6月3日(土)
昨日とは打って変わっての快晴の土曜日。
午後から近畿道→阪和道を走り継ぎ泉佐野市へ孫に会いに行く。
まもなく生後3カ月ということでだいぶ体全体はしっかりとしてきたか?
泉南パークタウンに行き、買い物と海岸景色を楽しむ。関西空港から神戸六甲山まで見通せるいい天気。
日差しがきつかったが、この辺りはあの数年前の台風後に整備されたそうで、若者とその家族連れでにぎわっていた。
阪神高速湾岸線経由で帰宅となる。
6月3日(土)
昨日とは打って変わっての快晴の土曜日。
午後から近畿道→阪和道を走り継ぎ泉佐野市へ孫に会いに行く。
まもなく生後3カ月ということでだいぶ体全体はしっかりとしてきたか?
泉南パークタウンに行き、買い物と海岸景色を楽しむ。関西空港から神戸六甲山まで見通せるいい天気。
日差しがきつかったが、この辺りはあの数年前の台風後に整備されたそうで、若者とその家族連れでにぎわっていた。
阪神高速湾岸線経由で帰宅となる。
6月2日(金)
予報通りの雨模様の朝の出勤。
メールとFAXチェック、そして出庫はAmazonなど。
いくつかの実務を終えて原稿読みへ。週明けには返事をして編集作業に取り掛かりましょう。
夕方には雨が激しくなるということで、早めに引き揚げる。
18時半から21時まで、広島ハチドリ舎のイベントをzoom視聴参加。『私たちは黙らない!』の著者4氏のトークイベント。執筆に参加してもらったけどほとんど存じ上げない著者氏をパソコン画面越しに知ることができ、そしてそれぞれのマシンガントークが実におもしろかった!
6月1日(木)
午後から崩れるとの予報がウソのような快晴の朝。
まずは玉造方面へ出向き、用事を済ませて出勤する。
メールとFAXチェック、そして出庫はトーハン、日販、通販など。
集会販売の出庫もあるがそれは来週に回すことにする。
請求書の発送など、いくつかの実務を処理し、昨日送られてきた原稿に目を通していく。
昨日再整理して送った企画について著者氏から基本了解の返信が届く。ではこのセンでいきましょう。
明日夕方の広島ハチドリ舎のイベントにzoom参加の申込をする。『私たちは黙らない!』の著者4氏が語りあう。どんな話が聴けるのか楽しみ。
5月31日(水)
メールとFAXチェックで仕事を立ち上げる。
出庫はAmazonほかで少な目。
夕方の理事会のための報告文書を作る。
月末の支払手続きを今月も無事終える。1人出版社といえども毎月毎月の資金繰りは頭が痛い。
しばらくの間放置状態にあった企画を再整理し著者氏に送る。うまく転がって行けばいいが・・・。
15時からの全関西機関紙コンクールの審査委員会に出席。初めて参加のなかなかいい機関紙があった。さて審査結果は如何に。
国会ではマイナンバーカードの健康保険証化、原発60年ほか悪法が、自公だけでなく維新、国民の賛成で次々と成立していく状況。でもたたかいは終わらない。
2023年5月30日(火)
梅雨入り2日目の朝は大阪環状線の事故による大混雑から始まった。ギュウギュウ詰めの車内から抜け出し、メールとFAXをチェックして今日も仕事に取り組むことになった。
FAXには宣伝研究誌の連載原稿が土佐先生から届いていた。内容を確認すると、今月も先生が講師を務める大学生たちの切実な叫びと希望が綴られていた。文字の確認のために電話し、しばし原稿についての懇談を行った。そして、「ぜひそれを本にまとめましょう」と提案した。
出庫では、著者からの注文と通販の本の発送を行った。その後、銀行に振込みに行き、昼ごはんの食材を買って帰った。気温が低かったので少し寒さを感じたが、大盛りのちゃんぽん麺を作って食べることにした。意外にも、これがとても美味しかった!
