katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

ぼー、カルビ、さくらにみどりの親子教室

2015-07-20 06:50:52 | モザイク教室
今日は朝から若干問題発生・・・・昨日遅くまでペンキ塗りしちゃって、携帯をアトリエに忘れちゃったら、かぐやにキウイにみどりに・・・って着信だらけになってて・・・・ただ、まぁ何とかみどり親子がやって来る前には到着していたんで、何とかはなったんだけれど・・・。

何かみんなが連絡取れないので、どうしちゃっただろっ?・・・・って感じで、キウイまでアトリエに様子伺いに用事のついでに来てくれちゃって・・・
どうすいません・・・って感じになっちゃったのね。

さてそれではカルビから。とうとう完成したのね。プレゼントって事で作り始めたんだけれど、まさかこんなに時間が掛かるとは思わなかったと誰もが、思う事だけれど、何とも丁寧な仕上がりとなった。ただここからなのね・・・もうここまで作れるようになった。

楽しみなだけ、趣味と言うのなら十分過ぎるのね。後は作り慣れた腕で、クラッシュを多様して、モチーフを変えて30cm程度の大きさで作れば、大体この位のグレードはキープ出来る・・・・って事。じゃそれで?・・・・ここ。

カルビのモチーフは学生の時のクラブ活動のプレートだったり、プレゼント作品だったり、オリジナルではあったけれど、お母さんのみどりのように、動物好きが何個も作っているうちに、いよいよ大作の不死鳥なんて事になっている・・・。

しかも自宅でもやっているから大きさも大きく、誰が見ても大作なんだけれど、カルビはアトリエだけだったけれど、時間はしっかり掛けたし、でも表札だし、プレゼントだし・・・って、自分の好きなモチーフじゃなかったし、表札だから規制のある大きさの中での作品だった・・・・。

作品が終わるに当って、新作を考えなきゃならないんだけれどね、そのモチーフわちゃんと考えなよっ・・・もう何と無く決めない事。って話をして、
きちんと好きなもの・・・を作ってみ・・・・きちんと。それできちんとした探し方みたいな話をしたのね・・・・。

例えば、普通な考え方だと、クラフトって使うものってスタイルがあって、今の表札のように目的がはっきりしているものは、何処に何があると良いかな?・・・・って場所や用途なんて事を決める事から始めるのね。ここにこれがあると良いな・・・・みたいにね。

すると、そこにはこの大きさ・・・って規制があって、その大きさが決まると、その大きさにあった自分の好きなモチーフを決める・・・ってスタイル。
ただこのスタイルには限界があって、本当に作りたいものでは無く、そこにあったら良いな・・・ってものだから、

モザイク主体では無く場所にあった大きさって話になる。今のアトリエでは確実にみどりだけじゃなくて、大作に挑んでいる人達は、それ何処に置くの?って聞かれそうな大きさ・・・・つまり場所がうんぬんでは無く、自分の作りたいモチーフにあった大きさにしたら、こんな大きさだった・・・。

ってな事になった。これはモザイク主体な話。こんな違いがあって、どちらがうんぬんでは無いけれど、イメージはお嫁さんになっても持って行きたいようなもの・・・・とても大事で、どんな家に住むか判らないのに、想像して作る・・・・つまり考える・・・が課題。

想像力なんて、こんなやり取りで作って行く事で、もうそこそこ切る、張るって事に慣れたのなら、そろそろきちんと想像力って部分を使って、その腕を最大限使って行く・・・ってやり方に方向転換する。何と無く上手くなった腕だけに任せて、何と無くそれに頼って何個も作らない事。

しかもそんな話が出来るのも、また来る前提で、恐らく彼氏でも出来ない限り1ヶ月に1回のペースは守られる・・・その上での話。
すると、うーーーんって感じで悩んでいて・・・・鏡が欲しい・・・・ってクラフトの方で話が進んで行くので、どんな感じの?・・・って話。

例えば今風って話になったとしても、セカオワさんとゲスの極み乙女では楽曲の雰囲気も変わって来る。だよね?作家も同じで、作風だって作り手が変れば、思い描く事が違うので、同じテーマでも人それぞれ違うんだけれど、別にどっちでも良いじゃん・・・こう言うのなら、何を作っても同じ。

何しろ変化の違いに興味が無いのだから。それは年齢に関係なく、自分の興味のある事のみに反応する脳は大人であって、何でもかんでも興味が沸くって言うのは子供の脳みたいな話で、カルビのテーマは意識・・・・。まっ、いずれにせよ、そう言う話が出来るような作品が仕上がったって事。

お疲れ様なのね。次はぼー。


今日はウロコをやる事になってね、張らなくて良いから良いって言うまで、ずっとこの形を切ってろっ・・・・途中でパーツチェック入れるから・・・って、これは3年生にはきつい・・・。ほぼ放置になるのだから。最初は5.6枚で飽きて来ていた感じになり、気持ちも切れていたのね。

