こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第18主日(ヨハネ6:24-35)イエスは必要なときに必要なパンを与えてくださる

2024-08-03 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/8/4(No.1308)
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年間第18主日(ヨハネ6:24-35)
イエスは必要なときに必要なパンを与えてくださる
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約一週間、体調不良でお休みしておりました。ご心配をおかけして申し訳ありません。助任司祭は今回司祭生活でいちばん働かされた一週間だったと思います。大変だったと思いますが、どこかで「これ以上無いくらいきつかった」という体験をすると、大きく成長すると思います。

今年の小教区黙想会で主任司祭から、「聖書の一節を自己紹介に使ってみてはいかがでしょうか」と話したのを皆さんは覚えているでしょうか。黙想会のテーマは「廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5・17)でした。中田神父は自己紹介に「『廃止するためではなく、完成するためである』を自分の生涯の目標として働こうと思っています」、そういうふうに説明しました。

イエス様のみことばの一節を大切にして信仰生活をあゆむ方法は大いに勧められるのですが、その中ではこの一節は大変難しい生き方かも知れません。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(6・27)ほとんどの人が、望んでそうしているわけではなくても、「朽ちる食べ物のため」働いていると思うからです。

上五島で、言い伝えになっている話があります。島の東側と西側にそれぞれ集落が広がっているのですが、その一つに奈良尾と桐という二つの集落があります。そしてこの二つの集落の特徴を私はこう言い聞かされていました。「奈良尾は稼ぐために働くが、桐は勉強させる為に働く」イエス様の「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないもののために働く」これに通じるのではないかと思います。

ご存知のように、桐教会からは何人もの司祭を輩出し、一人は司教様になりました。単純な比較をしてはいけないと十分分かっていますが、いつまでもなくならないもののために投資した結果が、このような形になったのではないかと考えています。

イエス様の示す生き方「道」は、いつも「朽ちる食べ物」ではなく「永遠の命に至る食べ物」でした。この世の物差しで計るなら、それはほとんど恩恵をもたらさないかも知れません。しかし、イエス様が示されたものを受けて食べた人は、それによってもたらされた結果を永遠に失わないのです。

中田神父も一週間のうち最初の三日間はベッドからほとんど動けませんでしたが、初金曜日にはベッドからほとんど動けない人に病人訪問で御聖体を運んでいたことをあらためて考え直すことができました。症状の重い期間を体験しなかったときは「元気な人が病気の人を見舞う」この形でしたが、これから10年20年は、「ほとんど動けない経験をした後に病気の人を見舞う」という形に変わります。御聖体を受ける人を思う気持ちは全く違うと思うのです。

イエス様ははっきりと仰いました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(6・35)イエス様から示されたものを、謙虚に受け、それをパンとして食べるとき、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る糧に変わるのです。

ただし、イエスが示されるパンの形を、私たちが選ぶことは出来ません。そこは注意が必要です。それが癒やしの奇跡を与えている姿であるか、最後の晩餐で弟子たちに配られるパンとぶどう酒の姿であるか、あるいは十字架上で命をささげている姿であるか、私たちは選べません。「これをどうやって食べろというのですか?」と疑うのではなく、「あなたが示されるもの、それを私はパンとして頂きましょう」そのような受けとめかたができるように私の心を準備しましょう。

今週は広島原爆の日、長崎原爆の日を迎えます。現在広島教区には上五島仲知小教区米山教会出身の白浜満司教様がおられます。白浜司教様のモットーは参考になると思います。モットーは「福音のためならどんなことでも」でした。

私たちも同じように、「イエスが与えてくださるものなら何でも受け取ります」そう心に決めましょう。どの場面のイエスであっても、それは私たちに必要なものを与えてくれる命のパンなのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第19主日(ヨハネ6:41-51)
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ちょっとひとやすみ
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▼完全に元に戻ったり、以前より強くなったりする年代があったと思う。しかし今は、いったん調子を落としたりすると以前の状態まで戻らないと感じている。それが「年齢」というものなのだろう。
▼完全に戻らないのだけれども、目の前のことは同じ量こなさなければならない。より慎重に、自分の調子を考えながら、務めを果たすようにする。場合によってはもっと量を減らす。そこまで考えないと、今年の夏は乗り切れそうにない。

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今週の1枚
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第915回目。田平修道院が新築落成された。近いうち必ず、正式に訪問したい。

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† 神に感謝 †
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