まいど、日本機関紙出版です。

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コラム「潮流」、インボイス、理事会忘年会

2023年12月14日 | 坂手崇保の〈大阪の戦争遺跡を歩く〉 

12月12日(火)

朝から各紙報道に検察の本気度を感じながら、まあわが身は何もできないのでその奮闘ぶりを期待するしかないのだが・・・とあれこれ思いながらの出勤。

「しんぶん赤旗」を見るとコラムの「潮流」に上脇さんのことが書かれて本も紹介されていた。ありがたいことだ。書いてある内容に「本当にそうだなあ」と強く頷く。

本日もメールとFAXチェックで仕事を立ち上げていく。

出庫はAmazonと日販分。

終ってインボイスに伴う納品書の再交付作業。まったく作業が増えてしまい困ったものだ。

書店へ更新した上脇さん関係書の案内チラシを送付していく。よろしくお願いいたします。

ふと気が付くと、広告出稿をし忘れていた。急遽、原稿を作成してデータ屋さんへ送付となる。

退社前に印税支払いを2件分の書類を片付けておく。今月もなんとか、支払ができてほっとする。

 

12月13日(水)

今朝はちょっと寝坊して遅めの起床。時間がズレてしまったので電車内は混雑模様という本日の出勤。

まずは年調関係の書類の起票と提出作業。計算が面倒で結構時間がかかる。

さて、メールとFAXチェックで仕事を立ち上げていく。

まずは夕方の理事会向けの報告文書を作成。

出庫は~Amazon、楽天、通販ほか。

年末ということもあり、請求書の発送を各方面へ。買掛金の心当たりのある方はよろしくお願いいたします。

理事会の後は忘年会へ。近所のよく行くお店に入っていく。水曜日で少人数ということで、予約なしで席に着けたのでありがたい。まずはお店自慢の餃子とビールで乾杯となる。ぼそぼそとあれこれの話をしながら2時間余りを過ごしていった。

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大阪の戦争遺跡を歩く⑨〈北区〉大阪大空襲の凄まじさを伝える長柄橋南詰めの慰霊碑

2023年06月29日 | 坂手崇保の〈大阪の戦争遺跡を歩く〉 

約400人が死亡した長柄橋

 大阪大空襲の凄まじさを伝える代表的モニュメントの1つが長柄橋南詰めの慰霊碑だ。1945年(昭和20)6月7日、大阪市東北部を中心に第3次大阪大空襲に見舞われた。米軍資料によると409機のB29と138機のP51ムスタングによる空襲だった。1万人近い死傷者と6万戸の被災家屋を出し、20万人を超える人々が家を失った。爆撃と火災からのがれるため大勢の人が淀川河川敷へ避難した。当時は大きなビルもなく、長柄橋の下は恰好の避難場所だった。

長柄橋南詰めにある空襲慰霊碑

 ところがそこに1トン爆弾が投下され、橋の半幅が落橋。さらに激しい機銃掃射があり、約400人が死亡した。橋脚に残された弾痕は、戦後も「目に見える」戦争の傷跡として貴重なものだった。
 新しい橋に造りなおすことになり、81年9月「旧長柄橋の空襲跡の保存を求める連絡会」が結成され「少なくとも橋脚の現状保存の方途を講じた上に、弾痕の由来を記した説明板を立てること」を求めて大阪市土木局や近畿地建大阪事務所、大阪市議会などに陳情していた。市の土木局は「治水上、現地保存できない」として、1m四方のコンクリート塊だけが「生き証人」として慰霊の観音像の隣りに移し替えられた。また、一番近い豊崎中学校の校庭にも保存され、被爆50年の95年8月、その橋脚片に銘板がつけられた。

慰霊碑の横に弾痕がある橋脚の一部が移設されている

 豊崎西公園の時計塔の銘鈑には「昭和20年6月、このあたりは第2次世界大戦により焦土と化しました。焼跡の瓦礫の中で昭和21年9月、明日へのまちづくりを目指して大淀地区復興土地区画整理事業が起されました…」と記されている。公園北側の大阪市営住宅の東側には、ひっそりと「豊崎第六尋常高等小学校跡地」の碑が建てられている。空襲で小学校は全焼し再建されることなく廃校となった。

豊崎西公園の時計塔の銘鈑「甦るわが街」には「昭和20年6月、この辺りは第2次世界大戦により焦土と化しました。…」と記されている


豊崎第六尋常高等小学校跡地の碑


豊崎中学校の校庭にある旧長良橋橋脚の弾痕、銘板には「アメリカのB29やグラマン約250機が来襲。逃げ場を失って旧長良橋下に避難してきた人々に、直撃弾をあびせた。400人近い市民が重なりあって死んだ」と記されている

空襲を生き延びた銀杏の大木

 天五中崎通商店街にあるカラト金物店の床下には、今も防空壕が残っている。焼け残った古い家にはたいてい防空壕があったというが、現在は貴重なものだ。

カラト金物店に残っている防空壕

 街中を車で走っていると「なんで?」と不思議に思う光景がある。北区の神山の交差点を南へ野崎公園の西側あたり、西天満までの間にイチョウの大木があり、それを避けるように道路が左右に分かれている。よく見ると「龍王大神」と書かれた祠や朱色の鳥居もあり、これが神社であることがわかる。「大融寺」とも書かれているとおり、かつてはこのあたり一帯が大融寺の敷地だった。戦災復興の区画整理や道路拡幅で伐採しようとしたが、工事に従事した人たちがことごとく変死して伐採は中止され、ヘビの神様である龍王大神をまつるようになったという。昔から「巳さん」と親しまれ、イチョウは空襲で焼けたものの再び息を吹き返し、今も健在だ。

空襲で焼けた「龍王大神」のイチョウ

 たくさんの人が訪れるお初天神(露天神社、北区曾根崎2丁目)にも戦争の傷跡がある。本殿の前の一対の石柱のどちらにも弾痕がある。一時期、柱に説明文が貼られ「米軍グラマン戦闘機による機銃掃射弾丸跡」と書かれていたが、戦闘機はP51ムスタングという説が有力だ。
 戦時中、戦闘機の機銃掃射に逃げまどい「操縦士の顔が見えるほどだった」という体験を何人もから聞いたことがある。ただし戦闘機の機種まで庶民が知る由もなく、戦闘機はすべて代名詞のように語呂のいい「グラマン」と呼んでいたというのが真相のようだ。