食後、10分ほど昼寝をしてから、1人で企画会議を行った。いくつかのアイデアを考え出したが、どれもまだ十分な深みがなかったため、実現にはまだ時間がかかりそうだ。
明日の月末支払い計算を行い、以前から抱えていた企画を進めるためのメモ作業を行った。一晩置いてから、明日著者に送る予定だ。
今日は3週間ぶりのメンテナンスの日で、早めに仕事を切り上げた。電車を待っている間に、神戸からの電話があり、「原稿ができたので送ります」と伝えられた。私はすぐに送ってくれるようにお願いした。
本日のメンテナンスは、1年間お世話になった担当者さんの最後の日だったため、少し念入りにしてもらった。1年間の感謝の気持ちと、次の場所でのご活躍を期待して挨拶し、お別れとなった。
5月29日(月)
休み明け月曜日。今週はずっと雨やなあと思っていたら梅雨入り宣言とは早いもんだ。
メールとFAXチェックで仕事を立ち上げる。
出庫はAmazon、日販、トーハン、楽天、通販。
終えて機関紙コンクールの採点作業に取り掛かる。全体として市民団体機関紙に勢いがある印象。
『私たちは黙らない!』の2刷が出来、雨の下の搬入作業となる。先週末に毎日新聞広告を出したので反応を期待したい。
京都方面から企画提案が送られてくる。1週間の検討時間をお願いする。
黑田さんの『何が問題かマイナンバーカードで健康保険証廃止』を読まれた方が「とてもいい本でした」とわざわざ電話をされてきた! あまりこういうことはないが、すぐに著者氏へ伝えておく。
この間のマイナンバーカードについての様々な問題発生事案。自身の責任を認めない河野大臣の委員会答弁を聞くに、健康保険証廃止はストップ以外にないと再認識→https://www.youtube.com/watch?v=uH-KyZ2f9bk
5月26日(金)~27日(土)
この週末は1日有休を追加して1カ月遅れのGW旅行ということで淡路島へ小旅行に出かけた。
長男夫婦が初孫誕生の内祝いで送ってくれたギフトカタログで選んだ「日帰りランチ付き温泉」に1泊分をプラスして遊んできたのだ。
初日は淡路島の新鮮な魚と温泉が楽しめる宿ということでうずしお温泉に宿を取った。平日なので高速道路も空いておりあちこちに寄りながら夕方にチェックインする。温泉は美人湯と言われるほどの泉質で確かにいいお湯で、食事も口コミに違わず期待通りの内容だった。
2日目に明石海峡大橋を渡り鳴門の某巨大リゾートホテルの「日帰りランチ付き温泉」を楽しんだ。両日とも好天で海風を心地よく感じた休日となった。
5月25日(木)
天気はいいがヒンヤリした朝。蒸し暑くもなく気分良しの朝。庭の花への水やりの仕方を動画撮影して息子に送る。明後日の朝の水やりを頼んでいるのだ。
さて本日もメールとFAXチェックで仕事を仕事に取り掛かる。
出庫はAmazon、日販、通販など。
終ってよどがわ生協へ行くために自宅へ引き揚げる。昼ごはんを食べて車でよどがわ生協へ向かう。今月の食糧支援の受取り、天満に行き運び込む。ボランティアのSさんに手伝ってもらい無事搬入完了。
会社へ戻って仕事を再開。実務仕事をして、しばらく停滞していた本づくりに取り掛かるべく著者氏に連絡。8月の出版をめざすことになる。
さて明日は休みにしたので、早めの帰宅とする。
5月22日(月)
被爆地広島でのG7サミットが終わった。そもそもG7に何かを期待することが根本的な間違いなのかもしれない。広島を利用して、広島と世界の願いを裏切る内容のこんなイベントはもうやめた方がいい。
さて今週も月曜日、いつものようにメールとFAXチェックで仕事を始めていく。
出庫は、Amazon、日販、トーハン、著者注文など。
今週末の集会販売の申入れの返事を主催者に問い合わせ、すぐさま返事を頂いた。対応に感謝!
