子どもの頃、日曜学校に通っていて、解せなかった言葉が、
「心の貧しい人々は幸いである」(マタイ5:1~12)
「なぁ~によ、これ!」と思い、何となく教会をやめてしまうきっかけに。
この10歳頃の疑問が、曽野さんの説明で、71歳になってやっと氷解しました。
P.120 「心の貧しい者」という悪訳は、
聖書の原本に忠実なのかもしれないが、
日本人が言う物質的で人情に賭けた人のことではない。
この言葉はヘブライ語の「アナウィム」という語から出たものだというが、
それは虐げられている者、苦しむ者、哀れな者、貧しい者、
柔和な者、謙遜な者、弱い者、などの意である。
P.121 つまりアナウィムたちは、国家、富、健康、身分などの
誇りをすべてはぎ取られ、その恩恵を受けず、
神だけしか頼るもののなくなった人たちを意味する。
そのような人だけが天国を見るというのだ。
これは凄まじい逆説だ。
国家の庇護も、個人的な富も未来の展望も、当人に備わった健康も才能も、
すべて「ない」人などという存在は、今の社会では
ポリティカル・コレクトネスの観念に反するから、使われなくなっている。
しかし聖書は、そう言うのである。
著者はクリスチャンで、日本財団会長を務め、国際協力・福祉事業に携わり、
飢餓の年のエチオピアなどで凄まじい貧しさを見て来た人だから、
言葉の重み・説得力があります。
でも、、、、、
失うものが何もない(今のアフリカ難民キャンプのような)生活が「幸い」??
やっぱり何処かおかしい。承服しがたい私が居ます。