BLOGkayaki2

蚊焼です。日記です。
旅のこぼれ話や没写真の再利用、
ブログ1、3、4に載らない
「その他」がメインのブログ。

【ふしぎ】木造遺産に負の遺産

2009年10月31日 | テレビ


 今日の「世界・ふしぎ発見!」(TBS)は、ポーランドの世界遺産でした。
 ポーランドの世界遺産数は、13。日本は14といい勝負。けれども似ているのは数だけではなくて、遺産の価値や特徴にも及びます。

 「トルンの中世都市」の町並みはとても素敵でした。なんというか、質素ながら堅牢というか、中世のヨーロッパの趣きそのもの。
 その町並みは、ドイツ式といいます。ポーランド領土に乗り込んだドイツ騎士団に、勝手に領土を主張されて作られた町なのだそうです。番組では出てきませんでしたが、同じ事情を抱えた歴史遺産に、「マルボルクのドイツ騎士団の城」があります。

 さて、日本の遺産に似ている特徴というのは、巨大な木造建築の歴史遺産があるということに尽きます。
 「ヤヴォルとシフィドニツァの平和教会群」の、2つの木造建築教会が、とても素晴らしいです。
 ドイツ騎士団に攻められるだけでなく、文化も色々とドイツと影響しあったポーランド。プロテスタントが国中を席巻するも、領主はカトリックだから、やんわりとした迫害を受けたといいます。そのひとつが、教会の建設条件をつけたこと。教会は木造でなければならない。

 ところがそれを逆手にとって、巨大な木造建築を作り上げてしまった。
 ヤヴォルの教会は、 公式ホームページ(英文)によりますと、1654年着工、1655年竣工。広さは26.8×43.3m、高さは16.4mと、ヨーロッパ最大の木造建築だそうです。
 使われたのは、木と藁を混ぜた粘土(wood and clay mixed with straw)。日本の家屋と、何処に相違がありましょうや。ただし屋根は板葺きですので、ここだけが日本の木造建築との決定的な違いといえます。
 ちなみに、張り合うようでなんですが、日本の東大寺は1691年に再建、広さ57.5m×50.5m、高さ49.1mです。
 同じ木造建築教会に、「南部小ポーランドの木造聖堂群」という世界遺産もあります。これも番組では紹介されませんでしたが、大事な木造の遺産です。ヨーロッパは石の文化という思い込みを、悉く打ち砕く遺産です。

 しかし、歴史を紐解けばまだまだドイツの影響を受け続けたポーランド。「アウシュヴィッツ強制収容所」という世界遺産もありますが、それ以外にも、秘密の地下施設を作ったりしていたようです。
 さすがにナチスの埋蔵金はどうかとは思いましたが、当時の武器や通信機器のほか、故意に隠された機密書類などの発掘が勧められているということです。新しい発見に期待したい所です。
 これらも含めて、今ポーランドでは観光資源として活用しているということです。歴史を直視し、負の遺産でもなんでも積極的に活用しようという、世界遺産活用の姿勢は、見習うべき所が沢山あるように感じました。


雲仙の山々の紅葉

2009年10月31日 | 雑感散文


 雲仙国立公園に行ってまいりました。
 日本初の国立公園でありますし、
今年は日本最初の国際ジオパーク
(地質遺産)にも登録されました。


 まず最初に登ったのは妙見岳。
 麓のロープーウェイから一気に
登ることもできます。
 遠くは千々石海岸の湾曲した砂浜を
眺めることが出来ました。
 ぼんやりと天草諸島も見えました。

 妙見岳から、国見岳へ向かう途中から
普賢岳を眺めるは絶景かな。
 普賢岳の奥に見える、灰色の山は
平成新山。普賢岳より高く聳えます。
 よく見れば、平成新山からは
湯気がもくもくと立ち登っていました。

 国見岳は今回は登らず。
 紅葉を眺めるだけ。

 それにしてもこの(平成新山を除く)
雲仙三山。山の形もさることながら、
岩の露出や植生まで異なります。
 だからてんでバラバラの
色形をしております。


 そして雲仙は、植生が独特で面白い。
 主な植物を、1枚の写真に
収めることが出来ました。
 壁紙サイズの大きな写真を
揚げましたので、興味のある方は
ご覧になすってください。



