戦前、野田阪神駅前広場から新橋商店街の半ばあたりまで、陸軍の対空高射砲陣地があった。「出来たのは昭和17、18年頃。大阪では最後に出来たもの。最新鋭の高射砲だった。全部で8門あり、他の所は7千メートルまでしか届かなかったが、ここのは1万メートルまで弾が届く砲だった」という証言もある。
「ここは元々、借家が立ち並ぶ長屋街で、強制疎開して高射砲陣地が造られた。「空襲で陣地周辺の被害が比較的少なかったのは、B29が上空を避けていたのではないか。此花区から入り、陣地手前で旋回し、西区方面に向かったので、空襲を受けず、古い家が残った」というのだ。
焼けた堂島大橋
堂島大橋は1927年に建設され、45年3月13日夜11時45分~翌3時ごろB29による大空襲で多数の焼夷弾が付近に落とされた。橋の歩道に敷きつめられていた木煉瓦が長時間燃え、高熱のため橋の欄干や飾り石が黒ずんで残っていた。数千人の戦災者が燃えさかる堂島大橋を渡って逃れ、橋の上で息絶えた人もいたという。
橋は2018年から2年にわたって改修工事が行われたが、橋のたもとの石造りの「橋飾塔(きょうしょくとう)」はそのまま残され、黒ずんだままの姿を残している。
空襲で焼け黒ずんだ堂島大橋の橋飾塔
野田2丁目の弾痕
JR環状線・野田駅の南側にも古い家が多数残っている。野田2丁目8番~11番が交わる三叉路のまわりの民家の壁面に多数の弾痕が確認できる。同年6月1日、路上に落下した爆弾が破裂し八方に飛び散った。さらに付近の家の中に飛び込んだ破片で2人が死亡している。
まわりの民家の壁面に弾痕がある(野田2丁目8)
JR東海道線ガード下の弾痕
6月7日朝11時~12時、米軍P51による機銃掃射で、ガード下(鷺洲5丁目)に弾痕が残された。このガード下に退避していた人たち3~5人が死んでいたという証言がある。
JR東海道線ガード下の弾痕(鷺洲5丁目)
延焼を食い止めた「福島のカベ」
淡路島の野島断層保存館に行ったとき、神戸大空襲でも阪神・淡路大震災でも倒れず、焼け残った「神戸の壁」が神戸市長田区から移設、展示されていたのを見たことがある。
さながら「福島の壁」とでも言えようか。「野田藤」で有名な下福島公園はかつて福島紡績会社があった所だ。公園周辺に当時の遺構が今も残っている。
下福島公園に福島紡績会社のレンガ塀があったが2018年の大阪北部地震や台風21号の影響もあり19年に撤去された
関西大学福島学舎記念碑 関西大学が1905年から22年間この地にあった(福島7丁目17)
大阪厚生年金病院の北側、福島4丁目3あたりに何やら住宅にはさまれて高さ4メートル以上ありそうなレンガの壁がわずかに姿を見せている。
45年6月15日の朝9時~11時、B29による空襲で玉川地区からの延焼をこの壁が食い止めた。1909年(明治42)7月31日に起こった「天満焼け」とも「北の大火」とも呼ばれる大火事でも、火勢は福島まで及び、福島紡績の壁で鎮火したと記録されている。
この煉瓦壁が壊されず残されたのは、2度も火災で役立った感謝と教訓を後世に伝えようという意図なのだろう。
民家に挟まれるようにレンガ塀が残っている
空襲による延焼を防いだ福島紡績会社のレンガ塀
空襲慰霊平和之碑
45年6月26日朝、9時~10時の空襲では海老江に1トン爆弾が5発(うち1発は淀川大橋に)落とされた。2発が海老江8丁目8あたりを直撃し、多数の死傷者が出た。73年5月、地元有志によって慰霊碑が建立された。現在も絶やさず花が手向けられている。
空襲慰霊平和之碑(海老江8丁目8-30)
野田恵比須神社の日露戦争戦勝碑
境内に、1908年(明治41)建立された「明治三十七八戦捷紀念碑」がある。建設趣意書によれば「西野田から290名日露戦争に出征し、戦死したもの14名は既に靖国神社に合祀されているが、郷里に於いてその功績を表彰したい。安治川下流に埋没していた豊大閣大阪築城の残石の石が発見され、そこでこの石を以って記念碑を建立する」と記されている。碑の裏面には戦死者14人の名前が刻まれている。
戦死者14人の名前が刻まれた野田恵比須神社の「明治三十七八戦捷紀念碑」