赤い太陽にキッス! 

旅日記、旬の花をパチリ!
ランチあちこち、スウィーツ大好きも書きます。
そうそう、 朝一番の太陽にキッスも・・・

5.大煙突の見える広場

2014年04月03日 19時48分09秒 | 工場見学
5.大煙突の見える広場

INAXライブミュージアムの象徴的な風景、


大正10年に築かれたレンガ造りに大煙突と土管を焼くためにドイツから輸入された大窯のある建物を

見学する。


大窯の中に入る、耐火煉瓦の表面が釉薬をかけたようにピカピカに輝いている。
現役の時は炎と石炭ガスに覆われていたでしょうが、
今では素敵な空間に様変わりしていた。


窯の上部が見える2階には、明治時代の古い便器が展示されていた。
白地に青の染付で美しい模様が描かれていた。
陶器製の履物も今見ると滑稽にさえ思えますね。

23.鉄砲伝来にまつわる悲しい若狭ものがたり

2014年04月03日 16時42分35秒 | デジカメ旅日記
23.鉄砲伝来にまつわる悲しい若狭ものがたり

鉄砲館の見学を終えてガイドさんが、
バスの中で鉄砲伝来にまつわるこんな悲しい話をしてくれた。



鍛冶工・八板金兵衛清定の娘である若狭は

 父清定が天文12年(1543年)に第14代島主種子島時堯の命によって,
ポルトガル人から購入した鉄砲の国産化に日夜苦心していたが,
鉄砲の銃身の底を塞ぐネジ止め部分の構造がわからずポルトガル人に尋ねた。


ポルトガル人は娘の若狭が嫁になれば教えるという返事であった。


清定にとって国産鉄砲の完成は島主の至上命令であり,また自分の悲願でもあったが,
娘を南蛮人の嫁にすることは実に辛いことであった。

 娘の若狭にとっても当時としては考えも及ばぬことで,
父の仕事の完成との板ばさみになって迷い苦しんだあげく,意を決してポルトガル人の妻となった。

このため清定は秘法を学び取ることができ,こうして種子島銃が完成したのである。

八板家系図に
「女子 若狭 大永7年(1527年)4月15日生まる,
天文12年(1543年)8月牟良叔舎に嫁ぎ蛮国に至る・・・・・・
天文13年蛮船(ポルトガル船)に駕し来たり父子相見る。
数日して若狭大病にて死亡たると詐り,棺槨を当てて殯葬す,
蛮人これを見て涙を流さず」とある。

資料.西之表市の観光豆知識