旧友たちと子供時代の話で、時々くい違いに気づくことがある。
水害に遭ったのはいつだったか?これもその一つだ。
私は小学校(当時は国民学校)1年生だったと記憶していた。しかし、幾人かの旧友たちは、まだ就学前だったと思っていた。
こんな時、調査を頼むのは実家にいる弟だ。
その結果。やはり、私の記憶のほうが正しかった。
昭和16年7月24日、茨城県多賀郡磯原町において、台風による水害があったと記録されていたそうだ。一晩で500ミリの大雨が降ったとのこと。
朝の3時ごろ、大北川の堤防が決壊し、約500戸ほどが床上浸水となった。
当時は治山治水が十分でなく、ちょっとした大雨でも、堤防が決壊する状況であった。
写真は大北川の下流から上流を見て撮影したもの。1009年10月27日撮影。
写真でははっきりしていないが、左側方向から大北川が流れてきており、写真右側から、花園川が合流している。
決壊した堤防は、合流点からやや下流の右側地点だったと記憶している。
写真中央部に盛り上がっている緑地は、その後にできた中州である。
その年の12月8日に、大東亜戦争が始まった。
私たちにとっては、決して忘れられない事柄や事件が、次から次と押し寄せてきた。
それらの事柄が大きかったため、たかだか68年前のことなのに、水害の記憶はかなり曖昧なものとなってしまったようだ。
もちろん、わが家も床上浸水となった。
父親は用心深い人だった。日頃から家財を載せるやぐらを準備していた。
幾日間かは、その上での生活することとなった。しかし、詳しいことは記憶から消えている。
私はこの水害でひどい目に遭った。これは憶えている。
床上浸水だったので、大人たちは大弱りだったろうが、子供たちにとっては遊び場が増えたことになり、大はしゃぎ。
水量が落ち着けば、家の中にはいなかった。あちらこちらと遊び廻った。
その結果、私は隣家の七輪に足をとられ、倒れてしまった。もちろん、汚水含みの泥水を腹一杯に飲んでしまった。
程なくして大腹痛。お医者の診断では、大腸カタルだった。
そのときに飲んだ泥水が、大人になってまで、私を大いに苦しめることとなった。いずれかの機会、その次第を記事にしたい。
写真は旧友のH.I君に撮ってもらった。
私は彼をHちゃんと呼んでいた。
この呼び方は、私の母親の影響だった。
「IさんちのHちゃんは大人しくて可愛いね」とは、日頃の母親の弁。Hちゃんに見習って、少しは大人しい子供になれと言われていた。
今もHちゃんは温和だ。それに面倒見がいい。意外だったのは酒豪になったこと。彼の話によれば、酒量を減らしているとのことだが、実のところ、私はあまり信用はしていない。
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