被災地にわが身をおく ―福島を歩いて―
町が消えている。田も畑も原野に戻っている。歩いても歩いても人っ子ひとりいない。あるのは、イノシシなどの野生の生き物の足跡だけ。除染土を詰め込んだフレコンバックの黒いかたまりやグリーンのシートで覆った異様なかたまりが、怪物のように横たわっている。民家があったであろう所には、住む人ありし日、育てていたあじさいやグラジオラス、金魚草の花たちだけがけなげに咲いている。前方にあの東電の原子力発電所の鉄塔が異様に白く光っている。(自分たちの暮らしの電気は東北電力から供給されているのに、なぜ東電にわが命も暮らしも奪われるのか!)
モニタリングでの放射線の数値は0・418マイクロシーベルト。待てよと地面の数値を測定すると、なんと5・41マイクロシーベルト。放射能を浴びた風を受けながら、原野に立ち尽くしていた。
■こみ上げる怒り
これまでたくさん東北の大震災の本も写真も映像も見てきた。話も聞いてきた。ここ現地に立って、この空気、この景色の中に身を置いて初めて、身体中に沸いてくるこの怒り、悔しさ、言葉にならぬ思いは何なのか。
この国は、福島県一つくらいつぶれようが人が死のうが知ったことではない。原発がメルトダウンした時から、東京でオリンピックをと決まっていたという。首相のアンダーコントロールの言葉で体が震えた。
詩人アーサー・ビナードに言わせたら「『アンダーコントロール』というのは、放射能は大丈夫、コントロールしていますからではなく、日本人というのは、これだけ人類史上かつてない事件に出遭っても抵抗しない国民ですから、ちゃんとコントロール下に置いていますから大丈夫という言葉だったのです」と言うではないか。
そこからかつてメインストリートだったところへ足を運んだ。2軒だけ店が開いている。ガソリンスタンドだ。「おかえりなさい、がんばろう」の大きな字が飛び込んできた。3月に避難解除されたが、帰ってきたのはわずか1%。
この放射能で汚れまくった町に、どうして帰って来れるのか、そこでがんばれと言うのか。また怒りがこみ上げてくる。
「いい町 いい旅 いこいの村 福島なみえ町」の看板も目にとまった。心が痛い。いい町、いこいの村を破壊したのは誰だ。
「おいしい飯館牛をどうぞ」。その肉牛たちも被ばくし「最後の乳をしぼった時は涙が出たよ」と言って、乳牛を残して村を去った酪農家の人たち。
学校教育も原発協力に利用されてきた。「原子力明るい未来のエネルギー」「原子力正しいりかいでゆたかなくらし」。こんな標語を書かされ「原子力の日」という作文まで書かされた。その子どもたちの姿も消えた。
浪江中学校の今年の入学生は、たった一人だ。そりゃあ、甲状腺ガンの疑いが190人というではないか。(当局は、因果関係は不明と言っている)。そんな町で子どもは生きられない。(その子どもたちが避難先でまたいじめにあっている)。
こんな話も聞いた。優秀な工業高校の1番から10番までの成績のよい子は、東電への就職が約束されていたという。そして、喜びいさんで東電に就職していった若者たちは、この東電のおかげでわが町も人も殺され奪われ、今地獄の苦しみを味わっているというではないか。
私たちは、今日もごく当たり前の日常を忙しく生きている。6年前に東北に大震災があって、津波と放射能で大変だったよね、とふと思い出す程度で。
この国は、人類史上かつてない大事故で後始末も人間の手に負えずあたふたとだけしているのに、原発再稼働、そして外国に高いお金で原発を売る商売をしていて平然としている。オリンピックでみな忘れましょ、だ。日本の事故の教訓から原発をきっぱりやめた国の知性とこの国の知性とはどこが違うのか。
しかし、この浪江町の漁民で、原発に最後まで反対し闘ってきた方の話を聞いた。村八分にあい、「お前が海で遭難してもオレたちは助けない」とまで漁業組合から宣告されたが、節を曲げず、命がけで今日まで生きてきたと静かに語っていた。
そうだ! この国にも原発をつくらせない、持ち込ませないと闘った地域、人たちがいる。いや、今もいる。そこから何をどう学び、自分に何ができるか改めて考えさせられている。双葉町のひまわり畑に希望をもらって、帰路についた。
(とさ・いくこ和歌山大学講師)