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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 大森町の昔を古地図で探る 大森村絵図第2編第1回その2

2010年08月24日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2010 磐井神社祭礼

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隣村の不入斗村社寺
大森村の北隣の不入斗村(現大田区入新井)は東海道の東側は海岸線で、八幡を経て鈴ヶ森(現在の品川区)の大井村には東海道沿いに1651年(慶安4年)に置かれた刑場跡(隣接村の社寺説明図オレンジ④)があります。
大井村の地名の鈴ヶ森は不入斗村(大森)とは密接な関係があり、江戸名所図絵の鈴森八幡宮にある鈴石は、磐井神社の伝記にある霊石によりこの地を鈴石森と云い、略して「すずのもり」と云い鈴ヶ森の地名が起こったと伝えられています。徳川家康が関東入国の時代には、磐井神社付近から刑場近辺には大松林が残存していたといわれます。

 江戸名所図絵鈴の森

地名のいわれ
大森村の隣村の不入斗(いりやまず)は、昔は海岸地帯で土地は塩分のため田畑は殆ど収穫を上げることが出来ず、為政者が耕作奨励の意味を持って貢税免除を宣言して不入斗村と称したと云われています。なお、現在の地名は入新井と称しています。

 隣接村の社寺説明図

・磐井神社
大森村隣村の不入斗村の東海道を上って行くと、八幡には鈴ヶ森八幡(磐井神社 隣接村の社寺説明図オレンジ①)(「大森町の社寺 磐井神社 大森町北端にある鈴石伝説の磐井神社夏祭り その1、2」参照)があります。磐井神社の霊宝には「鈴石」が鎮座してありますので、神社の地を鈴石森というようになったと縁起に書かれています。旧東海道時代には、東の沖合いの海浜までが神社の境内であったとも云われております。

 磐井神社霊宝の鈴石と烏石(大田区史 資料編 寺社1から)

磐井神社は、先記の大森空襲の被害地の北限であったため社殿は焼失しましたが、樹齢300年の2本の神木の大いちょうは一部に黒焦げ跡がありますが、当時からの唯一現存する植物で貴重な歴史を残しています。

 大戦では戦火を受けた樹齢300年以上現存の大いちょう(0807写真拡大再掲)

磐井神社の由緒によると敏達天皇2年8月には存立し、山城国男山八幡を鎮座した延歴の頃より1504~20年(永正年中)に至る680年間は神威赫燃として宮中が繁栄したが、永正年に兵火により末社と共に焼失し再興で建立したが、その後の1532~54年(天文年中)に重ねて火災に罹るが、1597年(天正18年)に徳川家康関東下向の際に磐井神社を参拝された。その後の1661~72年(寛文年中)に再興する。1689年(元禄2年)に将軍家光が参詣の際に磐井神社をを祈願所に申し付けられる。1725年(享保10年)に将軍吉宗、伊奈半左衛門により本殿、拝殿、末社の建立が行われました。祭神は応神天皇、大己貴命、仲哀天皇、神功皇后、仲津姫大神のご神体が祀られ、末社の笠島弁天社の祭神は弁財天が祀られています。
新版大森風土記によると、徳川家康の江戸入府の頃には磐井神社付近には大きな松林が存立していたと云われています。磐井神社は、江戸開府の頃に東海道の交通量が急激に増大して、その沿道にある八幡神社は発展したものと思われます。

 昔の磐井神社(:戦災消失前の磐井神社、:元禄ころの鈴森八幡宮配地図 大森区史から)

1741年 (元文6年)3月に松下烏石が磐井神社に烏石を奉達した由来を刻した烏石(うせき)碑、1786年天明6年10月に建立の筆塚、1809年文化6年8月に建立の狸筆塚、17696年寛政8年5月に建立の竹岡先生書学碑は大森村絵図の時代には末社の弁天池の周辺にありました。また、烏石、鈴石はともに非公開で神社の屋内に保存されています。

 磐井神社石碑群(:烏石碑、中左:筆塚、中右:狸筆塚、:竹岡先生書学碑)

