BLOGkayaki2

蚊焼です。日記です。
旅のこぼれ話や没写真の再利用、
ブログ1、3、4に載らない
「その他」がメインのブログ。

藁納豆

2008年03月31日 | 食生活


藁(わら)納豆。
安かったし、
興味本位で買ってみました。

そうか、そういえば本来
納豆というのは
こういう姿で梱包されて
いたものだったか。

けれども開けてみますれば、
納豆は丁寧に
ポリ塩化ビニル(仮)に
包まれておりましたとさ。

まぁそんなもんさね。

でも一度、
本当の藁納豆を
食べてみたいもの。
茨城に行けばあるかな。


大阪在住も早─

2008年03月31日 | 凡日記

お久しぶりです。
久しぶりにネットより
日記を書いております。
要するに、今会社なのです。

パソコンだと文章が
喋るような速さで
打てるからいいですね。
だから今日の日記は久々に
長くなりそうなのよ、
無駄に。


  

いつの間にやら
年度末を迎えておりました。

棚卸しに忙殺されていたから、
あまりそういった意識は
ありませんでしたけれども。

しかし本社のほうでは、
着々と入社式の準備が
整いつつあるところを見ますれば、
あぁたしかに
もうあれから1年が経つのだなぁと
一抹の感慨を抱くわけでございます。

1年は早かった。
しかし振り返ってみれば長かった。
どちらでもない、
それは同時に
どちらともいえる。

時間という概念は所詮
曖昧さが尽きないものさ。
自分勝手な捉え方をするから。
だからI,myなんだよ。
あ、
そういう小ネタは要らないのね。


  

明日から新年度。
まったくもってそんな感じが
しないのは、
何も忙しさばかりではあるまい。

朝はめちゃくちゃ寒くて、
コートを着なければ耐えられない。
(もはや鳥取で鍛えた耐寒性は
 見る影も無く。)
だのに昼ともなれば
車を運転していると
日差しがじりじりと顔を焦がす。
また焼けたんじゃないかな。
三寒四温も甚だしきかな。

おかげさんで体調を
少々崩しておりますよ。
そのためかは、
あまり浮かれた春の感じがしない。
でも頭がボーっとするのは
一緒ではあるか。


  

春を感じないのはまた、
周囲の環境のせいでも
あるかもしれない。

周りには、桜の木が
あまりない。
あるにはあるのだ、
それはそれなりに風流で宜しいが、
もっとこう、
桜並木が続くような、
もしくは山にぶわぁっと
咲き乱れるような、
そういった光景を見ていない。

今までそれらを見ることが
できたのは、他ならぬ
学校通いだったからに違いない。

小学校はもちろんのこと、
大学構内においても、
古くて多いな桜が
満開の桜を咲かせるのは
大変雅で艶やかで
そして壮大でかつ
春だ!という実感をわかせてくれた。

そうだ、
桜を見ていないではないか。
振り返れば2年前、
就活ついでに
万博公園へ遊びに行った折、
超満開の桜に感激したことを
今沸々と思い出される。
だから今週末にでも、
行ってみようかな。

桜を見に。

そういう人を、
「さくらびと」というそうだ。
春にしか会えない
自然への畏敬者。
是非とも会って
みたいものではないか。


  

とにもかくにも
大阪在住も早まる1年。

もはや阪神高速など
怖くは無いぞぇ。
林立するビル群に
いちいち天高く見上げて
すげぇなぁなどと
今時分が大阪にいることに
感慨に耽ることももはや無い。
(それはそれで
 寂しいことなのだろうけれどもね。)

新たな刺激を求めて、
さぁそろそろ、
大阪脱出の転機でも
訪れはしまいか。


夜更かしが―

2008年03月30日 | 徒然@ケータイ

真夜中です、ど深夜です。
「オールスター感謝祭」
ずっと観ておりました。
物心ついた時から
観ておりますから。
この時ばかりは、
11時過ぎまで起きられるから
好きだったのを
今更思い出しましたね。

