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大阪の戦争遺跡を歩く⑥〈住之江区〉兵器製造で強制労働を強いられた中国人

2023年05月22日 | 坂手崇保の〈大阪の戦争遺跡を歩く〉 

駆逐艦の「藤永田」

 戦時中の勤労動員の体験談で、何人もの人が「藤永田造船のドックは先が尖っていた」と語っていたのが妙に印象に残っている。大阪市住之江区の地下鉄四つ橋線・北加賀屋駅から西へ約1km、「三井造船」の大きな看板の前に建てられた小さな「藤永田造船所跡地」の碑(99年8月建立)が唯一「藤永田」の名前を今に伝えている。


「藤永田造船跡地」の碑(住之江区柴谷1丁目)

 藤永田造船所は、日本最古の造船所と言われ、日本海軍の艦艇や鉄道車両を製造していた。横須賀市にある浦賀船渠とともに駆逐艦建造が有名で「西の藤永田、東の浦賀」「駆逐艦の藤永田」とも言われていた。
 1689年(元禄2)3月、大坂堂島船大工町に船小屋「兵庫屋」として創業したのが藤永田造船の始まりだという。
 戦前は日本海軍との関係が強く、昭和金融恐慌などの経営危機を乗り切った。敗戦までに駆逐艦だけでも40隻近くを建造した。
 1967年10月、同じ銀行系列の三井造船に吸収合併され、兵庫屋時代を含む278年の歴史に幕を閉じた。
 駆逐艦は先頭が切っ先のように幅が狭くて長い。海の遠くから主砲で戦う戦艦や巡洋艦と違い、小型で機動力に優れた駆逐艦には、敵艦へ突っ込み魚雷を発射して打撃を与え戻ってくるような役割が与えられていた。
 42年8月、海軍が飛行場を建設していたガダルカナル島に米軍が上陸し飛行場を占領、周辺の制空権を握ろうとしていた。島を巡る激しい戦いが陸海で繰り広げられる中、駆逐艦による第ニ水雷戦隊には速度の遅い輸送船にかわり、ガダルカナル島へ増援部隊や物資を運ぶ輸送任務が命じられた。駆逐艦による輸送作戦は夜間に行われ「鼠(ねずみ)輸送」と呼ばれた。最強の駆逐艦部隊第二水雷船隊だったが3500人以上が犠牲となったという。藤永田造船で建造された多くの駆逐艦も海に消えた。物資を絶たれた日本軍は、ガダルカナル島の戦いで死者・行方不明者約2万人強、このうち直接の戦闘での戦死者は約5千人、残り約1万5千人は餓死と戦病死だったと推定されている。太平洋戦争での敗走が決定的になった戦いだった。
 また『大阪と中国人強制連行』(大阪・中国人強制連行をほりおこす会)によると、44年8月に連行された161人(華北労工協会介在)の中国人が藤永田造船で強制労働させられた。出身地は河北省の最南端と河南省の北部に集中している。「同工場には、学徒動員、朝鮮人徴用工、連合軍捕虜も労働に就かされていたが、相互の交流は禁止され宿舎は別だった」という証言がある。

対照的な防空壕と護国神社

 大和川に近い住之江区南加賀屋4-8に加賀屋新田会所跡(加賀屋緑地)がある。江戸時代、加賀屋甚兵衛によって干拓され、1754年にこの会所は建築された。数奇屋風の建物が一部現存し「愉園」と名づけられる大阪名園の一つだ。四阿(あずまや)「明霞亭」(めいかてい)は茶室風の建物で、空襲で焼失。前にある古木は、かつて階上へ上がるために松を削り、階段に使ったものだという。


空襲で焼けた加賀屋新田会所跡の「明霞亭」に残る松の階段

 加賀屋緑地から南へ3本目の通りを西に入ると民家の並びに立派な防空壕が残っている。町内の分会長だった加賀谷保一氏(故人)が、空襲で逃げるのが大変だろうと近くのお年寄りのために造ったと言われている。防空壕が完成したのは終戦の前日だったが、建設中に実際に住民の避難に使われたという。戦後は、身近で戦争の記憶に触れられる貴重な遺跡として残された。


加賀谷家の防空壕(住之江区南加賀屋4丁目17)

 ちなみにこの防空後の隣に人形劇団クラルテの旧アトリエがある。クラルテ(仏語で「光」の意味)は48年、戦争の傷跡も生々しく食料難も続くころ枚方市にある大阪市立高校(現:大阪府立いちりつ高校)の生徒らによって生まれた。60年には「すべての人に真実を貫き、平和と民主主義を守る勇気と希望を与える」劇団として活動する方針を確立した。

大阪の護国神社

 地下鉄住之江公園からすぐの大阪護国神社。日中戦争が本格化した1938年に創建が計画されたが、戦時中の人材難と資材不足で建築が困難となり、40年5月に仮社殿を建築した。国の方針で一府県に一社ずつ設けるという原則で全国的に造られた。すでに東京に靖国神社があったが、地方に住む遺族の参拝の利便性と、「忠君愛国と靖国の思想」を浸透させるためだった。今も戦前の異様な雰囲気を感じさせる。09年に建てられた「特攻勇士に捧ぐ」像は「若者たちが命をかけて崇高な『日本人の心』を実践した」と記し、これを称えている。戦争を美化することへの違和感に、自分の健全性を確認できる場所としたい。


大阪護国神社に建てられた「特攻勇士に捧ぐ」像


大阪護国神社境内に並ぶ慰霊碑

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