今日は浮世絵のモザイクの方とこのStart overの方と、そして小鳥のテーブルの方の3人の教室なんだけれど、また浮世絵の方が日にち間違え・・・。
そんなこんで連絡を入れると、夕方に変更して貰えないか?の話だったので、ひとまず午前中が無くなって、午後から時間差で3組となった。
そんな訳でひとまず時間が出来たので、アクアリウムバスのサンプルの追加。要するに昨日は爬虫類好きへのアピールならば、今日は大義名分で、びれっじさんのブース内なのだから、金魚は外せない・・・・って事で、
まっ、縁取りはしてあるので中身をどうぞご自由に・・・ってスタイル。これなら爬虫類下地が余って行く先が・・・と悩まず済む。
これでアクアリウムバスのサンプルはこれで良いし、ある意味このまま亀有カルチャーの秋の分に使っても良い感じがする。
後はどの位作るか?って話なのね。そんな中、最初は小鳥の方がいらしたんだけれど、今日はこちらこら。
Start overの方がやって来るなり用事があって・・・・となり、完成したので目地を・・・となる。そこでよくよく聞くと、白い部分と廻りの目地を変えたいとの事・・・・そこでもうペンキなど残ってしまうので、持ち帰らないのなら・・・それじゃ2色で・・・となる。
そんな中、本来なら終了の時に総評となるが、ほぼ完成なので総評をしたのね。もう一言なら、どうぞkatsuに習ったと言って下さい・・・。
そして、クラフトの人では無く、クラフトも出来る人になった・・・そう言う事です。これがもし、この茶色のバックを入れずに目地や壁材などでその場しのぎや、単なる逃げみたいな仕上がりなら、何処にでもあるモザイクになった所を戸惑いつつも完成させた・・・これが全てです。
その意味は本人が一番良く判ったはずです。あの時にこれでおしまい・・・後は目地で・・・と言った時、それはどう言う理由からか?の質問にあの時は戸惑っていたが、そうしたら美しいですか?・・・まさかそれは楽をする為では無いですよね?・・・その後はひたすら茶色のクラッシュ入れ・・・・。
一度終わりと決めた人・・・そしてその後のクラッシュの果てしなさ・・・それがどんなに厳しい事か?それを言った俺が一番良く知っている。
でもこうして最後まで終わった・・・てはもう一度聞く。入れたのと入れなかったの・・・・どっちが美しい?
まっ、比べる必要は無い事だけれどね。要するに簡単な話で楽な部分が無いから大変な訳で、そもそも楽なんて楽しんでいたら、こんな作品にはならない。つまり残酷だが、クラフトとは楽をしても良いものとも言える・・・何故なら使うから前提なんで強度なんてもんが優先したりして、
そう言う言い訳染みた事が無く、常に美のみを意識したもの・・・それが美術芸術、そして工芸だったりする。それらは確実にクラフトとは格段に上級者である質の良い作品を目指している事になる。そう言う妥協なき作品・・・これぞ今の彼女の最高の作品と言えよう。
お見事だった・・・そしてお疲れ様でした・・・と締めたかったが、まさかのこんな事が・・・・
そう、記憶が正しければ、特訓して欲しい・・・・とやって来てから数作目の作品で、お蔵入りになるのか?・・・・としばらく見掛けなかった。
それが今日張り上がってやって来た・・・・何が凄いか?って言うのは、この程度の作品ならkatsuいらず・・・・って事。
何せこうして1人でやって来てしまうのだから・・・。こんな作品でも1人でね。ただ、こちらはある意味指導は少なく終わってしまったので、
ここがこうとかあそこがどう・・・って突っ込み所はあるのだけれど、それよりも何よりも終わった事・・・ここが大きい。
最後まで終わった・・・これは自信になる。何せ心残りみたいな事が無くなるのだから。すっきり取り組めるし、これだけの仕上がりになるのだから、お小言はあるにしても、これだけ1人で作れれば楽しみの域なら十分なのね。良く頑張ったし・・・上出来と言えるのね。
ただ比較すれば観る人が見れば、簡単に見抜けるはずだが、悩み度指数とでも言うのかな・・・?明らかに花の作品の方が悩まず時間は掛かっていないはず・・・。つまりこだわり方が全く違うし、そうね・・・取り組んだってものと、終わらせたって違いかな?
