こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

待降節第2主日(ルカ3:1-6)心を開いて「神の言葉」の前に身を置く

2021-12-04 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/12/5(No.1151)
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待降節第2主日(ルカ3:1-6)
心を開いて「神の言葉」の前に身を置く
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待降節第2主日は洗礼者ヨハネとの関連の深い主日です。毎年洗礼者ヨハネの話をしている気がします。その中にあっても、何か少しでも、皆さんのために、新しい気付きを分け合いたいと思います。

先週は、人生で二度目の「私はもう死んでもいい」という言葉を聞きました。願いが叶えられ、これ以上望むことはない。そういう感情を言葉にしたものだと思います。

人生で二度目と言っているのですから一度目がありまして、一度目は出津の老人ホームでのことです。いつか私と再会したい。そう願い続けていた人と久しぶりに会うことができました。そこで「私はもう死んでもいい」と再会を喜んでくださったのです。

二度目はこの聖堂の中で起こりました。コロナ禍で面会が叶わず、長く秘跡を受けられなかった高齢者です。聖体拝領を受け、クリスマス前の赦しの秘跡を受け、体調の不安もあって病者の塗油も受けました。考えられるすべての秘跡を受けたことで、「私はもう死んでもいい」と喜びを表したのです。

幼子イエスを神殿で見いだした預言者シメオンを思い出しました。「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。『主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。』」(ルカ2・28-30)二人ともその目で、神の言葉を大切にする人には願いが叶えられることを見たのだと思います。

その場面に立ち会った中田神父は、「こんなすばらしい場面に遭遇したのはこれで二度目だから、もう死んでもいい」と思ったでしょうか。まだその境地にはたどり着けません。その境地を極めるのはいつでしょうか。何を見ても何を成し遂げても、そこまで到達できる気がしない。現状はそんなレベルであります。

今年の待降節第2主日、私の心に響いた言葉は「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」(3・2)という箇所です。ヨハネは「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(3・4)という預言者イザヤの言葉を活動で形にしていくわけですが、「神の言葉」が「人間」に降った瞬間から、神の計画が始まる。この部分に惹きつけられました。

「神の言葉」はそのままで力強いものですが、歴史の中で「人間」に降ってから具体的な働きが始まっている、と感じます。かつての預言者たちがそうでしたし、洗礼者ヨハネも、神の言葉が降って、神の言葉に自分を開いて、それから彼の活動が始まりました。仮に、洗礼者ヨハネに「何かを成し遂げそうな雰囲気」が備わっていたとしても、「神の言葉」を抜きにしては何も始まらなかったわけです。

さて洗礼者ヨハネが「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(3・3)とき、招きを受け入れて悔い改めの洗礼を受けた人々もいましたが、彼を受け入れなかった人もいます。そのことを伺わせるのがイエスの宣教活動の終盤、「権威についての問答」の場面です。

祭司長たちや律法学者たちが神殿で教えるイエスに「何の権威でこのようなことをするのか」と詰め寄ったときに、イエスのほうから問い返しました。「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」(ルカ20・4)

質問に答えるために彼らは相談します。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」(同20・5-6)このように、宗教指導者たちはヨハネを信じませんでした。

民衆や、その中でも罪人扱いされていた人々はヨハネを信じ、宗教指導者は信じませんでした。その違いは何でしょうか。それは、ヨハネの活動を「神の言葉が降って活動している」と受けとめたかどうかだったのだと思います。神の言葉が、ヨハネを動かしている。そう理解した人たちはヨハネのもとに集まり、悔い改めの洗礼を受けたのです。

神の言葉は、人間に降って歴史の中で働きます。洗礼者ヨハネに降って救い主への準備が始まり、ヨハネを信じた民衆たちも、神の言葉によって悔い改めました。人を救う神の働きが形になるためには、神の言葉が降って、それを受け入れる人がどうしても必要なのです。

教会の中で何かを始めようとするとき、いちばんやっかいだと私が思うことは、「あいつに何ができるのか」という態度や言葉です。はなから計画や人物を「不足」と決めてかかっています。もちろん分からなくもないです。その人の客観的な能力が不足していれば、そう言われても仕方が無いでしょう。

しかし教会の中で求められている働きぶりは、個人の能力とは別に、神の言葉に心を開いてくれる人かどうかということにもかかっています。神の言葉に信頼を置いて取りかかる人には、神の言葉が降って、計画が実現するように力が与えられるのではないでしょうか。

そもそも「あいつに何ができるのか」と言われたら、ふさわしい人などどこにもいないでしょう。神の言葉が降って実を結ぶ場所は、「この仕事は私しかいないでしょ」と言っている人のいる場所ではなく、「私は取るに足りませんが、神の言葉に信頼して取りかかります」と言っている人のいる場所なのです。

神の言葉が降って、神の言葉を受け入れ、信頼して物事に取りかかる。この一連の出来事が、神の計画を前に進める力です。ここに集まる皆が、「心を開いて神の言葉を受け入れます。神の言葉が実を結びますように」と願う共同体になりますように。そうなった時、どんなに難しい計画でも、たとえそれが耐震補強工事でも、実現可能なのです。

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‥次の説教は‥‥
待降節第3主日(ルカ3:10-18)
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ちょっとひとやすみ
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▼洗濯をしている風呂場の脱衣場から悲鳴が上がった。10m以上離れている居間にも響いた。何事かと見に行くと「神父様、毛虫が!」という。指差す先を見ると、確かに「毛虫」のようなものが見える。
▼つまんでみたら実際には毛虫ではなく「毛玉」だった。なぜ毛玉が洗濯物に紛れ込んだのだろう。洗濯物の中身をよく見ていてそれが分かった。冬物の「靴下」から、毛玉がこぼれたのだ。本人にはかわいそうだったが、よくよく見ると靴下の毛虫もなかなかユーモラスである。

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今週の1枚
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第758回目。今年、クリスマスの集いをミサ後にできないので、せめてカードを。

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† 神に感謝 †
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