夜更かしが大好きなワタクシ、
只今夜中の2時半です。

まっさんの番組を観て、
また今回も色々と思案する
きっかけを与えられました。
そのことはまた改めて
別の記事で書くとします。

その後は「テレメンタリー」で
平成のトキワ荘を観ました。
かつて漫画家に憧れていた自分は
なんとも浅はかだったなと、
この道を早々と脱線して
良かったとは思うのですが。
夢や信念、根気強さは全くもって
このトキワ荘住人に
負けているなと思う訳です。
生き甲斐とか生きる意味とか、
そういうものを手に入れたかった。

そう頭の中で色々と考えながら
テレビばかり観ているから、
ど深夜まで起きているわけね。



さて更新が滞りがちになり、
訪問数が急落中の
当ブログではございますが。
今日会社にササッと行って、
残った仕事処理のついでに
書き溜めた記事をササッと
UPしてきました。
やたらに長ったらしいのがそうです。
テレビネタばかりです、
他に趣味や楽しみはないのかと
心配されそうですが、
今回はテレビネタだけをいっぺんに
UPしただけよ。

まだまだ書き溜めている記事は
わんさかありますし、
これからも書き溜めては、
突然わっとUPすること数(しばしば)
かと思いますので、
たまにはちょくちょく
覘きに来るのよ。


そう書いているうちに、
夜中の3時やないかい。
ケータイじゃ打つのが
遅いからやぁね。

廃人なりに―

2008年03月28日 | 徒然@ケータイ

ご無沙汰しております。

テレビのドッキリ企画で、
ムーディ勝山氏の素の姿を見て、
ふと財布から炎を上げる人を
思い出しておりました。
懐かしいね、
森林科学コース限定の
ネタでございました。



夜に帰ってきて、
米を研いで炊いている間に、
風呂に入って後に
テレビ見て飯食って、
気付いたら寝てる、
そんな生活が続いております。
相変わらずのメリハリのなき
廃人生活ですよこりゃぁ。

それで日記を綴るのを
怠っていたのかと言えば
そうではなくて、
パソコンのメモに日々マメに
綴っておりますのよ。
まぁ何時UP出来るのか
分かりませんけれどもね。

廃人は廃人なりに、
思索思案していることがあるんです。

【爆問】自分らしさが欲しいんだ

2008年03月26日 | テレビ

 「爆笑問題のニッポンの教養SP 爆笑問題×京大」(NHK)を観ました。

 テーマは、独創性。独創性とはなんぞやという話から、そもそも独創性なんてものは存在するのか、はたまた独創性の無い人間なんているのか。相容れないパラドックスの横たわる難解なる設問は、しかしこれは表裏一体的なものであるという。実際そうなのだろう。
 自分は表現者だ。自分なりの表現の仕方で、この感動を、感銘を、価値というものを伝えたい。自分なりに、自分の受けたままのものを。しかしそれを表現しようとしたとき、どうも手垢の付いた、ベタな表現をしているように思えてしまうのは何故だろうか。誰かそんなことを言っていやしなかったか。鵜呑みにした意見をそのまま言っているだけではないか。体よく纏めて言っているに過ぎぬだけであって、無から自分が作り出して発している表現ではないのではないだろうか。
 そういっているこの文章だって、結局この番組で言っていたことを基にしているのだから、オリジナルな意見とは言いがたいかもしれない。そして実は、この番組の後に放送された「視点・論点」で、「思索」の大切さを説いた作家の意見も混じっている。(その説では、最近書く人が多くなったブログは、誰かが言ったり書いたことをそのまま写したり自分なりに表現しているに過ぎない、自由な表現が発揮されていないことを突いていた。このブログの「テレビ」カテゴリも、結局はその類に属するか。)そうなると、真の表現者たりえていないのではないか。いわんや独創性をや。

