糸魚川は海と山の間のごく狭い平地だが、きちんとした文化を育んだ場所である。
繁華街ではなく住宅地の中にあるお店なのだが、随分早い時間帯から賑わっている。
生ビールを注文すれば、お通しは南蛮海老の脳味噌である。確かに、にぎりには脳味噌は付けないのでそれなりの数が溜るのかもしれない。ともかく、味の塊である。
上にぎりは、なかでも白物がちゃんと主張するのだが、トロも堪らなく旨かったようだ。
それが、地物にぎりとなると、世界が一変する。あくまでも白。新潟らしい白身の鮨が、旨さを語って離さない。
左から4種類、鯛づくし。まだい、めだい、石だい、まとうだい。
甘エビから始まって左に、こち、生たこ、バイ貝。
それに白エビ(これって富山湾で捕れるすごく美味しいやつのよう)、夏が旬のキス、玉子焼き。
上にぎりには、泣かせのパリッとした海苔の巻物が出る。
あまりの美味しさに、アワビにサザエを追加した。期待通り、味が深かった。
繁華街ではなく住宅地の中にあるお店なのだが、随分早い時間帯から賑わっている。
生ビールを注文すれば、お通しは南蛮海老の脳味噌である。確かに、にぎりには脳味噌は付けないのでそれなりの数が溜るのかもしれない。ともかく、味の塊である。
上にぎりは、なかでも白物がちゃんと主張するのだが、トロも堪らなく旨かったようだ。
それが、地物にぎりとなると、世界が一変する。あくまでも白。新潟らしい白身の鮨が、旨さを語って離さない。
左から4種類、鯛づくし。まだい、めだい、石だい、まとうだい。
甘エビから始まって左に、こち、生たこ、バイ貝。
それに白エビ(これって富山湾で捕れるすごく美味しいやつのよう)、夏が旬のキス、玉子焼き。
上にぎりには、泣かせのパリッとした海苔の巻物が出る。
あまりの美味しさに、アワビにサザエを追加した。期待通り、味が深かった。
軽井沢は高原型別荘地として明治10年代後半から開かれたが、三笠ホテルの開業はそれより大分後の事となった。
三笠ホテルの設計は、アメリカで建築を学んだ岡田時太郎の手になる。
確かに建築のスケールは大きいのだが、周囲の環境と建物に違和感を感じてしまうのは私のひねくれた感想なのだろうか。
こういう窓の大きい建物は、数百エイカーも広がりのある草地の丘の上に建つのがふさわしいように思う。これほどに、緑が豊かで樹木が押し寄せてくるような環境にはいささかそぐわないような気もする。
当然、この建物としても日本庭園に置かれる石造りの五重塔のような八角堂や、ゲーブルを合理的に支えるブラケットなど、それらしい見どころはある。
イギリスのマナーハウスなどと比べると、日本人の建物・庭園設計は、建物のすぐ近くに自然に近い形の緑を求めるところが強いように感じられる。
イギリスの例としては、チャーチル卿の生れたブレニアム宮は周囲何百メートルも遮るものが無い所にそびえている。
こんな事は、所詮欧米のコンテキストで建築を評価できない日本人にとって、居心地のよい空間を提供するとなれば定まってくる事かもしれないが、一方日本庭園のようなものを自然に理解する日本人の血と言うのも結構濃いものだなと感心した。
三笠ホテルの設計は、アメリカで建築を学んだ岡田時太郎の手になる。
確かに建築のスケールは大きいのだが、周囲の環境と建物に違和感を感じてしまうのは私のひねくれた感想なのだろうか。
こういう窓の大きい建物は、数百エイカーも広がりのある草地の丘の上に建つのがふさわしいように思う。これほどに、緑が豊かで樹木が押し寄せてくるような環境にはいささかそぐわないような気もする。
当然、この建物としても日本庭園に置かれる石造りの五重塔のような八角堂や、ゲーブルを合理的に支えるブラケットなど、それらしい見どころはある。
イギリスのマナーハウスなどと比べると、日本人の建物・庭園設計は、建物のすぐ近くに自然に近い形の緑を求めるところが強いように感じられる。
イギリスの例としては、チャーチル卿の生れたブレニアム宮は周囲何百メートルも遮るものが無い所にそびえている。
こんな事は、所詮欧米のコンテキストで建築を評価できない日本人にとって、居心地のよい空間を提供するとなれば定まってくる事かもしれないが、一方日本庭園のようなものを自然に理解する日本人の血と言うのも結構濃いものだなと感心した。
旧雨宮邸の広々とした敷地の一画に、近衛文麿の別荘が移築されている。それが市村記念館である。
建物は、軽井沢の別荘建築の主流となったあめりか屋の建築の日本人第一号となったようだ。
壁面にサイディングを使い、基礎の化粧に玉石を使うというあめりか屋の様式に忠実である。
