蕎麦喰らいの日記

蕎麦の食べ歩き、してます。ついでに、日本庭園なども見ます。風流なのが大好きです。

福井こぼれ話(1)

2007-05-31 18:54:27 | 日本料理
福井の旅に拍車がかかり、最終的に敦賀にまで行ってしまったので、鯖江の町を後にする頃には、福井は夕暮れになっていた。さあ、ここから数百キロ、と気合いをいれても道程は少しも短くならない。


せめても、空腹で走り回るのだけは止めようと、富山よりは大分手前のサービスエリアで小休止。売店を覗くと、白えびの入った押し寿司は、これが最後の一つ。即、ゲットした。


なるほど。白えびのシーズンを生かした工夫のお寿司です。しかも、押し寿司なので、関東から訪問した人にはちょっと嬉しい。


このシーズンならではのようです。


文京区  新江戸川公園

2007-05-30 18:45:00 | 古民家、庭園
護国寺から神田川までは、護国寺への参道として江戸時代から栄えたのだろう。江戸の地図にもちゃんと記載がある。しかし、神田川沿いから早稲田にかけては、大正年間でさえも、キツネが出たという田舎びた場所だったらしい。その神田川沿いには、江戸川公園があり、桜の名所である。


さらに、進むと細川家の屋敷跡を利用した新江戸川公園がある。


こちらは文京区の管理のようだが、やはり樹木が茂りすぎに感じられる。きれいに刈ってやれば、水辺にはもっと多くの石組みが見られるのではないかと思われる。




甘泉園に較べて、きっちり存在を主張するポイントが少ないように感じたが、松の風格は流石。それなりに古いものなのだろう。




天気のよい日で、カメが甲羅干しをしていた。

カレー三昧

2007-05-28 22:24:08 | エスニック料理
毎年、五月末には暑くなるのだが、今年はちょっと湿度も高く、頭がフラフラする感じで暑い。となると、誰しも思い浮かべるのはカレー。それも、濃いヤツ。


まずはベースとなる(と思い込んでます)クミンの香りを油に移し、タマネギ炒め開始。タマネギ4個で、小ぶりな鍋は、満杯になる。そういえば、10年位前は、タマネギ10個は炒めてた。ちょっと、ひたむきでした。


これ、相当に炒めて体積が減ってるの分りますかね。


30分以上炒め続けると、こんな感じ。ぐっと濃縮する。
そこへ、トマトを投入。その後も、しつこく中火で煮続ける。油が表面に出てくるようになれば、カレーベースは完成。


あとは、どんな具に、どんなスパイスでいくか、一瞬の思いつきでも、やれます。
このキーマには、ターメリックを多目にしてみた


カレーの味は、ちょっとした加減で結構かわってしまう。基本はひとつなのだが・・・。右上は、最もオーソドックスなチキンカレー。その左がキーマカレー。その下はマトンカレー。それぞれ、主張があり、製作者も、びっくりした。


こちらはチキンカレー。ナンとの相性も、実によかった。

新宿区  甘泉園

2007-05-27 18:22:42 | 古民家、庭園
甘泉園は、もともとは徳川家(といっても沢山あるうちの一つ)の下屋敷であったのだが、家屋は失われ現在は庭園だけが残っている。


管理は新宿区が行っているのだが、この季節としては、樹木が茂りすぎで、見通しが利きにくくなっているきらいがある。


日本庭園としては、わりに旨く出来ているというか、数歩ごとに新しい景観が開け、流石だなと感じさせられるのだが、茂りすぎた樹木のために何かピントが甘くなっているような印象を受けた。




ただ、茂りすぎぐらいになっているために、周りのビルの目隠しの役目はよく果たしている感じである。都心だというのに、非常に静かで、のんびりとしている。




控え目ながら、菖蒲も咲いていて、初夏らしい味をだしている。


親子連れの後ろには、カモのような水鳥が水の上を散歩していた。


地獄そば

2007-05-26 16:51:12 | 蕎麦
福井を旅して以来、越前おろし蕎麦が頭に張り付いてしまった。あの活き活きとした蕎麦を、辛味の効いたおろしと、ネギ、花鰹で食べたい。しかし、東京近辺で越前スタイルのお蕎麦を出しているお店はそう多くわなく、あっという間にいき尽くしてしまいそうだ。それでは、いささか能がないので、冷たいおろしがけ系の蕎麦を出すお店を訪ねることにした。
蕎麦食べ歩きの本で(表面的に)調べる限り、鳥取から青森にかけての地域で、冷たいおろしがけ蕎麦を出す感じである。廻船の航路ともだいたい一致して頷ける。ただし、新潟だけはへぎそば王国であり、外れている。なぜ、そうなったのかは調べてみればそれなりの事情が分りそうな気もするが・・・。


それで、伺ったのは新宿区地蔵横丁の「生粉打ち亭」さん。こちらのお店は「江戸そば」「田舎そば」「津軽そば」の3種類の蕎麦を出す。注文した津軽そばは、一度伝統が途絶えてしまったものを、こちらのご主人が復活させたもの。呉汁を使い、かなりプリプリとした食感がある。細打ちなのに、ダラけていない感じがする。


地獄そばは、辛味大根と花鰹でいただくもの。ネギは入らない。おろしと甘みの少ない汁が、よく合う。やはり、冷たいおろしがけというのは、日本海側共通の食べ方として広く受け入れられているような感じがする。それが大ブレイクする、なんて事態は有り得ないのだろうか。