なお、当時は境内にあった磐井の井戸は、現在では東海道が拡幅されて神社前の歩道上にあります。

 磐井神社の現在の配置図

・八幡山蜜厳院
八幡山蜜厳院(隣接村の社寺説明図オレンジ②)は、昔は大鳥(鷲)神社が鎮座するところにあり、当時祈念塚があったので祈念寺蜜厳院と称しました。開基は1324~1326 年(正中年間)に真宗大阿闍梨師が建立し、磐井神社、鷲神社が共に寺内にあったと伝えられており、城南三大寺院の一つであったと云われています。蜜厳院は1781~1788 年(天明年間)に火融のため炎上し、寺宝と記録は全て焼尽し何も残っていません。本堂は1830~1843年(天保年間)に現在地に再建され、明治初年頃まで大森14社を掌っていました。

 八幡山蜜厳院1(:八幡山蜜厳院山門、:御堂建立碑、:石碑群)

蜜厳院には、お七地蔵と呼ぶ地蔵尊が安置されており、八百屋お七の三周年忌に追悼のため建立されたものではないかと云われています。(新版大森風土記から)
 八幡山蜜厳院2(:お七地蔵尊、:本堂並びに客殿落慶普済供養塔)

・大鳥(鷲)神社
大鳥(鷲)神社(隣接村の社寺説明図オレンジ③)の創建は不明であるが、鷲神社縁起由来によると社殿は、1864年(元治元年)11月再建と古文書にあり、蜜厳院が別当でその寺内にあったという伝説よりみるとかなり古いようです。

 江戸名所図絵江戸酉の市発祥の花又村の鷲大明神

祭神は、日本武尊、天日鷲命が祀られており、通称おとりさんと呼ばれ、毎年11月の酉の日には熊手の授与には混雑します。明治初期の酉の日の大森鷲神社には市が立ち、やつがしらが人気で東海道に近いので東京、神奈川からの日帰り行楽で賑わったことでしよう。

 大森鷲神社酉の市風景 

大森村絵図の社寺
大森村社寺の分布
明治初期の大森村絵図を見ると、内川から北側には神社が3社と1寺社と少ないのですが、内川の南側では11以上の寺社が集中して見られます。
大森村の住居地地帯は、北部では東海道の三原地区海岸地帯と沢田地帯のみで隣村の不入斗村が入りこんでいます。南部では羽田道と池上通り沿いの集落と東海道の谷戸の間の宿周辺および呑川沿岸の農漁村地帯が住居地地帯です。当時の農漁村の海苔養殖の大半が呑川周辺地区に集中しており、旅人などの通行の多い羽田道、池上本門寺への参道と谷戸の周辺には多くのが出来て、それにより社寺が集中したものと思われます。

 大森村絵図(再掲)

・寄来神社
大森村の絵図を描いた頃の寄来神社は東海道際にあり、三原の里の海辺に近く付近には森林があったと伝えられており、同社の縁起によると1573-1593年(天正年中)に、ある時海上の波間に寄り来した御神体を、漁を業とする里人が畏みて沖へ流し奉るとまた漂い来て、このことが三度も及んだので、海より御神体を引き上げて仮宮を造営して寄来大神として祀り、御神体寄り来したので寄来神社と称しました。

 東海道東大森寄来社

その後次第に人口も多くなり、社殿を造り三原の産土神として奉ったのが起源であると伝えられています。なお、1720年(享保5年)9月に再建の棟札には、「元和二丙辰年至享保五年遷宮八度也氏子数九十一戸」とあることより、元和2年前から存在していた久々能知命を祀る村社です(新版大森風土記から)。明治初期に見る寄来神社には、隣村の神社の様に境内には樹齢300年以上の古木が植えられていたものと思います。

 江戸名所図絵寄木明神社(品川寄来神社)

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大森町界隈あれこれ 大森町の昔を古地図で探る 大森村絵図第2編第1回その1

2010年08月15日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2010 東都名所大森 歌川国芳 1832年(天保3年)

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明治初期の大森村
東海道
明治初期の大森村の絵図を見ると、道幅3間(5.4m)余りの東海道(「大森町界隈あれこれ 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)が大森村の北端では海岸線に接して三原の北原を南に下り、人家の多い中原から南原を過ぎると内川にかかります。内川の内川橋の木橋を渡ると方向をやや西に傾け海岸線を離れ、大森山谷を過ぎると松並木の先は間(あい)の宿(「大森町の社寺 貴菅神社 東海道間(あい)の宿であった第1京浜国道際神社の夏祭り」参照)の谷戸で、その先は大森村の中央部で境界の北蒲田村となります。

