新橋駅前に鎮座する C11292 この機関車の現役時代の模型が間もなく発売されます。
播但線寺前駅に進入するC11292
播但線の無煙化は47年3月ですから中学時代(47年3月中学卒業)なのですが、「お別れ」の時期ではなかったので冬休みでしょうか・・・・
C11を模型化するにあたり、新橋駅前のC11292を是非やりたいという声が五反田工房から上がりました。
理由は、C61設計時における伊勢崎のC6120のように「残っている実機」を徹底的に計ったり調査(現役時代との違いの調査も含めて)して特定番号機の1両にする。 そしてそのカマを全体設計のベースに使うのです。
C11の場合、新橋駅前のC11292をその調査対象にさせてもらえれば判らないところがあっても直ぐ実機を見に行けて便利であるというわけです。
C11292は「酷い」戦時型で、どうしてこんな「ゲロゲロ」のカマが一番多くの日本人の目に触れる場所に置かれる事になったのか納得が行かなかった程のカマです。
この1両を買えば「俺はC11を持っているョ」と言える様なカマではないのかもしれません。
しかし逆にこれだけ酷い戦時型なら普通のC11を持っている人にとって「こんなカマも居るんだ」という「もう一両」に恰好なカマかもしれません。
最後は自分で撮って居た事が判明したので私は「OK」致しました。
C11四次型は戦時型です。
① つかみ棒の先端が球ではなく円筒状に仕上げられていた
② デフを木製とした
③ 先輪をプレート車輪とした
④ キャブの雨樋を省略した
⑤ 煙室前面上左側を半周するつかみ棒を全廃、左上に取り付けたケチな手摺ひとつで代用
⑥ 煙突付根の裾野状のカバーを廃止
⑦ ドームを丸く仕上げずカマボコ状とした
といった外観上の変化がありました。
しかし、C11三次形と四次型ははっきりと設計変更が有ったものではなく、単に戦争激化の影響で簡略化した、しかも製造時期により簡略化の程度にも差が有るので241両の1つのグループと見る見方もあります。
戦後、戦時簡略化装備を通常型同様に改装した例(C11325等)はありますが、調べられる全機を観察すると
① 安全上有為差が有りそうな「つかみ棒交換」
② 木は腐食するので、枠だけ残して木部を鉄板に置換えるか、普通のデフに換装する。
③ 余ったスポーク車輪に差し替えるだけという簡単な「車輪の交換」
④ 雨樋は後から簡単に取り付けられる。
という4点を除き、意外な程改装されていません。
C11のウィークポイントは「サイドタンク」です。
日本の蒸汽機関車として極めて完成度が高かったC11ですが、そのウィークポイントは高速で走るとサイドタンクが暴れることと、サイドタンクが外側に倒れがちなことだったのです。
サイドタンク吊りは実に有効だったのです。
特にカマボコドームと組み合わされると精悍な風貌になり「実に佳い」と思います。
新橋駅前のC11292は保存されて間もなくこの左右の水槽を結ぶ「サイドタンク吊り」が撤去されてしまい保存機としての値打ちを下げてしまっています。
後付装備を取り外すことは原形に戻すことを意味しないのです。
むしろ実際に使われていた姿から離れて行き、機関車として使われていたどの時代の姿とも違う「なんだか判らないモノ」になっていってしまうのです。
新橋駅前のC11292の場合、タンク吊り撤去以降左右のサイドタンクが少々外側に倒れてきてしまっています。 それを撮影した写真を捜しましたが残念!見つかりません。
是非新橋駅前で実際に目でご覧ください。
C11一次型 23両 ( 1~ 23)
C11二次型 117両 ( 24~140)
C11三次型 106両 (141~246)
C11四次型 135両 (247~381)
これがこれまで考えられていたC11の一次型~四次型の分類(定説)です。
それが間違いだったことが判明致しました。
臼井茂信さん、金田茂裕さんも間違えています。
247~251についてはこれまで四次型に分類されてきましたが、調査した全機について四次型の特徴は見られず、三次形と外観の違いをみとめられません。
「轍楽之路」 by 田駄雄作
http://tadayusaku.3.pro.tok2.com/
この中に「C11 meeting」というコーナーがあり、番号別に姿を見ることが出来ます。
