どれくらい前なのか忘れてしまいましたけれども、『捨てる!技術』(宝島社新書)が売れて、流行っていた時期があったではありませんか。
あんましその本には興味が無かったので、読んだ事はないのです。
そもそもワタクシ、どんなに不要そうに見えるものでも、捨てることの出来ない性質(たち)なものですから。
事実、捨てないでよかった、取っといて良かった良かったと、そう思える事例が今までにいくつもありましたから。
そして引越しをあと半年に控えた今日、ふと下宿の下の階の人が引っ越して、部屋が綺麗になっているのを見て、無性に自分の部屋も片付けたくなったのですよね。
それでからっと晴れたお昼は、自分の部屋を片付けていたのですよ。ようやく、出しっぱなしの扇風機を片付けました。
ここでふと思ったのですよ。
大学に入って3年半、一人暮らしをするようになって、幾分かは自我流の「捨てる技術」を身につけたかなぁって、思ったのです。
今まで、授業プリントから清涼飲料水についていたおまけ、はたまた紙袋や空箱など、ありとあらゆるものを溜める癖を持っていた私が、今ではなんの躊躇いも無く捨てることが出来るようになったのです。
何故このようなことが出来るようになったのか。いくらか仮説を立ててみました。
仮説1:
3年半も暮らしてみて、結局何も使う機会や用途がなかったものの判別がつくようになった
これはですね、ワタクシが物を溜める理由として、いつか何かの役に立つかもしれないなぁという思いがあるためなのですよ。
事実、その後活用できたものもありました。
しかしその一方で、取っておいて最長3年半、なんら役に立たなかったものもあるのです。
この事実を踏まえて、よし捨てようという気にさせてくれるのです。
また、もうそれ以降その物を溜めないということにも繋がります。
仮説2:
溜めるものを限定することでメリハリがついた
これは特に大きいような気がします。
例えば、本なんかがそうなのですが、古本など安い本を大量に手に入れては、それを本棚に並べることをヨロコビとしているのですよ、ワタクシの場合は。
それでもいつか、本棚の収容量には限界が来ます。
そこで、ワタクシの場合は、椎名誠さんの本だけは一冊たりとも手放さない、ということにしたのです。
椎名さんの本だけは取っておく。言い換えると、そのほかの本はそこまで執着した思いは無いわけです。
だから、椎名さん以外の本は、読み飽きたもの、また面白くなかった(とはいってもこの手で買ったのだから、全然面白くないことは無いのですよ)本は、躊躇うことなく手放せることが出来るようになったのです。
仮説3:
お金をかけて運ぶほど価値のあるものか否かを考えるようになった
そしてこれは、将来ここから引っ越すのだ、という意識が段々高まったことを受けて、強くなってきた要因だと思うのです。
引越しの業者さんを利用するならば、当然、お金が掛かる訳です。
しかしながらそれを利用したことの無いワタクシは、果たしていくらばかりの料金が掛かるのか、分からないわけです。
コストが不明なものは当然、過大見積りをするわけです。
一箱あたりの輸送量はいくらだろうか。宅配便くらいの価格だとすると、2000円乃至3000円はするだろう。それくらいの見積もりをします。
そんなとき、この本は送料2~3000円の箱に詰めるほど、大切な本なのだろうかと、自問するわけです。
なんだったら、引越し先で買いなおしたりとか、図書館で借りればいいではないかと、そういうことを思い出したら、その本は箱に詰めなくていい本である、と判断されるわけでございます。
一応ですね、今のところ3つの仮説を提示いたしましたけれどもね、それよりももっと、大きな要因があるような気がしてきたのでせすよね。
人生、身軽が一番。
どうもワタクシ、一つの場所にとどまっていることが出来ない性の持ち主であるらしいことに気がついたのです。旅癖もその表れなのでしょう。
となると、いつでも、明日引っ越せといわれたら引っ越せるような体勢を整えておかなくてはならないのです。
そうすると、もう普段から、これは要る、要らない、要るかもしれないという判断をするようになったのです。
逆に言うと、今まで私の中には、これは要らない、という判断が鈍っていたわけでもあります。これは要る、という判断も鈍っていたかもしれません。
まぁそんなわけで、今日は一気に片付けてしまえたのですが、いつまた、部屋が散らかってしまうか、我ながら気が気でありません。
捨てる技術も、気分次第ですからね。何とまぁあやふやな技術だことねぇ。