内川
内川の川幅は2間(3.6m)余りで、大森村のほぼ中央を西から東へと流れ東海道付近で北に折れ、曲折して南原で再び流れを西に向けて三原に沿って海に排出します。内川の源流は、新井宿村から本流は北馬込付近の水源に達しており、他に2本の支流があり、1本は市野倉方面から、他の支流は池上方面の呑川から流れて(「大森町界隈あれこれ 内川風景 大森町を流れる昭和の面影 第2回」参照)きます。内川は海水が遡上するため塩分が強く、飲み水や稲作には適さなかったので、昭和の初期頃まで飲み水を売る「水売り」がいました。

 東京府武蔵国荏原郡大森村地図から昔の内川の流れを再現(再掲)

六郷用水
大森村一帯は、徳川幕府により江戸の穀倉地帯としての政策がとられたので、田んぼや畑の田園風景です。内川の水は塩分のため、田畑の灌漑用水には適しないため、徳川家康は江戸幕府の成立の前の1597年(慶長2年)に、多摩川左岸(大田)に六郷用水と、同右岸(川崎)に二ヶ領用水の開削工事を、徳川家家臣の小泉次大夫の監督により同時に行い1611年(慶長16年)に完成しました。来年2011年は、丁度六郷用水完成から400年(「大森町界隈あれこれ 六郷用水完成400年 「下袋村と六郷用水」水上写真展」参照)となります。
六郷用水は、六郷領から10数キロ上流の泉村(狛江市元泉2-8)に多摩川の取水口を設け、下流に向け用水堀を開削し、武蔵野台地国分寺崖線に沿って世田谷領を通り、六郷領矢口村の南北引分(大田区千鳥3-8-2)に達します。ここから蒲田・羽田方面灌漑用の南堀と、下池上・大森・新井宿方面灌漑用の北堀の二手に分かれ用水堀が進み、それぞれの堀から支流の内堀により配水されます。
大森村絵図では、大森村の末端の用水内堀の配水構成と内川または海への廃水の様子が手に取る様に見えます。先ずは青色で示す様に、大森村での用水内堀の配水の張り巡らし方が詳細に示されております。また、灌漑で使用した廃水用の川幅1間(1.8m)余りの堀川が大森村の北側境界を東に向け掘られ、東海道の近くの不入斗村の張り出し部境界で南に向きを変え、内川に放流するという設計が克明に示されています。
前回のその3で記載のように、1872~74年(明治初年)の「東京府志料」によると、大森村の戸数は1261戸、人口7541人で、田地が104町3反5畝20歩で、畑地が77町2反2畝11歩であり、六郷用水の農業用水利用の最盛期は明治末期でした。

 大森村絵図から内川、六郷用水、海苔養殖を探る

大森海苔養殖
大森の海苔が採れはじめたのは何時ごろかは定かでないが、鎌倉時代には採集し食用に供していたものと云われています。当時の海苔は今の様に干しあげたものではなく、生の海苔が波除の麁朶や石に付着したものを採って来て食用に供したものではないかと思われます。それを進歩させて、若芽のように乾したり、筵の上に広げて乾したりするようになり、やがて今日の紙の形になったのです。大森の堀の内の野口六郎左衛門が浅草の紙漉きを見て、海苔も紙漉きの様に加工して干すことにより、保存や販売するのに都合がよいと考え、今の様な乾し海苔を作りました。その子の二代目六郎左衛門が麁朶(そだ)を海中に建て、篊(ヒビ)と呼ぶ海苔採集方法を考案しました(大森区史から)。これにより、大森の海苔の生産は盛んになり、呑川沿岸や大森村の海岸線での冬の海苔干し風景は大森の風物詩ですが、1964年に大森の海苔の生産は終焉しました。

 大森村の冬の風物詩海苔干し(左:森ヶ埼海苔干場 日本画 安西啓明、右:昭和大東京百図絵版画 大森海苔乾し 小泉癸巳男 大田区海苔物語から)

