した報道が目立ちますが、その一方で、唐突に公表された今般の訪英は、国民には知らされていない両者の間の特別な関係を歴史の表に浮かび上がらせるかもしれません。今般の天皇訪英は、日英両国にとりまして歴史における一つの節目になるようにも思えるのです。

 

日本国内では、国民の大半は、日本国の皇室と英王室は同格、否、前者のほうが‘エンペラー’の称号を有するために国際的な序列では格上とする見方さえあります。しかしながら、明治以降の所謂“天皇”は、英王室の‘家臣’であった可能性は低くはありません(明治天皇は、国際勢力、すなわち、維新勢力によって据えられた人物であり、日本古来の天皇家の血筋を引いていないという有力な説がある…)。明治維新を陰から支えた、あるいは、仕掛けたのは英王室の勅許会社である東インド会社系の勢力でしたし、明治天皇をはじめ、歴代の天皇は、1348年、エドワード3世の治世に創設された英国王を主君とするガーター騎士団の一員です。上皇も1998年に叙任されていますが、今般の訪英に際しては、エリザベス女王による新天皇への叙勲も推測されえます。封建的な位階秩序にあっては、英国王は天皇より上位にあると言えましょう。

 

英王室が、外国人に同勲章を準メンバーとして授けるようになったのは、1813年のロシア皇帝であるアレクサンドル1世に始まります。1813年とは、まさにナポレオンのロシア遠征においてロシア側が勝利を収めた直後の年に当たります。対仏大同盟の文脈から英露間の関係強化が図られた時期にあり、同叙任には、軍事・政治的な意味が込められていたのでしょう(唯一独立を保っていたイギリスは、ロシアに対して優位な地位にあった…)。そして、ヴィクトリア女王の時代に至ると、ガーター勲章の授与の対象者は、ヨーロッパ以外の王家や皇室にも広がります。最初の事例は、1856年のオスマン・トルコ皇帝アブデュルメジド1世への授与であり、次いでペルシャ皇帝ナーセロッディーン・シャーにも同勲章は与えられているのです。つまり、ガーター勲章とは、イギリスが自らの世界戦略を展開するための極めて有効、かつ、重要な道具であったと言えるのです。明治天皇への1906年の叙勲も、日英同盟の絆の象徴なのでしょうが、封建的な位階秩序からしますと、日本国の天皇は、英国王に忠誠を誓い、盾となって主君を護る騎士団の一員なのです。

 

また、ガーター勲章の授与に拘わらず、イギリスが外国の君主や有力者一族を自らの支配の‘駒’としてきたことは、植民地諸国との関係からも伺えます。しばしばイギリスを舞台とする小説などでは、パブリックスクールに留学してきた外国の王族の子弟が登場してきます。また、『王様と私』にも描写されているように、宮廷や朝廷に自国の教育係を送り込むことは、支配のための第一歩でもありました。支配者、並びに、その一族の伝統的な意識や考え方を変えさせ、外国支配に対する抵抗感を取り去ってしまえば、より効率的、かつ、安全に植民地化することができるからです。支配側からすれば教育というよりも‘調教’に近い感覚なのでしょうが、支配層において宗主国への忠誠心が盤石となれば、植民地支配もまた永続性を得ることができます。日本国の“皇族”も英国留学が半ば慣習化していますが、英国留学の必要性は日本国側ではなく、英国の側にこそあるのでしょう。

 

今般の訪英に際しても、英国が招待するという形で発表されていますので、裏を返しますと、日本国には決定権はなかったことを意味します。つまり、訪英を命じられているのであり、日英友好は表看板に過ぎず、その真の狙いは、イギリス、そして、そのイギリスをも陰で操る国際組織による日本支配の永続化なのでしょう。このように考えますと、世界の王室や皇室とは、一体、何なのか、と頭を抱えてしまいます。2020年の年明けは、歴史の事実が明らかとなり、世界レベルで過去の歴史が清算される時代の始まりを告げているのかもしれません。

 

 


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ゴーン被告は日本人を目覚めさせた?

2020年01月14日 13時10分16秒 | 日本政治

 長期にわたって日産の会長として君臨し、ルノー・日産・三菱連合の要でもあったカルロス・ゴーン被告が変装した姿で巣鴨の拘置所の玄関口に現れた時、それは、日本国において何かが決定的に崩れた瞬間であったように思えます。その崩壊したものは何かと申しますと、日本人の一般常識であったように思えます。

 

 これまで、日本人の多くは、大企業のトップを務め、国際的にも名の知られた人物がよもや電気工を装うといった姑息で芝居じみた行動に出るとは夢にも思っていなかったはずです。社会的に高い地位にある人には、その地位に対する矜持があり、その立場を汚さないためにも自らを厳しく律し、不名誉の誹りを受けるような行動はとらないと信じられてきたからです。因みに、元農林水産省事務次官が我が子に手にかけてしまった事件の保釈シーンにあっても、その装いはアイロンのかかった背広姿でした。たとえ罪人であっても立場のある人は品位を保つものと考えるのが日本人の一般的な感覚なのですが、ゴーン被告の行動は、こうした日本人の一般常識を見事なまでに打ち砕いてしまったのです。

 

 しかも、ゴーン被告の父親であるジョージ・ゴーン氏の経歴を知るに至ると、日本人の多くは唖然とさせられることでしょう。同被告の父親は一旗揚げるためにレバノンからブラジルに渡り、同国で事業に成功した実業家であり、このため、同被告もフランスのエリート校であるグランゼコールの一つで高等教育を受けています。人口の40%ほどをキリスト教徒が占めるレバノン出身であるために、属する宗教もマロン派のキリスト教とされ、どちらかと言いますと裕福で子弟の教育にも熱心な実業家の家庭がイメージされます。ところが、最近の報道によりますと、この勤勉な実業家一家のイメージもまたひっくり返されてしまうのです。

 

 ゴーン被告は自らの父親について語ることは少なかったとされますが、それもそのはずなのです。驚くべきことに、ジョージ・ゴーン氏は、出身国のレバノンにあって神父を殺害する事件を起こした犯罪者であったのですから。殺害の理由は、ダイアモンド、金、外貨、麻薬等を密売していた同氏とブラック・ビジネスの仲間となっていた神父との間で分け前をめぐるトラブルが発生したためとされています。この事件は、父ゴーンの実像のみならず、ブラック・ビジネスに手を染めている教会の腐敗をも暴いているのですが、このお話は、これで終わりとなるのではありません。

 

 さらに驚愕させられるのは、有罪判決を受け後の父ゴーンの行動です。投獄されたバアバダー刑務所にあっても、同氏は、看守達に賄賂を配って‘牢名主’になっています(刑務所の腐敗…)。そして、同氏は脱獄自体には加わらなかったものの、同刑務所で起きた脱獄事件を機に、同氏がバアバダーの地方検事、予審判事、刑事裁判所長の殺害を計画していたことが発覚するのです。この件で、同氏は死刑判決を受けることとなりますが、模範囚として振舞ったため、禁固15年に減刑されて出獄していますが、その後、偽札販売の廉で再度禁固15年の判決を受けているのです。同氏がブラジルに渡るのは、レバノンが内戦によって混乱に陥ったからです。‘一大悪党記’とも言える人生を歩んできた父ゴーンの姿は、性格は遺伝しないとはいえ、今日のゴーン被告と重なるのです。あるいは、同被告は、父の代からの国際犯罪ネットワークの人脈を引き継いでおり、その助けを借りて日本国から逃亡したのかもしれません。

 

