蕎麦喰らいの日記

蕎麦の食べ歩き、してます。ついでに、日本庭園なども見ます。風流なのが大好きです。

明治神宮御苑  渋谷区

2012-07-17 20:53:32 | 古民家、庭園
この風景はどこでしょう?と質問されて、東京都渋谷区ですね、と答えられる人はそれ程多くないと思う。
実に山深い、森の雰囲気が漂う場所である。




木々を通して、隔雲亭の姿がぼんやりと望める。




梅雨時の、直ぐにも雨が降って来そうな日に訪れた。お目当ては菖蒲田だったが、花の時期を外してしまい、わずかに数本の花が見られるだけであった。


しかし、庭の奥からゴソゴソとタヌキ君が登場。人間をそれ程恐れている風もなく、きっちり写真も撮らせてくれた。


清正井。この庭が、江戸時代に大名の下屋敷だった時代からのもののようだ。
今も、それなりの水量が湧きだしていた。


フランスのブルゴーニュ地方の蔵元から、ワインの樽が寄贈されていた。
これに向かい合う場所には、日本酒の樽が飾られている。やはり、国を開いた天皇に相応しいように、西洋物も一流が集められているようだ。


松よし  南魚沼郡大崎

2012-07-14 22:20:27 | 蕎麦
この大崎地区は、六日町周辺で別格の舌の肥えた地域だと感じている。


いつ行っても美味しい蕎麦が食べられる信頼性の高い松よしさんだが、お店を改装して以来、お品書きの幅も広がったようだ。今年は、夏場限定の変わり汁の蕎麦が出るようだが、まずは歴史ある鴨せいろを試してみた。
いつもと変わらず、太目の力強い蕎麦。受け止めるのは、いつもの出汁にさらに鴨の味が加わる鴨汁。これは、蕎麦の正道ではないとか、やるなら秋が深まった頃がよいのではなど、ご意見をいただけそうな一品。


しかし、鴨汁の圧倒的な旨さが、とりあえず食べたい、という思考に直結する。脂分が多く熱容量が大きいせいか、汁はいつまでも熱々の状態を」保つ。つける蕎麦から来る水分など、ものの数には入らないようだ。


せいろとして、冷たい汁といただけば、それそれで最高だろう。
今回、新しい発見として、切り海苔と鴨汁の相性が素晴しかったことが挙げられる。
いつもの癖で、始めは海苔を邪険に扱ってしまったが、その後、暖かい鴨汁、蕎麦、海苔の組み合わせの素晴しさを理解することができた。


一二三  越後湯沢

2012-07-12 21:15:24 | 日本料理
冬場は大賑わいの一二三さんだが、夏場のこの日は閑散としていた。


いきなり、鶴齢の純米で始める。
つきだしも旨いが、冷えた日本酒は格別である。




続いて冬場のメニューのようなアンキモに、自家製塩辛。
どちらも、素晴らしく美味しい。カウンターを独占しているので、余計な情報が入らず、つまみに専念できる。


続いて小アジの唐揚げ。
実にリーゾナブルなお値段だが、鮮度は真剣によい。
それも揚げたての熱々が素晴らしかった。お酒は、おかわりが、どんどん進む。


締めは、少し迷ったが梅茶漬けとした。
出汁が十分に効いて、満足した。


石泉荘  新発田市

2012-07-11 22:44:37 | 古民家、庭園
石泉荘は新発田川を庭の中に取り込んだ屋敷である。今日でも、それなりの流れが庭の中を流れていく。


池のように見えるが、新発田川は結構な勢いで流れている。水面に浮いた枯れ枝がどんどん流れていく。


離れとともに有形文化財登録された茶室は、新発田川左岸にある。昨年までは、右岸の離れ周辺までしか公開されていなかったので、初めて姿を拝見する事が出来た。




同じく左岸にある母屋の前にある茶庭が何とも素晴らしい。ただし、この庭は公開されていないので、順路をたどる間に横目で眺める程度となる。


新発田川の中の島へかかる石橋と、有形文化財登録された離れ。




振り返れば、見事な石組を伴う滝。この滝は、水量も、下降距離もそれなりの規模があり、離れ座敷からずっとその水音を聞くことが出来る。


中の島から、母屋へは別の石橋を渡ることになる。






この離れは、この一帯が花町となった時代に花菱なる料亭として使われていたが、明治37年の火災で焼失。この建物が移築されたとの事。その後、石崎家の所有となる。
庭園や離れは公開はされているが、昼食などの弁当をいただく事が前提になっているようだ。それがないのが、特別公開日のようで、新発田市の観光ボランティアガイドが主催しているようである。