郵便局で振込を済ませ、諸々の集計作業。これをその都度キチキチとやることが大事。
来週の重版出来に備えて1階の書籍と返品を4階に搬入しておく。
新聞広告ゲラが送られてきたので確認し、広告会社へ入稿を依頼する。週末の掲載ということであまりタイミングは良くないが反応を期待したい。
いくつかの出版企画について検討作業を進めるが、いろいろ難しい部分がある。さてどうしたものか・・・。
さて夕方は雨の中を帰宅していく。
駆逐艦の「藤永田」
戦時中の勤労動員の体験談で、何人もの人が「藤永田造船のドックは先が尖っていた」と語っていたのが妙に印象に残っている。大阪市住之江区の地下鉄四つ橋線・北加賀屋駅から西へ約1km、「三井造船」の大きな看板の前に建てられた小さな「藤永田造船所跡地」の碑(99年8月建立)が唯一「藤永田」の名前を今に伝えている。
「藤永田造船跡地」の碑(住之江区柴谷1丁目)
藤永田造船所は、日本最古の造船所と言われ、日本海軍の艦艇や鉄道車両を製造していた。横須賀市にある浦賀船渠とともに駆逐艦建造が有名で「西の藤永田、東の浦賀」「駆逐艦の藤永田」とも言われていた。
1689年(元禄2)3月、大坂堂島船大工町に船小屋「兵庫屋」として創業したのが藤永田造船の始まりだという。
戦前は日本海軍との関係が強く、昭和金融恐慌などの経営危機を乗り切った。敗戦までに駆逐艦だけでも40隻近くを建造した。
1967年10月、同じ銀行系列の三井造船に吸収合併され、兵庫屋時代を含む278年の歴史に幕を閉じた。
駆逐艦は先頭が切っ先のように幅が狭くて長い。海の遠くから主砲で戦う戦艦や巡洋艦と違い、小型で機動力に優れた駆逐艦には、敵艦へ突っ込み魚雷を発射して打撃を与え戻ってくるような役割が与えられていた。
42年8月、海軍が飛行場を建設していたガダルカナル島に米軍が上陸し飛行場を占領、周辺の制空権を握ろうとしていた。島を巡る激しい戦いが陸海で繰り広げられる中、駆逐艦による第ニ水雷戦隊には速度の遅い輸送船にかわり、ガダルカナル島へ増援部隊や物資を運ぶ輸送任務が命じられた。駆逐艦による輸送作戦は夜間に行われ「鼠(ねずみ)輸送」と呼ばれた。最強の駆逐艦部隊第二水雷船隊だったが3500人以上が犠牲となったという。藤永田造船で建造された多くの駆逐艦も海に消えた。物資を絶たれた日本軍は、ガダルカナル島の戦いで死者・行方不明者約2万人強、このうち直接の戦闘での戦死者は約5千人、残り約1万5千人は餓死と戦病死だったと推定されている。太平洋戦争での敗走が決定的になった戦いだった。
また『大阪と中国人強制連行』(大阪・中国人強制連行をほりおこす会)によると、44年8月に連行された161人(華北労工協会介在)の中国人が藤永田造船で強制労働させられた。出身地は河北省の最南端と河南省の北部に集中している。「同工場には、学徒動員、朝鮮人徴用工、連合軍捕虜も労働に就かされていたが、相互の交流は禁止され宿舎は別だった」という証言がある。
対照的な防空壕と護国神社
大和川に近い住之江区南加賀屋4-8に加賀屋新田会所跡(加賀屋緑地)がある。江戸時代、加賀屋甚兵衛によって干拓され、1754年にこの会所は建築された。数奇屋風の建物が一部現存し「愉園」と名づけられる大阪名園の一つだ。四阿(あずまや)「明霞亭」(めいかてい)は茶室風の建物で、空襲で焼失。前にある古木は、かつて階上へ上がるために松を削り、階段に使ったものだという。
空襲で焼けた加賀屋新田会所跡の「明霞亭」に残る松の階段
加賀屋緑地から南へ3本目の通りを西に入ると民家の並びに立派な防空壕が残っている。町内の分会長だった加賀谷保一氏(故人)が、空襲で逃げるのが大変だろうと近くのお年寄りのために造ったと言われている。防空壕が完成したのは終戦の前日だったが、建設中に実際に住民の避難に使われたという。戦後は、身近で戦争の記憶に触れられる貴重な遺跡として残された。
加賀谷家の防空壕(住之江区南加賀屋4丁目17)
ちなみにこの防空後の隣に人形劇団クラルテの旧アトリエがある。クラルテ(仏語で「光」の意味)は48年、戦争の傷跡も生々しく食料難も続くころ枚方市にある大阪市立高校(現:大阪府立いちりつ高校)の生徒らによって生まれた。60年には「すべての人に真実を貫き、平和と民主主義を守る勇気と希望を与える」劇団として活動する方針を確立した。
大阪の護国神社
