万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

オランダ東インド会社と明治という時代

2020年01月18日 12時59分23秒 | 日本政治

 およそ400年にわたる江戸時代にあって、日本国は、海外との通商はオランダと中国に限定し、日本人の海外渡航と居住を禁じる鎖国政策を行ってきました。このため、海外に居住する日本人が江戸時代に存在したいたことはほとんど忘れられています。僅かに名が知られているのは、江戸初期にタイのアユタヤ朝に日本人傭兵隊長として仕え、高位高官の位に上り詰めた山田長政ぐらいですが(同国のチャオプラヤー川に関する通行税の徴収権を得ていたらしい…)、ベトナム、マレー半島、カンボジア、フィリピンなど東南アジア各地に建設されていたとされる日本人町は、やがて現地に溶け込むように消滅していったとされています。

 

 日本人が傭兵として雇われたのは、戦乱の世で磨かれたその戦闘能力の高さが評価されたからなのですが、日本人を雇ったのは、国家のみではありません。1623年に起きたアンボイナ事件の発端がイギリス東インド会社側に雇われていた七蔵に対するスパイ容疑であったように、各国の東インド会社もまた、日本人を自らの傭兵として雇っていたのです。そして、昨日、本ブログで紹介いたしました永積昭氏の『オランダ東インド会社』によれば、オランダ東インド会社の拠点であったバタヴィアにも日本人が居住していたと記しています(ただし、同調査は岩生成一氏による…)。当時のバタヴィアは、東南アジア系のスンダ人、アンボン人、ブギ人、マカッサル人、マライ人島の他に、アジア系の中国人を筆頭に日本人やモール人(ムガール人、あるいは、モンゴル人?)も居住するグローバル化を先取りするような多民族都市であったのです。

 

それでは、オランダ東インド会社は、どのようにして多民族都市と化していたバタヴィアを統治していたのでしょうか。オランダ東インド会社が採った方法とは、今日の社会学の用語で表現するならば、‘サラダ・ボール政策’でした。各民族の枠組みを残しつつそれぞれのコミュニティーに自治権を与える共生政策であり、特に団結心が強かった中国人と日本人に対しては、オランダ東インド会社の総督が‘民族の首長’を‘カピタン’として任命していたとされます。そして、ここで目を引くのは1632年頃にカピタンに任命されていた日本人の名です。大阪出身とされるその人物の名は、楠市右衛門というのです。

 

楠という氏姓にはっとする方も少なくないのではないかと思います。楠と申しますと、まず先に脳裏に浮かぶのは、14世紀にあって後醍醐天皇に仕えた南朝方の忠臣、楠木正成です(楠木は『太平記』では楠と記している…)。出身地は大阪ですので、楠木正成と同じく河内の国を出自としています。血縁関係は定かではなく、単なる偶然なのかもしれませんが、この名に歴史の謎を解く鍵が隠されているようにも思えるのです。

 

 明治天皇は、系図にあっては北朝系の孝明天皇の嫡嗣でありながら、明治政府は、南朝正統論を採っています。忠臣の鏡として教科書等でも取り上げられ、いわば国民的なヒーローに祀り上げられています(明治政府からは正一位を追贈されている…)。明治政府の南朝正統論は皇統と矛盾しているとしばしば指摘され、不可解な謎とされてきましたが、仮に、オランダ東インド会社も背後にあって明治維新に関わっていたとしますと、バタヴィアの楠市右衛門こそが、この謎を解くキーパーソンである可能性も否定はできないのです。

 

楠市右衛門の存在は、様々な想像を掻き立てます。市右衛門は、戦国期にあってバタヴィアに渡ったのではなく、あるいは、湊川の合戦での南朝方の敗北の後、海外に逃れた楠木正成その人、あるいは、その嫡流の子孫のそのまた子孫であるのかもしれません(正成の首が六条河原に晒された際に偽首が噂されている…)。日本人の海外渡航が禁止されたのは江戸期に至ってのことですし、楠木正成はゲリラ戦を得意とした‘悪党’ですので、何らかの人脈や手段を用いれば海外に逃げることもできたはずです。明治天皇自身にも南朝出自説が存在するのですが、明治維新と南朝との関係は、あるいは、海外においてこそ接点を見出すことができるかもしれないのです。果たして、歴史の事実は、どこにあるのでしょうか。


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