蕎麦処 天和庵  ふじみ野市

2012-07-10 22:07:46 | 蕎麦
天和庵と書いて「てんなあん」と読む。
よく手入れされた日本庭園がある蕎麦屋さんである。




この庭はご主人の作庭によるという。
端正な蕎麦を、気持ちのいい庭を眺めながらいただくのは実に気持ちがいい。






湯葉の刺身がつく、湯葉とそばの膳を注文した。
蕎麦も風味豊かだが、辛口の汁が実によい。
この汁は、湯葉と合わせても素晴らしい。


デザートにわらび餅がつく。


ご馳走様でした。


清水園(3)  新発田市

2012-07-09 22:22:47 | 古民家、庭園
新発田三代目藩主の宜直は、この地にあった曹洞宗の高徳寺を近郊に移し、下屋敷を造営した。四代目藩主重雄は、幕府茶道方であった縣宗知をを招いて、庭園を築いた。


新発田川にも近く水が豊かだったこの地に、17世紀半ばに池を中心とした庭園が作庭された、という訳である。




廃藩置県により藩主の溝口家の手を離れ、荒れてしまっていた庭を1953年から5年がかりで修理・復元したのが柏崎出身の庭師、田中泰阿弥である。


書院に一番近い桐庵は、ちょっとくたびれた感じがする。しかし、茶室の場合、それこそがいい味を出しているのかも知れず、侮れない。




池に張り出した夕佳亭。内部はもちろん立ち入れないが、高い位置にある窓からカメラでのぞいてみた。茶を喫すにも良い水は欠かせない。池庭にも豊かな水が必要である。その両者が直接に出会った感じがする。


石と水との接点と言うと、州浜に石橋ではないだろう。この庭には、工夫を凝らした多数の石橋が配置されている。今回、訪れてその数の多さに驚いた。




州浜の先の、池が入り組んでいる辺りは実に見どころが多く、たった数メートル移動しただけでもまるで違う風景が展開する。ぐるぐると、何度も同じような所をめぐってしまう。






池の一番奥の所に、この池の主な水源となる滝が築かれている。そこにも深山幽谷ともいうべき景色が配置され、見事な石橋が渡されている。
しかし、この場所には流れに十分に匹敵する見事な勢いの石が配されている。


石橋の向こうには腰かけ待合。池から、そり出す石にも深い味わいを感じる。




茶室の同仁斎(なんと足利家のものと同じ名前)で、お茶をいただいた。汗をかいた後にはありがたかった。その隣はやはり茶室の松月亭。


関洋軒  新発田市中央町

2012-07-07 21:22:45 | 洋食
新発田の町には市役所と地方裁判所の裏手の、夜を中心とする街がある。今は中央町という地名だが、少し前までは新町と呼ばれていたようだ。


夜の繁華街の一面を持ちながら、相当に建築年代の古そうな建物も残されている、なかなか見られない街の姿だと思う。


その歴史ある街の一画に関洋軒さんがある。明治20年創業の老舗の洋食屋さん。看板から見るに、牛肉関係が得意分野のようだ。


その伝統の味を味わってみたくなり、タンシチューのセットを注文した。
タンは見事に煮込まれ、ソースと良く調和する。一番右の一枚のみ、煮込みたてのようだったが、それ以外はナイフが自然に肉を分ける柔らかさ。
つぎ足してきたソースの味は、実にまったりとしている。ランチタイムにいただいたが、これで1500円は非常にお得だ。煮込みに大変な手間がかかっている筈なのだが。


