まいど、日本機関紙出版です。

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『沈まぬ太陽』の脚本を書いた人

2009年11月11日 | 本屋の窓から

 またまた「沈まぬ太陽」ネタです。今日は吹田市民書房の『市民書房だより』(№187 2009年11月号)のコラム「本屋の窓から」です。

 筆者の尾上さんは元々は映画人です。この「沈まぬ太陽」の脚本について以下のように触れています。

「(この)映画は監督も俳優もよいが、山崎豊子の大長編を纏め上げた西岡琢也の脚本が見事です。

 西岡氏は、シナリオ作家協会の理事長としてかつて、映画『靖国』に自民党靖国派国会議員と右翼が行った上映妨害に対して協会として抗議声明を行いました。

 この映画でも首相側近の元大本営参謀から国見会長が一緒に靖国神社に参拝を誘われ、それに対して国見が『あなたは何のために、誰のために参拝するのか!』と鋭く迫るシーン(原作には無い)があります。ここに氏の硬骨ぶりを見ました。西岡氏は私の長男の友人です」

 確かにこのシーンは原作にはありませんでした。そうか、こういうことも含まれていたのかと、感心してしまいました。脚本って大事なんですね。

 日本航空が社員向けに社内報でこの映画について批判をしていることに関連して、『AERA』が報じています。

 普通このような大作には電通とか博報堂とか、大手テレビ局とかが協力し、また大手企業がスポンサーとして名を連ねているのに、この映画にはそのようなスポンサーが付いていないと。

 逆にそうだからこそ、映画化が実現したのだと思います。日本の映画人よ、ありがとうと言いたいです。

 ちなみに、この映画は角川映画制作です。でも原作は角川書店じゃなくて新潮社です。これに出版取次の日販が協力しているのがなんとも、なるほど、という感じです。

 また、西岡琢也さんは私と同じ大学・学部の2年先輩になる人だったんですね。がんばってほしいです。最近のテレビドラマではNHKの「気骨の判決」を書いています。

 

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灯火稍(ようや)く親しむべく~本屋の窓から⑨

2009年10月10日 | 本屋の窓から

 彼岸も過ぎると、大気は澄み夜も長く読書にふさわしい季節になりました。と思うのは本やだけか。本屋を始めた頃はこの季節になると「マル・エン」や「レーニン」全集、百科辞典などの販売に精出したものです。

 そのころ気前よく買ってもらった方々も、今は故人になられた遺族から「遺品あり、マルエン全集どうにかして」と。

「10年もすれば価値が出る。大事に収めておいて」と応対する。高齢の方は視力が衰えた。年金暮らしで本が買えないとこぼすが、「読書三昧」「晴耕雨読」の境遇、境地になられたらと思う。

「読書三到」という言葉通りを実践している友人がいます。「書物の真意を知るには目でよく見て、口で朗読し、心で会得する」の意。このように1冊の本を熟読玩味する人には感動します。

 著者が精魂込めて書き上げた本を、私たちは幾許かの金銭で入手でき、知識と感動を得ることが出来る。ありがたいことです。

 9月の連休は、本屋にとっては有り難くない。閑古鳥が居座った店のレジは音もしない。といっても休業することも出来ない。

「敬老の日」というのがある。老人を敬い長寿を祝う日なのだそうだが、勝手に「後期高齢者」と区別して「差別」する。「敬老」どころか「軽老」だ。国会で後期高齢者医療制度を撤廃し無料化してもらいたい。

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吹田市民書房にこれからもご支援を!

2009年05月16日 | 本屋の窓から

 以前にも報告しましたが、昨年来心配していた吹田市民書房の行く末問題は、後継者として岡崎栄一郎さんがすでに引き継ぎに入られ少しずつ業務にも慣れて来てはるようです。以下、『市民書房だより』(2009年5月)に掲載されたメッセージ要旨を紹介させてもらいます。

「吹田市民書房の後継者として弟子入りして1ヵ月余りがたちました。午前中は入荷した書籍の確認や陳列、仕分けの仕事に追われ、午後は返品荷造りや配達、夜は集会販売に。また茨木・高槻地域にセールスと毎日忙しく頑張っています。慣れるまで当分かかりますが、しばらくはあたたかく見守ってください。よろしくお願いします」