お初天神の石柱に機銃掃射の弾痕がある

天六ゴーストップ事件

 陸軍兵と巡査の喧嘩がきっかけで陸軍と警察の大規模な対立に発展した事件。「ゴーストップ」とは信号機を指している。満州事変後の大陸での戦争中に起こったこの事件は、軍部が法律を超えて動き、政軍関係がきかなくなるきっかけの1つとなった。 
 1933年(昭和8)6月17日、曽根崎署の交通課巡査戸田忠夫は、天神橋筋六丁目交差点の交通整理に当たっていた。戸田は阪急梅田駅前が勤務場所だったが、同僚の病欠でこの日だけ天六に回され、緊張気味で職務に従事していた。往来の人、車とも不慣れのため信号無視が多く、交差点の中央に巡査が立ち、整理しなければならなかった。十丁目筋(天神橋筋商店街)に通じる横断歩道の中央に立ち「さっさと横断しなさい」と呼びかけた。
 そこへ、交差点の北東角電停で堺筋線の市電を待っていた兵士が信号を無視して飛び出し、やってきた市電めがけて駆け寄る。「危ない。こら、止まらんか」戸田は大声を上げて追いかけた。
 兵士は陸軍第四師団歩兵第八聯隊第六中隊所属の中村政一一等兵。厳しい演習を終え、久しぶりに一泊二日の休暇。この日、朝7時半ごろ法円坂の兵営から現在の東淀川区小松の実家に戻り、母親から小遣いを渡され、新世界へ遊びに向かっていた。
 2人のいざこざはエスカレートし、たちまち交番の周りには、「大変やぞ。お巡りと兵隊のけんかや」とやじ馬が殺到する。誰かが大手前の大阪憲兵隊に連絡し、伍長(下士官)がサイドカーで駆けつけ「貴様ら衆人環視の中でなにしとるか」と一喝。中村を引っ張っていき、やじ馬も解散した。午後から交代した戸田は曽根崎署に戻り上司に報告する。「そら、気の毒やったな。お前に落ち度はない」と慰められ、胸をなでおろした。ところがこれが大事件に発展する。
 午後2時15分、難波大阪憲兵隊長名で「あれが軍服を着ている者に対する警察官の態度か」という厳重な抗議が出された。この日、第4師団の井関隆昌参謀長は友ヶ島へ魚釣りへ、曽根崎署の高柳博人署長はお忍びで長良川へ鵜飼い見物へ行って双方不在だったため、話し合いの機会が失われた。第4師団では、井関参謀長を飛び越えて師団長の寺内寿一(寺内正毅大将の息子で短気者として知られていた)の耳に達した。
 警察側は穏便に事態の収拾を図ろうと考えていたが、6月21日には事件の概要が憲兵司令官や陸軍省にまで伝わり、最終的には昭和天皇の耳にまで入ることとなった。寺内は、最初は職責を果たしていない井関に怒りをぶちまけたが、やがて事件そのものを本気で怒り出したという。
 6月22日、井関大佐が「この事件は一兵士と一巡査の事件ではなく、皇軍の威信にかかわる重大な問題である」と声明し、警察に謝罪を要求した。それに対して粟屋仙吉大阪府警察部長も「軍隊が陛下の軍隊なら、警察官も陛下の警察官である。陳謝の必要はない」と発言した。6月24日の第4師団長寺内寿一中将と縣忍大阪府知事の会見も決裂した。
 東京では、問題が軍部と内務省との対立に発展する様相を示す。荒木貞夫陸軍大臣は「陸軍の名誉にかけ、大阪府警察部を謝らせる」と息まいたが、警察を所管する山本達雄内務大臣と松本学内務省警保局長(現在の警察庁長官に相当)は軍部の圧力に抗して一歩も譲らず、謝罪など論外、その兵士こそ逮捕起訴すべきとの意見で一致した。
 内務省は「官庁の中の官庁」といわれる強大な権限を誇り、内務官僚たち矜持は高かった。事件の処理に追われていた高柳署長は疲労で倒れ入院し腎臓結石で急死した。8月24日、事件目撃者の一人であった高田善兵衛が、憲兵と警察の度重なる厳しい事情聴取に耐え切れず、国鉄吹田操車場内で自殺、轢死体となって発見された。
 最終的には、事態を憂慮した昭和天皇の特命により、寺内中将の友人であった白根竹介兵庫県知事が調停に乗り出した。天皇が心配していることを知った陸軍は恐縮し、事件発生から5カ月目にして和解が成立した。
 11月18日、井関参謀長と粟屋大阪府警察部長が共同声明書を発表し、20日に当事者の戸田巡査と中村一等兵が会い、互いに詫びたあと握手して和解した。内容は公表されていないが、警察側が譲歩したというのが定説だ。
 事件の背景には、当時の大阪の政・財界が軍の戦争拡大方針に反対し、非協力的だったことがある。ワシントンの軍縮会議(21年)に従い陸軍部隊の第2次整理が行われた23年、陸軍省は軍縮否定の演説会を大阪で開いた。参謀本部から、後に日本の最後の陸軍大臣となった下村定、満州事変陰謀に加担する建川美次ら若手将校3人が乗り込み「軍縮はおろか、軍拡でもしなければならん時代だ」とぶち上げた。ところが、関西財界を牛耳っていた〝雷親父〟平生釟三郎などは「陸軍がそんな考えを持ってんのんやったら、こら、いよいよ軍拡に反対せないかん」と宣言。演説会が逆効果に終わり、陸軍首脳部は、大阪の第4師団に大物を据えて「意思疎通」を図ろうとする。その2番手として32年、寺内寿一を大阪方面の第四師団長に起用してにらみを利かせた。
参考文献:『実記 百年の大阪』(読売新聞大阪本社社会部、1987年)など

社会福祉のシンボル北市民館

 18年(大正7)に富山県魚津で起こった米騒動が全国を席巻し、大阪では米騒動の収拾のために米廉売資金が集められていた。その残金を府と市で折半したそうで、府では発足したばかりの方面委員制度のために利用し、市では「中産階級以下の娯楽機関として市民館創設資金」27万7千円弱が市に指定寄附されたのを受けて、21年6月に天神橋筋6丁目交差点東側に開設されたのが大阪市立北市民館(当時は市立市民館)だ。
 鉄筋コンクリート4階建てで、地域社会の福祉を図る公設セツルメントとして、初代館長志賀志那人の実践的運営により、大阪市社会事業の拠点となっていた。82年12月31日閉館を迎えるまで62年間にわたって、大阪だけでなく全国の社会福祉界に歴史的シンボルとして存在していた。
 現在は大阪市立住まい情報センターが建ち、8~9階の「大阪くらしの今昔館」がある。1階に大阪市立北市民館の模型が展示されている。

