まいど、日本機関紙出版です。

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節米報国ポスター[群馬県]

2012年02月04日 | 戦時下のポスター、反戦抵抗[実物資料]

米・麦・パン・麺類の配給統制組合が共同で作ったポスター。

1939年夏、西日本や朝鮮、台湾の日照りで米は大幅な減収となった。翌年5月、東京では外米6割混入の米が配給され、8月には食堂などの米食が統制された。

1941年4月、生活必需物資統制令が公布され、6大都市で米穀配給通帳制・外食券制が実施された。戦場にある兵士や米作農家の苦労をしのんで米一粒たりとも無駄にすなとの呼びかけである。

果てしない兵力増強で働き手は次々に軍隊に召集され、都市も農村も疲弊していった。泥沼のような戦争への不満は厳しい統制のもとでも消すことはできず、1939年の労働争議参加人員は約12万8千人、うちストライキには約7万人が参加した。1940年には砂糖、マッチが切符制になった。

戦争も行き詰まった1945年、「朝日新聞」(6月18日)は「食料資源の活用」「こうして食えば工夫次第で材料は無尽蔵」という見出しで、「鼠、よく消毒して食用とする」という記事をはじめ、落花生の殻、梅やびわの種、籾殻、茶殻、いなご、バッタ、モグラ、蛇などの食べ方を紹介している。そして最後に「いろんなものを食って大東亜戦争を勝ち抜く体力と気力を養え」と読者に説教をしている。

 

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戸毎に日の丸手に債権ステッカー[大蔵省]

2012年02月04日 | 戦時下のポスター、反戦抵抗[実物資料]

大蔵省が日本勧業銀行に作らせたもの。1938年(昭和13)5月、「交隣相助、共同防衛」の名で作られた隣組で各戸に配られ、家の柱に貼り付けて貯蓄の意識化をはかった。

同年の大蔵省貯蓄奨励局のパンフレットには「戦費の…大部分は国債による…がその消化資金は…貯蓄にまつの外ない」とのべ、その年の国家予算約80億円、臨時軍事費約48・5億円に対して、国民貯蓄目標80億円を国民に「強制」している。

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銘酒「梅ヶ谷」カラーポスター

2012年01月11日 | 戦時下のポスター、反戦抵抗[実物資料]

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1941年(昭和16)年には「生活必需物資統制令」が公布され、酒類の販売も統制された。

正月のしめ飾りの絵・「戦捷の春」の表現は、1937年(昭和12)年の南京占領を受けた38年の正月か、広東、武漢三鎮攻略を記念した39年の正月に向けた宣伝ポスターだと思われる。

南京占領で日本の内地はお祭り騒ぎになった。しかし「聖戦」の実態を暴露した虐殺事件は日本国内には秘匿されたが、世界に伝えられ憤激が巻き起こり中国人民の抗戦の意志はいっそう固まった。

南京占領までに日本軍は約1万8千人の戦死者と約5万2千人の負傷者を出し、国内では働き盛りの男子が続々と戦地に狩り出され、働き手を失った家庭や工場・農村は、困窮の度合いを深めていった。

(大きさA2半裁大、『平和を築くとき』解説ブックより)

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国民精神総動員ポスター [郵政省]

2012年01月09日 | 戦時下のポスター、反戦抵抗[実物資料]

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1937年(昭和12)7月7日の「支那事変」開始の後、郵政省が作成。「国民精神総動員」を戦費捻出の口実として、直ちには引き出せない積立型の「簡易保険」や「郵便年金」を呼びかけた。

「国民精神総動員運動」は八紘一宇、挙国一致、堅忍持久などのスローガンとともに、消費節約、貯蓄奨励、生活改善など反論しにくいかたちで、国民に戦争協力を押しつけた。

1939年(昭和14)9月からは毎月1日を「興亜記念日」と称し、梅干し1つの「日の丸弁当」を強制したり、パーマネントの禁止、国民服やもんぺ着用強制など国民統制が進んだ。

(大きさB2大、『平和を築くとき』解説ブックより)

 

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支那事変国債売出ポスター[大蔵省]

2012年01月05日 | 戦時下のポスター、反戦抵抗[実物資料]

1938年(昭和13)年頃の発行と思われる。

戦争には、庶民には予想がつかない巨額のカネが必要だ。税金だけでは足りない。公債(国債)という名で国が借金をした。

「支那事変」は1937年(昭和12)7月7日夜、北京郊外の廬溝橋で日本軍と中国軍が衝突した事件が発端で、これを全面戦争に拡大していったのが近衛内閣だった。11日には停戦協定が成立したが、近衛内閣は3個師団派兵も華北派兵を決め、この戦争を「北支事変」と呼んだ。

中国人民の抗日姿勢は固く、9月には国共合作が成立した。日本軍は上海に釘付けされながらも辛うじて戦線を確保、こうして天皇が宣戦を布告しないまま、中国との全面戦争に突入していった。

7月と9月の臨時議会は、政友会・民政党・社会大衆党の賛成で25億円を超える巨額の臨時軍事費を追加予算で(公債発行)承認した。

(大きさB2大、『平和伝える』解説ブックより)

 

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子ども行進カラーポスター[つちやたび株式会社]

2012年01月04日 | 戦時下のポスター、反戦抵抗[実物資料]

「つちやたび」は1873年(明治6)創業の足袋(たび)の老舗で、現在の月星化成株式会社の前身にあたる。

 1931年(昭和6)に「つちやたび株式会社」となり、1939年(昭和14)年に月星化成株式会社(本社・久留米市)に名称変更した。

 このポスターは、昭和6年~7年頃のものとされる。「ムーンスター(月星)」という靴の宣伝ポスターだが、兵隊服に進軍ラッパ、日の丸の旗を子どもに持たせる絵柄は、当時の世相をよく反映している。

 久留米市は筑紫平野にある城下町で、商工業の中心として栄えた。1907年(明治40)に第18師団設置後は、軍都としても発達。1922年(大正11)にはじめられた地下足袋生産はゴム靴、ズック靴、タイヤなど製造工業に発展し、月星化成、ブリジストンなどの創業により、日本一のゴム工業都市となった。

 月星化成では、大正末期頃に建てられた皇室接待用の建物(約20坪)を現在、歴史資料館として保存活用しており、当時の地下足袋や靴、宣伝ポスターなど数百点を入れ替え展示している。希望すれば館内を案内してくれる大きさA1大、『平和を築くとき』解説ブックより)

 

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