 そして、ゴーン被告による一般常識の‘転覆’は、日本人の歴史の見方に対しても少なくない影響を及ぼすことでしょう。その理由は、日本国の常識は海外では通用せず、海外勢力が関わる歴史的な出来事にあっては、思いもよらない謀略が仕掛けられていた可能性が否定できなくなってくるからです。例えば、明治維新に際しては、イエズス会や東インド会社の流れを汲む国際勢力が裏から操っていた可能性は否定しがたいのですが(およそ100%…)、一昔前までは、こうした説は‘トンデモ説’でした。しかしながら、アジアやアフリカにおける植民地化の過程が示すように、西欧列強の仮面を被った国際組織がこれらの地域の諸国を植民地化しようとする場合、武力のみならず謀略的な手段も使われています。

 

最も多いパターンは、内戦を起こさせて双方に資金や武器・弾薬を提供しつつ、最終的には自らに都合がよい側を勝たせるというものです。おそらく、戦略顧問、あるいは、アドヴァイザーとして入れ知恵もしたことでしょうし、ゴーン被告の脱出劇と同様に、謀略も指南したかもしれません。戦国期であれ、明治期であれ、日本史において解きがたい謎が数多く残されているのは、特に海外との接触が強まった時期なのです。

 

日本人の想像を絶するような謀略も、海外では日常茶飯事に起きてきたことなのかもしれません。このように考えますと、歴史の事実を追及するに際しては、日本人の一般常識から離れ、グローバル・スタンダードの視点から見てゆく必要があるように思えるのです。芥田川龍之介が『煙草と悪魔』が描いたように、グローバリズムと一緒に悪魔もやってくるかもしれないのですから。


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米政権内部の情報の食い違いは何を意味するのか?

2020年01月13日 13時28分41秒 | 国際政治

 報道によりますと、アメリカのトランプ政権内部では、重大な情報の食い違いが生じているそうです。ソレイマニ司令官殺害の根拠となったイランの革命防衛隊の先鋭部隊(コッズ部隊)による米大使館攻撃計画における大使館の数について、トランプ大統領は‘四つの大使館’と説明しているものの、米CBSテレビに出演したエスパー国防長官は、こうした情報は把握していないと語ったからです。情報の内容が一発触発の事態に至った米・イラン間の危機の発端となっただけに、今後、様々な憶測を呼びそうです。

 

 第1に推測されるのは、トランプ大統領による単純な記憶違いです。報道のニュアンスからしますと、エスパー国防長官が否定したのは攻撃計画そのものではなく‘四つの大使館’のようですので、数や対象の間違いであれば、大統領職、かつ、事件の重要性からしますと必ずしも許されるわけではありませんが、誰にでもあり得るミスです。

 

もっとも、メディアが‘四つの大使館’に拘り(おそらく、CBS側が誘導的に質問したのでは…)、かつ、全世界に向けて食い違いとして発信しているところからしますと、この‘間違い’には、重要な意味が隠されているのかもしれません。第2の憶測は、‘四つの大使館’は暗喩であって、トランプ大統領は、同表現を用いることによってイランが真に攻撃しようとした対象を仄めかしているというものです。ただし、暗喩は‘分かる人には分かる’のであって、他の一般の人々には、単なる間違いにしか聞こえません。

 

 第3の推測は、イランの攻撃対象が、米政権内部の情報伝達プロセスの何れかの段階で、故意、あるいは、誤って大統領に伝達された可能性です。米大使館攻撃計画はイラン政権中枢、あるいは、革命防衛隊を含む軍部のみが有する最高機密情報なだけに、情報源は相手国に潜入して諜報活動を担うCIAなのでしょうが、必ずしも、収集された全ての情報がそのまま大統領に伝わるとは限りません。もっともこの説ですと、米政権内部においてオリジナルな情報が何者かによって改竄、あるいは、加工されたこととなり(内部の工作員か外部からのサイバー攻撃?)、アメリカの政権内部の情報伝達プロセスに重大な脆弱性があることが露呈します。

 

なお、仮に、同情報を軍のトップである国防長官が全く関知していないとすれば、アメリカでは、憲法において軍の最高司令官の地位が付与されている大統領に米軍の作戦行動に関する決定権が集中していることとなりましょう。攻撃直後、米国防総省は、「大統領の指示のもと、米軍はカセム・ソレイマニを殺害することで、在外アメリカ人を守るための断固たる防衛措置をとった」と発表していますので、国防長官のポストはお飾りに過ぎず、政策決定プロセスからは外されているのかもしれません。今般の決定に際しても、国防長官をメンバーとする国家安全保障会議が開催された形跡はありません。そして、同情報も、正式な情報伝達システムを経ずして大統領の側近によって内密にもたらされたのかもしれないのです。

 

 第4に考えられるのは、エスパー国防長官が虚偽の発言をしている可能性です。CBS側としては、政権内部の食い違いを明るみにすることで、トランプ大統領のソレイマニ司令官殺害作戦の正当性に疑いを持たせる方向に世論を誘導したいのでしょう。米メディアは伝統的には民主党の牙城ですので、司令官殺害作戦実行の正当性を揺るがすことは、大統領選を控えた状況にあってトランプ政権、否、共和党に痛手を与えるチャンスともなります。もっとも、米メディアではなく、イランの後ろ盾となっている中国やロシア、あるいは、国際組織の指示によってエスパー国防長官が嘘を吐いた可能性も否定はできません。戦争の背後には、敵対する双方の国の内部にあって相手国の工作員、あるいは、国際組織のメンバーが蠢くものですので、エスパー国防長官は、アメリカという国家ではなく、他の何者かに忠誠を誓っているのかもしれないのです。この説ですと、同長官は、トランプ政権内にあって‘裏切者’ともなるのですが、この点については、今後の同長官の去就が注目されることとなりましょう。もちろん、トランプ大統領自身が嘘を吐いている可能性もあるのですが…。

 

 そして、さらに穿った見方をすれば、全てが国際組織による‘茶番’というシナリオです。同組織が戦争を望んでいるのか、あるいは、回避しようとしてるいのかは判然としませんが、あえて混乱状態を作出することで、自らの計画する方向に向けて国際社会を動かそうとしているのかもしれません。あるいは、第三次世界大戦に導く計画、もしくは、同組織の秘密計画が露呈しそうになったので、責任の所在を曖昧にするために誤魔化そうとしているのでしょうか。戦争の裏側には陰謀が渦巻いているのが常であり、国家間の対立だけを見ていては国際レベルの真の目的を見逃すことがあるのです。

 

 エスパー国防長官の発言はアメリカの政権内部において情報が共有されておらず、その原因として、上述したように様々な勢力が今般の情勢を利用しようとした可能性が示唆されるのですが(真相は別のところにあるかもしれませんが…)、アメリカが陥っている状況は、イランにも言えるように思えます。全体主義国でありながらイランもまた一枚岩ではなく、その内部において様々な勢力が政府から離れた独自の立場から活動している気配が感じられるからです。アメリカとイランとの対立が決して単純なものではないはずですので、国際社会は、双方の国内において行われている外部からの工作活動にこそ注目すべきではないかと思うのです。

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台湾総統選挙の意味―自由があれば民主主義を選ぶ

2020年01月12日 12時31分04秒 | 国際政治

  全世界が注目する中で昨日実施された台湾総統選挙では、台湾国民は、大方の予測どおりに民進党の現職候補、蔡英文氏を過去最大の得票数を以って選出しました。台湾総統選挙が以前にも増して国際社会において関心を集めたのは、対中政策が争点となったからに他なりません。そして、同選挙は、昨年の11月に実施された香港の区議会議員選挙と並んで、極めてシンプルな真実を語っているように思えます。