「1月の茨木市会議員選挙後、今後の生活をどうしようかと考えていたとき、市民書房の後継者の話が持ち込まれました。悩み抜いた末、40年の歴史を持つ書店の後継者としての道を歩むことに決めました。書店の経営は本当に大変ですが、尾上ご夫妻が築いて来られた数少ない民主書店をこれ以上廃業させてはならない、多くの人に民主書店の存在意義を知ってもらい、苦しいけれどやりがいのある仕事に身を投じようと決意しました」

「吹田、茨木、高槻のみなさん、私が働いている姿を見に吹田市民書房にぜひお越しください。民主書籍だけでなく、一般書籍も扱っています。ご注文、どしどしお願いします」

 ということで、微力ではありますが、私のところも大いに応援していきたいと思います。

 

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すいた市民書房、新しい船出へ

2009年04月07日 | 本屋の窓から

 昨年来、心配していたわが地元の民主書店・すいた市民書房の行く末問題が何とか見通しが立ったようです。先日、店主の尾上さんより伺いました。

 今、書店の経営環境は悪化の一途をたどっています。日本書店組合連合会(日書連)の資料によると、1986年に12935店あった加盟店は2007年には5869店に減少、非加盟店と合わせると毎年1000店近い書店が廃業しています。売上げはずっと前年比マイナスか続き、大手書店チェーンを除く中小書店の営業時間は1日10時間以上が78%、定休日なしが41%、経営者の平均年齢70歳以上が22%、経営悪化状態にある店が86%、その悪化の原因としては客数の減少84%、立地環境の悪化40%、新刊・売行良好書の入荷困難30%、新古書店の出店影響28%、万引き被害9%などがあります。小売業種の中では利益率は酒店に次ぐ35位で、従業員給与は36位にあります。

 すいた市民書房もこのようなことがすべて当てはまり、昨年からはいつまで店が持ちこたえるだろうかと、関係者が集まって話し合いながら、何とか存続の道はないものかと模索していた状態にありました。

 そしてもはやこれまでかと思っていたところに、この店を引き継いでやってもらえる後継者が現れたのです。前茨木市議会議員さんの岡崎栄一郎さんです。

 これから1年間ぐらいかけて引き継ぎを行いながら書店業務を把握してもらい、現在休止中にある外商部門を吹田、摂津から茨木、高槻、島本と北摂三島筋の民主団体、労組、学校、保育園、個人などに広げて担当してもらう予定とのことです。

 とは言うものの、簡単に状態がよくなるとはなかなか思えませんが、しかし廃業の危機は何とか避ける見通しができましたので、今後は特に、市民書房を取り巻く人々の協力・支援が大きな力になるものと思います。 

 機関紙出版としても可能な限りの協力をしていきたいと考えています。ぜひ読者のみなさんにも、さまざまな形でのご支援をお願いします。

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2008年、甦る『蟹工船』~本屋の窓から⑥

2008年12月08日 | 本屋の窓から

 ずいぶん久しぶりの「本屋の窓から」です。テーマは今年出版界最大の話題となった『蟹工船』です。この「本屋の窓」のオッちゃん、実は昔映画の仕事をしていた方です。だから今回は映画『蟹工船』のことが出てきます!

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 年末商戦と言葉あれど、零細業者はそのおこぼれにもありつけない。書店仲間は「痩せ犬のゴミ箱漁りよ」と自嘲する。先日、週刊誌1冊買ってくださいました見知らぬご婦人が囁かれました。「おじいちゃん、2万円の給付金、ありがたいね。出さたのは○○党よ。選挙よろしくね」。

 今年は『蟹工船』ブームが起こりました。市民書房でもボランティアの協力を得て、新潮文庫版を400部あまり売り、総部数は150万部を超えました。角川文庫も復刊。新潮社は「蟹工船、朗読若山弦蔵CD」とコミック版を発売。新日本出版社も「小林多喜二全集」を復刊。河出書房新社が「小林多喜二名作選」。そしてなんと主婦の友社がプロレタリア文学代表作『太陽のない街』(徳永直)を出しました。来年1月に岩波新書で『小林多喜二――21世紀をどう読むか』が出ます。幸徳秋水・堺利彦の古典『共産党宣言』がアルファベータ社から。ドイツでも金融危機を反映して『資本論』が急激に売れ出しています。16の大学で『資本論』講座。学生がその難解さに音をあげているのは、洋の東西同じみたいです。潮目の変わりを感じます。

