BLOGkayaki2

蚊焼です。日記です。
旅のこぼれ話や没写真の再利用、
ブログ1、3、4に載らない
「その他」がメインのブログ。

【ふしぎ】「耳」で伝える文化

2006年09月09日 | テレビ

 今回の「世界・ふしぎ発見!」(TBS) は、モンゴルの秘境・バヤンウルギーでした。
 ここでは遊牧民のゲルでの生活はイメージどおりなのですが、驚いたのは、その先に氷河を頂いた山々があったということですね。そうかそうか、モンゴルもそりゃぁ、どこまでも続く草原ではないのですね。

 そしてもっと驚いたのは、岩場には古代人が描いた、当時の生活の様子を描いた絵が記されていたということです。これは凄いなぁと思うのと同時に、そういえばモンゴルは、常に移動でして生活をしているのだから、定住するための家とか城を持たないのだ、ということに気がついたのです。
 そうなると当然ながら、遺跡とかそういうものが、つまりは文化遺産が、ごくごく限られてくるということです。そういうものが、いらなかったのですから。
 逆に言うと、それら遺跡などの物質に頼った、モンゴルの歴史解明はできないということです。モンゴルの歴史は全て、人々の生活や、語り継がれた知恵や昔話など、そういうものに頼らざるを得ないのです。

 ここで最後のクエスチョン。
 バヤンウルギーの人たちが、子供たちがいい子に育ちますようにと願って、羊のある部分を食べさせますが、それはどこでしょう?
 そういう問いが出され、坂東さんはいつもの卑怯なやり方で、「目」とも「耳」とも読めるような字を書いて、ごねておりました。

 結局正解は「耳」でした。
 いい気どもに育つとは、親の言うことをしっかりと聞くようにという願いが込められているとのことでした。
 そして草野さんはそこで、耳で聞くということは、その生活の知恵や伝統をしっかりと受け継ぐ意味で重要なのです、とおっしゃっていました。

 そこでふと、そうかと納得してしまいましたね。
 これも一つの、文化の伝承なのだ。
 そしてまた、これも一つの、文化遺産という遺産相続の形なのだと。
 こうして文化という儚いながらも尊い生命は、脈々と受け継がれ、そして生きていくのだなと思ったのです。
 寧ろ、遺跡とか岩絵とかを多く持たない民族にとって、より大事なものになってくる、「耳」で伝える文化。
 話を聞くこと。それが、文化の伝承だ。それだけでいい。今の日本は、それすらも怠っている傾向に無いだろうかというおせっかいな心も持ちつつ、そんなことを考えました。


久々の草刈で「無」の境地に浸る

2006年09月09日 | 【大学時代】環セミ

 さて久々に、環セミ畑の管理をいたしましたよ。
 旧BOX畑に、構内にある畑です。

 雑草が伸び放題になっていたので、ひたすらに草刈をしましたよ。
 しかし一時期に比べて、明らかに雑草たちの伸びが遅くなってしまいましたね。刈る方としては大助かりですが。

 草を刈るうちに、たくさんのバッタやカマキリを見かけました。
 特にカマキリは、おそらくメスでしょうね、色も茶色に変わり、攻撃的な性格になっておりました。
 それにしてもカマキリの数が多い。来年は、カマキリが大量発生するでしょうな。

 草を刈る。
 この行為を黙々とやっているうちに、禅の「無」の境地になっているような気がしました。
 きっと、植物を、自然を管理することとは、己の心を浄化すること、ひいては自然と一体になることが出来るものではなかろうか、と思いました。
 盆栽なんて、そうなのかもしれませんよね。あれは、子供の頃はその面白さがよく分かっていませんでした。まぁ当たり前ですけれども。
 それが、盆栽の中に自然の神秘や、一方で人の手により生み出される芸術作品であり、はたまた自己を見出す修験のひとつであったり。まぁ、修験は言いすぎでしたね。

 自然を管理することは、かくも面白いものかは。
 あ、管理とはいっても、決して、「自然の支配」などというおおそれた傲慢や勘違いではありませんからね。
 あくまで、自然に多少の手をかけることによる、自然との共生でございますから。

