お店は清澄通りに面してはいるが、間口は狭い。
六軒長屋の一軒だそうで、カウンターだけのお店だ。
見ているといささか狭い感じのカウンターで、ご主人と奥さんがきりもりするのだが、揚げたてを味わいに行く楽しさが素晴らしい。
天ぷらは、カウンター前の棚に置かれたバットに盛られる。その熱々を即座に食べるのが、よい(さもないと、全部を揚げきりのいいバットで受けることができない)。右方面の穴子は小ぶりだが、一口噛むと香りが口中に広がる。
左手はきすか。海老の味の濃さ、堪らない。
右手奥は烏賊。きれいに薄く切られて、とても柔らかい。右手前は2ラウンド目の海老。中央はシシトウ。
結構贅沢な種を使って、天ぷら盛り合わせ800円。
天ぷらのお店なので、どうしても脂じみた感じにはなる。そんな事を微塵も気にしないで、熱々をほうばるのが相応しい。
六軒長屋の一軒だそうで、カウンターだけのお店だ。
見ているといささか狭い感じのカウンターで、ご主人と奥さんがきりもりするのだが、揚げたてを味わいに行く楽しさが素晴らしい。
天ぷらは、カウンター前の棚に置かれたバットに盛られる。その熱々を即座に食べるのが、よい(さもないと、全部を揚げきりのいいバットで受けることができない)。右方面の穴子は小ぶりだが、一口噛むと香りが口中に広がる。
左手はきすか。海老の味の濃さ、堪らない。
右手奥は烏賊。きれいに薄く切られて、とても柔らかい。右手前は2ラウンド目の海老。中央はシシトウ。
結構贅沢な種を使って、天ぷら盛り合わせ800円。
天ぷらのお店なので、どうしても脂じみた感じにはなる。そんな事を微塵も気にしないで、熱々をほうばるのが相応しい。
秩父、飯能、所沢と埼玉東部は絹織物の集積地であった。幕末には、関東一円で紡がれる絹織物を横浜への地の利のあるこの辺りの商人が売買を仲介し、莫大な富を得たとも聞いたことがある。
その名残を未だに残すのが、飯能織物協同組合の建物ではないだろうか。屋根には「しゃちほこ」のような飾りが載り、半洋式の下見造りのように見える。
しかし、富が集まればそれに目を付ける人々が出てくるのも必然。埼玉東部は、幕末から明治にかけて事件の舞台となってしまう。
飯能駅前から歩いて20分程のこの寺も、戊辰戦争の1コマの飯能戦争で彰義隊の陣地となり、寺は官軍に焼き払われて、その後の復興に70年を要したという。
大変な戦火に合いながら、この庭の基本となる石組はなんとか生き残ったようだ。
昭和9年に再建に着手する前は須佐まじいまでに荒れていたのだろうが、見事なほどに再建されている。
やはり、庭は生き物だから面白いと感じた。
その名残を未だに残すのが、飯能織物協同組合の建物ではないだろうか。屋根には「しゃちほこ」のような飾りが載り、半洋式の下見造りのように見える。
しかし、富が集まればそれに目を付ける人々が出てくるのも必然。埼玉東部は、幕末から明治にかけて事件の舞台となってしまう。
飯能駅前から歩いて20分程のこの寺も、戊辰戦争の1コマの飯能戦争で彰義隊の陣地となり、寺は官軍に焼き払われて、その後の復興に70年を要したという。
大変な戦火に合いながら、この庭の基本となる石組はなんとか生き残ったようだ。
昭和9年に再建に着手する前は須佐まじいまでに荒れていたのだろうが、見事なほどに再建されている。
やはり、庭は生き物だから面白いと感じた。
朝倉文夫は明治16年生まれの彫刻家。明治40年には東京藝術大学を卒業し、大正10年には藝大教授となる。
エリート芸術家なのだが、明治40年にここ谷中に居を構え、それ以降改築に改築を続け、最後の改築は昭和3年に開始して7年間を要したという。
建物は、新アトリエを中心としたコンクリート造りの部分と、その奥の池を過去む数寄屋造りの部分からなる。その昔に訪れた時は、数寄屋部分にまで気安く入れたのだが、現在は耐震強度の問題で数寄屋建築の部分には一切足を踏み入れることができない。
