こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

待降節第2主日(ルカ3:1-6)主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ

2015-12-06 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/151206.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
15/12/06(No.799)
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待降節第2主日
(ルカ3:1-6)
主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ
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待降節第2主日は洗礼者ヨハネが現れる場面が福音に選ばれます。6年も同じことを言っているので、さすがに覚えてくれていると思いますが、「洗礼者ヨハネ」と聞くと「悔い改め」を思い出してほしいと思います。今年の待降節、洗礼者ヨハネが悔い改めについて何を求めているのか、確認することにしましょう。

司祭黙想会の5月下旬頃でしたか、浜串教会祭壇の聖櫃を新調しようと思って典礼用品を扱う修道会に依頼をして半年が過ぎました。今年のクリスマスまでに、と思って注文した品物が届くのを楽しみに待っていましたら、どうやら注文した聖櫃は制作できないとお詫びの連絡が入りまして、12月8日に再度注文し直すこととなりました。この聖櫃のために、寄付をくださった方もいました。ですから少しでも早く、聖櫃を新調して、喜んでもらいたいと思っているわけです。

本当に首を長くして待っていますが、相手がある話なので、わたしがどんなに願っても願った通りになるわけではありません。もう一度注文すれば年内はもう諦めなければならないと思いますが、遅くとも復活祭までには、新しい聖櫃を聖堂に設置して、安心して浜串教会でのミサをささげたいと思っています。ご寄付くださった方々も、今しばらく辛抱して待っていてほしいと思います。

12月3日、日本宣教の保護者聖フランシスコ・ザビエル司祭の祝日でした。わたしたちの小教区では福見教会が献げられた教会で、夕方でしたが福見教会のためにもミサをささげました。

直前の日曜日に、「福見の聖堂のお祝い日とも言える日ですので、都合をつけて参加してください」と呼びかけていたのですが、木曜日の夕方5時15分のミサではとても参加は難しいかなと思っていました。

ところが、都合をつけて参加してくださった方を見つけて、大きな慰めをいただきました。人数の多い少ないではなく、呼びかけを真剣に受け止めてくれたということですから、呼びかけは間違いなく届いたのだと思い、力づけられました。ありがとうございました。

さて福音に戻りましょう。洗礼者ヨハネが荒れ野で活動を始めます。神の言葉が、ヨハネの活動を方向付けます。預言者イザヤの書に書いてある活動です。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

これはイザヤ40章3節から5節の引用です。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」

イザヤの時代には、「呼びかける声」の方向に生き方を変えることが、「呼びかける声」に答える道でした。イザヤの時代には必ずしも具体的ではなかったかもしれませんが、洗礼者ヨハネの時代にいよいよ声の主である神が、人となってわたしたちに現れたのです。この時から悔い改めは、具体的なものとなりました。

「呼びかける声に答えること」それは、イエス・キリストへと向きを変えて生きることです。呼びかける声、それはイエス・キリストであり、わたしたちはこの待降節に、おいでになる主に生き方を向け、イエス・キリストが向かうようにわたしたちも生き方を向けますと表明することを求められているのです。

どのような生き方を求められているか。3年前の説教を参考に示したいと思います。わたしたちに期待されているのは、イエス・キリストなしには物事が始まらない、そういう生き方です。朝、目が覚めた時にイエス・キリストなしに今日一日が始まらないと考えるなら、わずかでもいいから祈りをして一日を始めるはずです。

食事をしようというときに、イエス・キリストなしにこの食事は始まらないと考えるなら、食事の前に祈るはずです。こうして、イエス・キリストなしに物事は始まらないと考える人に、神の言葉が降るのです。

洗礼者ヨハネは、まだ見ぬ救い主キリストに率先して向きを変え、ヨルダン川に集まった人々にも同じ生き方を求めました。現代のわたしたちもまた、イエス・キリストなしには物事は始まらない。そのような生活を心がけるなら、社会に対してしるしとなることができます。そしてわたしたちを見て、だれかが主の道を知り、その道を歩き出すのです。

皆さんは、「主の道を備えよ」という聖歌をご存じでしょう。できればこの聖歌を覚えて持ち帰り、日々心の中で歌い続けましょう。わたしも、周りの多くの人も、イエス・キリストに向きを変え、イエス・キリストなしに物事は始まらないと、言葉でも態度でも表明して生活しましょう。

わたしの生活は、主よ、あなたなしには始まりません。その思いを待降節中毎日この聖堂でささげながら、降誕の日を喜び迎えることができるよう、ミサの中で照らしを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
待降節第3主日
(ルカ3:10-18)
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ちょっとひとやすみ
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▼先週郷里の先輩司祭の叙階25周年記念ミサに出席し、その後の祝賀会にも出たが、写真を撮らなかった(>
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