 アントニ・ガウディの作品群は屈指の代表的世界遺産だ。彼の創出した建築物はまさに世界に無類の、突出した奇異性に富んで興味深い。 しかしそれらは、極端に表現すれば自然の造形など既存のものを忠実に模写したものに「過ぎなかった」。それでも独創性といえるだろうか?
 しかし、それらを模写すること自体は誰にだって出来たはずだ。ガウディ以前にも、それら自然の造形を「真似て」作品を作ることが可能であったはずだ。何故、ガウディの登場を待たねば出来なかったのか?今までに無かったものを、初めて行った。これを独創性というものかは。
 ならばそれ以降の人たちは、純粋に自然の造形に慕って作品を作るも、「ガウディの追随」となってしまうのだろうか。本人が極端な話、ガウディという人物を知らなかったとしても。
 一ぺんに問いかけを列記してしまったからややこしい問題になってしまった。しかしこれらは、見る人が一体「創造」の基準をどこに置いているかで異なってくることなのではないか。自然が創造主だからガウディは全て真似事と考えるならば、最初の問いはバツとなる。人の手で最初に、となるとまた違ってくるし、人の手で創ったものなら何でもという寛容な考え方を取れば、この世の全てのものが同窓的に溢れているという考え方だって出来る。宇宙は一体という考え方から原子一つ取っても同じものは無いという考え方に至るのと同じか。

 独創性とは、育むものではなくて周囲の環境によって引っ張られるものだという。
 独創的な教授が飄々とキャンパス内をうろついておれば、自然と独創的な学生が寄り付いてくるもの。それに触発されて、また一人、独創性な、というよりは個性や自分らしさを発揮できる後ろ盾を得て、色々とやりだす。
 己の学生時代もそういう風に恵まれていた、そんなことを思い出せたのがよかった。大学は自由なのがいいが、それだけではいけない。名物教授や、カリスマ的学生という発火材のようなものが必要だ。それでいて、自分らしさというものが、独創力というものがはぐくまれる。
 だから、わざわざ大学が音頭を取って、やれ独創的な校風だの、「人間力はどうだ」だのいう必要はないのだと思うのだ。教授の、学生の思いのままにやらせるということが大事なのだ。取り締まるべきは手鏡教授や砂丘落書きサークルであって、自由な発想を束縛するべきではない。
 大学という空間は大事だ。徒に競争環境においたり経費削減に踏み切ったりするべきではない。独創性を一個人から引っ張り出していくこと、これによって社会が多様となり「新たなもの」がどんどん生み出されていくという貢献を、大学は本質的に担っているのだから。権限に胡坐をかく事務員こそ構造改革してやって欲しいと願うばかり(余程の恨みがあるらしい)。


巨大ハンバーグ再来

2008年03月23日 | 食生活


頑張ってみました。
久々にハンバーグを
コネコネ作ってみました。

学生時代にも同じように
馬鹿でかいのを作りましたけれども、
卒業してもまだ
作りたがっている自分が
いるのはどうなんですか。

ミンチ肉が見切り半額で
お安かったですからね、
ついつい大人買いよ。

〆て1キロもの
巨大ハンバーグの
完成にて候。

かといって、学生時代のように
コレを丸々フライパンで
焼くというような野蛮はもう
いたしませんぞ。

確りと、食べやすい大きさに
丸めました。
そしたら結構な数に
なってしまった。
どんだけ食うんだよ。

さくっと焼いて、
野菜もつけて完成。

まぁ結論を端的に言うと、

失敗しました。

パン粉が明らかに
多すぎました。
肉味のパン、みたいな感じ。
こりゃぁ参った、
あと何個残っているんだよ。


【ETV】新たな文化創出博物館

2008年03月23日 | テレビ

 ETV特集「フィールドへ!異文化の地を拓く~国立民族学博物館の30年~」を観ました。大変興味深くてよかったです。
 国立民族博物館、通称「民博(みんぱく)」は、個人的な話去年の5月に参りまして、その展示物の豊富さに感動したところです。その感動は当時の日記でも綴っております。
 そこで働く研究者と、ついこの間もテレビで探険する模様が放送されていた探検家関野さんが、「文化相対主義」のもとに今後あるべき文化人類学と文化博物館の像についてを色々と語らっておりました。そのお話が大変興味深いものでした。

