万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

NPT体制と国民国家体系―非核保有国こそ原点に返った議論を

2020年01月08日 11時57分13秒 | 国際政治

 核兵器禁止条約が包括性に欠けるものの曲がりなりにも採択されたことにより、核保有論は‘絶対悪’と見なされがちです。本ブログは、次善の策として全世界の諸国による核武装の可能性を認めていますので、‘危険思想’の発信源と捉える向きもあるのでしょうが、全諸国核武装論は、核=絶対悪の固定概念を排して素直に国際社会を見つめれば、論理的で合理的であり、かつ、倫理的にも許される範囲にあるのではないかと思うのです。

 

 多くの人々は、核開発や核保有という言葉に、あたかも条件反射のように強い反発や拒否反応を示します。NPTに違反する形での北朝鮮やイランといった全体主義国国家による核開発は悪しき前例であり、誰もがこれらの諸国の完全なる核放棄を願っています。しかしながら、イランがアメリカに対する報復措置として核開発の再開を表明し、北朝鮮も対米対決姿勢を強めている点からしますと、アメリカが、軍事制裁に踏み切らない限り、これらの諸国の核保有は既成事実化されることでしょう。つまり、戦争を望まないならば、‘無法者国家’の核保有を黙認しなければならないのです。

 

 現実化しつつある中小の全体主義国家への核拡散に加えて、大国である中国やロシアの核戦略は攻撃型であり、周辺諸国は常にこれらの核保有国による核の脅威にさらされています。この脅威は、中国と国境を接したり、日本国のように射程範囲内の近隣に位置する諸国のみの問題ではありません。例えば、アジアにおいて中国のみが核を合法的に保有する現状にあって、仮に、南シナ海に中国の核兵器が配備されたとすれば、どのような事態が起きるのでしょうか。南シナ海の軍事基地化は対米戦略の一環とされていますが、東南アジア全域のみならず、太平洋諸国に対する中国の核の脅威は格段に高まります。一方、中国の核の標的となる諸国は、NPT、および、加盟国であれば核兵器禁止条約の縛りがありますので、核の抑止力を持つことが許されないのです(非核保有国が核抑止力を持つためには、核保有国と同盟する以外の道はない)。

 

 NPT体制が見直されるべき二つの主たる理由を述べてみましたが、NPT体制を維持しながらこれらの問題を解決する方法はないわけではありません。それは、合法的な核保有国が分担して、すべての諸国に核の傘を提供する方法です。実際に、NPT体制において非核保有国である日本国も同盟国であるアメリカの核の傘の下にありますし、NATOではニュークリア・シェアリングも導入され、非核保有国に差された核の傘はその強度を増しています。

 

 NPT体制における核の傘の提供とは、率直に述べれば、その本質においては、軍事大国がライバル関係にある他の大国からの攻撃や侵略から守るために弱小国に保護を与えたかつての保護国化と変わりはなく、主権平等を原則とする今日の国民国家体系の原則とは相いれない性格を有しています。主体間関係の構図としては封建契約に類似しており、保護する側と保護される側との間の権利と義務との非対称性は、しばしば前者の後者に対して負う義務の重さから両者の間に上下関係を構成したのです。そして、前者に依存する立場となる後者が下位に位置したことは言うまでもありません。もっとも、トランプ大統領は、アメリカの過重負担を理由に在外米軍の縮小や撤退をも示唆していますので、核の傘の提供も永遠に保証されているわけでもありません。

 

 かくしてNPTは不平等条約と批判されつつも、アメリカを中心国とする安全保障体制にあって核の傘は抑止力として有効に機能しているのですが、他の諸国や地域を見ますと、‘核の傘’が存在していなかったり、‘破れ傘’であるケースも少なくありません。そもそも、核保有国である中国やロシアには、他国に対して核の傘を提供する意思に乏しく、北朝鮮が核開発に踏み切った理由の一つに、核の傘の不在も指摘されています。現在、1961年に締結された中朝友好協力相互援助条約が更新されてはいますが(ソ中友好協力相互援助条約は既に失効…)、中国が‘核の傘’の提供を北朝鮮に約したかどうかは不明です(提供していないのでは…)。また、1968年4月に発効したラテン・アメリカ核兵器禁止条約を皮切りに、核兵器廃止の流れに乗るかのように地域的な非核化条約も締結されてきており、中国の核の脅威が忍び寄る東南アジアや太平洋諸国にあっても、既に非核化条約が成立しています(1986年発効の南太平洋核兵器禁止条約、並びに、1997年発効の東南アジア非核兵器地帯条約)。因みに、信じ難い事に1991年12月には朝鮮半島の南北両国も非核化を共同で宣言しているのです。朝鮮半島の非核化共同宣言はそれこそ政治的宣言に過ぎないものの(むしろ、中国や北朝鮮は、韓国からアメリカの核の傘を外すチャンス到来とみたかもしれない…)、世界を見渡しますと、核の傘さえ差されていない国の方が多いのです。

 

 国の大小に拘わらず、あるいは、NPT上の合法性に拘わらず、狂信的な全体主義国による核保有は、他の自由主義諸国にとりましては安全保障上の死活的な脅威となりかねず、このリスクは年々増大する一方です。NPTが発効した1970年当時と比較しましても、核保有国の核兵器数は増加の一途を辿っており(米ロが削減しても中国が増産…)、非核保有国との間の核戦力差は開くばかりであり、現状は、明らかに非核保有国にとりまして不利と言わざるを得ません(しかも、核保有国は、核拡散を阻止する義務さえ十分にははたしていない…)。全体主義国の核の脅威に直面する中小の自由主義国が核に対して無防備なままであることが正義であり、核の抑止力を得るために核武装することは絶対悪であると言い切れるのでしょうか。

 

 この問題をさらに深くまで探求しますと、常任理事国制度を採用した国際連合、否、国際聯盟の制度設計にまで踏み込むことになるのでしょうが、NPT体制が行き詰っている現状に見て見ぬふりをすることは無責任なように思えます(なお、イランや北朝鮮の完全なる核放棄が実現しても、中ロの攻撃型核戦略の問題は解決しない…)。しばしば経済の分野にあっては、一党独裁体制を堅持している中国が統制を強めれば強めるほど経済成長が鈍化すると指摘されていますが、政治あっても、自由な議論こそが危機を脱する知恵を生み出すものです。自由主義国こそ核のタブーを排し、思考停止状態から脱してNPT体制を含む来るべき時代の国際秩序に関する根本的な議論を試みるべきなのではないでしょうか。あらゆるテーマを自由な議論に付すことこそ、自由主義国の強みと言えるのではないかと思うのです。


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