地下鉄住之江公園からすぐの大阪護国神社。日中戦争が本格化した1938年に創建が計画されたが、戦時中の人材難と資材不足で建築が困難となり、40年5月に仮社殿を建築した。国の方針で一府県に一社ずつ設けるという原則で全国的に造られた。すでに東京に靖国神社があったが、地方に住む遺族の参拝の利便性と、「忠君愛国と靖国の思想」を浸透させるためだった。今も戦前の異様な雰囲気を感じさせる。09年に建てられた「特攻勇士に捧ぐ」像は「若者たちが命をかけて崇高な『日本人の心』を実践した」と記し、これを称えている。戦争を美化することへの違和感に、自分の健全性を確認できる場所としたい。
大阪護国神社に建てられた「特攻勇士に捧ぐ」像
大阪護国神社境内に並ぶ慰霊碑
5月17日(水)
快晴の下、出勤してまずはメールとFAXのチェックで仕事を始める。
先日、NTTの代理店から「お安くなります。初期工事費用はキャッシュバックするので無料です」という誘惑的な営業電話があり、ソフトバンク回線からNTTに切り替えることにした。わが社の電話会社は電電公社→NTT→KDDI→ソフトバンク→再びNTTと、激しく変遷してきた。
そして本日9時に、NTTの電話工事の人が来訪する。ソフトバンクへの切り替え時はほとんど工事がなかったので、今回も同様だろうと思っていたら、外の電柱からの引き込み線工事も伴う結構大がかりな工事となった。まずは電話線の引き込み後の配線工事をするために、大元の交換機設備を探すが、なかなか見つからない。何しろ古いビルで、そもそもそんなものを見たことがない。あちこちを探して、ようやく見つけたのはなんと女子トイレ内だった。工事には約3時間かかった。今回は電話のみの工事だが、配線は光通信用になったので、必要があればいつでもネットにも使える。
工事を横目に、本日の出庫は新日本図書、通販、直販書店分などを片付けていく。
重版用の校正が印刷所から送られてきたので、修正箇所をチェックして返送する。
そしてようやく、懸案だった原稿整理作業を終え、著者陣に送付する。
夕方、今日は気温が高くて体も疲れ気味だが、週のアルコール解禁日なので帰宅後はビール、ハイボール、ウォッカと3杯のお酒を楽しみ、ベッドに横になった。
5月16日(火)
今日は少し遅めに起きて朝風呂と朝ごはんを済ませた。外に出るとすでに気温が高い。
乗る電車はいつもとは逆方向の京都方面行き。吹田から高槻で新快速に乗り換え、京都駅から近鉄京都駅へ向かい、そして宇治の近鉄伊勢田へ。機関紙協会大阪と大阪市役所退職者会の共催で行われる戦跡ウォーキングで、宇治のウトロ平和祈念館へ行くことになっている。以前から行きたいと思っていたチャンスがやって来たので、参加することにした。20人余りの参加者がぞろぞろと歩いて10分ほどで祈念館に到着した。
火曜日は団体向けの専用開館日だったが、建物の玄関でインターホンを押しても全く返事がない。電話をしても誰も出ない。困ったなと思っていると、地元宇治市内在住の知り合いのHJさんに連絡してみることにした。さらに別の方に繋いでもらい、何度かのやり取りの後、ようやく祈念館事務局の人に繋がった。確認すると、私たちの訪問が完全に見落とされていたことがわかった! 2日前の日曜日にも電話で確認していたのに・・・。さらに待つこと20分、ようやくスタッフの方がやってきて開錠してもらい、中に入る。
予定の時間が削られたため、スケジュールを変更してまず祈念館内を見学することにした。2階の常設展示はウトロ地区の歴史を、3階は企画展示室で立ち退き反対闘争時における女性を中心にした音楽デモ隊の展示を行っている。4階の屋上からは太陽光発電の「おひさま発電所」が見え、宇治市内の景色や隣接する自衛隊大久保駐屯地も眺めることができる。また、2階の通路には放火事件の様子や事件の裏にヘイトクライムがあったことを証明する展示もあった。
見学が終わった後、ボランティアの方の案内で放火事件の現場へ向かった。放火された建物には立て看板や生活用品などが収められていたが、火災は隣接する一帯の民家も巻き込んでいた。
祈念館に戻り、副館長の金秀煥さんから祈念館についての説明を受けた。祈念館は2022年4月にオープンし、韓国大統領の文在寅(当時)の後押しと在外同胞財団の支援、さらに日本国内外からの支援を受けて、総工費2億5千万円で完成した。当初は年間2000人の来館者を予想していたが、予想に反してこの1年間で13000人もの人々が訪れ、その半数以上が日本人以外の人たちだった。運営は市民のボランティアが行っている。ウトロ地区の人々のうち約3分の2が新しい住宅に移り、残りの3分の1には60世帯約300人が今も住んでいる。祈念館はウトロの人々への差別や同情を伝えるためのものではなく、困難を乗り越えて生き抜いてきた人々の姿や生きることの大切さを伝えるものだと金秀煥さんは語った。