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大阪の戦争遺跡を歩く⑧〈西区2〉占領軍の飛行場だった靭公園

2023年06月14日 | 坂手崇保の〈大阪の戦争遺跡を歩く〉 

 「靭(うつぼ)公園は飛行場だった」―たまにテレビや新聞でも取り上げられるが都市伝説みたいになっているのは、ちゃんとした説明板がないからだ。あちこち探し回ってやっと見つけた。なにわ筋に面した東側の公園のトイレ横に「この公園の整地は飛行場あとを昭和27年度から昭和30年度の失業対策により行われたものである 大阪市」という一文が書いてある小さな碑がある。

占領軍の飛行場だった靭公園


大阪市が建てた碑があるが、もっと詳しい説明板がほしい

 ビジネス街のオアシスとして親しまれている靭公園は、総面積約9・7ha、東西約800m、南北約150mの細長い形をしており、中央を南北に通るなにわ筋によって東園と西園に分かれている。
 西園には16面のテニスコートを備え、国際大会にも利用できる靱テニスセンターがある。東縁は、バラ園や四季に彩られるケヤキ並木が広がっている。
 このあたり一帯は1945年(昭和20)3月13日深夜から14日の第一次大阪大空襲で焼け野原となった。戦前はまだ「なにわ筋」が建設されておらず、現在の靱公園の東園と西園はつながっていた。
 戦後、占領軍は戦前からの南北幹線道路である四つ橋筋―あみだ池筋間において、京町堀川(55年埋立)と海部堀川に挟まれた区域(当時の町名でいう靱北通と靱上通の大半に相当)約3万坪を接収し、占領軍の常用飛行場として靱飛行場を設置した。52年の講和条約発効から2ヶ月後に飛行場敷地は大阪市へ返還され、戦災復興土地区画整理事業によって55年に靱公園が開園した。

空襲で焼け落ちた江之子島の旧府庁

 初代の大阪府庁は今の中央区本町2丁目付近にあった西町奉行所を流用していたが、手狭で1874年(明治7)に西区江之子島に移転した。この二代目の旧府庁舎は、造成寮(現在の財務省造幣局)のイギリス人技師が設計したもので、中央に円形ドームがそびえる白亜の西洋館だった。大阪市民はここを「江之子島政府」と呼んでいた。待合室を「人民控所」と呼び、職員が高圧的な役人風を吹かせていたからだ。世間の俗称とはいえ、地方行政庁舎を「政府」と呼ぶ例は他にはない。現在の大阪城近くの大手前庁舎本館1階に江之子島府庁の模型が展示してある。

 江之子島周辺は府庁舎が移転する大正末期まで官庁街で、大阪初のカフェ「キサラギ」をはじめ大阪初のものや情報が多く生み出されたモダンな街だった。
 1926年(大正15)に大手前に移転してからは、大阪府工業奨励館など別の府施設として使われ、45年3月の大空襲で焼失した。
 96年まで「大阪府立産業技術総合研究所」が置かれていたが、その後は放置され、2011年になってやっとこの庁舎跡の発掘調査が行われ、府文化財センターから調査報告書が刊行されている。
 空き地の地下数メートルに、中央棟と南北両棟の地下のレンガ壁や、花崗(かこう)岩を組み合わせた中央棟の円形ドームの基礎部分(直径約6メートル)、レンガ積みの暖炉などが100年以上前の姿で残っていた。研究者も歴史的価値が高いと評価し、移築保存されることになっている。
 ちなみに大手前にある現在の3代目庁舎は現役の都道府県庁舎として最古のもので、26年(大正15)に竣工している。この頃に建てられた都道府県庁舎はすべて東京の皇居の方角を向いていたという。確かに現府庁は東向きに建てられている。それに対し江之子島府庁は西側の木津川を挟んだ川口居留地の方向を向いていた。居留地などを通じた外国貿易との関係もあり、大阪の発展は西に向かってあると考えられていたからだという。
 現在「江之子島文化芸術創造センター」の前に銘板と、大阪市青年連合団が建立した「明治天皇聖躅旧大阪府庁」の石碑があり、江之子島府庁の跡地であることを伝えている。

「明治天皇聖躅旧大阪府庁」の石碑


「川口居留地跡」の石碑―平安女学院、プール学院、大阪女学院、桃山学院、立教学院、大阪信愛女学院や聖バルナバ病院等はこの地で創設された

 今年2月、安治川沿いの川口2丁目には「大阪開港の地」碑、「大阪税関発祥の地」址、「大阪電信発祥の地」碑が並んで建っている。大阪の歴史を振り返るとき見ておきたい場所だ。

「大阪開港の地」碑、「大阪電信発祥の地」碑などが並んでいる(川口2丁目)

戦争と平和を伝える対照的な碑

 阿波座交差点からほど近い薩摩堀公園(立売堀4丁目2)には「八紘一宇」が刻まれた高さ2mを超える大きな碑がある。碑は国旗掲揚台の一部分だ。1940年は「皇紀2600年」にあたるとされ、町内ごとに記念的なものを造らされた典型だ。

薩摩堀公園にある八紘一宇の碑

 大阪市立図書館の西側にある土佐稲荷神社は、岩崎弥太郎事業を起こした三菱発祥の地とされている。空襲の影響で黒ずんだ石鳥居や石灯篭がある。その南側の土佐公園(北堀江4丁目)の、女神が子どもを抱いている「平和の祈りの像」は西区遺族会が作ったものだ。

土佐稲荷神社の「平和の祈りの像」

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大阪の戦争遺跡を歩く⑦〈西区1〉大空襲の日、地下鉄は動いていた