 今年私は、映画『蟹工船』の話を各所でさせてもらいました。北星映画株式会社に在職していた時の1953年、現代ぷろだくしょん製作の『蟹工船』の配給業務につきました。当時、東宝争議やGHQ指示のレッドパージで映画会社を追われた映画人たちは、いくつもの独立プロダクションを作り、反戦・平和・民主の優れた作品を次々と生み出しました。

 現代プロから『蟹工船』の企画が持ち込まれた時、北星映画の幹部には危ぶむ声が強くありました。苛酷な労働を描く暗い集団劇で、海上ロケなど製作費(3千万円)もかかる。果たしてペイできるか? 当時、北星の独立プロへの配給最低保障は1200万円~1500万円。現代プロ社長の山村聡は、自ら脚本、監督、出演と製作費を抑え、3千万円を調達してきました。彼は『蟹工船』は「自らの映画人としての生き方を世に問うものである」と述べています。この並々ならぬ決意を北星は受け止めました。

 山村聡は、戦前では珍しい東大文学部出身で新派の俳優になりました。井上正夫演劇道場です。座には、杉本良吉、岡田嘉子がいました。戦後、山村の映画初出演は東宝の反戦映画『命ある限り』です。山村はこの映画から教示を受け、以後自分で納得できるものしか出演しませんでした。東宝争議では組合を支持し、山田典吾(製作者、東宝パージ)に請われて現代ぷろだくしょん社長に就任しました。『蟹工船』はヒットし、チェコ・カルロビバリ国際映画祭で監督賞を受賞。山村は以後監督としても5本演出し力量を見せました。

 今年映画は55年ぶりに甦りました。『蟹工船』のDVDの件で昔の東京本社の仲間に出会えました。彼は現代プロの映画版権の管理をしていました。

 今年もあとわずか。何とか年越せねばと老馬老羊、運ぶ荷を求めて冬空の下駆けています。

 

 

 

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『母べえ』の時代と野上家の戦後〈後半〉~本屋の窓から⑤

2008年02月20日 | 本屋の窓から

 ■妹は敗戦、入党、そして映画の世界へ
 野上照代の新刊『蜥蜴(とかげ)の尻っぽ』の自筆年表を見ると、彼女は敗戦の年の暮れ、再建となった日本共産党本部の勤務員として、宣伝ビラのガリ版印刷に従事。翌年入党、人民新聞社に移動。そこで、いわさきちひろに出会う(『しんぶn赤旗』1月17日、松本善明氏の「映画、母べえと治安維持法」掲載)。
 その後、出版社に移り、作家の井伏鱒二を知る。映画監督伊丹万作とは戦時中から文通があり、長男の伊丹岳彦の世話を頼まれて京都へ。大映に入り黒沢明の『羅生門』に参加、以後黒沢組の記録者になる。


 ■父、母、姉の戦後
 姉の初恵(映画では初子)は、共産党中央委員黒木重徳と結婚。黒木は治安維持法で投獄されたが屈せず、非転向を貫き敗戦2ヵ月後に府中刑務所を出獄。戦後初の総選挙に立候補。立会演説会中、心臓麻痺で急死(1946年3月16日42歳)。この選挙で日本共産党は5名当選、213万5757票。
 父、巌は1938年(昭和13)検挙されて入獄。1940年(昭和15)転向署名して保釈。映画ではこの年に検挙されている。ドイツ語力を買われてドイツ大使館に嘱託として職を得た。敗戦後、日本共産党に入党、日本教員組合創立に参加、日本民主主義科学者協会幹事、国民救援会で活動。杉並区長選に立候補、1954年(昭和29)神戸大学講師。3年後に教授、この年死去。戦前杉並区で古本屋「大衆書房」を経営、小林多喜二もよく利用していました。
 母、綾子(映画は佳代=吉永小百合)は戦前、西部消費組合に属し、「大衆書房」を経営しながら弾圧犠牲者の救援、慰問、特に保釈中の中国人学生の世話などに献身した。1954年(昭和29)1月、肺結核で死去。51歳。夫婦ともに青山霊園の「無名戦士の墓」に合葬されています。巌は「社会運動思想史」を新日本出版社より出版(藤田廣登『小林多喜二とその盟友たち』から)。