江戸時代の海苔養殖は、海岸の浅瀬に篊(ヒビ)と呼ぶ麁朶(そだ)木を建て、そこに海水に浮遊の海苔の胞子を付着させ、葉状に成長するのを待ち育成し、多量に生育・採取する方法が品川・大森の海苔養殖の発祥(「大森町界隈あれこれ 大森海苔物語 のり祭り」参照)で、「品川宿書上」[1843年(天保14年)]や「嬉遊笑覧」[1830年(文政13年)]に見られ、ヒビを用いた海苔の養殖は1716~36年(享保年間)には本格したと見られています。

 ヒビ建てとヒビの海苔採り(左:海苔養殖のヒビ建て[昭和初期頃まで]、右:ヒビの海苔採り 大森では手入れと呼び、明治期では12月上旬でした 大田区海苔物語から)

海苔養殖は幕府の許可を得た村のみで、品川宿の海晏寺門前・品川寺門前・南品川宿・品川漁師町、大井村、不入斗村、大森村、糀谷村に限られていました。

 海苔の製造1(左:洗い笊で海苔を洗う、中:海苔を刻む、右:海苔付け 大田区海苔物語から)

品川・大森の海苔養殖は、当初には海辺の農村の冬期の副業として開始されたが、その後効率的な農閑余業として価値を高めていき、農漁村の海苔生産に携わった割合は1838年(天保9年)には大森村では42.3%の383戸が、大井村では34.3%の188戸で、専業漁村の品川漁師町では72.6%の82戸が海苔魚業に関与しました。

 海苔の製造2(:東海道名所図会 竹原春斉他画、:海苔簾の裏から乾し具合を見て表へ返す、:海苔はがし 大田区海苔物語から)

江戸前の海産物の干し海苔は御膳海苔と呼ばれ、将軍家やその菩提寺の寛永寺、紀伊・尾張・水戸の徳川御三家に上納され、当初の御膳海苔の供給地は品川宿と大井村であったが、1833年(天保4年)からの無償提供になってから、天保7年の上納では大森村が38石を負担し、品川側が12石を賄うことになり、近隣村からの漁場の拡大や配置換えの申請に対して、御膳海苔に悪影響を被るとして阻止理由の大義名分としたようです。
1868年(明治元年)に江戸幕府から明治政府へと献上先が変わっても、海苔漁業に従事出来たのは、江戸期からの品川宿、大井村、不入斗村、大森村、糀谷村の5地区だけでありました。この秩序が破られたのは大森村が明治政府に5000両を提供し、新たに2万7500坪の漁場を獲得したのが契機となり、さらに、これまで永らく海苔漁業の枠外に置かれた羽田地区に対して着業の申請を促して、羽田の進出に異を唱えなかったので、1874年(明治6年)に羽田村は1万2500坪の追加認可を受けられました。これにより、大森村は羽田村より8000坪の行使権を得て、周辺地区の業者の容認と引き換えに、漁場の拡大策に転じました。(大田区海苔物語 大田区郷土博物館平成5年発行から)

 海苔漁場の変遷(大田区海苔物語から)  

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大森町界隈あれこれ 大森町の昔を古地図で探る 大森村絵図その4

2010年07月24日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2010 名所江戸百景「南品川鮫洲海岸」

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大森村絵図を歩く
・大森村付近の東海道
日本橋を出発点とする東海道は、江戸時代初期に幕府が整備した江戸と京都を結ぶ、重要な交通路であり、参勤交代の大名行列のほか、一般の旅人にも大いに利用されていました。

 大森村絵図

明治初年頃の大森村境界の不入斗村から北の大井村(現鮫洲付近)の東海道は、石垣の波打ち際の海岸線に沿っております。不入斗村に入って東海道を上っていくと、すぐ鈴ヶ森八幡(磐井神社 大田区大森北2-20-8)(「大森町の社寺 磐井神社 大森町北端にある鈴石伝説の磐井神社夏祭り その1、2」参照)があり、その先には鈴ヶ森刑場跡から鮫洲を通り品川宿です。

 江戸名所図絵 鈴の森八幡社

・大森村の東海道
大森村絵図の東海道北端は今の平和島入り口付近であり、ここから南に下り東海道は現在の三原通り(現美原通り旧東海道 大田区文化財 大森本町2-1付近から大森東1-4付近)(「大森町界隈あれこれ 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)となり、街道の道幅は現美原通りと同一で3間余り(6m)です。三原とは、字名の北原、中原、南原の三原を示しています。