2023年06月05日 | 坂手崇保の〈大阪の戦争遺跡を歩く〉 

 1945年(昭和20)3月13日深夜から14日未明の第1回大阪大空襲。米軍のB29戦略爆撃機274機が来襲し、照準点は北区扇町、西区阿波座、港区市岡元町、浪速区塩草で、都心部を取り囲む住宅密集地を標的にしていた。死者3987人、行方不明者678人、被災者数50万1578人とされている。
 通常この時間には地下鉄は営業しておらず、駅の扉も開いていないはずだが、心斎橋駅や本町駅、大国町駅に入り、電車に乗って避難したという体験者がいる。
 97年の「毎日新聞」によると、電車に乗った時間帯は午前3―4時頃と始発に近い5時前後に分かれ、「閉鎖されているはずのシャッターが開いていた」(本町駅)などの証言がある。駅員の判断で駅構内に避難させていたと推測された。午前3~4時の電車は心斎橋駅発の臨時で、前夜の空襲警報発令時に運転を打ち切った最終電車の車両を「職員の機転で運転させた可能性が極めて高い」としている。
 また大阪市交通局の労働組合である大阪交通労組の「大交」には「5時過ぎの初発か、初発の前に職員を乗せて走る『お送り電車』ではなかったか」という証言が載っている。
 その後、NHK等テレビもドキュメンタリー番組で取り上げ、非常用物資の移動のために、初電の前に業務用に電車を走らせた可能性があることや、終電後の送電について、深夜に電車が走ったと思われる電流計器の動きがあったという元職員の証言が紹介された。証言や記録から、空襲警報解除後の交通機関に対する救援指令で運行された電車、もしくは初電前の職員輸送用の電車が避難民を発見して輸送したのではないかと推測されたが、確証には至らなかった。
 西区千代崎2丁目には、地下鉄をはじめ大阪都市交通の発祥の地として「大阪市電創業の地」碑がある。1903年(明治36)ここ花園橋西詰から築港埠頭まで、約5kmが運行され、夏は納涼、魚釣り電車でにぎわった。

大阪市電創業の地碑

空襲の激しさ物語る焼け地蔵と地蔵尊

 なぜここが「花園」なのか。現在の松島公園から西中学校(当時は花園国民学校があった)にかけて広大な地域が日本最大の花街・歓楽街の松島遊郭だったからだ。明治初期に川口居留地の繁栄策として営業し、大阪市中に散在していた非公認の遊女を一箇所に集めたらしい。当時は近くに西洋風の大阪府庁舎があり、近代大阪の中心地として賑わい、最盛期には約4000人の女性が働いていた。
 45年3月13、14日の大空襲で松島遊郭は全滅し、大勢の女性が焼け死んだ。
 松島公園には江戸時代の朝鮮通信使の碑があり、公園西側の竹林寺には、1764年この寺で病気で亡くなった通信使の金漢重(キム・ハンジュン)の墓がある。境内の無縁仏の塔の前に空襲で黒焦げになった焼け地蔵が立っている。地蔵堂もつくられたが空襲で焼け落ち、地蔵さんの右手首も取れてしまった。また、竹林寺には大逆事件で処刑された幸徳秋水の墓もあったが、現在は故郷の高知県四万十市に引き取られている。

竹林寺の焼け地蔵

 和光寺(北堀江3丁目)にある和光地蔵尊の碑には次のように記されている。「…昭和二十年三月十三日、大阪を襲いたるB29の大編隊の午后十一時より翌未明に至る迄の波状爆撃は実に凄惨を極め、商都大阪の街は全く焦土と化したり。戦火は斯くおさまり廃墟となりし地上には死屍累々としての惨状名状すべからず、子は親を求め、親は子を探す姿、真にあわれにて目を覆うものあり、むなしく百五十有体は遂に無縁となる。よって地元有志並びに警防団員の献身的な努力により、浪速の名刹 和光寺境内にねんごろに之を葬むる。…」と刻まれている。

「和光地蔵尊」(左奥)と空襲の惨劇を伝える碑(右手前)


 この大空襲で付近は全焼、長堀川にあった死体も含めて警防団が堀江小学校に集めた。遺族の引き取り手を待っていたが、しばらくすると、遺体は腐乱し、野犬に襲われ始めたので、引き取り手のない遺体は、ここに移し荼毘にもふさず、そのまま埋葬したという。

昭和橋に被弾跡くっきり

 北区土佐堀と西区川口を結ぶ、木津川に架かるアーチ型の昭和橋。左右のアーチをつなぐ一番西側のつなぎ材の真ん中あたりが爆弾の直撃を受けて凹んでいる。土佐堀3の交差点の西北角には、戦後焼け跡の安治川を舞台にした宮本輝の小説「泥の河」の文学碑が建てられている。

昭和橋の鉄骨に爆弾が当った痕跡がある


戦後焼け跡の味側に暮らす人々を丁寧に描いた宮本輝の「小説『泥の河』舞台の地」文学碑(土佐堀3交差点北西角)


 旧川口居留地に建つ川口キリスト教会も空襲を受けた。焼夷弾が屋根を突き破って内陣(祭壇)に落ちたが全焼は免れた。周囲の牧師館などは燃えてしまった。

大空襲の被害を受けた川口キリスト教会


 みなと通に面している茨住吉神社には空襲で焼けた楠がご神体として祀られている。境内の銘板に、所有地を処分して参集殿や鳥居門を再建する財源をつくったことが記されている。


茨住吉神社の楠は樹齢600~700年だったが大空襲で焼けてしまった。今もご神体として祀られてい

 本田3丁目の九島院は江戸時代「摂津名所図絵」にも載る有名な寺だったが6月1日と26日の2度の大空襲で完全に破壊された。この寺院で類焼が止まり、付近はかなり助かった。住職が平和を願い、戦艦「陸奥」の一部からつくられた「平和の鐘」を手に入れ所蔵している。戦艦「陸奥」は43年(昭和18)6月8日、広島・呉の沖で大爆発を起こして沈没。27年後の70年に引き上げられた。

大空襲で焼け落ちた九島院に所蔵されている戦艦「陸奥」の一部でつくられた鐘


西区九条南3丁目の歩道上にあった国旗掲揚台。1934年の関西風水害(室戸台風)による高潮浸水高が刻まれた災害記念碑を国旗掲揚台に改造したらしいが、マンション工事の為、2019年に撤去されてしまった。「風水害」と「戦争」の歴史を刻む貴重な碑がなくなってしまった

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大阪の戦争遺跡を歩く⑥〈住之江区〉兵器製造で強制労働を強いられた中国人

2023年05月22日 | 坂手崇保の〈大阪の戦争遺跡を歩く〉 

駆逐艦の「藤永田」

 戦時中の勤労動員の体験談で、何人もの人が「藤永田造船のドックは先が尖っていた」と語っていたのが妙に印象に残っている。大阪市住之江区の地下鉄四つ橋線・北加賀屋駅から西へ約1km、「三井造船」の大きな看板の前に建てられた小さな「藤永田造船所跡地」の碑(99年8月建立)が唯一「藤永田」の名前を今に伝えている。


「藤永田造船跡地」の碑(住之江区柴谷1丁目)