 尚、雲仙散策の様子は、
ブログ1,3,4でもそれぞれ
違った角度で書いております。
 こちらの方もご覧になってください。

 →ブログリンク・島原

反省の弁を述べさせて─

2009年10月30日 | 凡日記


うーむ。
前回のかみき先生との対談の件で、
読書についてウェブでどうのこうのと
偉そうに語ってしまいましたが、
どうもいくらか私にも
不見識な所があったようだと、
色々調べていくうちに分かってきました。

それに対する反省も兼ねて、
またおいおい対談を再開させたく
存じる次第であります。


別件の、かみき先生のブログ
コメントにて、以下のような
書き込みをしておりました。
一部省略。


 HPを見たらば、
 色々と面白いことが
 行われているではありませんか。
 芸能芸術のみならず、
 歴史やコミュニケーションなど
 テーマも数多あるようですよ。

 本の知識ばかりで評論する人は、
 「もやしもん」8巻の
 ムトーさんみたいなことを
 しかねませんよ。
 それではいけない。


それではいけない。と、
人には申し上げておきながら、
じゃぁ自分はどうなんだと
いったのが、今回の反省であります。

十分調べずにダラダラと、
古い見解をひけらかしてしまった
失態をね。

今回はまぁ取り急ぎ
反省の弁を述べさせていただきまして。
新しい見識を加えた弁は、
また次回の対談で。


日々の空白の大きさも─

2009年10月29日 | 凡日記


いま、かみき先生との対談で、
読書論をやっているのですがね。

さらに、ウェブ読書論の見識を
深めるために、図書館で
3冊ばかり資料を借りてきました。

土日にこの3冊をぶわぁっと読んで、
その後に対談再開という
段取りでございます。

というわけでかみき先生、
また近々再開しましょうね。


   


一日10分ほど、
英語の勉強をするのを
3日ほど前から再開しました。

毎日、少しずつ、
兀々(こつこつ)と。
そう心掛けていたのに。

7月のある日を境にして、
何故かぴたりと止んだまま
放ったらかしてしまいました。

実に3ヶ月以上のブランク。
いやぁ、日々の積み重ねはもとい、
日々の空白の大きさもまた
計り知れないものだと、
反省頻りなのであります。

今日は何とか忘れずに
やり遂げました。
高々10分ですが。
問題は明日、明後日、明々後日だ。


何ば捕まえたとぉ?─

2009年10月28日 | 凡日記


さて昨日は、
ちょいと昼時に考えていた
つまらぬこと云々を書き綴っていたら、
いつの間にやら「距離感」論に
発展してしまいましたな。

結局何が言いたいのか
分からないではないか、と
言うお方もいらしゃいましょうがね。
まぁそれはそっとしてくだされ。

あまり堅い話をするのが
このブログ2の本分ではございませんので、
今日は気の抜けた話で
お茶を濁すであります。


   


つい先日、低学年の子供たちが
わぁっと家の近くの
住宅地に取り残された田んぼで
遊んでいたのですよ。

子供たち曰く、
最近は満足に遊ぶ場所が無いから
わざわざここまでやって来ている
のですってよ。

そしてこのあたりは
水がほんの少し湧出する
小さな小さな川があります。
貴重な清流ゆえ、綺麗な糸トンボ
からオニヤンマまでやってくるのです。
そしてカニも何匹か棲んでいます。

子供たちは、
夏はカエルを捕まえに来、
最近はカニを捕まえるために
来ているようなのです。
捕獲用の網を持って。

網を持った子供たちが、
6,7人くらいですかね、
わずかに残った自然と戯れる。
実に素晴らしい貴重な体験では
なかろうかと、傍で見て
思うこと頻りなのであります。

ゲームばかりする子供。
塾や稽古に忙しい子供。
そもそも周りに自然環境がない子供。
そんな子供が増えているとか
よく聞くではございませんか。

けれどもここ実家の周辺は、
ど田舎ではないが左程街でもない
高齢化は進むが過疎化は免れた
一地方であります。

わずかながらの自然と
戯れている子供たちの姿を
見ることが出来る幸せ、及び
当然子供たちにとっての好機会。
今、自分は、
辛うじて残された
恵まれた地方にいるのだなぁと
一人で勝手につくづく思い、
そしてこの地域を大事にし、
他にも増やしていければなぁと
思うこと頻りでした。

あれ、今日もなんか
真面目な話になっていねぇか。



やがて外から、
捕まえたぞぉと威勢のよい
声が聞こえてきた。

「何ば捕まえたとぉ?」
と少年。

「猫ば捕まえたぁ」
と声の主。

ん?カニじゃなかとね?