しかしながら、一人でここまで出来る・・・・それなら後は技術と言うより作り手の姿勢みたいな気持ちの入れ方の問題なのね。
その時に相席だったのは、
この方はデザインは自分では無くて、楽しむって姿勢なんで、今の指導は全く必要では無いのね。まだ楽しみながら切る、張る、そして仕上げて見る。そう言う繰り返しで道具や素材に慣れる事が先決で、いずれにせよ考えるよりも、悩むよりも楽しむ事。
例えば前者の人は勉強で言ったら、因数分解や微分積分なんて事をやっている感じたとするとね、後者の人は九九。だから、ずっと繰り返し。
それを2x9?とか、7x3とか・・・その都度考えちゃう感じ・・・。ほら何か悩み方が全く違う感じになるでしょ?ねっ。
みんな上手くなった人達は、同じ事を繰り返して、どんな素材であろうとすんなり色んな形を切れる。そんな人になると、どんな形に切って、どんな張り方をして、どんな色合いにすると、まるで動いたように見えるか?とか、素敵に見えるか?とか、いわゆるピッチングのような配球を考える。
つまり1球目にここに投げて、ストライクを取り、次はよりストライクをストライクの威力を高める為に、ボールで良いからそこを責め変化球、そしてそのボールを見せ玉にして、速い球でストライクを取りに行き、5球目に打たせてセカンドゴロ・・・みたいな討ち取り方の構想を立てる。
勿論それはきちんとそこに投げられるようになった人の話で、そんな人も思った所に思ったように行かず外れる事もある。その時、どうやって組み立て直し、結果としてどうやって結論のセカンドゴロにたどり着くか?ここが腕の見せ所になる。
それをするには九九のように基本が出来ないと、因数分解なんて出来るはずが無いし、ストライクを偶然取っているようじゃ、組み立てなんて無理。
何せストライクを狙って取れないようじゃね。それには繰り返す事が大事なんだけれど、あれも駄目、これも駄目って言うとテンション下がるでしょ?
だから、ガラスタイルが使いたい・・・・じゃどうぞ・・・って話であって、それがやる気や続けるに繋がるのなら・・・。逆に考えれば、前者の上手い人はガラスタイルは使っていない・・・。何せガラスタイルは値段が高いし、怪我も付き物。ハードルは高いが、逆も真なり。
それは徐々に段階を踏むやり方であり、楽しむって人は、自宅でガラスタイルをやる事は無い。だからアトリエのみなら危なかったり、失敗の繰り返しをして、材料を無駄にする事は無いから、ほぼほぼ安心の中、進められる。
そんな中、出来た嬉しい・・・とか、好きな色選んで楽しい・・・って感じで進められれば、悩んで困って・・・って前者の人のようにはならない。
明らかにスタイルの違う事をしているのね。それが理由が判りやすいのは、この小鳥の人が他の2人を上手い・・・と褒めた。
その一人がこの男の人。まずこの方、ハンドルネームが決まり、はんちょうになった。これがいつか漢字になり、班長って入れる事になる。
そのはんちょうの作品とて、誰もが知る浮世絵。つまりオリジナルでは無い。それなら小鳥の人と一緒。
なのに褒められる人と、頑張ってますね・・・と返される人。このやり取りが全てで、意識せずのやり取りの中に、力の差がはっきり判る。
しかしその褒められたはんちょうは、Start ovrtの作品を見て・・・・上手いなっ・・・・って。
このやり取りを身内の褒め合い?って思う人は、そう言う事を気にしないスタイルなんで、特に言う事は無いが、もしこのやり取りに興味がある人は、
簡単な話で、単なる身内の褒め合いでは無く、この腕を持ってしての評価のやり取りであって、ただ上手いって言った評価では無くて、
2人を上手い・・・と表現した小鳥の方はどちらも上手いと表現をした。しかし2人から帰って来たのは、頑張っているとか可愛いとかであり、上手いって事では無い。つまりまだ経験値の浅い、それでもガラスタイルで奮闘しているね・・・って上目線。
ではその2人の1人のはんちょうは、Start overの方の作品を見て上手い・・・と言う。つまり自分と比較した時に上手さを比べたのであり、好みでは無い。つまりその腕を読み取ったって事。お見事なのね。単なる好みの見方では無く、その人の技量を見たって話。
しかし、その技量を見抜いた腕は、この浮世絵を作る腕の持ち主。ただ残念ながらオリジナルでは無いから、たどり着くのは本物に似ている・・・。
つまりその技量の中の1つの自分のデザインであるか、無いか?。だからこそ、はっきり技量の違いが判ってしまうのね。
つまりオリジナルでは無い2人で比較しても、切る張るの技術の比較があり、更に切る張るの技術は同等であっても、オリジナルであるか?無いか?で、