 

 直接選挙であった香港の区議会議員選挙では、反中・民主化運動の最中に実施されたこともあって市民の関心も高く、民主派勢力が躍進することとなりました。北京政府、並びに、それを後ろ盾とする香港行政府にとりましては苦々しい結果であったのですが、既にメディアからも指摘されているように、この結果は、強圧的に反中・民主化運動を抑え込もうとした習近平政権の自業自得とも言えます。何時の時代にあっても、自由に対する抑圧者は人々から忌み嫌われますので、反発を受けることは必至であるからです。

 

 そして、香港で起きた一連の出来事は、台湾国民にとりましても自らの将来を映す鏡でもありました。香港は、期限付きとはいえ一国二制度の維持を約して中国に返還されましたが、中国の約束は‘紙切れ’に過ぎないことが分かってきたからです。一国二制度の適用を以って台湾の‘本土復帰’を呼びかける中国の言葉は甘言であることが目の前で実証されれば、誰であれ、中国の猫なで声を信じなくなります。一旦、騙されたが最後、香港と同様に、民主的制度の維持を主張しようものならば、武力で踏み潰されかねないからです。仮に、今般の選挙で国民党の候補者であり、親中派の韓国瑜氏が当選していれば、今回の総統選挙が最後の民主的選挙となった可能性も否定はできないのです。

 

 香港と台湾で実施された選挙結果が物語る真実、それは、自由があれば民主主義を選ぶという人類一般の自然なる政治的な指向性です。独裁や全体主義を擁護する人々は様々なもっともらしい理由をつけてこれらの非民主的な体制を正当化しようとしますし、体制維持のためにマキャベリズムを発揮して恐怖心を利用したり、あるいは資金力にものを言わせることもありましょう。しかしながら、人々の本心を歪める干渉を一切排するとしますと、人々は、迷いなく民主主義を選択するのではないでしょうか。

 

 もちろん、民主主義には衆愚に至るリスクはありますし、ナチズム台頭の分析からエーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』において唱えたように、心理的な作用によって人々がそれを自発的に放棄するケースもないわけではありません。前者のリスクは、民度の基礎となる教育のレベルや内容に問題がある場合に高まるのでしょうし、後者のケースは、第一次世界大戦後のドイツという極めて稀な状況から導かれたに過ぎず、一般性には乏しいかもしれません。少なくとも、香港であれ、台湾であれ、危機的な状況から脱するために自発的に自由を捨てようとはしませんでした。古今東西の歴史からしますと、‘独裁からの逃走’のほうが余程事例が多いのは、一方的な支配に服するよりも民主主義を求めるのが人類の本性であるからなのでしょう。

 

 自由があれば民主主義を選ぶという人類の本性が明らかとなったことは、共産党一党独裁体制を永遠に維持したい中国にとりましては大きな痛手となったはずです。何故ならば、アメリカをはじめとした自由主義国から押し寄せる外からの脅威のみならず、内なる国民が自国の体制に対する最大の反対勢力となり得るからです。人類からNoを突き付けられた意味において、2020年は中国共産党政権にとりまして正念場となるのではないかと思うのです。

 


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英王室の曲がり角―辞めたのは‘イギリス’の王族?

2020年01月11日 13時23分32秒 | 国際政治

 

 イギリスのヘンリー王子とメーガン妃が公務からの引退を突然表明した一件は、EUからの離脱を意味するブレグジットをもじって‘メガジット’とも評されています。同離脱表明は、離婚歴があり、かつ、アメリカ人であったシンプソン夫人との婚姻のために王位を捨てたエドワード8世の前例を思い起こさせるのですが、両者の間には相当の違いがあるように思えます。そして、この相違からは、今日の王室、および、皇室が抱える問題点が浮かび上がってくるのです。

 

 ヘンリー王子夫妻が放棄したのは、王位継承権でもなければ、王族としての地位でもありません。あくまでも、‘高位王族’と称される立場であり、これは、エリザベス女王に代わって公務を務める資格を意味するそうです。おそらく、主としてイギリス国内にあって様々な行事に臨席したり、全国津々浦々を訪問して国民と直接に接するのがその職務なのでしょう。すなわち、同夫妻は、王室と国民との絆を深める役割から身を引くことを宣言したと考えられるのです。今後、同夫妻が、アメリカやカナダに活動の場を求め、住まいを移す方針にあることも、イギリスからの離脱の決断を裏付けているようにも思えます。

 

 それでは、何故、同夫妻は、イギリスの地を離れたいのでしょうか。同夫妻がイギリスを離れたい理由には、メーガン妃に対するイギリス国民の違和感や抵抗感、ウィリアム王子夫妻との不和、そして、主因として報道されているようなパパラッチによる必要な取材もあるのでしょう(全国各地を訪問しても、同夫妻は必ずしもイギリス国民から歓迎されるわけではない…)。その一方で、もう一つ、推測される理由は、英国王、英連邦の盟主、そして、ユダヤ系グローバル・ネットワークのキーパーソンズという英王室の三重の立場です。

 

メーガン妃がアフリカ系であることは、アフリカ諸国をもメンバーに含む英連邦を束ねるイギリスとしては、好材料であった面もないわけではありません。英連邦の一員であるアフリカ諸国は、メーガン妃が王室の一員となることでイギリスとの一体感を強めたことでしょう。また、国内を見ても、植民地であった英連邦諸国に対する優遇措置の結果として、数多くのアフリカ系の国民や移民も居住しており、これらの人々も英王室に対して親近感を持つきっかけとなり得たからです。因みに、ヘンリー王子夫妻の長期滞在が予定されているカナダには英国王から名代として総督が任命されていますが、歴代総督には香港系やハイチ系の顔ぶれも見られ、いわば、多民族で構成される英連邦の世界戦略の前線に位置しています。この観点からしますと、カナダ国民の61%が、ヘンリー王子が次期総督に就任することを支持していると回答した世論調査の結果は、大変興味深いと言えましょう。

 

加えて、大英帝国の絶頂期にあったヴィクトリア時代にあって初めてユダヤ系のディズレーリ内閣が誕生したように、イギリスの世界戦略は、ユダヤ人の国際ネットワークとの協力関係を構築しつつ遂行されてきました。イギリス王室もユダヤ系といっても過言ではなく、キャサリン妃のみならず、メーガン妃もユダヤ人の血脈を引いています。否、‘ユダヤ系でなければ王族、あるいは、王妃にはなれない’という‘暗黙の掟’があるのかもしれません。もしかしますと、ユダヤ系グローバル・ネットワークのトップこそ、文字通りの‘キング・メーカー’であり、ヘンリー王子夫妻も、その意向を受けて行動しているのかもしれないのです。

 

以上に述べましたに、英国王が、国家としてのイギリス、国際組織としての英連邦、そして、グローバルなネットワークとしてのユダヤ人という、三つのレベルの‘王’を兼ねているとしますと、ヘンリー王子夫妻が、引き続き女王を支援する意向を表明した理由も理解されます。メディアは、同夫妻の‘高位王族’からの引退について英王室は憤慨しているかのように報じていますが、表向きは不満なように装いながらも、英連邦、あるいは、ユダヤ系のグローバルの戦略には沿っているとも推測されるからです。すなわち、イギリスという国家の王族としての役割は他の英国人系の王族に割り振り、ヘンリー王子夫妻には、多民族集団である英連邦、並びに、ユダヤ系グローバル・ネットワークの象徴として行動してもらうという…。しかも、‘英王室’の影響力を全世界に広げることもできるかもしれないからです(もっとも、ユダヤ勢力も一枚岩とは限らず、王室内の不和は内部抗争である可能性も…)。