ごちそうさまでした。

横浜中華街  安記

2007-05-25 22:48:48 | 中華料理
安記さんは、本来は粥店である。ところが、最初に訪れたときには焼きソバなどをいただいてしまい、粥は食べていない。たまたま、横浜で仕事が終わり、よってみることにした。


まずは、レバ皿で一杯。レバーは上質なもので、臭みなどまるでない。白髪ネギともよく合う。一人用前菜としては、やや多いのだが、レバーは久しぶりだったこともあり、美味しくいただいた。


レバーがあまりにも美味しかったので、巻揚げも頼むことにした。一人では多すぎるのではと、店の人が「ハーフ」にしますか、と聞いてくれた。とても、ありがたかった。


もちろん、飲み物も追加した。紹興酒、常温でと注文したら「じゃあ、グラスでいいですね。」当然、これでOK。




お酒もつまみも、クリアして、いよいよお粥。とても温かい味。スープが効いてる。やはり、粥店だけある。呑んだ後の体にも、いかにも優しい感じがする。


ごちそうさまでした。

早稲田界隈建物散歩

2007-05-24 21:43:16 | お散歩
よく晴れて、歩くと汗がにじむような日の午前中、早稲田大学周辺を散歩した。自分の足で歩いてみると、実に様々な建築様式で建てられた建物がある事が、はっきりと分る。日本人は世界中の様々なものを食べると言われるが、建物の様式についても同じような印象を受ける。


大隈講堂は、基本的にはゴシック様式。それも、17世紀以降のゴシック リバイバルの様式といえるだろう。そういえば、日本の古い大学の校舎はゴシック形式が多く、古典主義様式のものを思い出すことができない。


演劇博物館は、英国のティンバー フレームド スタイル。この、木の柱に漆喰塗りの壁という造りは、信州あたりの古民家とも通じるものがあり、日本人には親しみやすかったのかもしれない。ちなみに、村上春樹は、学生時代にここで映画のシナリオを読みふけった、という。


大学付近の商店街の蕎麦屋さん。マンションの1階を増築したのだが、植え込みを設けるとか、瓦屋根を回すとか、建築とは言えないなりに、蕎麦屋らしい意匠作りが巧みに成されている。もちろん、中華料理屋さんがここにお店を構えたら、それはそれなりに工夫したでしょうが。


正門通りに面して、和風の住宅も残っている。母屋だけでなく、蔵も昔のままに見える。昭和の始め頃の建物だろうか。


こちらは結構有名な建物で、早大の理工学部の先生の設計だったと記憶している。こうしてみると、構造となる鉄骨などの近代的要素が前面に見えてしまう感じだ。
この建物をどう評価するかは、意見の分かれるところだろう。

アマトリーチェ風スパゲッティ

2007-05-23 18:36:53 | 男の料理
ニンニクはミジン切りに、タマネギは薄切りに、ベーコンは角切りにして、オリーブオイルでよく炒める。


タマネギがキツネ色になったら、トマトを投入。ゆっくり煮込んでいく。


途中で赤唐辛子を入れる(量は好みで)。




パルミジャーノチーズをおろし、スパゲティが茹ったら、完成。赤唐辛子のピリッとした辛味がポイント。温かいうちに、食べてしまおう。


パスタが一食としても充分なボリュームなので、肉料理は軽くした。マッシュルームは、4つに切っておく。
鶏肉は、皮の面からゆっくり火を通す。両面に火が通ったら、マッシュルームをあわせる。
最後に、バジリコを振りレモンを絞る。


主にマッシュルームから出たソースが、フランスパンにもよく合う。

新宿  渡邊

2007-05-22 18:21:19 | 蕎麦
福井はとても居心地がよく、なんだかすっかり馴染んでしまったが、休みの日には限りがある。
今日は、仕事の合間に新宿で蕎麦を食べる。こちらは細打ちの江戸流。福井の蕎麦に較べると、なんだか淡白に感じられてしまう。




しかし、喉越しはそれなりにいいし、なんといっても新宿でお店を出して、一枚550円は立派だと思う。


西口の、ビルの谷間にある。

河野村  右近家

2007-05-21 23:09:57 | 古民家、庭園
日本海の廻船の歴史は、平安後期にまで遡るようだが、江戸中期には大阪と蝦夷地を結ぶ不定期な廻船(北前船と呼ばれる)事業が成立していたらしい。河野の村は、北前船の船主たちが多く住み繁栄していたそうだが、その中でも右近家は、最盛期には30数艘の廻船を所有し、幕末には日本海五大船主の一人に数えられたという。




屋敷の規模は壮大で、材も贅沢なものを廻船で運んで使っているが、本館の内部には貴重な資料も展示されており、撮影禁止。


海沿いの平地は限られた広さしかないが、中々の茶室まである。

右近家は先をみる目をもっていたようで、明治二十年代には蒸気船を導入し、風任せの海運から一歩を踏み出している。その一隻の福井丸は、日露戦争で徴用され、旅順港の入口を閉鎖するため作戦として自爆沈没させられている。その作戦時に二名の犠牲者を出し、戦前には英雄としての扱いを受けたようだが、大事な商船を徴用された挙句、自沈というのでは、右近家にとっては複雑な想いがあったのではないだろうか。

また、明治二十九年には海上保険業に進出し、「日本海上保険株式会社」を設立した。




右近家は、船舶の輸入などもあって、海外の事情にも精通していたのではないかと思われる。昭和10年に、本館の裏山にスペイン風別館を建てている。




裏山の傾斜は急で、登るのはひと仕事。しかし、別荘は当時としては、非常にしゃれた造りである。




テラスからの眺めは素晴らしいが、おそらく全ての建築資材は人が担ぎ上げたものと、思われる。大変な手間だったと思う。