 藤永田造船所は、日本最古の造船所と言われ、日本海軍の艦艇や鉄道車両を製造していた。横須賀市にある浦賀船渠とともに駆逐艦建造が有名で「西の藤永田、東の浦賀」「駆逐艦の藤永田」とも言われていた。
 1689年(元禄2)3月、大坂堂島船大工町に船小屋「兵庫屋」として創業したのが藤永田造船の始まりだという。
 戦前は日本海軍との関係が強く、昭和金融恐慌などの経営危機を乗り切った。敗戦までに駆逐艦だけでも40隻近くを建造した。
 1967年10月、同じ銀行系列の三井造船に吸収合併され、兵庫屋時代を含む278年の歴史に幕を閉じた。
 駆逐艦は先頭が切っ先のように幅が狭くて長い。海の遠くから主砲で戦う戦艦や巡洋艦と違い、小型で機動力に優れた駆逐艦には、敵艦へ突っ込み魚雷を発射して打撃を与え戻ってくるような役割が与えられていた。
 42年8月、海軍が飛行場を建設していたガダルカナル島に米軍が上陸し飛行場を占領、周辺の制空権を握ろうとしていた。島を巡る激しい戦いが陸海で繰り広げられる中、駆逐艦による第ニ水雷戦隊には速度の遅い輸送船にかわり、ガダルカナル島へ増援部隊や物資を運ぶ輸送任務が命じられた。駆逐艦による輸送作戦は夜間に行われ「鼠(ねずみ)輸送」と呼ばれた。最強の駆逐艦部隊第二水雷船隊だったが3500人以上が犠牲となったという。藤永田造船で建造された多くの駆逐艦も海に消えた。物資を絶たれた日本軍は、ガダルカナル島の戦いで死者・行方不明者約2万人強、このうち直接の戦闘での戦死者は約5千人、残り約1万5千人は餓死と戦病死だったと推定されている。太平洋戦争での敗走が決定的になった戦いだった。
 また『大阪と中国人強制連行』(大阪・中国人強制連行をほりおこす会)によると、44年8月に連行された161人(華北労工協会介在)の中国人が藤永田造船で強制労働させられた。出身地は河北省の最南端と河南省の北部に集中している。「同工場には、学徒動員、朝鮮人徴用工、連合軍捕虜も労働に就かされていたが、相互の交流は禁止され宿舎は別だった」という証言がある。

対照的な防空壕と護国神社

 大和川に近い住之江区南加賀屋4-8に加賀屋新田会所跡(加賀屋緑地)がある。江戸時代、加賀屋甚兵衛によって干拓され、1754年にこの会所は建築された。数奇屋風の建物が一部現存し「愉園」と名づけられる大阪名園の一つだ。四阿(あずまや)「明霞亭」(めいかてい)は茶室風の建物で、空襲で焼失。前にある古木は、かつて階上へ上がるために松を削り、階段に使ったものだという。


空襲で焼けた加賀屋新田会所跡の「明霞亭」に残る松の階段

 加賀屋緑地から南へ3本目の通りを西に入ると民家の並びに立派な防空壕が残っている。町内の分会長だった加賀谷保一氏(故人)が、空襲で逃げるのが大変だろうと近くのお年寄りのために造ったと言われている。防空壕が完成したのは終戦の前日だったが、建設中に実際に住民の避難に使われたという。戦後は、身近で戦争の記憶に触れられる貴重な遺跡として残された。


加賀谷家の防空壕(住之江区南加賀屋4丁目17)

 ちなみにこの防空後の隣に人形劇団クラルテの旧アトリエがある。クラルテ(仏語で「光」の意味)は48年、戦争の傷跡も生々しく食料難も続くころ枚方市にある大阪市立高校(現:大阪府立いちりつ高校)の生徒らによって生まれた。60年には「すべての人に真実を貫き、平和と民主主義を守る勇気と希望を与える」劇団として活動する方針を確立した。

大阪の護国神社

 地下鉄住之江公園からすぐの大阪護国神社。日中戦争が本格化した1938年に創建が計画されたが、戦時中の人材難と資材不足で建築が困難となり、40年5月に仮社殿を建築した。国の方針で一府県に一社ずつ設けるという原則で全国的に造られた。すでに東京に靖国神社があったが、地方に住む遺族の参拝の利便性と、「忠君愛国と靖国の思想」を浸透させるためだった。今も戦前の異様な雰囲気を感じさせる。09年に建てられた「特攻勇士に捧ぐ」像は「若者たちが命をかけて崇高な『日本人の心』を実践した」と記し、これを称えている。戦争を美化することへの違和感に、自分の健全性を確認できる場所としたい。


大阪護国神社に建てられた「特攻勇士に捧ぐ」像


大阪護国神社境内に並ぶ慰霊碑

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飲めるごはん~雨の中、福島へ

2023年01月14日 | 坂手崇保の〈大阪の戦争遺跡を歩く〉 

1月13日(金)

ゆっくり目に起きて朝風呂、朝ごはんの後は、相方の運転する車で9時にJA北大阪まで出かけていくつかの諸手続き。最近は何でも自販機で売っている時代とうことで、店内で飲めるごはんなるものも売っていたので1本購入してみる。

10時半、吹田駅まで送ってもらって大阪へ。そして東通り商店街を抜けてデータ屋さんへ支払に立ち寄る。消費税・インボイスの参考資料をもらい、当面のスケジュールを相談して出勤となる。

出庫は通販分のみと少ないが、送料無料付き注文チラシのDM効果があったようで複数冊の購入であった。こういう反応がもっとあればいいのだが。

会議報告文書を作り、返品整理、校正仕事をして会議に出席。一斉地方選挙関係、機関紙協会運動の今後などについて意見交換。

終って雨の中、出版の打合せ&晩ごはんということで福島方面へ出かけ、本日も終了。

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大阪の戦争遺跡を歩く⑤〈福島区〉空襲による延焼を食い止めた「福島の壁」

2022年11月09日 | 坂手崇保の〈大阪の戦争遺跡を歩く〉 

 戦前、野田阪神駅前広場から新橋商店街の半ばあたりまで、陸軍の対空高射砲陣地があった。「出来たのは昭和17、18年頃。大阪では最後に出来たもの。最新鋭の高射砲だった。全部で8門あり、他の所は7千メートルまでしか届かなかったが、ここのは1万メートルまで弾が届く砲だった」という証言もある。
 「ここは元々、借家が立ち並ぶ長屋街で、強制疎開して高射砲陣地が造られた。「空襲で陣地周辺の被害が比較的少なかったのは、B29が上空を避けていたのではないか。此花区から入り、陣地手前で旋回し、西区方面に向かったので、空襲を受けず、古い家が残った」というのだ。