 三原通り

・寄来神社
東海道を南に下ると、大森村絵図の時代には北原と中原の中間点付近の街道脇に三原の鎮守の寄来大明神が祀られています。由緒によると創建年代は不詳だが、1720年(享保5年)再建時の棟札に、1616年(元和2年)に社殿を改築したとの記述があります。1868年(明治元年)神祇伯・白川資訓王より「大森神社」の社号と額面を賜ったとあります。
なお、寄来神社は後に大森神社(大田区大森北6-32-12)と改称(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 大森神社(寄来神社)」参照)して、現在は第一京浜国道脇に移転しております。

 創建時と現在の大森(寄来)神社の場所

・徳浄寺
寄来神社から三原通りを南に下ると南原で海側に、1627年(寛永4年)四ツ谷に創建され、1688-1704年(元禄年間)に大森村へ移転してきた徳浄寺があります。徳浄寺(大森東1-16-22)は、浄土真宗本願寺派で山号を海松山と号し、開基は祐信、俗姓は菅原氏で豊島郡四谷に住み、日世智行の時念仏門に帰依し、本尊及び親鸞の影像と寺号を本山より下賜されました。13世秀山の子、教伝が当地に移し、大森徳浄寺の1世になりました。9世祐海が1830-44年 (天保年間)に本堂を建立しました。

 徳浄寺

・三原通りの老舗
その2で、大森村には1688~1716年(元禄から正徳)にかけて、中原、谷戸、南原に三店の「和中散」の店が開店し、江戸中期頃から大林寺の住職12世日好により、村民の困窮を救うために始められた麦わらを編んで作る細工ものを、東海道を往還する旅人達にに「土産品」として売り喜ばれたといわれます。

 大森麦藁細工

現在の三原通りにも、1669年(寛文9年)に創業の老舗海苔の松尾が中原に店を構え、現在は環7通りに面した場所に移転しています。

 寛文9年創業の海苔の松尾(:現在の海苔の松尾、:中原で営業の海苔の松尾)

南原の徳浄寺の門前には元祖甚三郎が1715年(享保元年)に駿府駿河の国安倍川のほとりより出府して茶店を開き、東海道を往来する旅人たちに、夏の暑さの疲れを癒すため、真夏の土用中だけ一皿の餅に渋茶を添えて、旅情を慰めたのがあべ川餅のはじめたのが、開業当初からの場所で営業しているのがあべ川餅の餅甚です。
また、三原通り沿いの中原に居を構え三浦屋提灯店は8代続く提灯屋の老舗で、流麗な江戸文字を手書きにした提灯や祝額、藍で染めたのれんなどを製作しています。

 享保元年創業の餅甚(写真拡大)

・海難供養塔
内川の河口付近の海岸沿いに、1855年(安政2年)海難事故にあった人々を供養するために、総高さが232cmの海難供養塔(大森東1-27区指定文化財)(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 津島神社2008年秋の例祭」参照)が建てられました。塔は、五輪塔の変形のような形で、水輪に当たる部分に胎蔵界大日如来の種子が刻まれています。
江戸市中や神奈川に及ぶ魚介業者をはじめ、町人、武士、役者等約300名の名が刻まれ、東京湾沿岸でも屈指の規模を持つ貴重なものです。

・羽田道
東海道から内川橋際(大森東2-2先)で分かれ、羽田東海道から内川橋際(大森東二丁目2番先)で分かれ、羽田や大師の渡しに向かう道です。分岐点付近に、歌舞伎にも出てくる「駿河屋(するがや)」という旅籠(はたご)があったことから「するがや通り」とも呼ばれます。内川橋から大鳥居交差点(東糀谷3-3先)までの旧道で、羽田でとれた魚などを運ぶ生活道路でした。

 羽田道(:羽田道石碑、:駿河屋跡、:羽田道石標)

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大森町界隈あれこれ 大森町の昔を古地図で探る 大森村絵図その3

2010年07月21日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2010 池上本門寺

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大森村周辺の地勢
・大森村の地形
大森村周辺の地勢を見ると、北西部は武蔵野台地がせり出した台地で、南東部のほぼ3分の2は多摩川の河床および海面の自然隆起に次いで、火山灰等の埋積によって生じた沖積土の低地に続いた埋立地の平野部であり、中央部は所々に河谷の湿地がみられます。

