こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活節第3主日(ルカ24:35-48)私たちも「ここに何か食べ物があるか」と言ってみる

2021-04-17 | Weblog
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(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/4/18(No.1118)
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復活節第3主日(ルカ24:35-48)
私たちも「ここに何か食べ物があるか」と言ってみる
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「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた。」(24・41)イエスが食べ物を願ったことが、今年は特に目に留まりました。いろいろと気付きがありましたので、皆さんと分かち合いたいと思います。

イエスの呼びかけをもっとくだけた言い方にすると「何かない?」ということでしょう。忘れられない思い出があります。当時赴任していた教会はすべての教会学校小学生を集めても五人くらいしかいない時代でした。その中に兄弟がいました。

お兄ちゃんは落ち着きのある子でしたが、弟は反対に何をしでかすか分からない子でした。二人とも自転車で教会に来るのですが、弟は自転車をそのまま放り投げ、教会までの階段を駆け上がります。お兄ちゃんが弟の自転車を立て掛けて弟を追いかけます。

弟が先に、司祭館にたどり着きます。この弟が司祭館の玄関を開けるなり、何と言うと思いますか?「ただいま!」と言うんです。考えられます?当時の賄いが「いらっしゃい」と迎えると、一目散に食堂に行きます。そのあとが傑作です。「賄いさん!何かなか?」

この弟は、「何かない?」と言いながら、司祭館の冷蔵庫をあさくって、めぼしい食べ物やお菓子に勝手に手を出します。賄いさんは孫のような子供達に親切ですが、主任司祭はたまったものじゃありません。こいつらのおかげで接待交際費をそうとう使いました。

「こいつらは自分を誰だと思っているのだろう?」当時はそんな風に考えていました。ここに居るのが当然だと思っているから、「ただいま」と言うし、「何か食べ物ないかな」と言っているのでしょう。確かに当時は、この騒がしい弟と、弟にいつも驚かされる兄がいるのが司祭館の日常でした。

復活したイエスも、呆気にとられている弟子たちに同じ言葉をかけました。「ここに何か食べ物があるか」(24・41)。イエスにとって、弟子たちと共にいること、弟子たちと共に同じ食べ物を食べることは、ごく普通の出来事、いつもの光景だったわけです。

復活したイエスが、ごく普通に弟子たちの前で振る舞われるのを見た時、弟子たちは自然と恐れから解放されました。「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっている」(同上)彼らが、ようやく落ち着きを取り戻したのです。

実際は、十字架上での最後の場面に多くの弟子が立ち会っていません。逃げ出したのです。それでも逃げ出した弟子たちを責めることなく、いつも通り振る舞う復活した主を見て、力不足の弟子たちをいつも包んでくださっていたかつてのことを思い出したのです。

イエス・キリストは今も私たちのそばにいてくださる。弱い自分たちを何事もなかったかのように温かく受け入れてくださっている。その姿を見て、弟子たちはイエスの復活を頭でなく心で理解したのです。心で理解していなければ、出来事は書物に残らなかったことでしょう。

「賄いさん!何かなか?」という子供達を見て、当時は「お前の冷蔵庫じゃなかろうもん」と思っていました。しかしこの子たちは、私に復活したイエス様を見せてくださっていたのかも知れません。80段以上ある階段を走ってきて、司祭館と教会の敷地に飛び込んでくるのを当たり前のこととしている。よその子でそんなことが起こりうるでしょうか?復活したイエスが共におられる子供でなければ、決して起こらないと思います。

さて私たちは、「ここに何か食べ物があるか」という言葉をどう受けとめるでしょうか。今この場で、同じ声が聞こえるでしょうか。もし復活したイエスが「ここに何か食べ物があるか」と問いかけるとしたら、私たちはどう答えるのでしょうか?私たちに、復活した主に食べさせてあげる物を用意できるのでしょうか?

現代は、少し違うと思います。「ここに何か食べ物があるか」と問いかける主ご自身が、食べ物となってくださいます。つまり、「ここに何か食べ物があるか」と呼びかけるイエスご自身が「皆、これを取って食べなさい」と招いてくださるのです。

イエスご自身が食べ物となるのはなぜでしょうか。私たちの生活の「日常」となるためです。冷蔵庫を開ければ食べ物がある。それは私たちの日常です。イエスはご自身が食べ物となって、教会に集まり、ミサを共にささげ、聖体拝領する姿が私たちの「日常」となるために、心を砕いてくださるのです。私たちはイエスから「ここに何か食べ物があるか」と問われたなら、「はい。ここに食べ物があります」と、聖堂に集まり、祭壇を指差す信者でありたいものです。

ただ、もう少しすると、この田平教会聖堂は、耐震補強工事のために閉じられてしまいます。遠い先の話ではありません。それでも私たちは、「ここに何か食べ物があるか」というイエスの問いかけに答える準備をしておかなければなりません。耐震工事の期間中はおそらく信徒会館でしょう。そして工事が完了した暁には、またこの場所を使えるようになるでしょう。

イエスは最後に宣教の使命も託します。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」(24・46-48)。

宣教と言うと、とても重く感じるかも知れません。ただ、これを一言で言うこともできます。出かけて行って、「ここに何か食べ物があるか」と言うのです。そして復活したイエスと同じく、「私が、あなたがたの食べ物となってあげましょう」と言って、教会へと導くのです。私たちはそのために、今日御聖体をいただくのです。

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‥次の説教は‥‥
復活節第4主日(ヨハネ10:11-18)
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ちょっとひとやすみ
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▼教会学校が始まった。ゆるしの秘跡を全体でおこなった。各クラスで習うことは違うが、「基本的な祈り」を理解すること、「神様を身近に感じる」そういうことを学んで欲しい、そういう始業のあいさつをした。
▼もう一つ、「神父様はふつうの日のミサで手伝ってくれる侍者が足りなくて困っています。眠れなくて、病院に行くかも知れません。こんな神父様を助けるために、ふつうの日に早起きできるお友だちはお家の人と相談して手伝ってください。」と投げかけてみた。
▼するとその場で、たくさんの子供が手を挙げてくれた。「本当に来るの?」と思っているわけだが、これが現実なら、今年度は侍者が多すぎて困るかも知れない。贅沢な悩みである。

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今週の1枚
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第725回目。「ここに何か食べ物があるか。」誇りを持って「はい」と答えよう。

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† 神に感謝 †
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