 ■「倒れし人こそ良心の灯であった」
 治安維持法で検挙され、特高・憲兵たちによる虐殺死、拷問死、あるいは獄死、病死したものは判明しているだけで1682人。逮捕者は数十万人。送検されたものは75681人。予防拘束、勾留者は数百万人。「このことは専制政治の無慈悲な野蛮さとともに、平和と民主主義を求めた日本国民の抵抗とたたかいの規模、勇敢さを示すものです。――命がけで侵略戦争に反対し、主権在民の旗を掲げつづけた党が存在したことは、日本の戦前史の誇りです。国際的にもかけがえのない意義をもっています」(『日本共産党の80年』より)。
 「小さな茶の間を大きな時代が通り過ぎていった」(映画『母べえ』の宣伝惹句)いま、あの時代に後戻りさせたい改憲靖国派の動きも激しい。映画の結末は「治安維持法で倒れし人こそ、あの暗黒の時代、日本の良心の灯であった」と山田洋次の決意であろう。われら今、何をなすべきや。(尾)

――参考図書――


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『母べえ』の時代と野上家の戦後〈前半〉~本屋の窓から④

2008年02月19日 | 本屋の窓から

 ■「歴史の法廷は過誤を立証するであろう」
 映画『母べえ』を観て宮本顕治の最終公判(1944.11.30)の陳述を思い出しました。
「社会進化と人類的正義に立脚する歴史の法廷は、我々がかくのごとく迫害され罰せられるべきものではなかったことを、いわんや事実上生命刑に等しき長期投獄によって加罰されることは大きな過誤であったということを立証するであろうことを信ずる」
 映画の原作は、黒沢明監督作品のスクリプター(映画製作現場記録者)の野上照代さん(映画では照美)以下敬称略。
 日中戦争から太平洋戦争に突入する1938年(昭和13)のころ。日本もドイツも他国を侵略・併合を行い、軍国主義一色で国民生活も思想も統制し、侵略戦争を「聖戦」といい、批判は弾圧されました。


 ■当時の社会と映画と歌
 年表では1938年(昭和13)――前年暮れから続く「南京大虐殺事件」。満蒙開拓義勇軍5千人渡満。朝鮮語使用禁止。唯物論研究会解散。関係者検挙。照代の父、検挙される。ドイツ、オーストリア併合。この年の映画は「5人の斥候兵」「路傍の石」「愛染かつら」歌は「旅の夜空」「支那の夜」「麦と兵隊」。
 1939年(昭和14)――ドイツ軍ポーランド侵攻。スペイン人民戦線敗北。ノモンハン事件で日本軍大敗。映画法公布、映画国家管理下に。長髪、パーマ禁止。映画は「「土と兵隊」「暖流」。歌は「九段の母」「長崎物語」「大利根月夜」。
 1940年(昭和15)――ドイツ軍ルーマニアを支配下に。日本軍ベトナムに侵攻。民政党斉藤隆夫、「反軍演説」で衆議院議員除名に。共産党を除く全政党解散。大政翼賛会に参加、議会消滅。全労働組合解散、産業報国会へ。国民優生法実施。内務省、各市町村に部落会、町内会、隣保班、常会の設置を通達。戦費調達のため「源泉徴収」を導入。宮本顕治第1会公判陳述。映画は「西住戦車長伝」「小島の春」「駅馬車」。歌は「海ゆかば」「暁に祈る」「誰が故郷を思わざる」。
 1941年(昭和16)――ホーチミンら「ベトナム独立同盟(ベトミン)」を結成。抗日抗仏戦展開。東條陸軍大臣「戦陣訓」を兵士に通達。国民学校令公布、義務教育8年生に。ゾルゲ、尾崎秀美検挙。劇映画製作10社を松竹、東宝、大映の3社に統合。一般車のガソリン使用禁止。木炭ガス、代用燃料に。日本、米英蘭に宣戦布告。国家非常措置で宮本百合子ら検挙拘束者1000人以上。映画は「馬」「戸田家の兄妹」「みかえりの塔」。歌は「愛国行進曲」「空の神兵」「戦陣訓の歌」。