 大阪万博のプロデューサー、故岡本太郎氏の提唱で世界の民族品の収集が行われ、それが未来永劫貴重な学術的遺産として残すために、万博の地にこの民博が完成したということです。なるほど、そういった経緯があったとは。万博公園にわざわざ博物館が作られたのには、それ相応の理由があったわけですね。
 しかし此処はただ単に、知識の集積ならびに研究の拠点としての機能にとどまらせないというのです。
 例えばアイヌ伝統の品々に宿る神を鎮める儀式を、民博にて執り行われるという試み。それが昨年から一般公開され、今やアイヌ伝承文化を大阪吹田の地で見られるという、ものに留まらない伝承や風習までもの「収集」。そしてこれを通して来館者との文化交流。

 この、異文化との交流というのが今回の話の味噌でした。
 研究者と被研究対象者、この両者の関係はどうあるべきか。過去の、伝統的な民芸品や習慣ばかりではなく、今現在に繋がる習慣の変化をも研究対象にして、その国や地域の「現在の」異文化とも接触を図る。
 さらには博物館の役割を、その地域や国の「財産」「誇り」としての文化財の保護、つまりは学術的価値に留まらない文化的価値の保有、さらにはそれを通しての異文化交流の場としての活用。
 様々な役割を、今後の博物館には期待されるという話を聴きまして、もっと世論の関心を博物館に寄せられると、きっと世界への関心が高まり、本当の意味での国際人輩出や平和学習などといった貢献を果たすことになるんではないだろうか、と思ったりしました。
 また行きたい民博。ようし、近々行くことに致しましょう。

 尚この日は、NHKスペシャル「新シルクロード」と「情熱大陸」世界遺産屋久島の樹木医が、裏で放送されておりましたから、全編を通してみることが出来なかったし、また録画をすることが出来なかったのですよ。
 ですから、近々民博へ行くための予習を確りせねばなりませんから、是非是非、再放送をと渇望する次第なのです。


優雅な、いや怠惰な―

2008年03月23日 | 徒然@ケータイ

昨日は現場で色んな
「災難」に会いまして、
もうてんやわんや、
大変でした。

だから夕飯を食っている最中、
お代わりしようとして
でも眠いなと思って
布団に横になった瞬間、
もう駄目でしたな。
夜の11時頃の出来事でした。
土曜日の夜って言うと、
いつも夜2時くらいまで
起きているからね。
余程の事なのですよ。

そして朝の4時に目覚めました。
平日の体内目覚まし時計が
作動した模様、だけでなく、
右ふくら脛に激痛が走りまして。
昨日から痛かったのだけれども、
こりゃかなわんと
慌てて湿布を貼りまして、
そしてまた布団のなかへ。