憐れ、アビ公…。


 ↑アビ公。

過去の動画はブログ1にて


距離感を大事にする

2009年10月27日 | 雑感散文


 4万キロって、
どれくらい遠いのだろうか。

 つまり地球1周は
どれくらいの距離なのか。
 ふと、そんなことを
昼時に考えていた。

 100メートル走。
10秒の壁は日本人選手には
まだまだ厚い。
 12秒だったら、そこそこ速いか。
普通の人だったら凄く良いタイムだ。

 その全力疾走ペースで、
1000メートル走ったらどうだ。
 トラック2周半だ。
絶対体が持たない。
 でも走れたとして、120秒か。
つまり1キロ2分。

 これでフルマラソンの距離を
走ったららどうだ。
 計算しやすく40キロ走るとすると
80分、1時間20分でゴールできる。
 世界記録は2時間5分くらいだったか。
 そう考えると、マラソン選手は
全速力の4分の3のペースで
走り続けているということか。

 さて、問題の地球1周である。
 4万キロ。全速力で走り続けると
8万分ということになる。
 8万分を1440分で割れば、日数が出る。
答えは55日半。
 およそ2ヶ月近く、一睡もせずに
全速力で走り続けたら、
地球を1周出来るのだ。



 地球の裏っ側に、
今はどれくらいで行けるのか。

 夏目漱石がロンドンへ留学したとき、
利用した船は60日間を要したという。
 今では飛行機で、20~30時間で
行くことができる。

 つまりこれを時間距離の短縮と
呼んでいるわけだ。

 時間距離がこれだけグローバルに狭まれば、
逆にローカルで時間距離が昔と
左程変わらず、というところが
遠い世界となっている、ともいえる。

 けれどもそれは利点欠点が
綯い交ぜになっている。
 時間距離短縮という世界潮流に
乗り遅れてよいのかという意見も有れば、
その潮流に悪影響はないかと懸念する
声もあるはずだ。

 しかしながら懐旧の念に浸ること、
郷愁に耽ることが好きな者にとっては、
却って時間距離が長い、
「近くて遠い辺境」に
多大なる魅力を感じる。



 地球の裏っ側までの距離は、
2万キロである。地球の半周。
 全速力で、1ヶ月ほど掛かる。

 昔は間違いなく、
今いる場所から地球上で一番遠いのは
地球の裏っ側だった。

 けれども今ではそうとは限らない。

 かつて世界の各地には
秘境・辺境といった地域が
あったわけでしょう。
 けれども何処も交通整備が推し進められ、
ついでに観光ビジネスが染み付いて
でかくなってしまった所が多々見受けられる。
 チベットのラサだって、5年前までは
ものすごく山奥にある秘境だという
イメージが強かった。それが今や。
 ラサは移動していないのに、不思議だ。

 秘境は秘境、辺境は辺境で
いて欲しい、とよそ者は勝手に思うのだ。
 けれどもその地域でも、
伝統文化や風習を守るために
必要なのではないか、といった考え方が
出てきているのもまた事実。

 西洋ではその考えが既にあって、
敢えて村に道路を通さなかったから
景観が保護されて世界遺産になった村がある。
 逆に道路建設のために世界遺産を
抹消された町も西洋にはあるが。



 距離感というのは、
大事にしたいように思う。
 そうでなければ地球を小さいものだと
誤解しかねないことになる。
 距離感を大事にするには、
遠いことを悪しとしないことではないか。

 不便だ不便だと嘆く地域があれば、
それを逆手にとって、遠さの魅力を
アピールできればいいのではないかと
暢気に考えるのだが如何。
 そのためにはまず、そういった
距離の魅力を広めるのが先決か。