 

そして、この点から今般の行動を眺めますと、エドワード8世のケースとの比較は際立ちます。エドワード8世は、イギリスの国王としての責任を果たせなくなったが故に退位を余儀なくされましたが、ヘンリー王子の場合は、イギリスという国家も国民もそれに対する責任と共にあっさりと捨てて、自らにとって居心地の良い英連邦、並びに、ユダヤ系グローバル・ネットワークのために生きることを選択したのですから。特に後者は、退廃的な生活や私的欲望の追及には寛容ですので、イギリスにあってイギリス人らしく、かつ、伝統的な王族らしい振る舞いを要求されるよりも、英王室というネームバリューだけは利用した安逸な生活を送るほうが、同夫妻にとりましても気楽なのでしょう。

 

もっとも、誤算があるとすれば、それは、一般のイギリス国民の王室に対する感情の変化なのかもしれません。君主が所領を安堵し、外敵に対しては命を賭して戦った封建時代とは違い、既に、世襲の君主が存在しなくとも、国民主権の下で国家を運営できる時代を迎えています。果たして、今日の国民は、王室に対して存在意義を見出すことはできるのでしょうか。ヘンリー王子夫妻に、新たな存在価値を求めてイギリスという国から離脱する自由があるとしますと、王室の存在にうんざりしたイギリスの一般国民にも、脱王室という新しい道を選択する自由がありましょう。今般の一件は、英王室が曲がり角に来ていることを象徴しているようにも思えるのです。


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航空機撃墜がイランの誤射であったならば

2020年01月10日 11時26分28秒 | 国際政治

報道によりますと、アメリカとイランとの間の緊張が高まる中、ウクライナ機(ボーイング737-800)がキエフに向けてイランの首都テヘランの空港を離陸した直後に撃墜され、乗客乗員176人全員が犠牲となる痛ましい事件が発生したそうです。犠牲者にはカナダ人63人が含まれていたため、カナダのトルドー首相は、複数の情報機関からの寄せられた証拠に基づいて分析した結果として、イランの地対空ミサイルによる仕業と断定しています。

 

 もっとも、トルドー首相は、‘意図的ではなかったのではないか’と述べており、誤射であった可能性を示唆しています。渦中にあるアメリカのトランプ大統領も誤射説を支持しているのですが、仮に誤射ではなかったとしますと、今頃、全世界は開戦前夜の状況に陥っていたかもしれません。何故ならば、仮に、ミスなく正確に‘指令’を遂行していたならば、アメリカ人が犠牲となっていた可能性が極めて高いからです。イラク国内に駐留する米軍への攻撃は、アメリカ人の犠牲者ゼロで事なきを得ましたが、民間航空機の撃墜でアメリカ人の多数が死亡するともなりますと、トランプ大統領はイランが‘レッドライン’を越えたと判断し、対イラン報復攻撃を躊躇わなかったことでしょう。

 

 使用された地対空ミサイルはロシア製と見られており、ミサイルは、イランの防空システムから二発発射されたそうです。このため、撃墜はイラン軍によるものと推測されますが、もしかしますと、ソレイマニ指令官の仇をとるための、軍内部の対米強硬派、あるいは、革命防衛隊の一部の独断による対米復讐攻撃であった可能性も排除はできません。特に革命防衛隊の指揮命令系統については不明な点が多く、独自に行動するケースもあり得るとされています。このため、イラン政府が、どこまで今般の事件に関わっていたのかは分からず、イラン政府にとりましても寝耳に水であったのかもしれません。何れにしましても、全体主義国家であるイランの国内にあって地対空ミサイルを配備できるのは体制側の軍事組織以外には考えられませんので、イランは同事件の責任から逃れることはできないのです。

 

 一方、メディアを介して全世界に広まったイラン誤射説に危機感を抱いたのか、イラン政府は、ミサイルによる攻撃ではないとして、イラン犯人説の否定に躍起になっています。同政府が否定に必死になるのは、誤射説を認めますと、未遂に終わりこそすれ、イランがアメリカ人殺害計画を実行に移していたことが明るみに出るからなのでしょう。革命防衛隊による単独報復攻撃であった可能性を考えますと、誤射説は、本音においてはアメリカとの戦争を回避したいイランにとりまして消し去りたい説なのです(イラン政府がイラン軍を統制できていないことも、知れ渡る?)。

 

加えて、誤射ではなく目的通りの攻撃であったとしても、イランにとりましてはマイナス材料となります。何故ならば、確定はされてはいないものの、同事件ではイラン人、ウクライナ人、カナダ人などが犠牲になりましたが、これまでの情報では、犠牲者にアメリカ人は含まれていません。このことは、イラク駐留米軍への攻撃に際して既に指摘されているように、イランは、アメリカ人を殺害しないように細心の注意を払って攻撃対象を厳選した可能性を示唆するからです。イラン政府は、搭乗者名簿を容易に入手し得る立場にあります。イランは、イラン国民に向けて形だけでも対米復讐のポーズをとるために、他の諸国の人々を犠牲に供するという非人道的な行為を行った疑惑も浮上するのです。

 

誤射であっても、作戦通りであっても、イランにとりましてはミサイルによる撃墜はあまりにも不都合です。そこで、ウクライナ機の墜落はミサイルによるものではなく、故障やトラブルといった他の何らかの原因による事故であることにしたいのでしょう。撃墜ではなく事故である可能性を完全には排除できませんし、実際に、イラン側は、ボーイング社や被害者の出身国に対して共同調査を呼び掛けています。しかしながら、現場はイラン国内にありますので、海外の派遣団にどれほど‘自由な調査’が許されるかわかりませんし、現場が墜落時そのままの状態に保存されているとも限りません。

 

過去の歴史を振り返りますと、2014年7月のマレーシア航空機撃墜事件をはじめ、謎に包まれた事件が多数発生しています。これらの事件の背後には国際情勢や国際的な謀略が囁かれるケースも多く、今般の事件も、その舞台がイランなだけに慎重なる見極めと対応を要するのかもしれません(イラン軍内に潜む別の国際組織による犯行である可能性もある…)。複雑に絡まった糸を解き解し、宗教という厚いカーテンに閉ざされているイランの内情、あるいは、同国にも張り巡らされている国際ネットワークにまで踏み入いった従来とは違う‘異次元’の分析を行わないことには、真の危機回避とはなり得ないのではないかと思うのです。


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‘ゴーン’主役映画の行方-その名は‘大逆転’?