 大森周辺の高台と低地地形図

古代の大森貝塚時代の砂洲は、飛鳥時代まで寒冷化と堆積作用によって海岸線は後退し、古墳時代までに形成されたとみられます。さらに、海岸線は第1京浜国道・産業道路まで後退して、奈良時代の「倭名類聚抄」に地名「蒲田」「駅家」(大井または新井宿)が記されており、平安時代の「延喜式」に「薭田神社」(蒲田)と「磐井神社」(不入斗)記載されており、丘陵上から低地の自然堤防や砂地上の六郷、蒲田、大森の平野部へと生活が移ってきました。
戦国時代の小田原衆所領記帳には、大森、小花和、堤方、雪が谷、一ノ倉、不入斗、新井宿、蓮沼、安方、根岸、馬込、極楽寺などの記述があり、これらの所は第1京浜国道の通る自然堤防と砂洲や、その西側にある自然堤防と砂洲上に集中しています。

 高台東南の低地平野部の地形図(地形図の濃い黄色の部分は自然堤防・砂堆・砂洲を示す)

明治初期の大森村
明治初期に描かれた大森村の絵図の世界は、江戸から東京になっても何も変わらずに江戸時代の延長です。大森村絵図の大森は東・西・北大森村の三村構成であり、大森村と他村の境界は北側が不入斗(いりやまず)村で西側は新井宿村に接しています。東側は海岸で不入斗村の堤付近では東海道が海岸線に接しており、「地名辞書」によれば古くから石垣による波除堤が造られており、大森村の北原より南原方には1680年(延宝7年)に長さ三百九十六間(約720m)の波除堤が造られたという記録が残っています。その2に記述の様に、1854年(嘉永6年)に黒船襲来で大森に台場を築くなど、明治以前の古くから大森村の海岸の埋め立てが行われていました。
大森村の南側の境界は、現在の大森と蒲田の境界に一致しており、当時の呑川(現在の旧呑川)を挟んで森が崎(現大森南)が南端の境界で、蒲田村と糀谷村に接しており、大森村全体は平地に位置しています。

 大森村旧東海道の海岸線

大森村絵図では、旧東海道は不入斗村(現大森北)の平和島口付近から海岸線を南進し、三原(現美原)通りの北原から、寄来社(大森神社)縁の中原を通り、南原で徳浄寺を抜けて中央部の内川橋を渡りやや右に曲がると三原通りが終わり、旧東海道(現第1京浜国道)が進みます。
内川橋の先の旧東海道は、曲がりくねった南北に流れる内川沿いに進むと、内川は現大森町駅付近で西に折れますが、直進する旧東海道は松並木で海岸線からはやや離れますが、西側には池上本門寺の五重塔と本門寺大堂が見晴らせます。
六郷用水の最初の橋を渡り松並木が過ぎると旧東海道は、品川宿と川崎宿の中間で人足や駕籠かき等の替え場所の大森中宿で、人家が街道を挟んで増加し、街道の掛茶屋、旅人の荷物運搬人足の建場が設けられた所で、道を挟んで東側に天神社が西側に貴船社が鎮座しています。大森中宿には3つの六郷用水の橋があり、それを渡ると他村の北蒲田村の境界で大森村旧東海道の終点で、現在の第1京浜国道の梅屋敷商店街通りに当たります。
大森村の南北に旧東海道が通り、大森中央の東西には内川が流れ、田畑の灌漑用の六郷用水が張り巡らされています。大森村の絵図の黄色部は水田であり、緑部は畑と三原通りや中宿の人家の密集地です。

 大森村絵図編集版

1590年(天正18年)に領地を得た徳川家康が、江戸城下町づくりと並行して、領地基盤の充実を図るため、多摩川下流域の低地平野部の農地化を図り、六郷用水を引いて灌漑し田畑が開発されました。また、沿岸の大森村、不入斗村、糀谷村では海苔の養殖が盛んになり、江戸近郊の農漁村として耕地が拡大発展しました。
江戸から明治と時代は移っても、大森村近郊農村の性格は変化せず、六郷用水の農業用水の最盛期は明治末期でした。