何しろクラッシュで進めば、色さえ決まれば、こうして進めていたのに、いつもと違って全然進まない・・・しかも1枚も張れない・・・進みたいのに・・・そんな気分になるし、いつもの席と違って、1人だけ孤立したみたいに単独のテーブルだったし、何か話も出来ないし・・・・ってね。

でもこうして何とか7時までやってた・・・・途中集中力も無くなったけれどね・・・・当たり前なのね。何しろ長いしね。ただ要するにどんな形であっても、結果としてはこうなった・・・って事。そっちの結果良しって方で結構なのね。

ぼーの場合、自分が作りたい龍を何時間も掛けて描いた渾身のオリジナル。さっきのカルビの場合は、こうしたデザインに時間を掛けるって話で、逆にぼーは、自分の作品を良くしようとすればするほど、益々大変になる・・・・ただ本人の意思は全く無いんだけれど・・・・。

俺にそれが出来るなら、こうしてみ・・・って言われただけで、別に何でそうしなきゃいけないのか?なんて疑問なく、はい・・・のみ。
ただ、言われた通りやったら・・・・あっ結構良いって話しで、でもパーツをただただ切っているだけでは単調で飽きるのね・・・。

何しろ淡々と素振りしているようなものだから。更に素振りをしたら、素振りをした意味や結果に満足感が得られないと、次のやる気が生まれないからね・・。いずれにせよ、子供達2人は育成枠でコツコツ育てるつもりなのね・・・・ここは必ず来るから。

それではみどり。


確かに何も具体的に見ようとしなければ上手くて、凄い作品には見えるし、終われば弟子で良いとは思う腕だと思う。がしかし、前回、前々回と言い、着地寸前であたふた感がある。そもそももう一度自分の理想とするものを口で言ってみ・・・からスタート。

すると。モヤモヤとか吸い込まれるような・・・とか、明らかに自分の表現しようとしているものが曖昧である事に気が付かない。この曖昧って言うのが曲者なのね。例えば料理に少々ってどれ位?・・・・ほら人それぞれ・・・だから味が変ってしまう。

これを小さじ何杯とすれば、みんな一緒の味になる。そこでお好みで足して下さい・・・とすると、薄めるような引き返しは出来ないから、プラスして調整する事になる。つまり相当薄味発信って気がしない?最初の味付けは・・・。

つまり少々って表現は多少腕利きの人へ、判るよね・・・って言う表現に聞こえるし、きちんと分量を定めるのなら、薄味の人を救済する為に、相当薄味にスタートしてお好みでどうぞ・・・って表現になる。って話だとして、そんな事を踏まえて、じゃみどりにどんな表現で教えるべき?

ほら感の良い人なら判るでしょ?・・・・こんな作品を作る人に分量を指導すべきかな?ただここが問題なのね・・・。最初は下手だから、基本を覚える為に反復して技術を習得する。それがモザイクだと、道具に素材に慣れて、ある程度自由自在に扱えるって所まで来たら、

今度は想像力と画力アップでオリジナルの完成度を高める。ほら子供達もそこらへんまで来ているでしょ?じゃみどりは?想像力で、モヤモヤとか吸い込まれるような・・・なんて表現の元、やっているのだけれど、ねぇ吸い込まれるってどんな感じ?・・・・

流しに水を貯めて無くなって行く途中なの?寸前なの?ってそんな事1つでいくらでも雰囲気は変わって来る。そこまで考えた?じゃモヤモヤってどんな気分?どんな形?そしてどんな色?・・・・考えた?すると、恐らく黒を使いたいんだろうね・・・暗黒なんだね・・・・きっと。

みどりの場合、欲しいとか好きとか、そっちが先なんだろうね・・・そう言う人は、ほっといてもそっちが触りたいんだから、黙っていてもそっちを多めにする。つまりもし度が過ぎると、そっちは逆の立場になる異物を極端に嫌がった触り方になる。

つまりこの場合、剥がしたグレーを意味するんだけれど。このバックの場合、上の部分は広いから、全ての影響力はそこにある。そこがグレーになった事で、暗黒にならない事が嫌で剥がしたと言うのであるならば、当然黒くしたいって言うのは誰でも考える。

ただ、黒くするなら簡単な話なんだけれど、モヤモヤとか吸い込まれるって自分の掲げたものになる?・・・・それで?
つまり黒以外の何かがそのモヤモヤや吸い込まれる表現に値するものになるはず。ならば、その表現したい事が先で、必要なものからスタートしなければ、好きなものは多くなる。

逆なのね。つまりみどりのような性格の場合、その違和感の方から作って、後は黒く・・・後はバック・・・ってやるべきで、最初からどんどんと黒くしたら、グレーと同じで今度は暗黒になるだけ。全くモヤモヤにも吸い込まれにも見えない。