焼けた堂島大橋
 堂島大橋は1927年に建設され、45年3月13日夜11時45分~翌3時ごろB29による大空襲で多数の焼夷弾が付近に落とされた。橋の歩道に敷きつめられていた木煉瓦が長時間燃え、高熱のため橋の欄干や飾り石が黒ずんで残っていた。数千人の戦災者が燃えさかる堂島大橋を渡って逃れ、橋の上で息絶えた人もいたという。
 橋は2018年から2年にわたって改修工事が行われたが、橋のたもとの石造りの「橋飾塔(きょうしょくとう)」はそのまま残され、黒ずんだままの姿を残している。

空襲で焼け黒ずんだ堂島大橋の橋飾塔

野田2丁目の弾痕
JR環状線・野田駅の南側にも古い家が多数残っている。野田2丁目8番~11番が交わる三叉路のまわりの民家の壁面に多数の弾痕が確認できる。同年6月1日、路上に落下した爆弾が破裂し八方に飛び散った。さらに付近の家の中に飛び込んだ破片で2人が死亡している。


まわりの民家の壁面に弾痕がある(野田2丁目8)

JR東海道線ガード下の弾痕
6月7日朝11時~12時、米軍P51による機銃掃射で、ガード下(鷺洲5丁目)に弾痕が残された。このガード下に退避していた人たち3~5人が死んでいたという証言がある。

JR東海道線ガード下の弾痕(鷺洲5丁目)

延焼を食い止めた「福島のカベ」 
淡路島の野島断層保存館に行ったとき、神戸大空襲でも阪神・淡路大震災でも倒れず、焼け残った「神戸の壁」が神戸市長田区から移設、展示されていたのを見たことがある。
 さながら「福島の壁」とでも言えようか。「野田藤」で有名な下福島公園はかつて福島紡績会社があった所だ。公園周辺に当時の遺構が今も残っている。

下福島公園に福島紡績会社のレンガ塀があったが2018年の大阪北部地震や台風21号の影響もあり19年に撤去された

関西大学福島学舎記念碑 関西大学が1905年から22年間この地にあった(福島7丁目17) 

大阪厚生年金病院の北側、福島4丁目3あたりに何やら住宅にはさまれて高さ4メートル以上ありそうなレンガの壁がわずかに姿を見せている。
 45年6月15日の朝9時~11時、B29による空襲で玉川地区からの延焼をこの壁が食い止めた。1909年(明治42)7月31日に起こった「天満焼け」とも「北の大火」とも呼ばれる大火事でも、火勢は福島まで及び、福島紡績の壁で鎮火したと記録されている。
 この煉瓦壁が壊されず残されたのは、2度も火災で役立った感謝と教訓を後世に伝えようという意図なのだろう。

民家に挟まれるようにレンガ塀が残っている


空襲による延焼を防いだ福島紡績会社のレンガ塀

空襲慰霊平和之碑
45年6月26日朝、9時~10時の空襲では海老江に1トン爆弾が5発(うち1発は淀川大橋に)落とされた。2発が海老江8丁目8あたりを直撃し、多数の死傷者が出た。73年5月、地元有志によって慰霊碑が建立された。現在も絶やさず花が手向けられている。

空襲慰霊平和之碑(海老江8丁目8-30)

野田恵比須神社の日露戦争戦勝碑
境内に、1908年(明治41)建立された「明治三十七八戦捷紀念碑」がある。建設趣意書によれば「西野田から290名日露戦争に出征し、戦死したもの14名は既に靖国神社に合祀されているが、郷里に於いてその功績を表彰したい。安治川下流に埋没していた豊大閣大阪築城の残石の石が発見され、そこでこの石を以って記念碑を建立する」と記されている。碑の裏面には戦死者14人の名前が刻まれている。

戦死者14人の名前が刻まれた野田恵比須神社の「明治三十七八戦捷紀念碑」

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大阪の戦跡をたどる④〈東淀川区〉標的になった柴島浄水場 防衛のための高射砲陣地

2022年10月05日 | 坂手崇保の〈大阪の戦争遺跡を歩く〉 

 第二次大戦末期、米軍の空襲では淀川にかかる交通の要所、長良橋と赤川鉄橋とともに柴島(くにじま)浄水場が狙われた。阪急千里線・崇禅寺駅前に浄水場のコンクリート壁面がえぐれた弾痕が保存されている。1945年6月7日の大空襲で浄水場は爆弾、焼夷弾によって沈殿池の一部が破壊、送水ポンプ場の焼失、重要送水管の破壊で市内への送水が不可能となった。


浄水場の駅側壁面の大きな弾痕が保存されている

高射砲陣地があった西淡路
 柴島浄水場や延原兵器工場を守るため、昭和10年頃、現在の西淡路5丁目に高射砲陣地が作られた。砲台と弾薬庫が設置され10人ほどの兵隊が常駐した。

 砲台は半円を描くように6基が並び、2基は92年にマンション建設のため取り壊された。2012年7月に2基が取り壊されて宅地として売りに出された。19年11月に残る2基が撤去されてしまった。現在、砲台跡地で残る建物は指揮所だけだ。


2019年11に撤去された西淡路の高射砲の砲


高射砲陣地指令所の一部が民家の屋根として使われている

長柄橋橋脚の弾痕がモニュメントに
 府立柴島高校は戦後に設立された新設高校だが、戦災を受けた中心に位置する。正門を入った一角に「奪われし者の叫び」の像とその左側に旧長柄橋橋脚の弾痕石によって構成されたモニュメントが設置されている。83年夏、彫刻家金城実先生の指導のもと生徒達自身の手によって創られたものだ。


府立柴島高校の校門には1983年、彫刻家・金城実氏の指導で生徒たちが作った戦災モニュメント「奪われし者の叫び」の像と、空襲で弾痕が残る長柄橋の橋げたも設置してある

大空襲の激しさが刻まれるお寺
 この地域の空襲の激しさがお寺や墓地に深く刻みつけられている。
 天六方面から長柄橋を渡ってすぐ、浄水場に接するように善教寺がある。6月7日の空襲で当時の辻本真純住職は、上本町にあった勤務先の盲唖学校で2日続きの宿直にあたっていた。帰宅すると夫人は機銃掃射を受けて亡くなり、末の娘も負傷していた。寺に収容された妻を含む58人の遺体は火葬して葬られた。狭い境内と墓地に数十個もの焼夷弾の殻が残っていたという。寺の近くに埋葬されていた58人の遺体を13回忌に掘り出し「柴島浜町戦災犠牲者慰霊塔」を建立して改葬し霊を弔っている。


