祖父

2014-06-17 10:33:49 | 塾あれこれ
祖父は明治18年生まれ。
この年に政府が太政官制から内閣制度に変更
されている、ってんだから、昔ですね。

19歳の時、日露戦争が始まり、何歳でかは知りませんが
出征・従軍していたようです。

家では暗い祖父を孫の私は大嫌いでした。
それもあって会話をすることが少なかったのですが
あるとき、私が小学生低学年だったでしょうか、
戦争に行き、乗っていた船が沈没、
「あんときゃ、怖かったで」

今となっては貴重な思い出話です。

明治44年、26歳で結婚、できちゃった婚らしい。。。
若い綺麗な嫁さんだったようです。

長女を幼いうちに亡くし、長男を可愛がっていた
大正、昭和初期が祖父の人生のヤマかもしれません。
(同窓会的な価値感では)

「仏の」とつくような人だったそうです。
外面は良かったのですね。
子どもと踊ってる写真などが幾葉か残っています。

趣味は義太夫、
しろうと義太夫は最悪だったでしょうね。
(落語の『寝床』)

家には見台が残っていました。

尤も「仏」とは、人が良すぎる=甘い、という面で
言われていたのかもしれません。

問屋の組合設置に尽力し、出来あがったあと弾きだされて
しまったようです。
下り坂の始まりですね。

戦争に長男を取られ、仕事も上手く行かず
敗戦の経済混乱、長男はシベリア抑留のまま
こんな向かい風の中、蓄えを剥がすような生活です。

人生設計がまるまる狂っちゃった。

やっと帰って来た長男は別人のようで
男の孫ができて、喜んでも生活は見通しがたちません。

「おおだんな」が「ぼてふり」をしてまわる
落語のようなことまでしています。

祖母が大反対したのですが・・・
「ふーが悪い。なんぼも儲からんどころか
 損をしとる」

皆が集まる夕食で爺さんの「はー」が始まると
電灯を点けていても、真っ暗~

「○○のコウセンが、なんぼじゃけえ」

仏さんが思いっきりグチるのでありました。


晩年は同居をしていませんでしたから
よくは分からないのですが「認知症」が出
同居の叔父を困らせていたようです。

彼が80をすぎ孫(私の姉)が結婚するのですが
その頃にはもう名前も続柄も分からず
ともかく式には呼んであげようと。

親戚一同で祝っている時に、爺さんが突然たちあがり
両手をあげて
「ばんざ~い」「ばんざ~い」

何か目出度いことだとは分かったのでしょう。

一同が困惑するほど万歳は続きました。


暗い人だったから認知症も暗く覆っていたでしょう。
でも、明るい灯がさすこともあったのですね。

式の翌年、昭和44年に没しました。