河村顕治研究室

健康寿命を延伸するリハビリテーション先端科学研究に取り組む研究室

山田方谷と岡山大学医学部5

2024-01-20 | 歴史
【福西志計子と石井十次】
福西志計子が順正女学校の前身となる私立裁縫所を高梁に開設した頃、明治15(1882)年に宮崎県から石井十次(いしいじゅうじ)が岡山県医学校に入学してきました。
十次は金森通倫を通して新島襄の教えを受け、2年後金森から洗礼を受けました。
福西志計子と石井十次には密接な交友があり、十次の妻品子は、明治18(1885)年に新しく設立された順正女学校に入学して第一期生として学んでいます。
石井十次は孤児を救う活動に没頭したため卒業試験に失敗して医師になるのを断念し、キリスト教の精神によって岡山孤児院を創立して社会事業・児童福祉の先覚者となりました。

石井十次は医学部四年で退学していますが、のちに偉業をたたえ鶴翔会(岡山医学同窓会)『会員名簿』に第三高等中学校医学部明治22(1889)年卒業者として掲載されており、このようなことは岡山大学医学部の長い歴史で他に例がありません。
石井十次が入学した岡山県医学校について調べると、明治13 (1880) 年に設立後、明治15(1882)年に甲種医学校に認可され4年間の教育を受けた卒業生は無試験で医師開業免状の交付が認められました。
岡山県医学校の学生数は1学年75人前後であり、これに対して卒業生は毎年20人前後でした。
鶴翔会(岡山医学同窓会)『会員名簿』は明治17(1884)年から始まっており、名簿に氏名が記載されている卒業生は明治17(1884)年11人、明治18(1885)年15人、明治19(1886)年9人、明治20(1887)年10人、明治21(1888)年4人です。
教育が厳格であったため卒業するのはきわめて難しく、明治21 (1888) 年に第三高等中学校医学部へ移行するまでこの状態が続いています。
そのような厳しい状況の中で石井十次は孤児救済のために医学を捨てざるをえなかったのだと思います。



【山田方谷から石井十次への連鎖】
山田方谷は信頼する部下の川田剛を通して新島襄とつながりました。
新島襄の転機となったのは方谷が備中松山藩のために購入した快風丸での初航海でした。
快風丸と松山藩士の助けによって新島襄はアメリカへ密出国しました。
そしてアメリカン・ボード宣教師として帰国した新島襄はアメリカ人宣教医師のJ. C.ベリーと絆を結び共に関西で活動を行いました。
J. C.ベリーは岡山大学医学部創成期の岡山県病院に招聘され学校・病院の改革に意欲的に努めました。
J. C.ベリーは高梁にもしばしば訪れ、新島襄も招かれて高梁で演説を行いました。
この演説は方谷の弟子でもあった福西志計子に深い影響を与え岡山県で最初の女学校である順正女学校の開設につながりました。
宮崎県出身で岡山県医学校に入学した石井十次は福西志計子ともつながり、キリスト教の精神によって岡山孤児院を創立して社会事業・児童福祉の先覚者となりました。


 
澤田瞳子さんの歴史小説「孤城春たり」をきっかけとして、山田方谷と岡山大学医学部に深いつながりがある事に気づかされました。
我が岡山大学医学部に、こんな豊かな物語があったことを嬉しく思います。
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