善教寺に建てられた「戦災犠牲者慰霊塔」

 阪急柴島駅前の法華寺は6月15日の空襲で焼夷弾が3発当たり、一瞬にして焼け落ちた。当時10数人の遺体が運び込まれたがまともに見られない悲惨さだったという。古い墓石が赤黒いのは焼けた痕なのか。その異様さに気付くはずだ。


法華寺は6月15日の空襲で焼夷弾3発が命中し全焼、機銃掃射で穴をあけられた六世住職の墓が境内に残っている


 室町幕府の将軍足利義教と細川ガラシャの墓があることで知られる崇禅寺には、大空襲で命を落とした500余人を葬る「戦災犠牲者慰霊塔」がある。びっしりと刻まれた名前が空襲の激しさを物語っている。近代的な建造物が空襲を受けた寺院であることを改めて思い起こさせる。本殿の脇に空襲の焼け瓦でつくられた塀がある。


崇禅寺の墓地に建つ戦災犠牲者慰霊塔


東淀川区戦没者之碑は2005年に建てられた


空襲の焼け瓦でつくられた塀(崇禅寺)

 山口墓地は近郊7つの共同墓地で、6月7日、ここに逃げ込んだ多くの人々が機銃掃射で撃たれ命を落とした。身元不明者は無縁仏として葬られている。
 また、正確には淀川区になるが、浄水場西側の出入口近く、阪急京都線とJR京都線が立体交差する高架に機銃掃射の跡が残っている。


山口墓地には6月7日の空襲時の身元不明者が無縁仏として葬られている


JR京都線高架下に残る機銃掃射の弾痕

 



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大阪の戦争遺を歩く③〈淀川区〉 空襲で奪われた若者の未来 北野高校・弾痕の壁が伝えるもの

2022年09月20日 | 坂手崇保の〈大阪の戦争遺跡を歩く〉 

庭に埋めて「守った」忠魂碑
 阪急・十三駅の東口から商店街を抜けると左に神津神社がある。境内には忠魂碑がありその横の「旧神津村忠魂碑再建之記」には忠魂碑がここに建てられた経緯が書かれている。
 
忠魂碑は日清・日露戦争の凱旋碑で在郷軍人会が主体となって行政区に1つ建立した。「再建之記」によると1921年、旧西成郡神津村役場(現在の神津小学校の横)に建てられた後、村が大阪市へ編入される際、十三公園に移転。敗戦後、占領軍から公共地にある忠魂碑を撤去するよう命じられたため、北浦純一市会議員が自宅に持ち帰り庭に埋めて破壊をまぬかれたという。
 神津神社は45年6月7日の大空襲で社殿を焼失、72年に再建された。忠魂碑は74年11月に現在地に再建された。


神津神社にある忠魂碑

戦災孤児を救済した博愛社
 十三筋を挟んで北側に博愛社の礼拝堂がある。日本で数々の有名建築物を手掛けた建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(終戦後マッカーサーと近衛文麿の仲介工作に尽力した)が手掛けたものだ。
 博愛社は、戦後の混乱期、戦災孤児を救済したことで知られている。1890年クリスチャンだった小橋勝之助と林歌子が現在の相生市に児童保護施設を開設。その後、勝之助亡き後を継いだ弟の実之助が歌子ともに現在の地に博愛社の原型を築いた。実之助の妻カツエは「大阪福祉活動のお母さん」と呼ばれている。


博愛社の創設にかかわった4人の像

街の守護神「平和地蔵」
 東横イン大阪阪急十三駅西口店の前に小さい祠がある。かつてこのあたりに鏡ヶ池があり、明治のころ、幼い子が溺れその母が子を思い地蔵をつくり祈っていた。安産、子育ての守護神として伝わっていたが、太平洋戦争による戦災の焼け跡から掘り起こされ、地元の有志から「平和地蔵」と名付けられまつられている。


平和地蔵(淀川区十三本町1-13)

空襲で全焼した成小路国民学校
 十三筋を隔てて南側に神津小学校(戦時中は国民学校)がある。戦時中、淀川区近辺の子どもたちは箕面へ学童疎開していた。敗戦後の46年、空襲で全焼した成小路(なるしょうじ)国民学校を統合した。十三公園の中に「中津第三尋常小学校(成小路国民学校)記念碑」がある。
 「昭和二十年六月空襲のため校舎は全焼して、昭和二十一年四月神津小に統合」と刻まれている。


空襲で全焼し再建されることのなかった成小路国民学校の碑(十三公園)

学校防衛中に命を奪われた2人
 十三公園の南側が大阪府立北野高校(旧制北野中学)だ。45年3月13日から14日未明にかけての大空襲で、生徒の罹災者129人、死亡1人に及んだ。この年の入試は実施されず志願者393人全員を入学させた。授業はほとんど行われず、生徒たちは軍需工場や食糧増産に動員された。
 6月15日の空襲では、当直で学校防衛中の2年生、中島要昌君と池田彰宏君が死亡、今木伊助君が負傷した。この日の空襲で命を奪われた生徒はこの2人を含め9人にのぼった。6月から8月にかけて小型機による爆撃が続き、そのときの機銃掃射の弾痕が校舎西端の外側に残った。
 86年、図書館の横に62回卒業生によって「殉難之碑」が建立された。その後、教職員・同窓生らの保存要望により機銃掃射を受けた壁面が「メモリアルウォール」としてそのまま保存されている。新入生の校内施設見学の際には、この壁と殉難之碑のことも必ず説明するという。隣接する大阪市立新北野中学校の生徒も毎年見学に来るそうだ。


28個の弾痕がある北野高校のメモリアルウォール、壁面にはコーティングが施され保存されている


「中島要昌、池田彰宏、学校防衛中焼夷弾に斃(たお)れる」と刻まれた殉難之碑



 

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大阪の戦跡を歩く②〈大正区〉 語り継ぐドイツ人捕虜収容所と学童疎開で喪われた16人の命

2022年09月13日 | 坂手崇保の〈大阪の戦争遺跡を歩く〉 

 1883年(明治16)大阪紡績会社が三軒家村で創業し、日清戦争から日露戦争時代にかけて大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれた。その後、他社と合併して世界最大の紡績会社に発展したが、戦争激化とともに軍需工場に転換させられ、1945年(昭和20)3月の大空襲で焼失した。