2020年01月09日 10時56分57秒 | 国際政治

 三か国の国籍を有し、日産の元会長であって、ブラジル大統領選挙への出馬さえ囁かれたグローバリストのカルロス・ゴーン容疑者。その劇的な海外逃亡は、日本国のみならず、全世界を驚かせました。昨日、逃亡先のレバノンで開かれた記者会見では、日本のメディアの大半を締め出す一方で、全世界に向けて自らの無実を訴えております。自らは日産と検察の謀略に嵌められた被害者であると…。

 

 ゴーン被告の脱出が音響器具運搬用ケースに身を隠し、プライベート・ジェット機を利用するといったサスペンス映画顔負けのスリリングな手法であったため、早々に映画化の話が持ち込まれそうです。事実は小説より奇なりとも申しますが、現実に起きたドラマティックな実話は得てして映画化されてきました。ところが、ゴーン容疑者の脱出劇は、過去のノンフィクション映画とはいささか順番が違うようにも思えます。何故ならば、脱出に先立つ昨年の12月に、同被告は、ハリウッドの映画プロデューサーと面会しているからです。

 

 想像の域を出ませんが、仮に、映画関係者と会談していたとしますと、同脱出劇のシナリオはハリウッドで書かれた可能性も否定はできません。実行部隊である‘脱出チーム’にはアメリカの元特殊部隊が加わっておりますし、日本国内の空港についても出入国検査のレベルを下調べしていたと報じられています。関西国際空港では、プライベート機であれば、検査機のキャパシティーを超える大型の荷物は内部を検査されることなく通過できたることを発見したのですから、同チームが比較的長い期間をかけて日本国内を調査し、チェックしていたことが伺われます。つまり、最初に映画製作の計画があり、その後に、同シナリオを実現するためにゴーン被告を作戦通りに出国させたと推理されるのです。つまり、ゴーン被告は、同映画のために脱出劇を演じた‘役者’なのです。

 

 ハリウッドの描いたシナリオでは、おそらく、ゴーン被告は、邪悪な日産幹部と検察によって無実の罪を着せられ、囚われの身となった哀れな被害者であり、そのストーリー展開は、お決まりの‘最後には正義が勝つ’のパターンであったのでしょう。観客は、悲劇のヒーローとして設定されたゴーン容疑者の脱出シーンを手に汗握り(音響機器運搬ケースに隠れたゴーン役の男性は、額に汗を浮かべながら同ケースが検査官の前を無事に通過するのを息を潜めて待っている…)、日本国を飛び立ってレバノンの空港に降り立つシーンには拍手喝さいを送ったかもしれません。かくしてゴーン被告の海外逃亡は、不当な拘束から自由を取り戻したヒーローの物語として全世界の人々を魅了するものと期待されていたのでしょう。大逆転劇として。

 

 しかしながら、この‘囚われの身から自由の身’への大逆転、ゴーン被告に対する世論の変化を考慮しますと、別の方向への大逆転となるかもしれません。同被告が逮捕された当初、フランス、ブラジル、レバノン等の国際世論はおよそ日本悪玉論一色でした。同情論が圧倒的に優勢な状況にあっては、同情のシナリオは、違和感なく観客に受け入れられたことでしょう。ところが、ここにきて、ゴーン被告を取り巻く空気は変化を見せてきています。世論の好感から脱出先に選ばれたレバノンでも若者層を中心に腐敗の象徴としてゴーン批判が湧いてきています。また、同脱出劇には、夫人のキャロルさんが積極的に協力していたとされ、日本国の司法がゴーン被告と夫人との接触を遮断した理由も国際的に理解されるに至っています。否、同被告の脱出劇は、厳しい監視体制を敢えて敷いた日本の司法の判断の正しさを逆に証明しているのです。

 

 となりますと、上述した‘大逆転’のストーリーは、表向きは世界的な経営者として賞賛と喝采を浴びつつ、裏では大企業を私物化して甘い汁を吸いつくしてきた大悪党が、お金にものを言わせて自らをヒーローに仕立て挙げようとする‘謀略もの’へと反対方向に‘大逆転’します。そして、観客は、全てが上手く行きそうなその瞬間に‘謀略’が露呈して、大悪党の計画が失敗に終わる結末に留飲を下げることとなるのです。このストーリー展開では、‘悪は必ず滅びる’あるいは勧善懲悪がテーマとなりましょう。

 

 計算高いハリウッドのことですから、自らの旗色が悪くなりますと、後者のストーリーに乗り換えるかもしれません。前者のシナリオのままでは、観客からブーイングが起きかねないからです。しかも、後者の筋立てでは、エスプリを利かせてコメディー仕立てにもなり得ます。大悪党が、悲劇のヒロインに成りすまそうとして画策する度に、それが悉く裏目に出てゆくという…(Mr.ビーン主演?)。映画化が決定されているわけではありませんが、ゴーン事件についてはどこかで‘どんでん返し’がありそうな気配があり、‘大逆転’は、フィクションの世界のみならず現実においても同事件を理解するキーワードとなりそうなのです。

 


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NPT体制と国民国家体系―非核保有国こそ原点に返った議論を

2020年01月08日 11時57分13秒 | 国際政治

 核兵器禁止条約が包括性に欠けるものの曲がりなりにも採択されたことにより、核保有論は‘絶対悪’と見なされがちです。本ブログは、次善の策として全世界の諸国による核武装の可能性を認めていますので、‘危険思想’の発信源と捉える向きもあるのでしょうが、全諸国核武装論は、核=絶対悪の固定概念を排して素直に国際社会を見つめれば、論理的で合理的であり、かつ、倫理的にも許される範囲にあるのではないかと思うのです。

 

 多くの人々は、核開発や核保有という言葉に、あたかも条件反射のように強い反発や拒否反応を示します。NPTに違反する形での北朝鮮やイランといった全体主義国国家による核開発は悪しき前例であり、誰もがこれらの諸国の完全なる核放棄を願っています。しかしながら、イランがアメリカに対する報復措置として核開発の再開を表明し、北朝鮮も対米対決姿勢を強めている点からしますと、アメリカが、軍事制裁に踏み切らない限り、これらの諸国の核保有は既成事実化されることでしょう。つまり、戦争を望まないならば、‘無法者国家’の核保有を黙認しなければならないのです。

 

 現実化しつつある中小の全体主義国家への核拡散に加えて、大国である中国やロシアの核戦略は攻撃型であり、周辺諸国は常にこれらの核保有国による核の脅威にさらされています。この脅威は、中国と国境を接したり、日本国のように射程範囲内の近隣に位置する諸国のみの問題ではありません。例えば、アジアにおいて中国のみが核を合法的に保有する現状にあって、仮に、南シナ海に中国の核兵器が配備されたとすれば、どのような事態が起きるのでしょうか。南シナ海の軍事基地化は対米戦略の一環とされていますが、東南アジア全域のみならず、太平洋諸国に対する中国の核の脅威は格段に高まります。一方、中国の核の標的となる諸国は、NPT、および、加盟国であれば核兵器禁止条約の縛りがありますので、核の抑止力を持つことが許されないのです(非核保有国が核抑止力を持つためには、核保有国と同盟する以外の道はない)。

 

 NPT体制が見直されるべき二つの主たる理由を述べてみましたが、NPT体制を維持しながらこれらの問題を解決する方法はないわけではありません。それは、合法的な核保有国が分担して、すべての諸国に核の傘を提供する方法です。実際に、NPT体制において非核保有国である日本国も同盟国であるアメリカの核の傘の下にありますし、NATOではニュークリア・シェアリングも導入され、非核保有国に差された核の傘はその強度を増しています。

 

 NPT体制における核の傘の提供とは、率直に述べれば、その本質においては、軍事大国がライバル関係にある他の大国からの攻撃や侵略から守るために弱小国に保護を与えたかつての保護国化と変わりはなく、主権平等を原則とする今日の国民国家体系の原則とは相いれない性格を有しています。主体間関係の構図としては封建契約に類似しており、保護する側と保護される側との間の権利と義務との非対称性は、しばしば前者の後者に対して負う義務の重さから両者の間に上下関係を構成したのです。そして、前者に依存する立場となる後者が下位に位置したことは言うまでもありません。もっとも、トランプ大統領は、アメリカの過重負担を理由に在外米軍の縮小や撤退をも示唆していますので、核の傘の提供も永遠に保証されているわけでもありません。

 