身心共に疲労困憊
しんどいのでございます。


朝遅く起きて後に昼寝をする。
優雅な、いや怠惰な
休日を過ごしておりました。
全く持って非生産的な一日を
過ごしてしまいました。

けれどもこんな風に、
平日は終日寝て過ごすことを
切望している訳だから
その点では有意義な一日。
でも端から見たら、
いや自分で見ても、
有意義とは程遠いなぁ。


日々、駄目な人間に
陥っているような気がして
ならないのですけれども。
滅入っております。
いや単に気合いが
欠如しているだけか。


本当は、冒頭に述べた
忙しさを理由に
言い訳云々しようかと
思ったけれども、
それは逃げてるから止めた。

来週こそは、と思うのです。



3日振りにケータイより
綴っております。
ご無沙汰しておりました。

ケータイで文章を綴るときに
不便なことは、
漢字の変換が時々
なされないことですな。

上の文章では、
ふくら脛、困憊、滅入って、の
3つが変換されませんでしたよ。

ケータイの機能が多角・高度化
する中で、
OSのここんところを
もうちょいと充実させて
欲しいなと思うのですよ。

平日のど真ん中に―

2008年03月20日 | 徒然@ケータイ

平日のど真ん中に
休日があるのは
久し振りじゃございやせんか。

そして明日、明後日を
乗り越えられたら、
またお休みが来るのよ。
嬉しいじゃございやせんか

一週間が7日あるのは、
長いと思うんだ。
2日連休でも5日連続で
働くのは正直しんどい。
3日働いて、1日休んで
2日働けばまた1日休む。
うむ、理想だ。

けれども、なかなかそうは
いかないのが世の常ぞ。

日曜も出て来なくては
ならないときもあるのだから。


翻って今日は
平穏な1日を過ごせた事に
最大限の感謝をせねば。

世界を見渡してみれば
(今見ているニュースでは)、
チベットやイラクでは
日曜が云々どころじゃあるまい。



今読み返したら何だか
話が混沌としてゴタゴタだ。
ケータイで文章を綴ると、
全体が歪になるね、
仕方ないからまぁよいね。

世界危機遺産の真相

2008年03月18日 | テレビ

 「地球創生ミステリー マザー・プラネット」(TBS)を観ておりました。
 TBSのドキュメンタリーは昔から定評があるとおり、実に好いですね。バラエティやボクシングはやめて、ドキュメンタリーの番組をもっと増やして欲しいと思うのですけれども、まぁそこまでは言わないでおきますか。


 1978年、世界で初の「世界自然遺産」に登録された、ガラパゴス諸島。それから、30年。今や「世界危機遺産リスト」にも登録されてしまった。
 危機遺産に登録されたのは、去年の7月。このとき、世界で初めて世界遺産登録抹消された自然遺産もありました。環境破壊が深刻化する中、毎年増え続けていた世界遺産が、日本の人口のようにやがて山場を迎えて現象の一途を辿る日が来るのではないだろうか、とそういう恐ろしいことすら頭を過(よぎ)るのです。

 それにしても驚いた。まさかここまで、ガラパゴス諸島が危機的状況に陥っていたとは。これこそ正真正銘の「ダーウィンの悪夢」ではないか。
 頻発するエルニーニョ現象により、海中の植物プランクトンが死滅、島は大飢饉に陥った。けれどもこれぞ生物進化の真髄、陸イグアナと海イグアナが交雑し、「ハイブリッド(交雑)イグアナ」なる「新種」が誕生した。エルニーニョくらいではへこたれない生命の強さは偉大だ。
 けれども近年の地球温暖化は、それよりも激しい変化を引き起こす。最早それに生物は進化の速度を合わせることが出来なくなっている。

 しかししかし、それだけには留まらない。いや寧ろ、それどころではない。
 とある漁港で、地元民が魚を売る市場。その側でえさをねだる鳥たち。寝そべるアシカ。一見して、実に微笑ましい野生動物と人間との共生。けれども彼らはもう狩をする術を忘れ、野生で生き抜くことが出来ないのではないか、とも言われている。否、近所のネコを見ていれば分かるとおり、必ずしもその危惧は当たらないとは思うのだが。
 とあるゴミ捨て場で。「進化論」の根拠となったフィンチが、残飯をあさっている。そのゴミ捨て場は、プラスチックや金属類も、ガンガン燃やされている。
 ゴミが発生するのは仕方が無い、住んでいる人たちに、出て行けなんていうのはもってのほか。どの国の世界自然遺産にも、そういった悲劇が起きているからだ。ところが、ゴミが多く発生した原因というのが、観光客とそれを目当てに移住してくる人々の増加。
 むむぅ、何だかどうにか出来そうに思えるではないか。何とかならんのか。


 今回は凄まじく衝撃を受けた、内容でした。けれどもやはり、ガラパゴスというところは摩訶不思議、かつての生物屋は好奇心をそそられっ放しで、堪りませんでしたなぁ。


【爆問】精神的にはNEETと同じ

2008年03月18日 | テレビ

 今週も「爆笑問題のニッポンの教養」(NHK)を観ておりました。毎週見ております。
 今回は、若者と労働、そして所謂「NEET」と「格差社会」の問題。
 NEETを生み出すこの社会の構造を真っ向から変えていかなくてはならない。でもそれはどうやって?今の社会を再構築することは太田さんも准教授も同じなのだけれども、精神論に終始したり、資本主義的価値観から逃れられなかったりと互いの意見が咬みあわず。異論反論の右往左往。
 まぁ尤も此処で結論が出せるようなら、この社会はとっくに好くなっているか。