三軒家公園にある「近代紡績発祥の地」碑

 平尾亥開(ひらおいびらき)公園の東側、木津川沿いに大阪俘虜収容所があった。第一次世界大戦の結果、14年(大正3)中国にいたドイツ兵などの捕虜を収容するために、大正区(当時は西区)に設置され、760人収容していた。敷地面積は8325坪で長屋50棟、独立家屋15棟があった。16年3月には火災で15棟を焼失して広い空き地ができ、収容所内でサッカーの試合が行われていた。17年2月16日、俘虜は似島(広島市南区)に移されて、同19日閉鎖された。このころの捕虜に対する扱いは人道的で、朝夕2回の点呼以外に労働は特になく、読書、絵画、演劇、音楽、テニスやフットボールなどのスポーツを楽しんだという。解放後も日本に永住する者もいて、神戸の洋菓子製造で有名なカール・ユーハイムもその一人だ。大阪衛戍(えいじゅ)病院で没した捕虜2人は真田山の陸軍墓地に埋葬され、今も墓がある。


平尾亥開公園に「大阪俘虜収容所」の説明板がある

 ちなみに大正橋の歩道はピアノの鍵盤とメトロノームを模し、下流側の欄干にはベートーベンの交響曲第9番「歓喜の歌」の楽譜がデザインされ、大正区とドイツとの交流を物語っている。

 本土空襲の危機が迫る44年(昭和19)9月、大阪市立南恩加島国民学校3年生の29人が徳島県美馬郡貞光町(現・つるぎ町)の真光寺に集団学童疎開した。ところが翌45年1月29日午後9時頃、漏電により本堂付近から出火。火災により逃げ遅れた16人の尊い命が奪われた。戦後間もなく16人の霊を慰めようと貞光町の町民や徳島県内の学校関係者が募金を出し合い境内に十六地蔵尊が建立され、46年5月29日に開眼供養が行われた。その後も地域住民により手厚い供養が続けられてきた。南恩加島小学校でも、毎年児童たちが千羽鶴を折り真光寺に届けている。また、母校にも慰霊碑をと6年生が中心となって企画した「十六地蔵モニュメント」の除幕式が2003年1月29日に行われた。モニュメントは高さ45cmの銅鐸で、台座には16人の遺影と名前を刻んだ銅板をはめ、中には当日渡された卒業証書が収められた。

徳島県美馬郡つるぎ町の真光寺にある十六地蔵


南恩加島小学校の十六地蔵モニュメント

 1929年(昭和4)船町の木津川飛行場は未完成のまま開港し、東京や福岡などに就航、近代大阪の玄関口として重要な役割を果たした。しかし元々が軟弱な地盤で、西北方向には農林省の大きな米穀倉庫があり、飛行場がL字型という立地条件や木津川運河を渡し船で渡らなければ飛行場へ行けないという交通の便の悪さなどのため、八尾空港や伊丹空港(当時・大阪第二飛行場)に役割を引き継いだ。中山製鋼所の工場内に当時の格納庫の建物が残っている。


船町に建てられている「木津川飛行場跡」碑

 三軒家東にある八坂神社(上のやさかさん)の境内に「八垂(やたれ)銀杏」という神木がある。三軒家の開発者「中村勘助(木津勘助)」が1610年(慶長15)に大阪港湾の基礎建設の記念として、また無病息災を祈願して植樹したと伝えられている。45年3月13日、14日の空襲で社殿を焼失。イチョウも焼けたがその根元から若木が成長している。勘助の業績を刻む「中村勘助源義久彰徳」碑も空襲で傷つき、修復されて神社の傍らに建っている。

戦災を被った八坂神社の八垂銀杏

「中村勘助源義久彰徳」碑も空襲を受け表面が剥離している

 

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大阪の戦争遺跡を歩く①〈港区〉 一大出征基地の大阪港

2022年09月02日 | 坂手崇保の〈大阪の戦争遺跡を歩く〉 

 大阪市港区は1945年3月13日深夜から14日の未明と6月1日の2回の大空襲で焼き尽くされた。一方で、大阪港は全国各地から兵士、武器弾薬、軍馬、軍事物資などが集結するアジアへの一大出征基地だった。

 37年、盧溝橋事件を機に中国侵略戦争が全面化すると、大桟橋(中央突堤)や住友岸壁、第一、第二、第三突堤から軍隊と武器、物資が大陸に向けて連日船出していった。女性らが出兵を見送り、港区は国防婦人会の発祥地ともなった。

 住友倉庫の屋上には高射砲が置かれ、部隊が駐屯していた。壁には「咲イタ話ニスパイハ踊ル」などの伝単が貼られていた。赤レンガ倉庫群には機銃掃射の跡も残る。


港区私たちと戦争展実行委員会が見つけた住友倉庫にあった張り紙「咲イタ話ニスパイハ躍ル」


住友岸壁の赤レンガ倉庫群

 築港3丁目のあたりは戦時中、陸軍糧秣廠大阪支廠で、豚や鶏を処理し船積みする場所だった。家畜を追悼する「獣魂碑」が建てられ天保山公園に移設されている。


総力戦で家畜も総動員したことを示す「獣魂碑」

 天保山は国土地理院三角点で、かつては日本山岳最低峰(4・53m)だった。山頂に明治天皇観艦記念塔が建っている。2005年10月23日に序幕された日中友好の追悼記念「彰往察来」(過去を明らかにし未来を察する)碑が中国大陸の方角を向いて建つ。大阪で強制労働させられた中国人は1千人以上で港湾荷役などの過酷労働を強いられた。そのうち80人あまりが祖国に帰れず大阪で亡くなった。


大阪中国人強制連行受難者追悼実行委員会が建てた日中友好の碑「彰往察来」

 築港2丁目には大阪俘虜(捕虜)収容所本所があった。後に空襲を受け、福崎に移転する。終戦時、4256人を収容していた。戦後、爆撃機B‐29が最後の作戦として捕虜たちへの食糧補給を行った。地上にPW(連合軍俘虜収容所)と大書させて目印とし、パラシュートで物資を投下した。

 築港1丁目の港住吉神社の大鳥居右横には日露戦争時の艦砲、30㌢砲弾碑。築港南公園には室戸、ジェーン台風の風水害記念碑や金属類回収令で供出されてなくなった軍馬像の台座がある。同1丁目の築港高野山(釈迦院)は戦前、運河の内陸側にあった。宿坊は船出待ちの軍隊の宿舎となり、遺骨の帰還の際には法要が営まれた。


港住吉神社の日露戦争砲弾碑

 6月1日の空襲で焼失し現在の場所に再建された。浪曲発祥碑とともに、淡路島鍛屋沖で潜水訓練死した88人の第70号潜水艦殉難者碑がある。


築港高野山にある潜水艦殉難者碑

【取材・記事/坂手崇保(日本機関紙協会大阪府本部事務局長)。写真・記事の転載禁止】

 

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