 かくしてNPTは不平等条約と批判されつつも、アメリカを中心国とする安全保障体制にあって核の傘は抑止力として有効に機能しているのですが、他の諸国や地域を見ますと、‘核の傘’が存在していなかったり、‘破れ傘’であるケースも少なくありません。そもそも、核保有国である中国やロシアには、他国に対して核の傘を提供する意思に乏しく、北朝鮮が核開発に踏み切った理由の一つに、核の傘の不在も指摘されています。現在、1961年に締結された中朝友好協力相互援助条約が更新されてはいますが(ソ中友好協力相互援助条約は既に失効…)、中国が‘核の傘’の提供を北朝鮮に約したかどうかは不明です(提供していないのでは…)。また、1968年4月に発効したラテン・アメリカ核兵器禁止条約を皮切りに、核兵器廃止の流れに乗るかのように地域的な非核化条約も締結されてきており、中国の核の脅威が忍び寄る東南アジアや太平洋諸国にあっても、既に非核化条約が成立しています(1986年発効の南太平洋核兵器禁止条約、並びに、1997年発効の東南アジア非核兵器地帯条約)。因みに、信じ難い事に1991年12月には朝鮮半島の南北両国も非核化を共同で宣言しているのです。朝鮮半島の非核化共同宣言はそれこそ政治的宣言に過ぎないものの(むしろ、中国や北朝鮮は、韓国からアメリカの核の傘を外すチャンス到来とみたかもしれない…)、世界を見渡しますと、核の傘さえ差されていない国の方が多いのです。

 

 国の大小に拘わらず、あるいは、NPT上の合法性に拘わらず、狂信的な全体主義国による核保有は、他の自由主義諸国にとりましては安全保障上の死活的な脅威となりかねず、このリスクは年々増大する一方です。NPTが発効した1970年当時と比較しましても、核保有国の核兵器数は増加の一途を辿っており(米ロが削減しても中国が増産…)、非核保有国との間の核戦力差は開くばかりであり、現状は、明らかに非核保有国にとりまして不利と言わざるを得ません(しかも、核保有国は、核拡散を阻止する義務さえ十分にははたしていない…)。全体主義国の核の脅威に直面する中小の自由主義国が核に対して無防備なままであることが正義であり、核の抑止力を得るために核武装することは絶対悪であると言い切れるのでしょうか。

 

 この問題をさらに深くまで探求しますと、常任理事国制度を採用した国際連合、否、国際聯盟の制度設計にまで踏み込むことになるのでしょうが、NPT体制が行き詰っている現状に見て見ぬふりをすることは無責任なように思えます(なお、イランや北朝鮮の完全なる核放棄が実現しても、中ロの攻撃型核戦略の問題は解決しない…)。しばしば経済の分野にあっては、一党独裁体制を堅持している中国が統制を強めれば強めるほど経済成長が鈍化すると指摘されていますが、政治あっても、自由な議論こそが危機を脱する知恵を生み出すものです。自由主義国こそ核のタブーを排し、思考停止状態から脱してNPT体制を含む来るべき時代の国際秩序に関する根本的な議論を試みるべきなのではないでしょうか。あらゆるテーマを自由な議論に付すことこそ、自由主義国の強みと言えるのではないかと思うのです。


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瀬戸際に立たされたNPT体制―イランの核合意破棄

2020年01月07日 12時38分14秒 | 国際政治

 オバマ前政権による外交上の成果とされたイランとの核合意は、今や、風前の灯となりつつあります。そして、吹き消されそうになりながらも燃え続けてきた炎が消える時、それは、NPT体制が消滅する時ともなりましょう。

 

 少なくとも、全世界に向けて配信されている映像を見る限り(全体主義国家ですので、イランの一般国民の心の内は分からない…)、米軍の空爆によるソレイマニ司令官の殺害に対し、イランは、アメリカへの復讐心に燃え滾っているようです。具体的な報復手段の一つとして示唆されているのが核開発の再開、すなわち、核合意の破棄です。核兵器の製造はそれほどには高度な技術を要しませんので、イランがウラン濃縮を再開させれば、おそらく短期間のうちにイランは核保有国となることでしょう。もしかしますと、今般の事件は、核保有を熱望してきたイランにとりましては核合意を破棄する絶好の口実となった可能性さえあります。

 

 イランが核保有を目指す理由は、イスラエルの核にあるとする指摘があります。公表はされてはいないものの、イスラエルが中東唯一の核保有国であることはほぼ間違いなく、同地域における軍事的バランスにおいて同国に優位な立場を与えています。イランとしては、自国が核保有国となることでイスラエルとの間で核による相互抑止力と対等性を実現するとともに(もっとも、何故か、イランは自国の核開発についてイスラエルの核保有を理由として挙げていない…)、宿敵であるサウジアラビアやイラク等の周辺諸国に対する軍事的優位を確保したいのでしょう。核保有は、一夜にして他の諸国を押しのけてイランを中東の覇者に化けさせる‘魔法の杖’なのです。

 

 仮にイランの核保有が現実のものとなる場合に最も懸念されているのは、サウジアラビアによる対抗的な核保有です(イスラエルの核保有は公然の秘密なので言及されない…)。先日、同国の石油施設が攻撃を受けた際に、‘犯人’としてイランの名が真っ先に挙がったように、イランとサウジアラビアは、イスラム教における宗派対立も絡んで犬猿の仲にあります。サウジアラビアが、イランの核に対抗するために核保有に踏み切った場合、NPTの第9条2項にあっても自国が死活的な事態に遭遇した場合には脱退の権利を認めていますので、これを阻止すことは困難です。そして、イランの核保有が、サウジアラビアのみならず、両国との関係が必ずしも良好ではない他の周辺諸国にも脅威となるのは言うまでもありません。中東諸国の関係は複雑ですので、イランの核保有によって、核拡散のドミノ倒しが引き起こされかねないのです(印パ戦争を背景に、インドとパキスタンの二国による核保有は既成事実化しているものの、中東諸国の関係はより複雑…)。

 

 中東に始まる核拡散のドミノ倒しは、当然に、NPT体制の崩壊を導くこととなりましょう。中東諸国外の他の非核保有国も、NPTによって核開発や核保有を拘束される正当な理由を失うからです(最も危険な国家であるイランや北朝鮮の核保有が黙認される一方で、順法精神の高い他の諸国には認められない状況はあまりにも不条理、かつ、危険…)。イランの核保有を阻止しえなかった以上、北朝鮮も公然と核開発を再開するでしょうし、両国とも、ICBMSLBM等の開発にも着手していますので、日本国を含めてその射程圏内にある諸国にも核保有の権利が生じます。

 

 かくしてイランの核保有によってNPT体制の崩壊が予測されるのですが、この事態を防ぐ主たる国際法上の責任は核保有国にあります。NPT体制とは、明文規定には欠けているものの、核の不拡散に関する責任を核保有国が負うことを条件として、主に国連安保理の常任理事国を想定して核の保有を特権として認めているからです。

 

 アメリカは、イラク戦争時のように核開発を根拠としてイランに対する軍事制裁に踏み切るのでしょうか。イギリスやフランスは、外交交渉を以ってイランに核合意の破棄を思いとどまらせることができるのでしょうか。そして、いち早くイラン支援を表明した中国やロシアは、同国の核開発再開に対しても支持を与え続けるのでしょうか。公式の核保有国の動向に注目が集まると同時、イスラエルといった非公式の核保有国も、事態の行方に強い関心を寄せていることでしょう。もっとも、実のところ、NPT体制の行方は、非核保有国にとってこそ自国の防衛や安全保障に直結する最大の関心事であるはずです。NPT体制が維持されるのか、それとも同体制が崩壊し、全ての諸国が核武装する新たな体制が出現するのか、人類の運命が決せられる日が近づいているように思えるのです。


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イラン危機は中国に波及する?