それでも来年春からは、数寄屋部分の補強工事にかかるため、かなり長い(おそらく数年か)にわたり、館は閉館してしまうと聞き、それならば少しだけでも見ておこうと、あわてて見てみる事にした。
館内で撮影できるのは、、アトリエおよびその隣の控えの間から見た中庭と、屋上の庭園のみ。それにしても、彫刻家の作品がディスプレィされている館内で、写真が撮れることが不思議なくらい。アトリエの窓ガラスは大正頃のものと思われる歪みの多いもので、なにやら怪しい影がほの見える。
控えの間の窓は最近のサッシで、ガラスも歪まない。面白味はないが、いささか、庭の写真を少しでもと考える身にはほっとする。
アトリエの脇に書斎があるのだが、まるで図書館のように大変な蔵書で二階までの壁面が埋め尽くされている。その蔵書の背表紙を見るに、朝倉氏は相当に視野の広い知識人でもあったようだ。洋の東西を問わず、価値ある美術書の宝庫と言えるだろう。
その朝倉氏が自邸の改築を記録した「我家吾家物語譚」(未発表)で「アサクリック」なる言葉を使ったという(文脈としては、いろいろな國の建築形式を拝借するからちぐはぐになるのでこれも勝手気儘なアサクリックでゆくか)。手元のPCを使って、wwwサーバーに日記を書いている身としては、なんだかすっかり見通されているような気がしてくる。
エリート芸術家なのだが、明治40年にここ谷中に居を構え、それ以降改築に改築を続け、最後の改築は昭和3年に開始して7年間を要したという。
建物は、新アトリエを中心としたコンクリート造りの部分と、その奥の池を過去む数寄屋造りの部分からなる。その昔に訪れた時は、数寄屋部分にまで気安く入れたのだが、現在は耐震強度の問題で数寄屋建築の部分には一切足を踏み入れることができない。
それでも来年春からは、数寄屋部分の補強工事にかかるため、かなり長い(おそらく数年か)にわたり、館は閉館してしまうと聞き、それならば少しだけでも見ておこうと、あわてて見てみる事にした。
館内で撮影できるのは、、アトリエおよびその隣の控えの間から見た中庭と、屋上の庭園のみ。それにしても、彫刻家の作品がディスプレィされている館内で、写真が撮れることが不思議なくらい。アトリエの窓ガラスは大正頃のものと思われる歪みの多いもので、なにやら怪しい影がほの見える。
控えの間の窓は最近のサッシで、ガラスも歪まない。面白味はないが、いささか、庭の写真を少しでもと考える身にはほっとする。
アトリエの脇に書斎があるのだが、まるで図書館のように大変な蔵書で二階までの壁面が埋め尽くされている。その蔵書の背表紙を見るに、朝倉氏は相当に視野の広い知識人でもあったようだ。洋の東西を問わず、価値ある美術書の宝庫と言えるだろう。
その朝倉氏が自邸の改築を記録した「我家吾家物語譚」(未発表)で「アサクリック」なる言葉を使ったという(文脈としては、いろいろな國の建築形式を拝借するからちぐはぐになるのでこれも勝手気儘なアサクリックでゆくか)。手元のPCを使って、wwwサーバーに日記を書いている身としては、なんだかすっかり見通されているような気がしてくる。
台風の置き土産で、変に湿度の高い時などには、いいかなと思います。
奥信濃で仕入れた大辛コショウです。厚めの肉も中の種も驚くほど刺激が強いです。中辛とは、まるで違う世界です。
コショウは細かく切り、味噌にみりんを加えて炒り固めていきます。今回は、油は使いませんでした。
焦げる直前で火を止めれば、かなり強烈ななめろうの出来上がりです。慣れない方は、慎重に扱われることをお勧めします。
こちらは、茄子の南蛮付けです。ネギは別に焙りました。
南蛮漬けのタレは、醤油に、米酢、それにほんの少々の砂糖とごく少量のタマネギ。茄子は火が通りやすいように切り、油で揚げ、熱いうちにタレに漬けこむ。