(このページではまとまってチェックできるので大変便利なのですが、ネット上にはまだまだ特定番号機の映像が沢山見つかります)
遠目に写った写真では「四次型かも!」と思っても、接近した写真の方で確認すると四次型の特徴は一切見いだすことが出来ません。
そして、C11に関しては「最初に述べた①~④の4点」以外殆ど改装されずに来ているという観察結果もあります。
この5両に関して特別に実施された戦後の改装とするには余りにも無理があるので「定説」とされていたC11の分類は間違いであったと考えるのが自然です。
(しかも、戦時型=四次型は一カ所の製造所で集中大量生産したと考えられるのでこれで初めて辻褄が合うのです)
正しい分類は
C11一次型 23両 ( 1~ 23)
C11二次型 117両 ( 24~140)
C11三次型 111両 (141~251)
C11四次型 130両 (252~381)
と言うことになります。
C11246 日本車輌名古屋工場=1174 1943-05-31
C11247 日立製作所笠戸工場=1669 1943-09-26
C11248 日立製作所笠戸工場=1670 1943-09-28
C11249 日立製作所笠戸工場=1671 1943-09-30
C11250 日立製作所笠戸工場=1672 1943-10-08
C11251 日立製作所笠戸工場=1673 1943-10-14
C11252 日本車輌名古屋工場=1221 1944-01-18
従来246と247の間に三次型/四次型の境界があると考えられていたのですが、251と252の間に三次型/四次型の境界があるのです。
そして252以降最終番号381まで、たった2両の例外を除き全機日本車輌名古屋工場で製造されています。
そのわずか2両の例外は「266と267」です。
C11266 日立製作所笠戸工場=1779 1944-01-31
車歴;宇部鉄道発注 製造中に国有化(1943-05-01)(新製配置は不明)
1955-08-01 現在;直方
1967-09-20 休車
1967-12-01 限廃車[西部支社達41];直方
C11267 日立製作所笠戸工場=1702 1943-10-30
車歴;樺太庁鉄道発注 製造中に国有化(1943-04-01)(新製配置は不明)
1955-08-01 現在;大湊
1955-10-01 小牛田
1960-09-00 現在;陸石線管理所
1964-04-01 現在;小牛田
1965-10-22 廃車[達559];石巻線管理所
この2両の姿は廃車が早かったこともあって判りません。
もしかすると四次型の形態ではない可能性も考えられます。
三次型までは 汽車、川車、日立、日車 の4社で製造していましたが、
四次型から国鉄の発注は全て日本車輌名古屋工場だけに絞られております。
日本車輌名古屋工場での三次形最終246号機から四次型最初の252号機まで落成時期に8ヶ月のインターバルがあります。
C11に対する戦時簡略化の指示は日本車輌名古屋工場だけに為されていた可能性も結構高いと考えられます。
戦時型はこうしなさいという国鉄の指示ではなく日本車輌名古屋工場独自に考えられた形態である可能性も無いとは言えません。
(ですから266・267は全然違う形態の戦時型だった可能性も有ります)
このような「間違い」が「通説」として続いてきた原因は、鉄道研究に常時有る「全ての記述の元資料はひとつだった」という事が考えられます。
さて
国鉄が日本車輌名古屋工場だけに発注した事がはっきりしてきたC11四次型ですが
「煙突基部の裾野を省略」
「煙室前面円形の手摺を廃し直線の簡素な手摺のみとする簡略化」
は252~381に共通して実施されたようですが、戦時型=四次型は以下の5つのグループに分けられます。
①252~259 ドームは通常型 (既に在庫が有ったと言う可能性も有ります)
②260~265 砂箱のみ角形 (ドームは角/丸)
③266~267 製造中途編入機で姿が判らない・・・・三次形かもしれない
④268~327 蒸機ドーム被いも角形化 (ドームは角/角)
⑤328~381 ドームは通常型に戻る (①と同型に)
C11274は後年蒸気ドーム被いだけが一般的な丸形に換装されたために「角丸」ドームとなりました。 (限定的ですが数少ない戦時型→一般型化改装の例です)
C11327 日本車輌名古屋工場=1418 1946-04-20