2020年01月06日 13時30分56秒 | 国際政治

 米軍の空爆によるソレイマニ司令官の殺害は、中国とロシアがイラン支援を表明したために第三次世界大戦への導火線になりかねない状況となりました。否、イランが、核開発・保有計画を密かに温めつつ、既に自らの傘下にあるシーア派武装勢力組織をあらゆる面で支援し、イラクをはじめとした中東諸国において反米活動を活発化させていたとしますと、今日の危機はイランが自ら引き起こしたといっても過言ではないかもしれません。

 

 2020年は、新年早々、全人類が戦争の危機に直面することとなったのですが、今般の事態において日本国政府、並びに、国際社会が最も警戒すべきは、中国の動向ではないかと思うのです。香港においては民主的選挙で敗北を喫し、アメリカとの間の貿易戦争にあっても目に見える成果を挙げられていない習近平国家主席は、党内からも批判の声が漏れ、その権力基盤は必ずしも盤石ではないそうです。自らの権力を維持するために‘外部の敵’を利用したり、‘国家的危機’を演出するのは独裁者の常であり、習主席も、そのチャンスを見つけ出すべく国際情勢を虎視眈々と眺めているはずです。かつて、ソ連邦の独裁者として君臨したヨシフ・スターリンも、第二次世界大戦がなければその粗暴さと無計画性から失脚していたとされます。古代ローマでも、平時にあって2人体制であったコンスルを有事には一人、すなわち、ディクタトールとなして独裁制に変えたように、トップの命令の下で組織を動かざるを得ない戦争状態とは、独裁体制と最も親和性が高いのです。

 

 昨年の年頭にあって、習主席は台湾の併合には武力行使も辞さずの姿勢を表明していましたが、今年は、民主主義国家である台湾において総統選挙が行われる年でもあります。おそらく同選挙では、習主席は共産主義の民主主義に対する二度目の敗北という屈辱を味わうこととなりましょう。そして、この展開が高い確率を以って予測されるからこそ、中国は、‘戦争’を歓迎する、あるいは、中東の危機を自国に飛び火させたい強い動機を有すると考えられるのです。

 

 中国に戦争願望があるとすれば、当然に、イランを支援する形での対米戦争(北朝鮮バージョンもあり得る…)、あるいは、アメリカを中心とした自由主義陣営との戦争ということになりましょう。もっとも、イランと中国との間には、現在、水面下では協力関係にあるものの正式な軍事同盟がありませんので、中国が参戦するとすれば何らかの口実を設けようとするはずです。

 

そこで考えられるのは、(1)イランと公式に軍事同盟を締結する、(2)中東諸国に居住する中国人を保護することを名目に派兵する、(3)北朝鮮とイランとの間の秘密裡での軍事協力を利用してアメリカの対北軍事制裁を誘発し、朝鮮戦争を再開させる、(4)アメリカを軍事的に挑発し、対中開戦に導く、(5)ハル・ノートの作成にソ連邦の協力者であったハリー・ホワイトが関わったように、米国政権内の中国人工作員等を使ってアメリカ側から中国を挑発させる、(6)盧溝橋事件等に習い、米軍が人民解放軍、あるいは、中国の在外公館等の施設を攻撃したかのように工作する、(7)中国によるイランに対する軍事支援を敢えて発覚・露見させ、アメリカの報復攻撃を引き出す…といった開戦のための口実と準備です。これらの他にも様々な作戦があるのでしょうが、中国には、国際法を誠実に順守する意思はありませんので、あらゆる謀の可能性を考慮しておいたほうが安全であるかもしれません。特に中国は、国際法に対する順法精神にかけており、国際社会の一般的な常識の裏をかくような策略を仕掛ける可能性もあり得るのです。

 

トルコの行動範囲が、消えたはずのトルコ帝国の版図まで拡大し、イランもかつてのペルシャ帝国の大国意識を継承しているとしますと、時代は再度‘帝国主義’へと逆戻りしているかのようです。そして、アジアでも中国が中華帝国の栄光を取り戻すべくその鋭い牙を日夜研いでいます。時代が逆流しているように見えつつも、人類は、第二次世界大戦後の70余年の間に得た知識や経験を無駄にしてはならないはずです。戦争の原因は国益の衝突によってのみ説明されるわけではなく、双方ともの内部に‘裏切者’が忍び込まされており、人々の命を犠牲にしながら戦争によって利益を得る国際組織も存在し、メディアも双方の世論誘導の手段として利用されたてきた世界大戦の苦い歴史は、今般の事態にあっても、徒に感情を高ぶらせたり、迂闊に挑発に乗ることなく、できる限り多くの正確な情報を収集し、冷静、かつ、客観的に状況の分析を行うべきことを教えています。些細な出来事のように見えてもその裏に大規模な計画が潜んでいる可能性もあるのですから、表面に現れる現象のみならず、知性を働かせてその裏の意図や計画(謀略)をも読むことこそ、危機からの脱出方法を見つけ出すために必要とされる作業ではないかと思うのです。


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イランの核開発再開が意味するものとは?

2020年01月05日 13時14分41秒 | 国際政治

イランの核開発再開が意味するものとは?

 

 国際情勢をみますと、2020年は、アメリカとイランとの間の対立激化を以って幕を開けた感があります。イラクのバグダッド国際空港での米軍の空爆によるイランの革命防衛隊「コッズ部隊」の伝説的英雄、ソレイマニ司令官の殺害に対して、イランは報復を予告しており、中東には暗雲が立ち込めています。

 

 ソレイマニ司令官殺害については、アメリカのメディアではニューヨー・タイムズが批判的な一方でウォール・ストリート・ジャーナルは一定の理解を示しており、同作戦に対する見解は賛否両論に分かれています。両者の見解の違いは、後者が第二次世界大戦における山本五十六連合艦隊司令長官の撃墜事件を前例として挙げたことから、イランを既に交戦状態にある敵国とみなすのか、否かによって生じているようです。敵国説の根拠は、ソレイマニ司令官がイラクやサウジアラビアを含む中東諸国でイランの先兵として活動する反米武装勢力(シーア派民兵組織)の支援の陣頭指揮に当ってきた点にあり、同司令官の殺害を予防的防御措置として正当化する姿勢はトランプ政権と一致しています。

 

 もっとも、アメリカは、同作戦については国際法上の疑義が生じる余地がないわけではありません。特に作戦の実行場所となるイラク政府の合意を得ていなかった点やソレイマニ司令官が計画していたとされるアメリカ人殺害作戦の証明などが問題視され、国際法の専門家やイランと親しい中国などは、これらの諸点についてアメリカの武力行使に疑問を呈しています。(ただし、イランによるシーア派民兵組織への軍事援助も国際法の違法行為…)イラク戦争時のような国際法上の合法性に関する論争の激化も予測されていたのですが、イランが報復手段として核兵器の開発再開に踏み出す方針を示したことは、この問題に新たな一面を加えることになりそうです。その一面とは、NPT体制の行方です。

 

 イランの報復措置については、具体的には中東諸国に居住するアメリカ人の殺害、米軍高官の暗殺、駐留米軍への攻撃、近隣諸国の石油施設の破壊、並びに、アメリカの盟友であるイスラエルに対する攻撃等が予測されていますが、イランは、核合意から逸脱して核開発をさらに促進する構えも見せています。仮にイランが核開発に着手するとなりますと、北朝鮮問題が引き金となると目されてきたNPT体制の放棄と核拡散との二者択一は、イラン問題において現実のものとなるかもしれません。このことは、イラン問題が武力衝突へと発展する可能性がさらに高まることを意味します。イラク戦争に際しては、フセイン政権による大量破壊兵器の保持を完全には証明できまず、戦争の合法性が問われましたが、今般のケースでは、イランは自ら核開発計画の存在を表明していますので、アメリカは、イランに対する軍事制裁を正当化する法的な根拠を確保できているとも言えるのです。