 ■戦争反対の意見・考えを根絶へ
 この時代について『日本共産党の80年』は書いている。
「天皇制政府は、戦争に対する批判や反対を根絶するために、その弾圧を容赦なく拡大しました。37年12月『人民戦線の結成』を企てたという理由で日本無産党と日本労働組合全国評議会を解散させ、関係者400人を検挙しました。
 翌38年2月には同じ理由で大内兵衛ら労農派といわれる学者グループを検挙しました。関西の雑誌『世界文化』のグループも前年の11月に検挙されました。さらに38年、唯物論研究会の関係者や新劇関係などさまざまな文化団体が、治安維持法によってコミンテルンおよび日本共産党の『目的遂行』の結社として弾圧されました。
 ――36年7月、日本資本主義発達史講座に参加した学者30余人がマルクスの理論研究を理由に、治安維持法違反として検挙されました。こうした迫害は、自由主義的な学者、文化人、仏教者、キリスト者にまでおよび、進歩的作家の執筆禁止も行われるなど、いっさいの進歩的言論と運動への圧殺が強めれらました」  ―後半へ続く―

 

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ねずみのはなし~本屋の窓から③

2008年01月30日 | 本屋の窓から

 ことしは、十二支の「子」(ね)の年。鼠(鼡)の字を当てる。日本、中国、韓国、ベトナムの人は生まれた年で干支が決まる。
 運勢暦によれば、同じ干支の人たちには、性格とか宿命とかに共通したものがあるという。『子年生まれの人は、性格が正直で、貯蓄心に富み財を作る。但し、倹約の度を超すとケチになり非難を受ける。徳を積めば晩年は安楽な余生を送ることができる』。


 〔ねずみ〕の語源説
 根 棲 (穴、陰所に棲む)
 不寝魅(夜も寝ない)
 寝出見(人の寝たあと出る)
 寝盗見(人の寝たあと盗む)

 
 〔ねずみ〕に因むことば
 ねずみ小僧(江戸末期の盗賊で大名屋敷だけを狙い盗金は貧民に与えた)
 鼠族   (こそこそ侵入して盗む、こそ泥、小泥棒)
 鼠とり  (スピード違反自動取締監視装置)
 ねずみ算 (和算。ねずみの親子が一定期間を置いて増える例えの計算問題。一対のねずみが毎月12匹生み、子も12匹、またその子も12匹と生んでいけば12ヶ月で何匹になるか。


 〔ねずみ〕の集団自殺説
 森に住むねずみの仲間レミングは10年おき位に大発生。食料不足になり大集団で餌を求めて移動する。途中、湖や海に落ちて大量死するため集団自殺とされてきた。今は事故とされている。


 南方熊楠によれば、食用できるねずみもいる。中国領南の人はねずみを家鹿といって食する。竹ねずみは筍を好み、大きさはウサギほどあり、味は鴨肉の如しと。熊楠は「およそ鼠ほど嫌われ憎まれる物は少ないが、鼠を食して生きている人も多く、迷信ながらもこれを神物として、数々の伝説物語を生じた民もあり、鼠もまったく無益な物でないことが判る」。

 
 ねずみが好きだという人はそういない。だが子どもそうでもない。子らは天井を走るねずみを知らない。絵本の『グリとグラ』シリーズや『14ひきのねずみ』シリーズ。この今でも売れ続けているいずれも何百万部という超ロングセラー絵本の影響が大きい。ねずみはかわいい小動物だと思っているようだ。
 ねずみは大黒様のお使いというから、ねずみの本は出版社にご利益を運んできた。映画『ねずみ物語』もヒットするかも知れない。


 *クイズの答え――276億8257万4402匹

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年の瀬 雑感~本屋の窓から② (掲載遅くなりすみません)

