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『母べえ』の時代と野上家の戦後〈後半〉~本屋の窓から⑤

2008年02月20日 | 本屋の窓から

 ■妹は敗戦、入党、そして映画の世界へ
 野上照代の新刊『蜥蜴(とかげ)の尻っぽ』の自筆年表を見ると、彼女は敗戦の年の暮れ、再建となった日本共産党本部の勤務員として、宣伝ビラのガリ版印刷に従事。翌年入党、人民新聞社に移動。そこで、いわさきちひろに出会う(『しんぶn赤旗』1月17日、松本善明氏の「映画、母べえと治安維持法」掲載)。
 その後、出版社に移り、作家の井伏鱒二を知る。映画監督伊丹万作とは戦時中から文通があり、長男の伊丹岳彦の世話を頼まれて京都へ。大映に入り黒沢明の『羅生門』に参加、以後黒沢組の記録者になる。


 ■父、母、姉の戦後
 姉の初恵(映画では初子)は、共産党中央委員黒木重徳と結婚。黒木は治安維持法で投獄されたが屈せず、非転向を貫き敗戦2ヵ月後に府中刑務所を出獄。戦後初の総選挙に立候補。立会演説会中、心臓麻痺で急死(1946年3月16日42歳)。この選挙で日本共産党は5名当選、213万5757票。
 父、巌は1938年(昭和13)検挙されて入獄。1940年(昭和15)転向署名して保釈。映画ではこの年に検挙されている。ドイツ語力を買われてドイツ大使館に嘱託として職を得た。敗戦後、日本共産党に入党、日本教員組合創立に参加、日本民主主義科学者協会幹事、国民救援会で活動。杉並区長選に立候補、1954年(昭和29)神戸大学講師。3年後に教授、この年死去。戦前杉並区で古本屋「大衆書房」を経営、小林多喜二もよく利用していました。
 母、綾子(映画は佳代=吉永小百合)は戦前、西部消費組合に属し、「大衆書房」を経営しながら弾圧犠牲者の救援、慰問、特に保釈中の中国人学生の世話などに献身した。1954年(昭和29)1月、肺結核で死去。51歳。夫婦ともに青山霊園の「無名戦士の墓」に合葬されています。巌は「社会運動思想史」を新日本出版社より出版(藤田廣登『小林多喜二とその盟友たち』から)。


 ■「倒れし人こそ良心の灯であった」
 治安維持法で検挙され、特高・憲兵たちによる虐殺死、拷問死、あるいは獄死、病死したものは判明しているだけで1682人。逮捕者は数十万人。送検されたものは75681人。予防拘束、勾留者は数百万人。「このことは専制政治の無慈悲な野蛮さとともに、平和と民主主義を求めた日本国民の抵抗とたたかいの規模、勇敢さを示すものです。――命がけで侵略戦争に反対し、主権在民の旗を掲げつづけた党が存在したことは、日本の戦前史の誇りです。国際的にもかけがえのない意義をもっています」(『日本共産党の80年』より)。
 「小さな茶の間を大きな時代が通り過ぎていった」(映画『母べえ』の宣伝惹句)いま、あの時代に後戻りさせたい改憲靖国派の動きも激しい。映画の結末は「治安維持法で倒れし人こそ、あの暗黒の時代、日本の良心の灯であった」と山田洋次の決意であろう。われら今、何をなすべきや。(尾)

――参考図書――


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