こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

諸聖人(マタイ5:1-12a)イエスがそばに立ち、「あなたは幸いだ」と呼ばれる人に

2020-10-30 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/201101.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/11/1(No.1088)
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諸聖人(マタイ5:1-12a)
イエスがそばに立ち、「あなたは幸いだ」と呼ばれる人に
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【期間限定】YouTubeで説教を視聴できます。チャンネル登録歓迎します。
https://youtu.be/S38boBKl7OA
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特定の日が、日曜日と重なることはとても珍しいことです。今年、11月1日が日曜日と重なり、「諸聖人の祭日」として日曜日を祝っています。珍しいので前回諸聖人の祭日が日曜日と重なったのはいつか調べてみたら、5年前の2015年でした。せっかく日曜日に巡ってきたので、神のもとに迎えられ、すべての人のためにとりなす聖人たちに心を向けましょう。

聖人方が集う「天の国」はどのようなところでしょう?二つの聖書の引用から、描いてみたいと思います。一つはヨハネ福音書の第14章1節から4節です。次のように言われています。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

「住む所がたくさんある」これは私にとっては大変魅力的な言葉です。聖人たちも殉教者がおられるし、生涯を聖なる生き方で貫いた方もおられます。その「一生涯、聖なる生き方」という中にもさまざまな生き方があります。

聖なる学問を究める人もいれば、祈りを極める人もいます。隣人愛を極める人、家庭の父として母として聖なる一生を送る人もいます。諸聖人の祭日に選ばれた福音朗読箇所も、さまざまな生き方で聖なる一生を過ごす人たちが、「幸いである」と呼ばれています。天の国には住む所がたくさんあり、あらゆる生き方で聖なる道を究めた人たちが招かれるのです。

もう一つ、紹介したい聖書の箇所があります。ルカ福音書第16章の「金持ちとラザロ」のたとえ話です。毎日ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちと、できものだらけだったラザロとが亡くなると、ラザロは宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれ、金持ちは陰府でさいなまれています。

金持ちがアブラハムに、「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください」(16・24)と大声で叫びました。しかしアブラハムの返事は、金持ちにいっさいの希望を諦めさせるものでした。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」(16・25)

ここで一つのことに気づきました。アブラハムは金持ちに「子よ、思い出してみるがよい」と言っています。「思い出せ」と言うのですから、「知らなかったでは済まない」ということです。通常何かを間違えた時、「本当に知らなかった」というのはあり得ます。アブラハムはその「うっかり」がここには存在しないことをはっきり示します。「思い出してみるがよい。思い出せるよね?」弁解も、言い逃れもできないのです。

私たちもきっと、「子よ、思い出してみるがよい」と言われるのでしょう。私は生きている間に、宴席でアブラハムのすぐそばにいさせてもらえるだけの何かをして、旅立たなければなりません。今週の福音朗読にある生き方をした人々は、神が隣にいてくださり、「幸いである」と声をかけてもらえる人々です。たとえそれが、地上では「悪いものをもらっていた」(ルカ16・25参照)と言われるような生き方であっても、神の前に価値ある生き方であれば、神がそばで「幸いである」と言ってくださるのです。

一つ、今週の朗読箇所から取り上げてみましょう。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」(5・8)とあります。私はある場面に、この幸いな状態がぴったり重なる、と感じたことがありました。それは日曜日のミサ、聖書の朗読の時です。

ある朗読者が朗読のために祭壇に上がってきました。その人の目には、「みんなのために、読んでやるか」みたいな気負いは何も感じられませんでした。またそれとは反対の、「上手に読まなければ」とか「引っかかったらどうしようか」といった「自分をよく見せたい」という雑念も感じられませんでした。純粋に、「与えられた朗読箇所を読む」その単純な思いが、その人の目から十分伝わりました。

もしかしたら、その人は心の清さ以外に、持ち合わせは何もないかもしれません。この世の物差しで言えば、「物持ち、金持ち人生」ではないかも知れません。

しかし私は、その人の中に、イエスがそばに居てくれて、「あなたは幸いだ」と言っているのが見えた気がしたのです。聖書朗読をしている間に、隣にイエス・キリストがいて、「あなたは幸いだ」と言ってくれているのが感じられたのです。

諸聖人と認められる方々は、「幸いである」と神から認められた人々です。神から「幸いである」と呼ばれることを、「幸いなこと」と理解した人々です。私たちはまず、神から幸いであると呼ばれることを「幸い」と理解している人々なのでしょうか。

典礼当番で、聖書朗読のため、答唱詩編のため、祭壇に上がってくる人は本当に限られていますが、もし自分が祭壇に上がることがあったら、「この人は神から『幸いである』と呼ばれている人だ」と認められたいものです。

そのためにはおそらく、自分を見せようとするどんな飾りも必要ありません。イエスが紹介した「幸い」を生きてきた。この一点だけを身にまとって、いつの日か祭壇に上がりましょう。毎日祭壇に上がる司祭は、なおさらその覚悟が求められています。

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‥次の説教は‥‥
年間第32主日(マタイ25:1-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼人間ドックを受診した。年に一度の検診もそう内容としては変わらないと思ったが、それよりも詳しい所見を聞いたので、やはり受けた甲斐はあったと思う。この病院では12年前、父が余命を告げられてまもなく受けて以来である。
▼どうにも解消できないのが「脂肪肝」。所見を述べた先生が、スキャンした画像の各部を見せながら、例として次のように述べた。「これが心臓です。12年前の画像と比較しましょう。心臓の形が、12年前と違っています。これは、脂肪によって心臓が押し上げられていることが考えられます。」
▼心臓が押し上げられるほど脂肪が邪魔している・・・これにはへこんだ。先生は続ける。「赤い文字で示されている数値も、要するに肥満が原因です。今より体重を1キロでも2キロでも減らしてください。そうすれば、どの数値も見事に通常の範囲に収まるでしょう。」
▼この勧めには救われた。実はここ一ヶ月の有酸素運動で、この10年79キロを切ったことが無かったのが現在78.0まで改善しているのだ。まだ求められる標準体重にははるかに及ばないが、ひとまず75キロにはなりたいと思っている。そして実現可能な目標だと考えている。
▼最近、代謝が良くなったのか、食べて太る日が減ってきた。食べたらそのまま体重になっていたのが、最近は食べても変わらないくらいに。ただ喜んでばかりはいられず、ひょっとしたら病気かも知れないし、用心は欠かさない。
▼WiiFitというゲーム機のお世話になっている。有酸素運動や、バランス運動、ヨガ、筋トレ、結構楽しめる。その中ではまっているのはゴルフとフープ。ゴルフはボードの上に乗って構え、コントローラーをクラブに見立てて振るだけ。
▼ゴルフしたことないから本当にできるかは分からないけど、100ヤードのアプローチショットはピタリ寄せることができている。カロリー消費の一助にしていて、右利き、左利き、どちらも同じレベル。実際のウォーキングと組み合わせて、これからも脂肪を燃やしていきたい。

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今週の1枚
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第695回目。ゲームではよく回転するのに、実際には一回転もできない有様。

http://ss104313.stars.ne.jp/201101.jpg
ホームページもご覧ください。
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今週の「笑える」
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「ごんごりょうだんだわ!」それもまた「言語道断」
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† 神に感謝 †
コメント
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