誤解を恐れずに言えば、男は女の面影を追い求めている。
この場合、男は、男性でなく「男」であり、女は、女性でなく「女」だ。
肉感的あるいは生態的な響きを感じるために、男とか女と言っているわけではない。
無限の宇宙の中で、泡粒のような存在として生かされているのは、男性や女性ではなく、男と女なのだという妙なこだわりから言っている。許していただきたい。
もう一度言おう。男は女の面影を、絶えず追い求めている。
その女は、「母」や「妻」や「女房」、「カミさん」、「ウチの奴」でもなく、もちろん「娘」、「孫」、「息子の嫁さん」などでもなく、「隣の奥さん」でもない。「大原麗子」、「藤原紀香」などでないこと、もちろんである。
絵画や写真や彫刻の女でもない。
もっと身近で、それでいて遙かに遠い面影だ。
電話がかかってきた。応答したが、電話の向こうでは何も言わない。女らしい息づかいだ。泣いているのかも知れない。こちらから幾度呼びかけても、向こうは無言。やがて、一方的に電話が切れる。
そのような女の面影を追い求めている。
息づかいや体温を感じていそうなのに、遙かな面影でしかない。
男性のみなさん、そのような思いはありませんか。
女性のみなさん、そんな私を許して下さいますか。
生い茂った草むらの中のずーっと向こうのほうで、ハルジオンがひっそりと咲いておりました。
懐かしい思いのまま撮った写真です。
「遙かな面影」と題しました。
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