
母の庭にさつきが何種類か植えてある。
色はそれぞれ。その中で母が一番好きな色だというさつき。
淡いピンクというか紫がかったピンクというか。色を表現する言葉が見つからない。
この色の他に赤もあるし、白とピンクが一本の幹で変化するものもある。それらを愛でながら、母はいつもこれを指さす。
「これが一番いいんだよねぇ」と。
目を細めて言う母を見ていると、まるでそこに我が子がいるような感覚だ。この庭の全てのもの、母が植え育ててきたもの全てがいとおしいのか。
裏庭に無造作に生い茂っている秋田蕗を見て
「このままにしておこう。来年は刈り取って食べよう」と。
今年はそのまま生い茂る様子を味わい、来年はその中身の新鮮な感動を味わう、そういった思いを感じる。
前庭には見栄えのいいものを、裏庭にはそんなでもないものを? そういう思いからなのかこのさつきは本当に好きなようだ。
母にとって庭はこれまでの自分の人生を語るものでもあるようだ。
父と共に暮らした時代。
父は庭仕事など何もできなかったから、ほとんど母がやってきた。レンガを並べたり、土を運んだり、自分の思い描いたように庭造りを楽しんできた。それが今では思い描いた通りなどほど遠い。何をするにも時間がかかる。人が30分で出来る所を今は1時間もかかるよ、と悲しそうな顔で言う。それでもやりたいのだ。
雨が降らないと、庭先に出て、座る。緑を眺め、咲き始めた花を見る。黙ってただ見る。見ているだけで1時間が過ぎていることもあるのだと。
母に
「今日は何していたの?」と聞くと
「庭に出て眺めていた」という答えが何度も返ってくる。
それだけで時間が過ぎていいることに苛立ちもあるのだろう。何かをしようと思って庭に出てきたものの、何もできずにただそこにいただけ。そんな時間が過ぎてしまったのだと。
でも、それでもいいんじゃない?
庭を愛でて生きてきた、あなたの世界がそこにある。
雑草を取りたくても時間がかかるから、わたしが手伝うといっても、おまえは雑草も大事なものもわからないからねぇ、と言われへこむけど、それでもそこに母がいるだけでなんだか嬉しくなる。
母の姿がこのままずっとそこにあってほしい。
最近、毎日母の様子がどうなのかと考えることが多くなった。
右目の痙攣、気にしないでいようと思っているようだけど気になるし、横になるとスッと消える疲れ方も気になるし、とれない咳があると疲れてへとへとになることも気になるし。そのどれもわたしが何もできないことで、母の辛さを我が身に置き換えることができない。
痛みというのは、味わう人でなければわからない。同じ痛みでなければ。寄り添うだけでもいいと思っていたけど、それは違うのかなと思う。
救われるのは、母の場合痛みが最大限にそのときに起きるけど、ずっと長時間あるわけではないということだ。
そのとき我慢すればいいから、と言う。
でもそのときがいつなのか、本人にもわからないことが多いのだ。
この薄いピンクのさつきを見ながら、母は何を思っているのだろう。
色はそれぞれ。その中で母が一番好きな色だというさつき。
淡いピンクというか紫がかったピンクというか。色を表現する言葉が見つからない。
この色の他に赤もあるし、白とピンクが一本の幹で変化するものもある。それらを愛でながら、母はいつもこれを指さす。
「これが一番いいんだよねぇ」と。
目を細めて言う母を見ていると、まるでそこに我が子がいるような感覚だ。この庭の全てのもの、母が植え育ててきたもの全てがいとおしいのか。
裏庭に無造作に生い茂っている秋田蕗を見て
「このままにしておこう。来年は刈り取って食べよう」と。
今年はそのまま生い茂る様子を味わい、来年はその中身の新鮮な感動を味わう、そういった思いを感じる。
前庭には見栄えのいいものを、裏庭にはそんなでもないものを? そういう思いからなのかこのさつきは本当に好きなようだ。
母にとって庭はこれまでの自分の人生を語るものでもあるようだ。
父と共に暮らした時代。
父は庭仕事など何もできなかったから、ほとんど母がやってきた。レンガを並べたり、土を運んだり、自分の思い描いたように庭造りを楽しんできた。それが今では思い描いた通りなどほど遠い。何をするにも時間がかかる。人が30分で出来る所を今は1時間もかかるよ、と悲しそうな顔で言う。それでもやりたいのだ。
雨が降らないと、庭先に出て、座る。緑を眺め、咲き始めた花を見る。黙ってただ見る。見ているだけで1時間が過ぎていることもあるのだと。
母に
「今日は何していたの?」と聞くと
「庭に出て眺めていた」という答えが何度も返ってくる。
それだけで時間が過ぎていいることに苛立ちもあるのだろう。何かをしようと思って庭に出てきたものの、何もできずにただそこにいただけ。そんな時間が過ぎてしまったのだと。
でも、それでもいいんじゃない?
庭を愛でて生きてきた、あなたの世界がそこにある。
雑草を取りたくても時間がかかるから、わたしが手伝うといっても、おまえは雑草も大事なものもわからないからねぇ、と言われへこむけど、それでもそこに母がいるだけでなんだか嬉しくなる。
母の姿がこのままずっとそこにあってほしい。
最近、毎日母の様子がどうなのかと考えることが多くなった。
右目の痙攣、気にしないでいようと思っているようだけど気になるし、横になるとスッと消える疲れ方も気になるし、とれない咳があると疲れてへとへとになることも気になるし。そのどれもわたしが何もできないことで、母の辛さを我が身に置き換えることができない。
痛みというのは、味わう人でなければわからない。同じ痛みでなければ。寄り添うだけでもいいと思っていたけど、それは違うのかなと思う。
救われるのは、母の場合痛みが最大限にそのときに起きるけど、ずっと長時間あるわけではないということだ。
そのとき我慢すればいいから、と言う。
でもそのときがいつなのか、本人にもわからないことが多いのだ。
この薄いピンクのさつきを見ながら、母は何を思っているのだろう。
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