 面白かったのが、「幸せ」をどう捉えるかで、お二方の意見が顕著に異なっていたこと。
 そして、所謂NEETを可哀想と同情するか、羨ましく思うか。

 NEETにも様々な「種類」があるから一概には言えない。だからここでは、自分の働く場所を、やりたいことを見つけきれずに、長々と就職活動を行う人の場合を取り上げてみることにしようか。遊んでばかりのキリギリスNEETは論外だ。
 この世は多様な価値観に溢れている。だから、どう生きるのが素晴らしいんだ、といった言葉なんて最早耳に入らぬ。金に飢える人が依然としている一方で、質素な生き方を渇望する若者だっている。
 それでも、当たり前のことだけれども、中々思うような生き方の出来る仕事なんて早々遭遇することは無い。いや限りなく無いのかもしれない。それが恐ろしい。そしてその現実にうすうす気が付いたとき、依然として諦めきれずにもっと模索しようと試みる。しかしそれは無駄な抵抗か。

 きっと若い人は誰でも、理想の生き方、遣り甲斐のある仕事を求めている。実はそれは上に挙げるNEETでも、就職はしてみた人間でも同じ。特に自分がその後者に当たる、と思っているから。
 言ってみれば、精神的にはNEETとなんら大差ないのだ。ただ、正社員という立場にある「だけ」の話である。そこまで言えば、3年ほどで会社を辞める若者の気持ちというのが、理屈としては分かっていただけるだろうか。

 だから准教授のおっしゃるとおり、仕事の意味や価値を問う若者は苦しんでいる。それを手助けするという話はありがたい。
 しかしながらそれは、NEETには留まらないのだ。そしてその人にとって何が幸福か分からないのだから、単に「社会復帰」の手助けでは駄目だと言うところは太田さんも鋭い。質素な生き方を望むのなら、それでよいではないか。端から観れば「格差」だって、それは経済至上主義の幻覚ではないか。そしてこれが「豊かさ」とは何か、という議論に繋がるのであろう。

 今現在、社会のしわ寄せが若者に集まっている。けれどもその責任すらも、若い人に押し付けようとしている。まるっきし環境問題と同じ構造ではないか。
 だから結局、それをどうやって解決するのか?持論としては、解決策(イコール自分の思い通りの生き方を見つけたとき)を導き出すまでは、とりあえず暫定政策として現在の社会を維持すべく、とりあえず手に職を持って、働く間に模索していこう、と考えて現に実践している。
 NEETと呼ばれる同世代の人たちも、とりあえずまずは働いてみるという一歩を踏み出せば、上の世代から馬鹿にされ責任を押し付けられ、という事も減るのではないだろうかとは思うのだが如何だろうか。難しいか。


うつらうつらと―

2008年03月18日 | 徒然@ケータイ

5時を過ぎた辺りから、
強烈な眠気に襲われました。

パソコンの前で、恐らくは
首がこくこくっと
振れていたんでしょうなぁ。
特に注意はされんかったけれども。



兎に角ここ数日は、
やたらに睡魔が襲ってくる。
春だからかな。

この、寝まいと堪える辛さ、
その一方での心地よさ。

高校時代の春を思い出した。
丁度こんな感じ。

授業中突如睡魔に見舞われる。
寝てはならぬ。ぐっと堪える。
けれども一瞬、意識が飛ぶ。
一瞬の、深い眠り。
うつらうつらとしているのは
浅き夢見し(うつつ)現哉。

暫く経って眠気が飛んでしまい、
さっきまでのうつらな時間を、
なんとも長くてそして
心地の好い時であったと
思い出されるのは
如何なる因縁哉。


まぁもっとも、この文章自体
寝ぼけながら綴っていますよ。



さて、帰りがけにドン・キへ寄った。
前にも紹介した、鳥取伯耆産の
美味しいお米を買うために。

そしたら今日は米の特売日でして。
鳥取の米5キロ1980円と、
5キロ980円という
怪しいくらいに安い米を
買っちゃいました。
ついつい、安いものに
目がくらみがち。