誰の手垢もついていない─

2009年10月26日 | 凡日記


今し方、テレ朝動画で
「フロッグマンショー」の
無料動画を観ては廃頽していました。

前方後円墳女子大生(←進学した)のお話や、
島根のベンチャー秘密結社のお話などを
見ては脳を暫し腐らせておりました。

「蛙男」を知らない人には
なんのこっちゃ到底理解できない
一文ですね、今日のは。


   


先週、図書館で借りた本が
貸し出し制限ぎりぎりの
10冊に達しました。

まぁ、何冊かは調べもの用だったり
拾い読みするだけなので、
全部読むということはないのですがね。

しかし10冊はボリューム満点。
片手で持つにはかなり堪えます。
腱鞘炎(けんしょうえん)になるぞえ。



うち一冊は、民俗学者の
宮本常一氏の全集の47巻を
借りております。

ちょいと調べたいことがあったのと、
非常に興味があったもので。

けれども、最初の2,3ページで、
色々と考えさせられたというか、
思い巡らすこと多々ありです。

まぁ、またおいおい
例によってブログ1で
思うところをお話しようと思います。


それにしても。
2006年刊とはいえ、
誰も手にした形跡のない
真新しい本ですよ。
だぁれも読まないのかい。

誰にも読まれない全集とは。
1冊3800円×50冊という金額の点と、
内容が実に興味深いという点で
何と勿体無いことか、とつくづく
全集に対し同情の念を寄せるのです。

けれどもね。
誰の手垢もついていない
綺麗な本を、しかも
誰も知らない本を読んでいる
という優越感には浸れますよね。

誰も読んでない本を、探して読む。
ちょいとこれから、
そんなマニアックな読書を
やってみようかなと企んでおります。


   


昔通った小学校では、
学級閉鎖の処置がとられたと、
今日のニュースで言っていました。

すぐ身近な所まで
豚フルが蔓延しているのですね。

新型とはいえ、うがい手洗いで
感染をかなり防ぐことが
出来るといいます。
ですからそれを徹底することです。
だからね、あまり心配することは
しないようにしよう、という心持で
いるところなのです。

うがいと手洗いですよ、皆々様。


【WH】素敵な名前、地域の精神文化

2009年10月25日 | テレビ


 世界遺産の中には、
素敵なネーミングを持ったものが
時々有りますから、好いですね。

 ドイツには「博物館島」があり、
ウズベキスタンには「文化交差路」、
フランスには「月の港」なんてのも
あるのですよ。素敵でしょう。
 日本の暫定遺産の中に、
只長ったらしくまどろっこしい名前も
見受けられます。そこんところを何とか
簡素にそして素敵に替えて欲しいですね。

 そして今日の「THE世界遺産」(TBS)は、
インドの「花の谷」でした。
 これまたよい名前ですね。正確には、
「ナンダデヴィと花の谷国立公園」。


 ナンダデヴィは立ち入り禁止だそうです。
 世界遺産の制覇を目論む人の野望を
打ち砕く一方で、ここは地域の信仰を
大事にするためにも必要な処置でしょう。
 パールバティ女神の聖地だそうです。

 日本でも、自然遺産の立ち入りに制限ついて
長年論争が絶えません。難しい問題です。
 しかしながらここナンダデヴィは、
自然遺産でありながら、麓の村の
祭りや伝統などの文化、そして信仰等の
精神という、文化、無形の価値も兼ね備えています。
 自然保護もさることながら、文化精神を
守るためにも、立ち入りを厳しく制限しているのだと
思いました。それと同時に、
19世紀や20世紀初頭の、地域の文化精神を
踏みにじるが如く登頂・制覇を推し進めた
西欧や日本の(地域の人から見れば)軽率な行為に対する
警告のようにも取れます。

 自然環境を、学術や観光など人間都合で
立ち入り云々を論じる一方で、
古より信仰される山々には、ズガズガと、
渋滞するほどの数の登山客が登っている。
 だから単純に、自然公園は立ち入り制限を
勧める算段ではございません。国によって
事情も違います。それに絶対立ち入り禁止は
好いとは思っていません。詳論は控えますが。
 けれども、自然と地域文化の両面の、
価値や精神を汲んだ上で、
議論がなされる事を願う所であります。