 だから畑作、園芸はやめられないのです。



★「環セミ・畑作」のサイトはコチラです


雲を見ていますと

2006年09月09日 | 雑感散文

 写真は、旅行中飛行機の窓から撮影したものです。



まだまだ、
残暑が厳しい今日この頃。
日差しもじりじりと、
肌を焦がす。

気圧が不安定な状態にあるらしく、
雲も激しい流れにただひたすら、
身を委ねるしか術が無いようだ。

それにしてもこの雲というものは、
大小もさることながら、
その形、色、重みが、
てんでばらばらなのが面白い。

今日見た空は、紺碧の空。
青すぎて、不気味な闇を作り出し、
黒ずんだようにも見えるほど、
青い青い空。

そんな中に、
ポツリポツリと浮かぶ雲。
今日の空には、
実に様々な種類の
雲が浮かんでいて面白かった。
円盤状の低く垂れ込めた、
しかし小さな小さな雨雲。
また、純白で、
いかにも軽そうで、
旅人のようにどこまでも
流れていってしまうことを
躊躇わないような小雲。
他にも、薄い膜状の雲や、
細長く伸びる雲、
丸い雲、角ばった雲、
鋭利な雲、動物のような形の雲。
様々な雲の形、色、重みを
いっぺんに見ることが出来た。

この雲の存在が、
昔から不思議で不思議で
しょうがなかった。

薄くて、真っ白で、
いかにも軽そうな雲はそれでいい。
しかし中には、
積乱雲のように、
暗く、重く垂れ込め、
今にも崩れ落ちそうなくらい
不安定に浮いている雲もある。
そんな雲が、
彼方に見えたとき、
それでも浮いていられるのが
不思議でならなかった。

とりとめもなく、
つかみ所のない雲たち。
なんとなく理解しがたい存在。

それは、その雲たちよりも、
高いところに飛んだとき、
ますます分からなくなってしまった。

秋雨前線が日本列島を
覆っていたとき、
空中を飛んでいた。
厚い雲を抜けると、
空は雲ひとつない、
頗る晴天。
一方で地上を見下ろすと、
これまでに見たことが無いほどの、
一面の銀世界。

こんな世界が、
日本のすぐ真上にあった。
ここはまさに、
天空の世界。

日本画でよく、
鳥瞰図が描かれるとき、
絵には必ず雲が描かれていた。
これはもちろん、
天から地上を見ていることを、
よりリアリティーに迫るための
一つの技法である。
また、天というものの
尊さや畏怖というものを、
表現しているという
役割も担わされている。

しかしまさに、
その通りの風景だった。
世の中はこんなにも、
雲に覆われていた世界だったのか。

この一面の銀世界は、
地球の地表という「1階」に対して、
「2階」というものが
存在するかのような印象を受けた。
人は住めない、
「アネクメーネ」の土地ではあろうが、
でも確かにここには、
世界というものが存在していた。

そうか、いつも空を見上げて、
不思議に思っていた、
つまり、日常と乖離した
存在に見えていたのは、
空というものは一つの
「異国」だったのではないかな、と。

空を見上げればいつでも、
「ここ」とは違う世界が、
常識が、普遍が、日常が、
風と共に、
時間が流れ過ぎ行く。

科学が発達した今でも、
雲が水蒸気であることを
分かっていても。
いやむしろ、
そんなことを言ったところで
異世界は異世界だ。

天を仰げばいつでも、
異世界に思いを
馳せられるのは、
素敵なことだ。


今日の歯医者はお休み

2006年09月09日 | 凡日記

 旅行中、左奥歯の詰め物をしていた歯がぽろぽろと欠けてしまったので、これはイカン、遺憾と思って、駅前の歯医者に行ったのですよ。

 しかし思えば今日は、土曜日。
 歯医者は、午後からお休みでした。

 うーむ、残念。と思う一方で、ホット胸をなでおろす自分がいたのもまた、イカン、遺憾。


 そのままトコトコと近くのローソンに行きまして、今回の旅の思い出に、「水曜どうでしょう」DVD第一弾の予約をしてまいったのです。料金はそこで即日支払い。これにて、初の「年貢納め」と相成ったのでございます。
 そして一週間後は、初の「討入り」でございます。楽しみ、楽しみ。