5キロの米を両手に抱え、
家も近くなったと言うのに
疲弊した体にムチ打って、
長い時間を掛けて(に感じた)
帰りましたよ。

えぇ、まぁその、
馬鹿ですねえ程度の
節度ない日記でございます。

ネットが無いのも―

2008年03月17日 | 徒然@ケータイ

新しい住まいに移って2日目。
六畳の和室、共用の風呂に炊事場。
建物の古さといい
当に学生の下宿ですよ。

共用だから、独りのときは
躊躇われた湯船のお湯張り。
風呂に浸かって、
この上ない至福に浸っておりました。

前に住んでいた所より、
寂しくないし居心地がよい。

ただ悩ましいのは、
買い物が不便なこと。
ネット環境が整っていないこと。
そんなわけでこうして
ケータイでウダウダと駄文を
列ねておるのですね。

でもネットが無い代わりに、
時間が沢山出来て得した気分。
いつの間にやら、ネット中毒に
陥っていたのですね。
ネットが無いのも、
時には好いものです。



今日も色々とありました。
でも2月のしんどい時期を
乗り越えた今、なんのことはなし。
こうして人は成長していくのかな。
まぁ、まだまだワタクシ、
成長が足りなすぎなんで
あまり偉そうに言えないのが
辛いトコロね。

【報道A】貯蓄の神様

2008年03月16日 | テレビ

 20台の若い人たちは、貯蓄に勤しんでいる。故にかわいそうだ、というのが上の世代の考え方らしい。
 「読売新聞」にそんなことが取り上げられ、ネット上でも話題になっていた。そしてこのたび、「新報道プレミアA」(フジテレビ)でも同じようなことが取り上げられた。

 番組では、実際に貯金に勤しむ「貯金男子」の生活を追ったものを放送されていた。
 そして大変共感し、感動すら覚えてしまった。そう、何を隠そう、私もまた「貯金男子」であったからだ。

 手取りの給料が24万円で、貯金が10万円?こちとら、手取り17万円で食費は3万円以下に抑えとるんじゃ。
 なぬ、同じ手取り17万円で、食費が2万円を切るとは!これはこれは御見それしました、まさに貯蓄の神様此処に降臨、といったところだ。


 そしてやはり、上の世代の人たちは言う。
 「楽しいの?」「辛くない?」「楽しみを知らない」「だから日本の消費が上がらない」と。
 その辺のところは、寧ろネット上で激しいジェネレーションギャップを伴った議論が活発だから、ここでいちいち云々するのはやめておくとして、自分の考えだけを述べたく。
 貯金そのものが、娯楽のように楽しいものだ。辛いんだったら最初からやるものか。第一、車やら酒やらに浪費する方の気が知れない(それが悪いということでは無い、念のため)。

 日本の経済を回らなくしているのは、確かにそうかもしれない。けれども、それでもやはり必要最低限のものは必要だし、自ずと消費活動は生まれる。セレブや成金はどう思うか知らんが、そこそこの稼ぎを、一般の企業が維持していける程度が丁度いいのではないか。
 第一、無駄なものを買わせようとする今の社会のあり方、価値観のおき方に問題があると思うのだ。無駄なものを控えれば、環境にも優しいではないか。

 そして何より貯金をする一番の動機は、将来の年金等への不安である、ということを伝えていた。それも大きい。しかしそればかりではない。少なくとも私は、自分自身の将来への備え、というところもある。
 「かげろう新人」という言葉もちらほら聞く。1年経つか経たないかで辞める人が多いという。1年はちょいと極端だが、3年くらいで辞める人は多いという。何故辞めるか。ヘタレだからと言って欲しくは無いのだ。皆本当にやりたい事を探している。そして定まった夢に向かって一歩を踏み出すために、そういった進退を自ら決するのだ。
 その決断は色々とリスクも伴う。その備えとして、幾許かの貯金があったら安心ではないか。要はそういうことだ、と思うのだ。

 自分の話ばかりに終始して恐縮だが、兎角番組で紹介された「貯金男子」、私は至極同感なのである。