【ふしぎ】パルミラのグローバリズム

2009年10月24日 | テレビ


 本日の「世界・ふしぎ発見!」(TBS)は、シリアの「世界一美しいローマ遺跡」パルミラでした。

 さて、感心したのは、パルミラの遺跡の美しさもさることながら、2000年前のパルミラの生活および当時の「世界」でした。
 日本にもシルクロードを経て伝えられた、唐草模様や鬼瓦の原型。そして柱に刻まれた、数ヶ国語の案内書き。
 そうか、今でこそ「グローバリズム」とか言われているけれども、そんなのは遥か昔にはあったのだ。2000年から4000年前にはすでに世界がひとつに繋がっていたのだ、という思いに駆られます。

 それが1000年前頃から、TOマップに世界が歪められたり、鎖国をしたり、自分たちが文明人だと奢り昂ぶったりしたわけでしょう。それを経て、今更ながらに「グローバリズム」云々と言い出した。けれども依然として、そのグローバリズムも偏ったり利権が絡んだりで、反発や離反も起きている。
 なんだか、今の時代は本当に進んでいるのだろうか、と見方によっては疑わしくもなってきます。

 更に驚いたのは、パルミラのお墓事情でした。
 単純に言うと、今のマンション墓地ですよ。地下の書庫みたいな要領で、遺体が収められるわけです。
 翻って日本のは、もちろん日本の宗教観から反発もあれど、土地の事情や便利さから、「進化した墓」として受け入れられつつあるわけでしょう。
 つくづく、進化とは何であろうかと思ったりするわけです。蛇足ですが、生物学的には、退化する進化、というものも唱えられていますよね。

 いや、これは現代を批判するかのような論調になってしまいましたか。そんなつもりは毛頭ないのであります。
 そうではなくて、2000年乃至4000年前の人々の生活や考え方は、今に通じる所がある。少なくとも過去のことを蔑む事は失礼なので避けねばならない、と考えた次第なのです。
 今よりももっと美しかったであろう、パルミラ遺跡の復元図を頭の中で描きつつ。

沢山撮っていた写真─

2009年10月23日 | 凡日記


ブログ1では動画を、
ブログ2では写真と説明
書いておりました。

富川渓谷の五百羅漢@長崎。

そして今日、
ブログ4にて写真を沢山
揚げました。

また、ブログ4はその他に
沢山撮っていた写真を
一気に揚げました。
ですんでね、ブログ4にも
足をお運びになられたら
嬉しいと思うのであります。

露骨な宣伝でした。


   


朝起きたら、
喉がからっからに
乾いているのに気がつきます。

空気は相当乾燥しているようです。

長崎では、相当
新型フルが流行しているようです。
いつの間にやら、どの学校でも
学級閉鎖をしているとか。

かといって弱毒性ですから
そう構えずともよいかとは
思いますけれども、
うがい手洗いは欠かさぬよう
かなり気を使っています。

皆々様も、新型のみならず
普通の風邪でも油断せず
ご用心くださるよう
申し上げる次第であります。


頭に「ひ」が付く国名─

2009年10月22日 | 凡日記


頭に「ひ」が付く国名って、
ないんちゃうの、と
今日の夕刻ふと思いました。

「は」はいっぱいあるよね、
パキスタンにバングラデッシュ、
「ふ」もありますよね、
ブラジルにプエルトリコ。
でも何故か濁点半濁点ばかりね。

今、念のために検索したら、
ハイチがあったじゃん、且つ、
プエルトリコは独立国じゃねぇし。

でも夕方頃はそれが
気になって仕方がなかったので、
家にある、高校時代の
地理で使った世界情勢の本を
紐解いて調べました。

やはりだ。
「ひ」から始まる
国名がねぇ。

これで全てが解決した。
これで心置きなく
今宵は快適に眠れるであらう。

あっ、いや、まて。
東ティモールがあった。
2002年、高校卒業後に独立。
そりゃぁ昔の本には
載っていませんわな。

今度こそちゃんと、
解決したと思われるので、
快適に眠れるかな。


今日は左手でミカンを剥いて食べよう─

2009年10月21日 | 凡日記


つい最近気がついて、
あ、便利だな、と思って
やっていることがあります。

手の爪切りは片方ずつ。
1回の爪切りで、
両手を処理してしまわない。

常々、片方は短くて
もう片方はやや長い状態を
保持しておく。

するとね、やや長い爪が
いつもあるわけだから、
ミカンの皮が常々
剥き易い状況にあるわけですよ。

ほら、爪を切った後に、
ミカンを食べようと思って
皮を剥こうにも
力が入れづらかったりして
できねぇ、ってことが
ありますでしょう。
それを見事に解決した次第です。



