BLOGkayaki2

蚊焼です。日記です。
旅のこぼれ話や没写真の再利用、
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「その他」がメインのブログ。

ペーパーレス

2006年09月23日 | 鳥大時代/就職活動

 この大学が、講義履修のための登録やシラバスが全てオンライン化されて、2年目でございますね。
 最初こそ、トラブルが色々あって大変でした(森林科学コースなのに、別のコースになっていたのはびっくりしました、そりゃ単位が足りないわ履修できない授業があるわで、大慌てでございました)が、慣れてしまった今では、実に便利なものです。

 家には、1,2年のときのシラバスの資料などがあるのですが、それらを積み重ねると、厚さは2センチになります。
 これが4年の今まで続いていたら、その厚さは4センチだったでしょう。
 そしてこの大学の学部生数は約4000人(医学部生除く)ですよ。
 ということは単純計算して、積み上げるとその厚さは16,000センチですよ。単位を置き換えると、160メートル。
 素晴らしい、ペーパーレス成功ですね。

 ただ、ワタクシの場合はこうやって、研究室から履修登録がゆっくりのんびりとできるからよいのですが、特に1,2年生なんかは大変ですね。
 パソコンをわざわざ大学まで持って来て、そこでケーブルプラグの取り合いが起きる(いや実際に取っ組み合いになったことは無いのですが)わけでしょう。シラバスをゆっくりと読む時間が無いでしょうに。
 まぁその辺りはこれから、どんどん改善されていくのでありましょう。

 さて兎に角このペーパーレス履修登録で、全学部共通科目・主題科目の履修登録の抽選登録を行ったのであります。
 主題科目の取得すべき単位は12。しかし私の持っている単位数は20。
 もうここまできたら、人の倍を越えるだけ取りたい、という欲が湧くのでございます。
 というわけで大学最後の学期、主題科目の単位をもう6つ、つまり3時間分の授業を取ることにいたしました。

 しかし実は、今回取る予定の授業は、ただ単に単位がほしいからとか、授業が面白そうだからという理由だけにはとどまらないのです。
 今日登録した授業は、全部午前の授業です。しかも2つは朝一の授業です。
 今までの自分だったら、朝一の授業は忌避していたわけでございますが、来年から自分は規則正しい社会生活を送るための準備をせねばならないことと、朝早く来る義務が無い研究室に早くこれるよう義務を作った、という理由もあるのでございます。

 でもやっぱり、知的好奇心ですよ。4年にもなってまで要らん単位の授業を取る動機なんて。
 それに、嫌になったら途中で捨ててもいいというのが、魅力でもあり、気楽に授業を受けられることに繋がりますからね。

 大学最後の学期は、本当に学びたいことだけを学ぶことが出来る学期と位置づけ、頑張ってまいりますよ。


捨てる技術

2006年09月23日 | 雑感散文

 どれくらい前なのか忘れてしまいましたけれども、『捨てる!技術』(宝島社新書)が売れて、流行っていた時期があったではありませんか。
 あんましその本には興味が無かったので、読んだ事はないのです。
 そもそもワタクシ、どんなに不要そうに見えるものでも、捨てることの出来ない性質(たち)なものですから。
 事実、捨てないでよかった、取っといて良かった良かったと、そう思える事例が今までにいくつもありましたから。

 そして引越しをあと半年に控えた今日、ふと下宿の下の階の人が引っ越して、部屋が綺麗になっているのを見て、無性に自分の部屋も片付けたくなったのですよね。
 それでからっと晴れたお昼は、自分の部屋を片付けていたのですよ。ようやく、出しっぱなしの扇風機を片付けました。

 ここでふと思ったのですよ。
 大学に入って3年半、一人暮らしをするようになって、幾分かは自我流の「捨てる技術」を身につけたかなぁって、思ったのです。
 今まで、授業プリントから清涼飲料水についていたおまけ、はたまた紙袋や空箱など、ありとあらゆるものを溜める癖を持っていた私が、今ではなんの躊躇いも無く捨てることが出来るようになったのです。

 何故このようなことが出来るようになったのか。いくらか仮説を立ててみました。

仮説1:
 3年半も暮らしてみて、結局何も使う機会や用途がなかったものの判別がつくようになった


 これはですね、ワタクシが物を溜める理由として、いつか何かの役に立つかもしれないなぁという思いがあるためなのですよ。
 事実、その後活用できたものもありました。
 しかしその一方で、取っておいて最長3年半、なんら役に立たなかったものもあるのです。
 この事実を踏まえて、よし捨てようという気にさせてくれるのです。
 また、もうそれ以降その物を溜めないということにも繋がります。

仮説2:
 溜めるものを限定することでメリハリがついた


 これは特に大きいような気がします。
 例えば、本なんかがそうなのですが、古本など安い本を大量に手に入れては、それを本棚に並べることをヨロコビとしているのですよ、ワタクシの場合は。
 それでもいつか、本棚の収容量には限界が来ます。
 そこで、ワタクシの場合は、椎名誠さんの本だけは一冊たりとも手放さない、ということにしたのです。
 椎名さんの本だけは取っておく。言い換えると、そのほかの本はそこまで執着した思いは無いわけです。
 だから、椎名さん以外の本は、読み飽きたもの、また面白くなかった(とはいってもこの手で買ったのだから、全然面白くないことは無いのですよ)本は、躊躇うことなく手放せることが出来るようになったのです。

仮説3:
 お金をかけて運ぶほど価値のあるものか否かを考えるようになった


 そしてこれは、将来ここから引っ越すのだ、という意識が段々高まったことを受けて、強くなってきた要因だと思うのです。
 引越しの業者さんを利用するならば、当然、お金が掛かる訳です。
 しかしながらそれを利用したことの無いワタクシは、果たしていくらばかりの料金が掛かるのか、分からないわけです。
 コストが不明なものは当然、過大見積りをするわけです。
 一箱あたりの輸送量はいくらだろうか。宅配便くらいの価格だとすると、2000円乃至3000円はするだろう。それくらいの見積もりをします。
 そんなとき、この本は送料2~3000円の箱に詰めるほど、大切な本なのだろうかと、自問するわけです。
 なんだったら、引越し先で買いなおしたりとか、図書館で借りればいいではないかと、そういうことを思い出したら、その本は箱に詰めなくていい本である、と判断されるわけでございます。

 一応ですね、今のところ3つの仮説を提示いたしましたけれどもね、それよりももっと、大きな要因があるような気がしてきたのでせすよね。

 人生、身軽が一番。

 どうもワタクシ、一つの場所にとどまっていることが出来ない性の持ち主であるらしいことに気がついたのです。旅癖もその表れなのでしょう。
 となると、いつでも、明日引っ越せといわれたら引っ越せるような体勢を整えておかなくてはならないのです。
 そうすると、もう普段から、これは要る、要らない、要るかもしれないという判断をするようになったのです。
 逆に言うと、今まで私の中には、これは要らない、という判断が鈍っていたわけでもあります。これは要る、という判断も鈍っていたかもしれません。

 まぁそんなわけで、今日は一気に片付けてしまえたのですが、いつまた、部屋が散らかってしまうか、我ながら気が気でありません。
 捨てる技術も、気分次第ですからね。何とまぁあやふやな技術だことねぇ。