それを見えなきゃ見えなくても良いって言うのなら、別にこだわる必要は無い。メインに力を注ぎ後はバック。それでも十分、人には上手く見える。
しかし、そこで止まれば、またその気持ちで繰り返す・・・何度でもね。人は是正する時、必ずもうこんな事にならないように・・・と思う事から、

始まるもので、まっ良いかっ・・・仕方無いかっ・・・別に・・・ってこんな気持ちでは、是正する気は一切無いから、また同じ事を繰り返す事になる。そして思ったより良かった場合、ラッキーで、思ったより下回れば、何でだろう?まっ良いかっ・・・って言えば進める事が出来る。

これが感に頼る作り方。では、ここまで作れたみどり・・・・どう作る事が正しいのだろうか?ただそれだけ。それを弟子になってから言うのか?、弟子に相当なんで、もう言っても構わないのか?も本人の問題。それで良いのなら、言うつもりは一切無い。

いずれにせよ、自分で考えた、モヤモヤだとか、吸い込まれるようなとか、その表現がいかに難しい事を作っている自覚を持つか?になる。
それを不死鳥を作って来た時の難しさをクリアーしてしまった事からの油断やおごりみたいなものがあるのかも・・・と言う、最後の最後まで、

気を抜かない姿勢で、更に言えば難しさの違いに気が付くべきなのね。例えば見た事は無いが不死鳥って言うのは、鶏でもダチョウでも無いが、何と無くだけれど、しっかりはっきりしたものなのね・・・・だからこそ、見た人が不死鳥?火の鳥?鳳凰?・・・ってこんな表現してくれたのね。

要するにグレードが良い事で、そんな表現に近づいたんだろうね。ではその腕が付いた人が、モヤモヤだの吸い込まれるような・・・って表現を作った時どうなるか?・・・・お察しの良い人は判るだろうが、この曖昧な表現がより難しさを増した事になっているって事をね・・・・。

これがピーカンで晴天で・・・とか、大雨とか台風とか、はっきりした表現にした場合、不死鳥の成功へ迎えたろうね。何故なら、作り手も見る側も判りやすい表現だから。一体感みたいなものがある。けれどそれが人それぞれ・・・なんて曖昧な表現の場合、薄味になればなるほど、判りづらく、

いかにその曖昧な表現を作り込むか・・・・が全てなのね。そうね、例えばカレーとかハンバーグは子供でも判る料理だが、何々風の何々あえなんて料理ではほぼ当らなくなる。つまり表現がしっかりしたものと曖昧なものは全く難易度は違うと言う事。

そして更に比喩・・・吸い込まれるでは無くて、吸い込まれるような・・・・何とかのような・・・のようなは、それでは無くてそんな感じって意味であって、更に難しくしているって事になる・・・・。ほぼ聞いただけで半端なく難しいものである・・・・って話なのね。

まっ、みどりでもこの程度の説明で判るだろうとは思うんだけれど・・・・。じゃそれを踏まえて頑張って・・・・って話。
では、最後にさくら・・・


まぁ調子が悪いんだか?良いんだか?判りづらい人である・・・・しかも前回はくじら、今回はひつじ・・・色も形も統一して、尚且つクラッシュは無く、全てが狙った形・・・・それは上手く見えるのね・・・例えぺきぺきとは言え・・・流石なのね。

そうね、これは良い機会なんで、みんなに質問をしたのね。ではカルビ・・・このさくらの作品を見て、次は何を作ると思う?って質問なんだけれど、ルールは簡単で、答えるに当って、必ず自分なりの理由を答える事。何と無くとか感は無し・・・。

すると、何かさっきさくらさんとkatsuさんが花の話の話をしていたし・・・動物が2つで花2つ・・・って感じかな?って。うん、良いね。
つまりカルビは洞察力と観察力を使ったって訳ね・・・見てたとか聞いてた・・・って話ね。そこから決めたのね・・・。

じゃぼーは?って聞くと、ん・・・って悩んでいるから、ぼーはお母さんと家族だし良く考えてみ・・・って言うと、お母さんはイーグル好きだから。
って・・・良いね、ぼーは観察力って話ね。しかも、偶然だけれど、くじらが水、ひつじが陸、そしてイーグルで空・・・。

中々面白い。ただ4つ目はどうなるんだろう?・・・・を残しつつ、みどりは?って言うと模様って言うのね。ここなんだけれど、好みうんぬんでは無くて、さくらが何を作るのか?も関係無いし、当てる目的では無くて、自分なりの意見を持って発表する練習。

きちんとこうこうこうだから、こう思う・・・この練習。これを何度も練習したら、次はみんなでどの人の意見が素敵だったか?なんて1つに出来る事があれば、みんなで作る・・・ってこうやってやるんだよ・・・って話で、そろそろこんなやり取りをして行こうかな・・・と思っている。

段々と上手くなって来たし、オリジナルとは?・・・・って話をして行こうってね・・・。




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