こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第28主日(マタイ22:1-14)司祭の究極の礼服はイエス・キリスト

2020-10-09 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/201011.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/10/11(No.1085)
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年間第28主日(マタイ22:1-14)
司祭の究極の礼服はイエス・キリスト
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【期間限定】YouTubeで説教を視聴できます。チャンネル登録歓迎します。
https://youtu.be/S38boBKl7OA
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本日(11日)午後3時から、司祭・助祭叙階式が浦上教会で行われます。この叙階式で、稲田新司祭と、鼈甲屋新助祭が誕生します。彼らがこれから果たしていく教会奉仕の上に、神様の豊かな祝福がありますように、このミサの中で願いたいと思います。

先週、お子さんの洗礼式をこの田平教会でおこない、撮影もしたのですが、「言い間違えた」とはっきり分かる箇所がありました。「堅信式を行いましょう」と言っている部分があったのです。私はまったく気づきませんでしたが、映像はバッチリ、その瞬間を捉えていました。

28年前を思い出しました。叙階式を終えて浦上教会信徒会館での祝賀会の席で、当時の島本大司教様が祝辞を述べてくださり、最後に新司祭の任地を発表しました。二人目までは小教区の助任司祭として働いてもらいますと発表されたのですが、最後に私の任地を、「小教区の主任司祭として働いていただきます」と仰ったのです。後に親戚の方が録画したビデオテープをいただいて、ビックリしたのでした。

その教会に、私はもう一度舞い戻ることがあるでしょうか。いちばん大きな教会なのでないような気がしますが、もし実現したら、島本大司教様は預言しておられたことになります。

福音朗読に戻りましょう。王子の婚宴を催した王は、招待しておいた客が二度も僕の案内を断り、しかも二度目には乱暴まで働いたのでガッカリしています。それで見かけた人は誰でも婚宴に招きました。意外なことに、通りで突然招かれた人々は皆、王子の婚宴であり、王が催したことをわきまえていたので、礼服を着て婚宴の席に着きました。

しかしそこに、礼服を着けていない人が一人現れます。礼服は、婚宴に招かれたことを感謝する気持ちの表れです。招かれるはずがなかったのに招かれた。名誉なことと感じたから、礼服を身につけます。それなのに、この人は王に招かれたことを感謝する気持ちを持っていませんでした。来るには来ましたが、義理立てて来たようなものでした。

さて私たちは、ここからどんな教訓を得られるでしょうか。たとえで暗示されている王は、父なる神、王子は御子イエス・キリストです。では王が催した王子の婚宴は、どこにあるのでしょうか。それは日曜日ごとに集まるこの教会、主の祭壇に用意されるのです。「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い」と言うでしょう。

まずは、この「神の小羊の食卓」に、礼服を着て集まる必要があります。先週話した、一張羅の意味でも構いませんが、もう少し踏み込んで考えると、「この食卓に招かれたことを光栄に思う、名誉に思う」そのしるしを身につけてくる必要があります。それはたとえば、断食であったり、隣人愛であったり、感謝を表す献金などです。

断食は、「神の小羊の食卓」に着くためになくてはなりません。酔っていたり、どこかで食べてきたから食事は要らないという態度を取ったりすれば、礼服を着ていない人と何ら変わりません。また隣人愛は、人に奉仕する愛のわざですから、招待客の枠を越えて人を招く神の広い心に彩りを添えます。そして私たちが持ち寄る献金は、神の小羊の食卓をいつまでも続けさせてくれます。私たちの献金で、次のパンとぶどう酒も用意され、神の小羊の食卓に招かれる人がさらに増えるのです。

11日(日)午後3時から司祭・助祭の叙階式ミサが行われます。今は自分自身のことも重ねて考えることができます。会衆はミサに参加する時、断食や隣人愛や献金を持ち寄ればそれで十分ですが、司祭に叙階される人、助祭に叙階される人はそれだけでは足りないでしょう。

ではどんなものをささげて、神の小羊の食卓に近づくのでしょうか。一言で言えば、ささげものは自分自身です。イエス・キリストにいつも「はい」と答え、イエスに反するものには「いいえ」と常に答える。「私はこう思う」ではなく、これからは「イエスが私の全て」となります。