洋食のお店の隣が、そもそもの牛肉を明治に食べさせたお店なのだろう。
次回は、夜に訪れてみたい。


五十公前公園 あやめ園  新発田市

2012-07-06 22:46:25 | 自然
五十公前と書いて、いじみと読むようだ。日本の地名、人名は本当に難しい。
五十公前という地名は新発田市の東側、羽越本線の先に相当に大きく広がる。なにしろ、城跡まで場所を特定できるようである。
現在の市内に城を築いた新発田氏とは対照的だが、姻戚関係で繋がっていて、特に下剋上の対立関係あった訳ではなさそうだ。


現在の五十公前公園は、平和な家族連れが多く訪れる施設のようだ。
しかし敷地は広大で、升潟という結構大きな池もある。おそらく、灌漑施設として造られたのだろう。
あやめ園はそのさらに奥にある。その昔の中越は一面このような湿地で、水田を造ることが出来ず、生産性が非常に低かったのだろう。それを明治に入ってからの灌漑事業で、驚くほどに新田開発がなされ、豪農を輩出したのだと思う。








あやめは300種類、6万本に及ぶという。それぞれの種類にデリケートな味わいがあるのだろうが、それを識別する程の目も知識もない。




あやめ園の周辺の環境もとても素晴らしく、あやめとともに楽しむことが出来た。



旧県知事公舎記念館  新発田市

2012-07-04 21:55:46 | 古民家、庭園
五十公野御茶屋の広大な敷地に、新潟県の知事の旧公舎が移築されていた。現存する公舎としては最古のものである。


明治42年の建築である。洋館の公邸と、和館の私邸からなる。
昭和63年に公舎を新築することとなったが、それを移築したのがこの建物である。
洋館はほぼオリジナルの状態を保つが、和館は損傷が大きく、一部の建材がそのまま使われているが、基本的には建て直されたという。


第一応接室。おそらく会議室を兼ねたのだろう。
早稲田の大熊講堂の奥の貴賓室を思い起こさせる造りである。


第二応接室。こちらの方が、より格が上の感じである。移築されたのが昭和63年だから、田中元首相が当時の県知事とそれなりに重みをある会話を交わされたこともあるのだろうと勝手に想像する。


私邸部分の和館であるが、廊下は他に見た事もないほど広く、そこに沢山のソファーが置かれて、打ち合わせなど盛んに行われていたという。
私邸といえども、実際は公の場であったようだ。
使われている材も、選りすぐりのものである。


五十公野御茶屋  新発田市

2012-07-03 22:51:10 | 古民家、庭園
初代新発田藩主である溝口秀勝は、新発田入封の際に、この地に仮住居を構え、新発田城を築城したと伝えられる。
その後、三代目の宜直が、この地に新しく別邸を構えた。17世紀半ばのことである。そこまでは、軍事的な意味合いが必然だった場所のように思える。
四代目の重勝の視点はまるで違う。この場所を茶寮とした。そのために遠州流の茶人縣宗知を招き、庭を造った。


縣宗知の庭は、未だ整備されていない。その時代から残された手がかりを頼りに手入れをすれば、おそらく清水園と変わらないレベルの庭園をみる事ができそうだ。
しかし平成11年前後の修復では、庭に関してはほとんど手を付けられなかったように推察する。

広々とした敷地の他に誰も駐車していない場所にクルマを停め、小道を歩む。池の向こうに、新発田藩の茶道への思いを込めた別邸が見え隠れする。




夏座敷は、庭の自然によく溶け込んだ姿。座敷の名の通り、上客を通す場所のようだが、ひんやりとした風が通る。
脇の控えの間の方が、格式ばって見える。




座敷から拝見する池や、年代物の松の姿は実に素晴らしい。
縁側の板の通し方が、実はちょっと違和感を感じた。






屋敷は平成11年に修復工事が行われた。
それにしては、茅葺の屋根に草が入り込み、いい感じに時代が付いた姿を見せてくれる。