この建物がなぜ市村記念館と呼ばれるかと言うと、雨宮敬次郎の甥の市村今朝蔵が昭和7年にこの建物を購入し、南軽井沢の学者村の拠点として南原に移築したからである。その後、平成9年にこの場所に再移築されたのである。つまりこの建物は、大正の初期に近衛文麿の別荘として(おそらく旧軽井沢ゴルフ場付近に)建てられ、昭和7年に市村今朝蔵により南原に移築され市村家別荘として60年以上使用され、平成9年に現在の旧雨宮邸の敷地に移築されたという訳である。
漆喰の仕上げや、窓の内側に設置した網戸など、なかなか力が入っているし、実用性も十分に考えられた造りのようだ。
近衛別荘が建てられた当時、外国人の別荘は極めて質素で(宣教師が多かったから当然そうならざるを得なかった?)、日本人の別荘は非常に贅沢だったと言われるが、この建物を見ると頷ける。
建物は、軽井沢の別荘建築の主流となったあめりか屋の建築の日本人第一号となったようだ。
壁面にサイディングを使い、基礎の化粧に玉石を使うというあめりか屋の様式に忠実である。
この建物がなぜ市村記念館と呼ばれるかと言うと、雨宮敬次郎の甥の市村今朝蔵が昭和7年にこの建物を購入し、南軽井沢の学者村の拠点として南原に移築したからである。その後、平成9年にこの場所に再移築されたのである。つまりこの建物は、大正の初期に近衛文麿の別荘として(おそらく旧軽井沢ゴルフ場付近に)建てられ、昭和7年に市村今朝蔵により南原に移築され市村家別荘として60年以上使用され、平成9年に現在の旧雨宮邸の敷地に移築されたという訳である。
漆喰の仕上げや、窓の内側に設置した網戸など、なかなか力が入っているし、実用性も十分に考えられた造りのようだ。
近衛別荘が建てられた当時、外国人の別荘は極めて質素で(宣教師が多かったから当然そうならざるを得なかった?)、日本人の別荘は非常に贅沢だったと言われるが、この建物を見ると頷ける。
南軽井沢の別荘地の中の小道、南原の通りが国道(18号線)に突き当たる辺りに、別荘地には実にそぐわない門構えがあるのをずっと昔から不思議に思ってきた。
なにしろ別荘地というのは、簡素な様式を良しとし、気の置けない関係の人物とだけ、普通では考えられないようにラフに親しく付き合おう、というのが暗黙のルールではないか。それを門構えとこられては、わざわざ洒落たところをまるで無視されたような感じになるというものだろう。
ところが、門をくぐれば彼方に堂々たる日本建築が見えてくる。これはかなり本気で気を入れた造りとみた。
実は、この地はいわゆる欧米風高原別荘文化(明治19年にまさに軽井沢で始まったとされる)よりも前に、一面の草原で荒野とも言うべき状態だった軽井沢を開墾しようと試みた雨宮敬次郎の邸宅なのだ。
雨宮敬次郎は山梨の名主の家の次男に生れ、様々な事業を立ち上げ、最終的に明治期の鉄道王として名を成した人物である。彼は軽井沢の南側の広大な土地を明治政府からの払い下げを受け、ワインの生産なども夢見て開墾を試みるが、それはことごとく失敗した。ただ、落葉松林の植林で失敗の全てをまかなったようである。
「日本別荘史ノート」安島博幸・十代田朗著(住まいの図書館出版局)をみると、本来は草原で今ほほどは湿気の少なかった軽井沢を落葉樹の林で覆ってしまったのは「野沢組」の責任が大きいように書かれているが、どうやら雨宮の植林事業もそれなりに加担しているように感じられる。
この日は中で展覧会が行われており、そのためなのか内部の写真が撮れなかったのが残念である。
なにしろ、この新座敷には螺旋階段まであり、実に興味深い。
なにしろ別荘地というのは、簡素な様式を良しとし、気の置けない関係の人物とだけ、普通では考えられないようにラフに親しく付き合おう、というのが暗黙のルールではないか。それを門構えとこられては、わざわざ洒落たところをまるで無視されたような感じになるというものだろう。
ところが、門をくぐれば彼方に堂々たる日本建築が見えてくる。これはかなり本気で気を入れた造りとみた。
実は、この地はいわゆる欧米風高原別荘文化(明治19年にまさに軽井沢で始まったとされる)よりも前に、一面の草原で荒野とも言うべき状態だった軽井沢を開墾しようと試みた雨宮敬次郎の邸宅なのだ。
雨宮敬次郎は山梨の名主の家の次男に生れ、様々な事業を立ち上げ、最終的に明治期の鉄道王として名を成した人物である。彼は軽井沢の南側の広大な土地を明治政府からの払い下げを受け、ワインの生産なども夢見て開墾を試みるが、それはことごとく失敗した。ただ、落葉松林の植林で失敗の全てをまかなったようである。
「日本別荘史ノート」安島博幸・十代田朗著(住まいの図書館出版局)をみると、本来は草原で今ほほどは湿気の少なかった軽井沢を落葉樹の林で覆ってしまったのは「野沢組」の責任が大きいように書かれているが、どうやら雨宮の植林事業もそれなりに加担しているように感じられる。
この日は中で展覧会が行われており、そのためなのか内部の写真が撮れなかったのが残念である。
なにしろ、この新座敷には螺旋階段まであり、実に興味深い。