C11328 日本車輌名古屋工場=1419 1946-04-26
C11328以降「角形ドーム」は存在しません。
「終戦」で製造再開されたC57三次型 C57170の落成は 1946-04-29
「終戦」で製造再開されたC59二次型 C59101の落成は 1946-05-20
C11328辺りから戦時型ではなく戦後型と言うべきなのでしょう。
(角形ドームの在庫を使い切ってから丸いドームが使われ出したとも考えられます)
C11328以降も外観はC11252~259の四次型第一グループと同一で、最終C11381(1947-03-20)まで裾野を持たない簡略化煙突と簡素な直線状煙室前面手摺りはそのままでした。
* C11四次型が何処から始まったか間違った通説のまま誰も指摘しなかった事
* 戦争が終わっても戦時型のままで50両以上造り続けた事 (戦後型たる328以降の話)
この2点から「C11は日本人が気にしてない機関車なのだな」と感じずには居られません。
現役時代の姿は実に精悍だ!と思います。
このC11292は日本鉄道模型界で初めてのC11四次型の完成品模型かもしれません。
それにしても一体何故このような醜い戦時型が新橋駅前を飾り「サラリーマンのアイドル」となったのか不思議です。
姫路第一機関区のC11は姫路駅から出る3つのローカル線で使われていました。
まずは飾磨港線の貨物列車です。
姫新線はく3桁番号の旅客列車はC58、4桁番号の旅客はC11が牽いていました。
播但線では和田山まで通しの列車はC57、寺前までの普通列車をC11が担当。 10往復も有った寺前までの普通列車はC11本来の開発目的に合った近郊旅客列車牽引に活躍していましたが、1972年3月に無煙化されました。
新製配置以来姫路を離れることがなかったC11292はおそらく姫路サイドの「選択」により新橋での静態保存に選ばれたと思います。
C11292 日本車輌名古屋工場=1367 1945-02-11
新製配置;姫路
1946-12-31 現在;姫路一
1972-08-09 品川(保存の為姫路より移動)
1972-09-16 廃車[工車918];品川
保存;東京都港区「新橋駅前」
播但線寺前駅に進入するC11292
播但線の無煙化は47年3月ですから中学時代(47年3月中学卒業)なのですが、「お別れ」の時期ではなかったので冬休みでしょうか・・・・
C11を模型化するにあたり、新橋駅前のC11292を是非やりたいという声が五反田工房から上がりました。
理由は、C61設計時における伊勢崎のC6120のように「残っている実機」を徹底的に計ったり調査(現役時代との違いの調査も含めて)して特定番号機の1両にする。 そしてそのカマを全体設計のベースに使うのです。
C11の場合、新橋駅前のC11292をその調査対象にさせてもらえれば判らないところがあっても直ぐ実機を見に行けて便利であるというわけです。
C11292は「酷い」戦時型で、どうしてこんな「ゲロゲロ」のカマが一番多くの日本人の目に触れる場所に置かれる事になったのか納得が行かなかった程のカマです。
この1両を買えば「俺はC11を持っているョ」と言える様なカマではないのかもしれません。
しかし逆にこれだけ酷い戦時型なら普通のC11を持っている人にとって「こんなカマも居るんだ」という「もう一両」に恰好なカマかもしれません。
最後は自分で撮って居た事が判明したので私は「OK」致しました。
C11四次型は戦時型です。
① つかみ棒の先端が球ではなく円筒状に仕上げられていた
② デフを木製とした
③ 先輪をプレート車輪とした
④ キャブの雨樋を省略した
⑤ 煙室前面上左側を半周するつかみ棒を全廃、左上に取り付けたケチな手摺ひとつで代用
⑥ 煙突付根の裾野状のカバーを廃止
⑦ ドームを丸く仕上げずカマボコ状とした
といった外観上の変化がありました。
しかし、C11三次形と四次型ははっきりと設計変更が有ったものではなく、単に戦争激化の影響で簡略化した、しかも製造時期により簡略化の程度にも差が有るので241両の1つのグループと見る見方もあります。
戦後、戦時簡略化装備を通常型同様に改装した例(C11325等)はありますが、調べられる全機を観察すると
① 安全上有為差が有りそうな「つかみ棒交換」