およそ1週間前でしたかね。
たまたま、爪切りを
左手だけやって、
何の拍子だったか右手のは
切り忘れたままだったのですよ。

その後に、ミカンを食べようとして、
おっ、右手は剥きやすいではないか、
そうかこの手があったか、と
気づいたわけですね。
大いなる発見をした心持でした。

そして今現在、
右手の爪は短くなり、
左手のはほとほと長くなりました。
今日は左手でミカンを剥いて食べよう。



はい、
大変下らないお話でした。


 


今、かみき先生と
対談企画をやっているものですから、
最近かみき先生サイトから
コチラへお越しなすった方も
おられようかと思います。
そして驚かれたことでしょう、
なんだ爪の話か、と。

堅い話ばかりでなく、
いつもはこんな下衆い話を
暢気に綴っておりますのよ。


<かVSユ企画>読書のハマり方(その3)

2009年10月20日 | <かVSユ企画>

 かみっきぃ~VSユースイ対談企画

 前回、かみき先生には
読書にハマった「有力な説」
の詳細を書くようリクエストし、
幼稚園の頃まで遡って書いて戴きました。
 かみき先生は無類の新書好き、
と思っていたのですが、
読み出したのは大学以降だったのですね。
 意外です、聞いてみるものですね。

 そしてかみき先生が読書にハマった
契機となった言葉が、「本を読むということは
人の人生も生きるということ」という文言
だったということですね。
 なるほど確かにそうだと思います。
 しかしながら、ちょいと引っかかることもあります。
 この点は、かみき先生も「今後の課題」と
 述べられたことに同じいです。


第2幕・読書のハマり方(その3)


 「本を読め」という論調は、
紙の本を買えと言っているに過ぎぬと思います。
 似たようなことは前回の対談でもお話しました。
 著作権問題を棚上げするために、
仮にネットのテキストのコピペが出来ない技術が
開発されたり、某検索サイトが本の内容検索を
取りやめるなど、諸所の懸案がクリアしたとします。
 それでも、「本を読め」という声は
聞こえてくるのでしょうか。

 パソコンやケータイなどの電子機器で
本の内容を読めるようになっても、
電気が無かったら読めないとか、
目を悪くするとかいう反論が挙げられるでしょう。
 そして何より、本の手触り感や
活字の温かみというものが失われる、という
クオリアに訴えかける反論もありましょう。
 しかし手触り感は本によってまちまち、
人によって好みもまちまちです。
 活字は最近はもう電子的な処理のものに
なってしまい、グーテンベルクや文禄式の
活字とは似ても似つかぬものになってしまったでしょう。
 確かに、一昔前の活版印刷の本には
味わいがあるのは同感する所です。しかし今は。

 それに紙の本は、毎年2億冊もの本が
売れ残っては「リサイクル」に回される
無駄を考えると、といいたい所ですが、
それは流通の効率化で何とかすべきなので
理由からは除外しておきましょうか。
 これを言ってしまうと、全ての本は
電子化すべしという詭弁を生みやすいですからね。

 本は、無くなってしまえばいいとは
毛頭思ってはおりませぬ。
 現に、今日だって紙の本を手にとって
読書を嗜んでおりましたからね。
 本を無くせではなくて、
電子本やネット読書にももっと
光を当てればよいのではないか、
紙の本ばかり保護しようとするのはよくないのだ
ということを言いたいのであります。