味が馴染んだら出来上がり。
見た目では、茄子の方が華があった感じです。それに、コショウは大辛なので誰にでもどうぞという訳にはいかないでしょう。
奥信濃で仕入れた大辛コショウです。厚めの肉も中の種も驚くほど刺激が強いです。中辛とは、まるで違う世界です。
コショウは細かく切り、味噌にみりんを加えて炒り固めていきます。今回は、油は使いませんでした。
焦げる直前で火を止めれば、かなり強烈ななめろうの出来上がりです。慣れない方は、慎重に扱われることをお勧めします。
こちらは、茄子の南蛮付けです。ネギは別に焙りました。
南蛮漬けのタレは、醤油に、米酢、それにほんの少々の砂糖とごく少量のタマネギ。茄子は火が通りやすいように切り、油で揚げ、熱いうちにタレに漬けこむ。
味が馴染んだら出来上がり。
見た目では、茄子の方が華があった感じです。それに、コショウは大辛なので誰にでもどうぞという訳にはいかないでしょう。
前回の日記でご紹介した赤城神社は、19日、20日、21日と祭礼でした。
神社本体が建て替えでシートに包まれている状態なのでどうなることやら、と思って見に行ってみました。
昼前から、着々と準備が進んでいます。建て替え中であるための影響など、なさそうです。
日暮れ時に行ってみれば
結構なにぎわいです。
画面中央やや左手に、お神輿がかろうじて見えます。
境内は大にぎわいです。お祭りの時のこういう屋台の演出って、本当に上手ですね。行くだけでも、気分が高揚します。
先ほどのお神輿が、坂を下っていく姿を、かろうじて見ることができました。
神社に付属する建物が既に取り壊されていたので、屋台の裏側を撮ることができました。これはこれで、ちょっと不思議な空間です。
神社本体が建て替えでシートに包まれている状態なのでどうなることやら、と思って見に行ってみました。
昼前から、着々と準備が進んでいます。建て替え中であるための影響など、なさそうです。
日暮れ時に行ってみれば
結構なにぎわいです。
画面中央やや左手に、お神輿がかろうじて見えます。
境内は大にぎわいです。お祭りの時のこういう屋台の演出って、本当に上手ですね。行くだけでも、気分が高揚します。
先ほどのお神輿が、坂を下っていく姿を、かろうじて見ることができました。
神社に付属する建物が既に取り壊されていたので、屋台の裏側を撮ることができました。これはこれで、ちょっと不思議な空間です。
今日、神楽坂と呼ばれているのは飯田橋から東西線の神楽坂駅にかけての、実際に坂のあるエリアである。
その通り沿いには、有名な毘沙門天と、坂を登りきった辺りの赤城神社がある。
昔、神楽坂と言えば外堀からせいぜい急坂を登りきった毘沙門天あたりだったというが、安政の時代の地図を見れば道筋はずっと先の赤城神社の先まで伸びている。
しかし、赤城神社は直にその道筋には面していない。境内も、近々に立て直しが行われ、この境内の姿は失われるようだ。
実は、赤城神社は神楽坂のメインストリートよりも300年も前の古道に面しているとい話を、どこかで読んだ記憶がある。
これが、その古道のようだ。安政図にも、この右カーブは登場する。
その通り沿いには、有名な毘沙門天と、坂を登りきった辺りの赤城神社がある。
昔、神楽坂と言えば外堀からせいぜい急坂を登りきった毘沙門天あたりだったというが、安政の時代の地図を見れば道筋はずっと先の赤城神社の先まで伸びている。
しかし、赤城神社は直にその道筋には面していない。境内も、近々に立て直しが行われ、この境内の姿は失われるようだ。
実は、赤城神社は神楽坂のメインストリートよりも300年も前の古道に面しているとい話を、どこかで読んだ記憶がある。
これが、その古道のようだ。安政図にも、この右カーブは登場する。