② 木は腐食するので、枠だけ残して木部を鉄板に置換えるか、普通のデフに換装する。
③ 余ったスポーク車輪に差し替えるだけという簡単な「車輪の交換」
④ 雨樋は後から簡単に取り付けられる。
という4点を除き、意外な程改装されていません。
C11のウィークポイントは「サイドタンク」です。
日本の蒸汽機関車として極めて完成度が高かったC11ですが、そのウィークポイントは高速で走るとサイドタンクが暴れることと、サイドタンクが外側に倒れがちなことだったのです。
サイドタンク吊りは実に有効だったのです。
特にカマボコドームと組み合わされると精悍な風貌になり「実に佳い」と思います。
新橋駅前のC11292は保存されて間もなくこの左右の水槽を結ぶ「サイドタンク吊り」が撤去されてしまい保存機としての値打ちを下げてしまっています。
後付装備を取り外すことは原形に戻すことを意味しないのです。
むしろ実際に使われていた姿から離れて行き、機関車として使われていたどの時代の姿とも違う「なんだか判らないモノ」になっていってしまうのです。
新橋駅前のC11292の場合、タンク吊り撤去以降左右のサイドタンクが少々外側に倒れてきてしまっています。 それを撮影した写真を捜しましたが残念!見つかりません。
是非新橋駅前で実際に目でご覧ください。
C11一次型 23両 ( 1~ 23)
C11二次型 117両 ( 24~140)
C11三次型 106両 (141~246)
C11四次型 135両 (247~381)
これがこれまで考えられていたC11の一次型~四次型の分類(定説)です。
それが間違いだったことが判明致しました。
臼井茂信さん、金田茂裕さんも間違えています。
247~251についてはこれまで四次型に分類されてきましたが、調査した全機について四次型の特徴は見られず、三次形と外観の違いをみとめられません。
「轍楽之路」 by 田駄雄作
http://tadayusaku.3.pro.tok2.com/
この中に「C11 meeting」というコーナーがあり、番号別に姿を見ることが出来ます。
(このページではまとまってチェックできるので大変便利なのですが、ネット上にはまだまだ特定番号機の映像が沢山見つかります)
遠目に写った写真では「四次型かも!」と思っても、接近した写真の方で確認すると四次型の特徴は一切見いだすことが出来ません。
そして、C11に関しては「最初に述べた①~④の4点」以外殆ど改装されずに来ているという観察結果もあります。
この5両に関して特別に実施された戦後の改装とするには余りにも無理があるので「定説」とされていたC11の分類は間違いであったと考えるのが自然です。
(しかも、戦時型=四次型は一カ所の製造所で集中大量生産したと考えられるのでこれで初めて辻褄が合うのです)
正しい分類は
C11一次型 23両 ( 1~ 23)
C11二次型 117両 ( 24~140)
C11三次型 111両 (141~251)
C11四次型 130両 (252~381)
と言うことになります。
C11246 日本車輌名古屋工場=1174 1943-05-31
C11247 日立製作所笠戸工場=1669 1943-09-26
C11248 日立製作所笠戸工場=1670 1943-09-28
C11249 日立製作所笠戸工場=1671 1943-09-30
C11250 日立製作所笠戸工場=1672 1943-10-08
C11251 日立製作所笠戸工場=1673 1943-10-14
C11252 日本車輌名古屋工場=1221 1944-01-18
従来246と247の間に三次型/四次型の境界があると考えられていたのですが、251と252の間に三次型/四次型の境界があるのです。
そして252以降最終番号381まで、たった2両の例外を除き全機日本車輌名古屋工場で製造されています。
そのわずか2両の例外は「266と267」です。
C11266 日立製作所笠戸工場=1779 1944-01-31
車歴;宇部鉄道発注 製造中に国有化(1943-05-01)(新製配置は不明)
1955-08-01 現在;直方
1967-09-20 休車
1967-12-01 限廃車[西部支社達41];直方
C11267 日立製作所笠戸工場=1702 1943-10-30
車歴;樺太庁鉄道発注 製造中に国有化(1943-04-01)(新製配置は不明)