例えデザイン性や質が落ちたとしても、オリジナルであると言う凄さをきちんと判断したはんちょうの目。お見事である。って話。
きちんと何が自分よりも優れていて、何処が劣っているか?みたいな判断が出来る、出来ないって言うのは非常に大きな事で、良く良いものを見る・・・なんて表現を耳にするが、まずは圧倒的に凄いもの・・・なんて憧れでやるも良しだが、追い付きそうで追い付けなかったり、
追い付けなさそうで、追い付いた・・・・みたいなライバルとか、先輩なんて位の存在は切磋琢磨には丁度良い。あっ、私も・・・って気になるから。それをイチローになりたい・・・・ってね・・・・子供じゃないんだから・・・それじゃコツコツやるしか無いね・・・ってな話だし、
なれなくても、みんななれないから言い訳には丁度良い。そうじゃなくて、ある意味ここには他に無い、色んな腕利きの作品を見られるのね。
ただ、きちんとした気持ちで見ないと、みんなが上手く見えてしまいへこんでしまう事もあるだろうね・・・・けどね、そう見えるって事は、゜
自分の作品は一体みんなにどう見られるのだろうか?・・・・って話。何しろ上手くなりたい・・・そんな人には精神論。卑下せず、思い上がらず、自分らしく・・・・ただこれはとても難しい事で、己の判断力が乏しい人がやると、自分に甘くなり過ぎちゃったり、逆に追い込んだりもする。
いかに正しい判断が出来る目があるか?となると、今のはんちょうの目はかなり良い眼を持っていると思われる。しかも男の人であるから、中々人を褒めるって言うのは、プライドなんてもんが邪魔をしがちだが、中々正直な判断だったと思われる。
そう言う眼を持って是正をするのと、ただ私も頑張ろう・・・って言うのでは、漠然としていて何も変わらない。時間は限られているのだから、いかに何処が?何が?そして作り手の今の状態・・・そう言う判断力を持つか?持たないか?の違いが意識。
意識をすると行動が変わるし、行動が変われば自ずと結果も良くも悪くも変わって来る。その変わった事が比較になる。比較する目が向上すれば、悩んだ時の消去法なんて時に、危険の避け方のようなこれは無いな・・・と言う選択の1つに繋がったりもする。
そんな事が出来れば大きな失敗が無くなるのだから、自然と質は上がる。大きく外さないのだから。けれどそれとて、良い事と悪い事は背中合わせ。
大きな失敗をしていた頃のように大きな成功は得られなくなる。つまり大きな失敗を-10とすると、3良くなっただけで、13良くなった事になる。
これが安定が増すと、大きな失敗が無くなり、-3程度で押さえられたとすると、同じ3良くなっても6にしかならない。
つまり失敗が少なくなると、3のままでは喜びは減るって事になる。ここで問われるのが、3のままで立ち止まるか?4に進むか?になる。
そこからの脱出の1つが大作に挑むだったりする。けれど無謀にも切る張るが安定していない人が手を出すと、始めた頃と終わりでは別人のような仕上がりになっている。これが伸びしろって話で、かぐやが3年掛かった大作をやっても、始めた頃だろうが、終わりだろうが何も関係は無いだろう。
勿論、アイデアだったりデザインに関しては、こうして置けば・・・は、あったとしても、こう切れば良かった・・・って事は少ないはず。
それが自分のデザインでは無かったとすると、そのデザインはデザインとして自分よりも上手いはずだから、切る張るだけに専念出来る。
純粋にモザイクのみが楽しめるし、考える事は大きく減る。これだけで楽しい・・・って方向になる。これが上手くなって行くと、自分のデザインでやって見たい・・・となると、デザイン性やデッサン力が問われたり、構想力なんて言うのもあったりする。
まっ、そう言う面では、基礎体力作りには人のデザインって言うのも手っ取り早いのね。いずれにせよ、こうした相席も上手く利用すると良い刺激になるし、勉強にもなる。勿論、そう言う高みの見方をしなくても、人の作品が生で見られるのは楽しいもの。
しかもみんな個性的で上手いしね・・・ここの人達は。そうね、言い方変えれば、俺でも刺激を受ける作品である・・・そんな感じ。
教えるkatsuには喜びになるだろうし、作家katsuには足元にいたような人が、どんどんと登って来ている感じに思えるようであれば、
それは俺とて安心は出来ない・・・って教えた分は、また補充した何か?を教えられる人にならないと、いつか先生としてやっていけなくなる・・・・
そう言う危機感を持って、常に謙虚にやって行かなきゃ・・・って事に繋がる、良い作品達である。