『山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。
とかく人の世は住みにくい』
夏目漱石「草枕」の書き出しである。
人の世の住みにくさは、昔も今も変わらない。
何処に住もうと、何をしようと、住みにくさに変わりはない。
もともと人とは、そのような存在なのかも知れない。
「オレは何するために、この世に生まれてきたのだろうか」
誰しも幾度かは自問する。
オレは何処からきたのか。何をしにきたのか。これから何処へいくのだろうか。
人を愛することの悲しさ。人を憎むことの虚しさ。おのれの行く末に対する不安。
それらのすべてを含んで人間なのだろう。
無限の宇宙の中で、人は生かされているのだ。だから、逆らうことはできない。
ちっぽけな一人ひとりがどう足掻いてみても、無限の中でのあわ粒に過ぎない。
どうにかなっているようで、どうにもなっていない。
自分自身の意思や力は、無限の宇宙の中では「無」に近い存在だ。
そうなのだ。人間はちっちゃなあわ粒。儚い存在。
しかし、懸命に生きなければならない。自分の意思ではなく、命じられた定めなのだから。
そんな儚いあわ粒同士が、争っているなんて悲しい話。滑稽ですらある。
梅雨の晴れ間、雲の合間から姿を見せた夕日が、山合いのかなたへ沈んでいく。
その夕日の前で、ちっぽけな存在である自分を、しみじみと悟らされた。
人間の苛立ちや悲しみや喜び、森羅万象のすべてを鎮めるような夏の夕日だ。
ああ、今日も終わったなァ。
神々しさを感じる夕日である。
万物を鎮めんとせし夏夕日 鵯 一平
写真は2005年6月下旬の裏磐梯。
これから恒例の外出へ。
私は朝日も夕日も好きです。
特に夏の夕日は、すべてを鎮めてくれそうな予感があります。
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