浦上の助任司祭の時、予定外のことがいつも降りかかって、自分がしている目の前のことを横に置かなければなりませんでした。緊急の病人が出て、机に向かっていたのに中断させられます。一日くたくたになって寝床についたのに、大学病院に救急搬送された人の家族から呼び出され、夜中に病者の塗油を授けます。いつも、弱く貧しい姿で現れるイエスが「私のもとに来なさい」と呼んで、「はい」と答えるのでした。

もしかしたら今度叙階の秘跡を受ける方々はよくできた人物で、「それらのことは皆、小さい頃から準備ができております」と答えるかも知れません。しかし司祭や助祭に叙階される人は、叙階されてからもっと多くのものをささげるように求められるのです。実際にささげることになる前に、考えておいてもよいでしょう。

司祭・助祭に叙階される方は、いわば「イエスに買い取られた人」です。イエスが代価を払って、叙階の秘跡を受ける人の全てを買い取ったのです。どんな代価を払ったのでしょうか。「十字架にはりつけにされて死なれた」という代価です。十字架上の死という代価を払って買い取られたことを、叙階の秘跡を受けてからは忘れてはならないのです。

いつか怠け心を起こしたり、この世のもので時間を埋めようとしたり、ミサをささげながら心は満たされない。そんな場面がやって来るかも知れません。しかし、司祭はイエスが御自分の死という代価を払って買い取られた者なのです。投げ出しそうになる時、私のために支払われた代価の重さを、繰り返し確かめる必要があります。これが祭壇に上がる司祭に求められる究極の「礼服」です。

私が、叙階式ミサの前に必ず行われる受階者への訓示をする機会が巡ってきたら、そう伝えたいと思っています。どうか皆さんも、新司祭にいつか会うことがあれば、この人はイエスの死によって買い取られた人なのだと考えてください。

もし、どうしても諫めなければならない時には、「あなたはだれのいのちで買い取られたのか忘れたか?」と諫めてください。司祭・助祭叙階式に臨む方々のために、続けてお祈りいただきたいと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第29主日(マタイ22:15-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼過ぎた週の初め、葬儀が入り、月曜日に葬儀ミサをささげた。「田川ミツエ」という一般信徒。少し前から危険な状態だったので、「来るべき時が来たか」そう思って心を込めて葬儀ミサを執り行った。
▼そして金曜日、シスターが亡くなった。「田川ミツエ」と言う。一週間に二人、「タガワミツエ」を送った。この原稿を書いている時点でシスターの通夜も終わってないのでどんな葬儀を執り行うか神のみぞ知る。
▼ここからは洗礼台帳と照合して感じたこと。「タガワミツエ」は、二人とも結婚していない。だから洗礼台帳に当たる時「旧姓」を調べる必要も無かった。また田平教会の台帳でときどき見られる「養子縁組」もなく、ダイレクトに探せる「はず」だった。
▼一人目の「田川ミツエ」は問題なく見つかった。パソコンで検索できる態勢を2年かけて準備したので、カタカナ検索すればすぐにヒットする「はず」である。しかしシスター「田川ミツエ」がカタカナ検索「タガワミツエ」でヒットしない。なぜだ?
▼あることを思いだした。私が赴任してすぐに、修道会本部から田平修道院に籍を置くシスターの台帳整理のための問い合わせがあり、可能な限り答えたことがあった。当時の書類を調べた。するとシスター「田川ミツエ」は確かに田平教会で洗礼を受け、台帳番号も正確に記録されている。
▼そこで手作業で紙の台帳に当たってやっと分かった。紙の台帳には「田川ミツ」と記録されているではないか。しばしば起こることで、「ソノ」という女性名を「オソノ」と呼んでいたために葬儀では「オソノ」で葬儀に取りかかったが洗礼の台帳で慌てるというようなケースである。
▼ちなみに、ほぼ同年代で「ミツエ」は田平教会に三人いた。だから、シスター田川の両親は、88年前に「三・ミツエ」を避けて、「ミツ」という名前を付けたのかも知れない。


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今週の1枚
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第692回目。横瀬浦の祭壇。司祭は、「イエス」という礼服を着て祭壇に上がる。
<img src=http://ss104313.stars.ne.jp/201011.jpg>
http://ss104313.stars.ne.jp/201011.jpg
ホームページもご覧ください。
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今週の「笑える」
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「さいよりのバス停」「んんん?『最寄りのバス停』?」
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† 神に感謝 †
コメント
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