小澤征爾の教育論

2013-03-07 09:53:02 | 塾あれこれ
新聞に小澤征爾さんの教育論が載っていました。
「論」というより「教育談」程度ですが。

「談」くらいで良いのです。
教育をする、とは自分が掴むもので、勉強して教わるもの
ではないからです。

もちろん古典的理論やテクニック、トレンドなどは
学ばねばなりません。
けれどもコアとなる部分は自分の全存在そのものが拘る。

学校でガンジガラメになってて、うまく出来るわけがない、
とは私の個人的な意見ですが・・・・・・・・・・・・


小澤さんは師・齋藤秀雄さんの教育を思い返し
その人間的な姿勢を評価されています。

ご自身も同じ姿勢で教育をされ、生徒に向かっては
手抜きをするな、と言われます。
「レベル下げるな、本気で立ち向かえ」と。

私ごときが、をこがましいですが、まったく正しい!と
思いますね。

私流に思えば「相手を子供扱いするな」ということでしょう。
一個の人間なのですから。

自分が信じる最高のことを教え、相手にも最大を求めます。
当然、局面においては厳しい。
小学生でも大人でも区別なく叱ります。

もちろん相手の状況はしっかり見抜かないと叱れません。

高みに立つのではなくて同じ場所に立って怒りたいですね。

叱るのではなく、まず怒る。
「オレは人として君の○○は許せない!」と
伝える必要があるのです。
こちらも一個の人間として、まず「アタマに来る」

続いて説明していくなかで、叱るのです。

これは会社で後輩を導くときにも同様でしょう。
泣くまで叱ります。(長時間やれ、ではありません)
泣かない説教は本物ではないとまで思います。

残念ながら相手に通じないこともあります。
その場合は表面的にならざるをえません。
しなければならぬことを伝えるだけです。

愛せない相手に説教をしても意味がないのです。


教育とは何も子供を相手にするだけのことではありません。

後輩にも、場合によれば先輩にも、高齢者にも
見ず知らずの人にも、さまざまな場面で必要になります。
私的にも公的にも。

たいへんに人間的なことでありながら文化が変質しかける
社会においては不安定なものになります。
きっと今の日本がそうです。

怒るのではなく叱りなさい、などと「神様になれ」と言わん
ばかりの高等な御話が流行っていますが、怒りを仕舞って
おくだけのことになるのです。溜りますね。

悟った御方でなければ出来ないことが、マコトシヤカに
広まっているのです。
どれだけの人間にできることでしょう?
不安定ですよね。