 大学時代はですね、こういった
紙の本対ネットという対立軸が
目立っていたわけです。
 時同じくして、新聞対ネット、
テレビ対ネットも議論されていた時代です。

 けれども、ケータイ小説の定着や、
『広辞苑』などの電子辞書化など、
紙の本からの脱却は進んでいるのが
実情であるかと思います。

 だから、上記に示した「本を読め」批判も、
時代遅れといったら時代遅れなのですよね。

 よってこれからの論点は、
如何に好い読書サイトに出会うか、
内容のよいテキストを読んでもらえるか
といったところにシフトするのだと
今更ながら思うのです。

 これを考えると、紙の本だった時代は、
好い本や読ませたい本の指定は
楽だったろうと考えられます。
 かみき先生が引用した文の如く、
何某新書を読めとか言える訳です。
 つまり紙の本は、叢書があり、
文庫新書別に得意分野があるので、
それを元に選んで読めたり、
丸ごと人に勧めたりすることも出来るわけです。

 まだまだネットや電子テキストの読書には
未整備な所があるのだと痛感されます。
 ただ単に、著者の名前がずらっと並んで、
詠みたい著者の名前をクリックする画面も、
改良の余地があるように思います。

 翻って音楽業界では、かなりダウンロードによる
音楽の購入形態が普及しているではないですか。
 この場合はかなり、ダウンロードサイトが
整備され充実し、試し聴きなどの工夫も
されているわけではないですか。

 早い所、電子本のポータルサイトとか
電子本屋なるもの(紙の本ではなくてテキストデータ販売
とかをイメージしています)が登場することを
願っている次第なのです。



 えぇと、長い話をした割には
言っていることは大した事なかったかも知れません。
 一言で言えば、「電子本屋の登場を乞う」
に尽きます。前半の、「本を読め」批判は
いらないといえば、いらなかったですかね。



●かみっきぃ~氏のブログはこちら。

 「かみっきぃ~,」ブログ論争 読書のきっかけその2
 http://blog.goo.ne.jp/43-god-village/e/67f0f1ae4da4abde208d2ea7bd0d4c43


編集作業に時間をとってしまって─

2009年10月19日 | 凡日記


一昨日の土曜日ですか、
本明川の上流・富川渓谷の
五百羅漢を見に行って、
そのときの様子このブログにも
掲載しておりました。

その時をケータイ動画を昨日、
いつもながらに「1分」シリーズとして
編集して、ブログ1に掲載しました。

興味のある方はこちらも
ご覧になってくださいね。
 →ブログ1「1分シリーズ」富川五百羅漢





さぁ、そんなわけで
昨日は編集作業に邁進した結果。
近々返さねばならぬ本を
読みきることが出来ず。

2週間くらい前ですか、
1冊を読了したから返しに行って
また2冊借りてきたから、
今手元に8冊あるって言ったでしょう。
そして1週間後、
また1冊読了したから
返しに行ったらまたついつい
2冊借りてしまいました。

だから今手元には、
9冊ですよ。

そんな中で、編集作業に
時間をとってしまってよいのか、と
動画を編集してブログ1に
アップした後の今、
後悔しているところなのです。

はい、皆様には全く関係のない
無駄な話でした。
かしこ。


【WH】映像の世界遺産

2009年10月18日 | テレビ


 今日の「THE世界遺産」(TBS)は、
フランスの「パリのセーヌ河岸」でした。
 18世紀に芸術の都へ「再開発」された街です。

 歴史は当然古いのですが、建物は100年から200年と
割かし新しいものばかりということになります。
 けれどもそれが上手いこと、元の街と
調和し溶け込んでいるから好いのでしょうね。
 また、建てるものに高い芸術性を取り入れる姿勢、
それが無秩序さを許さなくしているのだろうと
見ていてそう思惟しました。

 今回の番組は、最高の映像技術をもってして作られた
「映像の世界遺産」を銘打っていましたが、
矢張り大変素晴らしいものでしたね。
 しかしながらどうも、右上に「アナログ」と
表示されたテレビでは、普段の映像の質に
大差を認められなかったのが残念です。
 そしておそらく、小型の液晶やELでも
同じことが言えるのではないだろうかと思いました。

 映画と同じ仕様の、最高画質の映像。
 ならばいっそのこと、劇場版の「THE世界遺産」
というのを封切りしても面白いのではないか、
そして劇場で心行くまでその映像美を
味わいたいではないか。と、
勝手気ままに思うのでした。