 

 イランがアメリカによる軍事制裁を予測しながら核開発に踏み切るとすれば、それは、対米開戦を覚悟してのこととなるのですが、果たして勝算はあるのでしょうか。この点で気にかかるのは、中国や北朝鮮の動きです。イランと同様に核問題を抱える北朝鮮は、新年早々にアメリカとの対決姿勢を明らかにしています。中国もまたイランとの連携を確認しており、これらの諸国の行動はどこかでリンケージしているようにも見えるのです。

 

 仮に全体主義国による対米対決姿勢が新たなる陣営の形成であるならば、2020年は、アメリカとイランとの間の二国間戦争にとどまらず、世界大戦の火ぶたが切って落とされる年となるのかもしれません。平和や自制を訴えながらも、双方のリアクションが戦争への道を敷いているかのように見えるところからしますと、それは、何らかの国際組織が仕組んだ織り込み済みのシナリオなのでしょうでしょうか。それとも、危機の演出に過ぎないのでしょうか。

 

アメリカの同盟国であり、かつ、中東に石油を依存している日本国も無縁でいられるはずもなく、日本国政府は、あらゆる事態に対処し得るよう、対策を準備しておく必要があるように思うのです。

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ゴーン事件が示すグローバリズムの光と影

2020年01月04日 13時54分48秒 | 国際政治

 新年早々、メディア等はカルロス・ゴーン被告の国外逃亡事件で持ち切りのようです。年の初めはおめでたきものとされ、禍々しき話題は避けたいところなのですが、本ブログでも、まずは同問題を、今後ともそのコントラストを際立たせると予測されるグローバリズムの光と影として扱いたいと思います。

 

保釈に際して留置所から変装した姿でゴーン被告が現れた時点で、同氏、あるいは、その属する一派の詐欺師的な傾向に気が付いた人も少なくなかったはずです。事実は小説よりも奇なりとも申しますが、今般の逃亡劇でも、プライベート機に楽器の箱に隠れて乗り込んだそうですので、まるでサスペンス映画のワンシーンのような筋書きです。かくして、カリスマ経営者として颯爽と日本国に乗り込んできたゴーン氏は、特別背任罪を問われた被告人の身でありながら国外へとそそくさと逃げ去っていったのです。

 

この展開は、まさしくグローバリズムの光と影を自らの身で体現しているかのようです。ゴーン被告は、両親の出身国であるレバノン、育った地であるブラジル、そして、教育を受けたフランスの三つの国籍を有する多国籍人であり、かつ、その経歴の大半を仏ルノーの重役、並びに、日本企業である日産のトップとして君臨してきた押しも押されぬグローバリストです。ゴーン被告の登場は、それが仏ルノーと日産とのアライアンスの形成を機にしていただけに(仏ルノー優位の出資関係…)、日本経済のグローバル化を象徴する出来事でもありました。グローバリズムに対して今一つ実感が湧いていなかった日本国民も、国境を越えた企業間の結合、経営陣の多国籍化、利益重視のリストラの徹底、国益とは無縁の経営のグローバル展開…を伴うグローバリズムの実例を目の当たりにしたのです。

 

当初は懐疑論もあったものの、大胆な経営改革により日産の業績が大幅に改善されたことで同被告の個人的な経営手腕が高く評価されるとともに、日本国内にはグローバリズム歓迎の風潮も強まることとなりました。失われた20年とも評される日本経済の長期低迷の原因は、グローバリズムへの乗り遅れにあるとの指摘も説得力を有するに至り、ゴーン改革により復活した日産は、日本企業のグローバル化モデルの一つともされたのです。この時期は、グローバル時代の寵児とされたゴーン容疑者の絶頂期であったのかもしれません。

 

しかしながら、ゴーン容疑者のグローバリストとしての存在が強烈な異彩を放っていた故に、その凋落がグローバリズムに与えたダメージは決して小さくはありません。同事件をきっかけとして、表面化した仏ルノーと日産との関係は、グローバリズムの負の側面をも浮き上がらせています。つまり、グローバリズムのプラス面は、そのままマイナス面に反転しかねないのです。

 

国境を越えた企業間結合は、企業の独立性の喪失を意味し(三社連合の統合完全問題をめぐるごたごたがこの問題の深刻さを示す…)、経営陣の多国籍化は、悪しき海外の慣習の流入を意味し(経営陣の高額報酬やトップダウン型の組織形態への移行…)、リストラの徹底は、就業形態の不安定化を意味し(人員削減と労働形態の非正規化…)、そして、経営のグローバル展開は、先端技術や製造拠点の海外移転による先進国の産業の空洞化と中国の覇権主義の助長をも意味していたのです。さらにゴーン被告の場合、同被告が多重国籍であったがために海外に逃亡先が準備されることとなりましたし、この逃亡作戦が成功した背景には、違法行為に協力する大掛かりな国際組織、あるいは、国際ネットワークの存在も垣間見えるのです(何故か仏旅券を二つ所有…)。

 

ゴーン容疑者は、海外逃亡の言い訳として、日本国の司法制度の劣悪さを強調しています。ゴーン容疑者は昨年12月に日本国の司法制度を‘悪役’とする筋書きの映画撮影について、ハリウッドの映画プロデューサーと話し合っており、もしかしますと同逃亡劇が芝居がかっていたのも同プロデューサーが影のシナリオライターであり、ドキュメンタリータッチの映画に劇的シーンを挿入したかったからなのかもしれません(後に否定されたものの、ネットフィリックスとの独占契約説もあった)。ここでもゴーン容疑者のグローバリストぶりが発揮されるのですが、同容疑者は、ICPOにおいて既に国際手配の対象となっており、いわば国際社会の‘お尋ね者’です。もっとも、逃亡先のレバノンは、日本国政府の引き渡し要求に応じるつもりはなく、代理処罰の対象となる可能性も低いとされ、同容疑者に対する刑事責任の追及は行き詰ってしまうかもしれません。

 

このままでは、同被告は、日産やルノーを利用して私腹を肥やしておきながらレバノンでのうのうとリッチな余生を過ごすことができるのですが、果たして、メディアやハリウッドが誘導する方向に乗せられて国際世論はゴーン容疑者を‘悲劇のヒーロー’とみなすのでしょうか。悪者を被害者に仕立てる手法が悪の側の常套手段として既に認識されている今日、この手法が、仕掛ける側の思惑どおりに通用するとも思えません。利己的で狡猾、かつ、姑息なゴーン容疑者とその仲間たちの姿は、グローバリスト、並びに、グローバリズムの‘影’の部分に、暗い闇を暴くスポットライトとしての‘光’を図らずも当ててしまったのではないでしょうか。

 


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新年のご挨拶

2020年01月01日 00時00分00秒 | その他

   謹んで新年のご挨拶を申し上げます  

 

   旧年中は、格別のご厚情を賜り心より感謝いたしております。本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 皆さまがたのご健康とごご多幸を祈りつつ

      あたらしき 年を照らして 昇りゆく 初日に祈らむ よの幸ことを   

 

 



*お正月の三が日につきましては、本ブログの記事掲載はお休みさせていただきたく存じます。4日頃に初記事を掲載いたしますので、何とぞご容赦くださいますよう、お願い申し上げます。

コメント (2)
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