ウトロ地区の歴史や祈念館の詳細は、こちらのホームページに詳しく書かれている。
さて、昼過ぎに見学を終えた後、参加者の皆さんは韓国料理の懇親会へ行くことになったが、私は会社へ出勤するために大阪へ向かうことにした。近鉄京都駅の改札を出たところで、周囲の光景が異様だと気づく。改札の出口から駅ビル出口までの一帯のスペースにほとんど人の姿がなく、その両脇に大勢の人々が警官によって規制されながらまるで有名人のコンサート会場の出待ちのように集まっているではないか。何事か尋ねてみると、上皇が奈良から帰るため、その姿を一目見ようと集まっているとのことだった。なるほど、世間の人々はそういう感じなのですね。
5月15日(月)
週末とはガラリと変わってカラッと晴れの週明けの天気。
メールとFAXチェックで仕事に取り掛かる。
出庫はAmazon、日販、通販、楽天、新日本図書など。
新刊の『私たちは黙らない!』の在庫が減ってきた。動きはまだまだこれからも続きそうなので、重版(2刷)
することにする。出来上がってまだ1カ月たっていないからまずまずのペースかと思う。数カ所の修正をデータ屋さんにお願いして印刷所へ発注となる。
先週提案をしてもらったある企画。「では出しましょう!」ということで返事をしておく。出版まではまだ相当時間があるので、じっくりと原稿を仕上げていただきたい。
著者講演会の予定が数件送られてきたので、主催者にコンタクトし販売要請を行っておく。まだハイブリッド形式の集会が多いので、どれだけ参加者が見込めるかわからないが、少しでも読者に届けたい。
あとは残業として原稿仕事。なんとかほぼ目途が立ってきた。
5月13日(金)~14日(日)
この土日は雨模様ということもあり、終日の引きこもりとなる。
原稿仕事があったけど、いろいろ家のこともしながら、集中力を欠きながらも一定の前進となる。
テレビの録画視聴はNHKBSの「松本清張の日本の黒い霧」。2017年の番組だが、松本清張が書き綴った戦後の未解決事件解明のための仮説は、今なお現在の日本社会の在り方の根幹への疑問として生き続けている。しかし時代は大きく変わった。清張のような作家・著者はもうこの世には現れないだろう。数多くの作品を読んでいたが、まさに巨匠という呼び方が相応しい。
夜は友人が作った曲のイントロ作りに挑戦。テイク50でようやく録音完成となる。
5月12日(金)
朝からいい天気。
出勤後、メールとFAXチェックなどを済ませて直ちに外へ飛び出す。
野田→大阪→神戸とJR乗り継ぎ、3週間前と同じ妙法華院へ向かう。学童疎開本の編集会議。
今日は3階の会議室ではなく、地階の資料室が会議場。ここは兵庫の戦争展の資料庫にもなっていて、たくさんの戦時資料や出版物、パネルなど保存されている。
中に入って編集責任者の上野祐一朗さんに挨拶。まだ時間があったので展示されている戦争中の写真について説明してもらう。、目に留まった1枚の写真は神戸大空襲で爆弾が落ち炎上した小学校の写真。終戦直後のもので、校舎全体が燃えた跡が黒く残り、爆弾で激しく窓などが打ち破られた4階建ての校舎の前に、分厚い白いコンクリートの奉安殿だけが無傷のまま建っている。下校時なのだろうか、子どもたちが集まっている。その後ろには耕されて畑になったグラウンドの姿も見える。たった1枚の写真が戦争の様々な実相を伝えてくれるのだ。
メンバーがそろったところでさっそく、本にする学童疎開文集の原稿を書いたAさんのお話を聴く。今となってはとても貴重な話。ぜひこの話も本に入れることにしましょう。
編集会議は13時前に終わり、直ちに帰社。それから急いで出荷作業を終え、昼ごはんにありつけたのは3時ごろであった。
夕方の会議に参加、小一時間残業をして引き揚げる。
吹田駅のQBハウスに寄り、8人の順番待ちの席に座る。理容員さんのさて今日はどうしましょうかとの問いに、スマホから坂本龍一写真を取り出し、こんな感じでとお願い。東京の中学の校則問題で話題になったツーブロックのおっさん頭が完成した(笑)。