2008年01月07日 | 本屋の窓から

 師走の風はいつになく冷たい。出版社の倒産相次ぎ、代金支払済の委託商品が返品不能で思わぬ損失です。緊褌一番、歳末商戦へいざ出陣の出鼻を挫かれました。
 今年も、世の中いろいろありましたナ。国乱れて民苦しみ、嘘と騙しの不祥事の続発。これが安倍の「美しい国」なのか。極めは、福田・小沢の密室会談。渡辺と中曽根に手玉にとられた小沢が連立に合意。思わぬ党内反対に大むくれ。プッツンして代表辞任だ。撤回だ。続投だと1人で騒いで転んで醜態をさらした。「辞めないで」とすがる民主の無節操。みっともないよ。♪『だから言ったじゃないの』。自民も民主も同じ穴の狢と狸。見分けがつかん。憲法改悪どちらも同じ。今年を漢字1字で表せば「騙」(だまし・たかり)―本屋の窓子選―。

 年末の景気づけに、東京は11月の「酉の市」があり、「歳の市」が続きます。高村光雲の懐古談に「熊手を拵えて売るはなし」があります。「酉の市」の目玉は「熊手」です。関西では、正月の10日の「戎祭」の「福笹」でしょうか。どちらも商売繁昌の縁起ものです。熊手は大・中・小など大きさや飾りに趣向を凝らした仕掛けで値段もピンからキリまで。熊手は分業で、飾り物のおかめ面、大根じめ、積み俵は三河島の農家から仕入れる。熊手の竹は、「酉の市」直前に青竹を切り出して使う。家中の者が夜業して「酉の市」に間に合わせたといいます。

 「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯黒溝に灯火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き、三嶋神社の角を曲がりてより是れぞと見ゆる大廈(いえ)もなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長屋、商ひはかつふつ利かぬ処とて半さしたる雨戸の外に、あやしき形に紙を切りなして、胡粉ぬりくり彩色のある田楽みるやう、裏にはりたる串のさまもをかし、一軒ならず二軒ならず、朝日に干して夕日に仕舞ふ手当てことごとしく、一家内これにかかりて夫れは何ぞと問ふに、知らずや霜月酉の日例の神社に欲深様のかつぎ給ふ是れぞ熊手の下ごしらへといふ」
 井原西鶴の文章かと思う名文ですが、樋口一葉の「たけくらべ」の冒頭の一節です。近くの鷲神社の「酉の市」で売られる熊手の部品作りの内職で生計をたてている庶民の生活風景を描いています。
 『たけくらべ』(明28年発表)は、明治中庸、吉原遊郭の周辺の町、大音寺前で一葉が駄菓子屋を開いていた頃、見聞した町の風俗や生活を、大黒屋(遊女屋)の美登利、龍華寺の信如、田中屋(金貸)の正太郎を中心にした子どもたちを通じて描いています。思春期にさしかかった淡い恋情は哀切です。「厭や厭や、大人に成るは厭な事」。大人になれば遊女として生きていかねばならない美登利の嘆きの声は、また一葉のこの社会への抗議の声であろう。

 私たち年配者は、思春期の頃、人生や社会について、明治の作家からも多くのものを学んでいます。いまは明治の作家のものは古典扱いで、文庫版も本屋の棚から消えています。
 日本人の日常の生活様式が大きく変わったのは、映画「三丁目の夕日」の昭和30年代前半。食卓の変遷をみても、昔は囲炉裏があり、家族の席は決まっていた。長屋、アパートの時代に卓袱台になり、父親の席もなくなり権威も薄らぎました。団地生活になるとテーブルに代わりました。
 古いものは新しいものに代えられる運命にあるが「教育基本法」や「憲法」を古いという奴ほど、保守的で反動的で権力信奉の単細胞野郎だ。こんな奴こそ消えてなくなれ! 今年1年、ありがとうございました。(尾)

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『陸に上がった軍艦』、実は私もそこにいた~本屋の窓から①

2007年12月09日 | 本屋の窓から

 ■映画のことはすべて本当にあったこと
 8月に公開された映画『陸に上がった軍艦』は、原作・脚本・証言者として出演している新藤兼人監督(以下新藤)の海軍二等兵としての実体験にもとづいている。監督・山本保博。

