河村顕治研究室

健康寿命を延伸するリハビリテーション先端科学研究に取り組む研究室

山田方谷と岡山大学医学部4

2024-01-19 | 歴史
【新島襄・J. C.ベリーと福西志計子】
岡山時代のJ. C.ベリーは岡山県病院で活躍しただけでなく、岡山県内の主な町(倉敷、総社、高梁など7カ所)に診療所を設置して患者を治療し、医師を教育することでキリスト教の伝道に当たりました。
キリスト教の伝道については、同志社で新島襄から受洗し明治13(1880)年に創立された岡山教会の初代牧師に就任した金森通倫(かなもりみちとも)が共に活動していました。
特に高梁では、ベリーは金森通倫が開設した伝道所に診療所を併設して宣教活動と一体化した形で診療を行いました。

そうした中で新島襄も岡山に招かれ、明治13(1880)年2月に快風丸での旧知を訪ねる目的もあり、かつての備中松山藩であった岡山県高梁町(現在の高梁市)へと赴き、滞在中に伝道と文化改革を目的とした演説を行いました。
この新島の演説は、のちに備中松山の地で高梁基督教会堂の設立発起員の一人となり女子教育に注力する事になる福西志計子(ふくにししげこ)に深い影響を与えました。
福西志計子は、松山藩士の長女として生まれましたが7歳のとき、父を失い母1人で育てられました。
志計子の母は、動乱の時代を生き抜くには何よりも教育が重要と考え、志計子に山田方谷の門をたたかせました。
当時、方谷は元締兼吟味役で藩財政再建のため奔走していましたが、男子を対象とした私塾である牛麓舎に寛大にも志計子を受け入れたのです。
山田方谷の弟子であった福西志計子が、方谷のおかげでアメリカに渡った新島襄の演説に啓発されたことに不思議な因縁を感じざるをえません。
福西志計子は山田方谷の理念「至誠惻怛」(誠をもって人に接し他者に慈しみを施すこと)を基礎としてキリスト教の「人類愛」を受け入れたのでした。

この福西志計子が岡山県初の女学校である順正女学校を設立し、その跡地に吉備国際大学を運営する学校法人順正学園は誕生しました。
順正学園では平成28(2016)年4月30日に、創立50周年記念事業として女学校の寮として使われていた順正寮の修復保存工事を完了して順正記念館としての開所式を行いました(写真2)。




写真2:順正記念館開所式
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