1955-08-01 現在;大湊
1955-10-01 小牛田
1960-09-00 現在;陸石線管理所
1964-04-01 現在;小牛田
1965-10-22 廃車[達559];石巻線管理所
この2両の姿は廃車が早かったこともあって判りません。
もしかすると四次型の形態ではない可能性も考えられます。
三次型までは 汽車、川車、日立、日車 の4社で製造していましたが、
四次型から国鉄の発注は全て日本車輌名古屋工場だけに絞られております。
日本車輌名古屋工場での三次形最終246号機から四次型最初の252号機まで落成時期に8ヶ月のインターバルがあります。
C11に対する戦時簡略化の指示は日本車輌名古屋工場だけに為されていた可能性も結構高いと考えられます。
戦時型はこうしなさいという国鉄の指示ではなく日本車輌名古屋工場独自に考えられた形態である可能性も無いとは言えません。
(ですから266・267は全然違う形態の戦時型だった可能性も有ります)
このような「間違い」が「通説」として続いてきた原因は、鉄道研究に常時有る「全ての記述の元資料はひとつだった」という事が考えられます。
さて
国鉄が日本車輌名古屋工場だけに発注した事がはっきりしてきたC11四次型ですが
「煙突基部の裾野を省略」
「煙室前面円形の手摺を廃し直線の簡素な手摺のみとする簡略化」
は252~381に共通して実施されたようですが、戦時型=四次型は以下の5つのグループに分けられます。
①252~259 ドームは通常型 (既に在庫が有ったと言う可能性も有ります)
②260~265 砂箱のみ角形 (ドームは角/丸)
③266~267 製造中途編入機で姿が判らない・・・・三次形かもしれない
④268~327 蒸機ドーム被いも角形化 (ドームは角/角)
⑤328~381 ドームは通常型に戻る (①と同型に)
C11274は後年蒸気ドーム被いだけが一般的な丸形に換装されたために「角丸」ドームとなりました。 (限定的ですが数少ない戦時型→一般型化改装の例です)
C11327 日本車輌名古屋工場=1418 1946-04-20
C11328 日本車輌名古屋工場=1419 1946-04-26
C11328以降「角形ドーム」は存在しません。
「終戦」で製造再開されたC57三次型 C57170の落成は 1946-04-29
「終戦」で製造再開されたC59二次型 C59101の落成は 1946-05-20
C11328辺りから戦時型ではなく戦後型と言うべきなのでしょう。
(角形ドームの在庫を使い切ってから丸いドームが使われ出したとも考えられます)
C11328以降も外観はC11252~259の四次型第一グループと同一で、最終C11381(1947-03-20)まで裾野を持たない簡略化煙突と簡素な直線状煙室前面手摺りはそのままでした。
* C11四次型が何処から始まったか間違った通説のまま誰も指摘しなかった事
* 戦争が終わっても戦時型のままで50両以上造り続けた事 (戦後型たる328以降の話)
この2点から「C11は日本人が気にしてない機関車なのだな」と感じずには居られません。
現役時代の姿は実に精悍だ!と思います。
このC11292は日本鉄道模型界で初めてのC11四次型の完成品模型かもしれません。
それにしても一体何故このような醜い戦時型が新橋駅前を飾り「サラリーマンのアイドル」となったのか不思議です。
姫路第一機関区のC11は姫路駅から出る3つのローカル線で使われていました。
まずは飾磨港線の貨物列車です。
姫新線はく3桁番号の旅客列車はC58、4桁番号の旅客はC11が牽いていました。
播但線では和田山まで通しの列車はC57、寺前までの普通列車をC11が担当。 10往復も有った寺前までの普通列車はC11本来の開発目的に合った近郊旅客列車牽引に活躍していましたが、1972年3月に無煙化されました。
新製配置以来姫路を離れることがなかったC11292はおそらく姫路サイドの「選択」により新橋での静態保存に選ばれたと思います。
C11292 日本車輌名古屋工場=1367 1945-02-11
新製配置;姫路
1946-12-31 現在;姫路一
1972-08-09 品川(保存の為姫路より移動)
1972-09-16 廃車[工車918];品川
保存;東京都港区「新橋駅前」