 時は1944年。新藤は、脚本家として認められたときに妻を亡くした。その直後に呉海兵団に海軍二等水平として召集される。最後は宝塚海軍航空隊で敗戦を迎えるまでの過酷な軍隊の日常を、ドラマの部分で描いている。
 陸軍の内務班(居住区)の非人間的残酷さを描いたのが『真空地帯』(山本薩夫監督)なら『陸に上がった軍艦』はその海軍編といえます。映画で描かれた話は事実です。私も同時期、新藤と同じ宝塚海軍航空隊で、甲種飛行予科練習生として実体験したからです。

 新藤と呉海兵団に同期入隊した兵士は100名。全員が奈良天理市の航空隊に転属。海軍が接収した天理教本部を予科練の航空隊にした。入隊前の宿舎の掃除、整備が任務だった。任務が終わると100名の内60名が比島マニラ派遣途中、輸送船が攻撃され全員戦死。次に30名が潜水艦に乗船したが消息を絶った。残った10名が雑役班として、今度は海軍に接収された「宝塚少女歌劇団」の施設、宝塚海軍航空隊に異動。大量の予科練習生を迎えるため掃除、改修を行った。途中で4名が海防艦に移り(消息不明)、結局6名が残った。練習生が入隊後は、風呂焚き、肥え汲みなど裏方の仕事を敗戦まで続けた。

 『陸に上がった軍艦』とは、班長の訓示、「われわれは、軍艦に乗っているのである。陸に上がってもすべて軍艦にいるとおりにやる」に表れている。軍隊とは、暴力で人間を支配し、思想と理性を奪い、命令どおりに動く殺人兵器に鍛え上げていく所である。
 映画の中の「海軍精神注入棒」は、私たちの場合は樫ではなく青竹だった。ヘマをすれば、尻にバットを喰らい、ビンタが飛ぶ。海軍では1人のミスが艦の運命に関わるので、全体責任として班全員が注入棒の洗礼を受けた。1人の鈍くさい練習生のミスに全員が何度も何度も撲られ、飯抜きになる。それが耐え切れなくなって阪急電車に飛び込み自殺したものもいた。

 屋上には高射機関銃が据付られており、米機グラマンと銃撃戦が行われ、兆弾が怖かった。また、甲山までの演習行軍中襲われたこと、川西航空機工場の空襲で夜空を火が焦がしたこと、対戦車特攻の訓練など、いずれも練習生も体験した事実である。
 敗戦の2週間前、淡路島の旧要塞補強のため16期生が渡海中、米軍機の攻撃を受けて76名が戦死した。その遺骨が宝塚航空隊に還ってくるシーンがある。整列して迎える練習生の中に、酒井猛さん(元日本共産党吹田摂津地区委員長)の若き姿があった。(酒井さん、了解もとらずごめんなさい)。

 ■100人入隊し生き残ったのはわずか6人
 敗戦を告げる天皇のラジオ放送を、新藤は士官当直室前で、私は大劇場に集められて聴いた。下士官の中には徹底抗戦を叫んで軍刀を振り回すものもいた。私たちは、気持ちが落ち着くと「死ななくてすむ」という安堵と「これからどうなるのか」という不安の夜を過ごした。

 新藤は「100人招集されて生き残ったのは6人。94人は1人ひとり家庭を大事にしようと一生懸命働いていたわけです。それを引き裂くということが起こるのが戦争なんですよ」という。
 生前の兵士に届いた妻のハガキには「今日はお祭りですが、あなたがいらっしゃらないのでは、何の風情もありません」と。生きて再び夫に逢うことのなかった妻の哀しみ。国家は耐え忍ぶことを強要し、靖国の妻として名誉を与えた。何が嬉しかろぞ。
 映画を観ての帰り、余談でカミさんが「あなたの〝考える前に跳ぶ〟無鉄砲さは、予科練志願から始まっているのね。えらい人(トンデモイナイ人)と一緒になったもンです」と皮肉るが、今はもう跳ぶ力はありませんです。ご安心を。ハイ。(尾) 
 

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