 大田区の農耕地と居住人口の変遷

1872~74年(明治初年)の「東京府志料」によると、大森村の戸数は1261戸、人口7541人で、田地が104町3反5畝20歩で、畑地が77町2反2畝11歩と記されています。
農漁村の大森村の絵図には、耕地の面積と田畑の収穫高が記入されております。徳川時代の税法は、田畑の耕作して得た収穫物の石高を持って定められ、そのあがり高のうちから応分の割合で上納することになっていました。この上納高は、その年の豊凶によって増減されました。一段の地に対して収穫高を盛り付けることを石盛と云い、1升の籾は5合の玄米になるので、1歩からの収穫を5合の割合では300坪では1石5斗となります。これを石盛十五または十五の盛といいます。このような石盛を基準にして上納を定め、田の種類を上田、中田、下田および下の下田4種類に類別し、1位ごとに上納を減じ、上田十五、中田十三、下田十一、下の下田九の割合と定められました。また、畑地は水田同様に4種類に分類し、上畑十三、中畑十一、下畑九、下の下畑七と定められていました。
収税法は、田地は取米を定めて玄米を収め、畑取米は升目2石5斗を金壱両として金銀にて上収したとあります。田畑の上、中、下の石盛を定めることを、検地、検見、縄入と云います(大森区史から)。この大森絵図は、明治5年の地租改正のための、明治行政村として旧村時代の耕地の分布と面積を明確にする目的で作図したものであったかもしれないと述べてあります(大田郷土博物館北村敏氏 地図中心2009年10月号から)。

 田畑収穫高

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大森町界隈あれこれ 大森町の昔を古地図で探る 大森村絵図その2

2010年07月18日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2010 大森村麦わら細工

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今回より古地図で昔の大森を探っていきますが、その前に大森を理解しておく必要がありますので、大森全般の地形や歴史および事柄について触れておきます。

大森の地名の変遷
明治以前の大森
・武蔵国
明治以前の大森村は、奈良時代から明治初期まで律令制により武蔵国に属しており、秩父、多摩、埼玉、足立、豊島、荏原郡などの21郡(後に22郡)が置かれていました。
武蔵国は、現在の埼玉県、東京都の大部分、および神奈川県川崎市と横浜市の大部分を含みます。

 武蔵国の郡構成

・荏原郡
江戸時代には荏原郡の村々は、六郷(34村)・馬込(13村)・世田谷(30村)・品川(13村)・麻布(5村)の5領に分かれ、合計で95ヶ村がありましたが。慶応から明治にかけては、武蔵知県事管轄、品川県、東京府と体制が混乱しましたが、明治初頭には三田・上高輪町・下高輪町・北品川宿・南品川宿を含む102ヶ町村となりました。
地域は現在の行政区画で目黒・品川のほぼ全体と、大田・世田谷の大半と、港・千代田・神奈川県川崎市の一部をあわせた範囲に及びます。

 荏原郡町村構成

明治時代後の大森
1867年(明治元年)に江戸を東京と改称し、武蔵の地に東京府が開設されましたが、1871年に一旦開設の東京府を廃止して、荏原、豊島、足立、葛飾、多摩の5郡を所管し、同時に飛び地の荏原郡世田ヶ谷村などの21ヶ村と多摩郡岡本村などの9ヶ村が東京府に移されました。

 明治初期大森村絵図

1872年(明治5年)に荏原郡の西大森村・東大森村・北大森村が合併して、大森村が成立。
1878年(明治11年)に東京府は府下を区と郡に分け、麹町区・神田区・浅草区などに旧幕時代の地称を付し東京15区を設け、市街地に隣接する旧街道宿場および農村部に荏原郡・東多摩郡・南豊島郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の6郡を置きました。荏原郡に属する旧大森区に該当する区域は、大森、不入斗(いりやまず)、新井宿、馬込、池上、石川、雪ヶ谷、市野倉、桐ヶ谷(馬込領桐ヶ谷)、堤方、下池上、徳持、久ヶ原、道々橋、鵜ノ木、嶺、下沼部、上沼部の18村に分かれました。
1889年(明治22年)市制・町村制が施行され、東京府は府下に旧15区の区域を市域とした東京市を設け、上記の18村は荏原郡大森村、入新井村(不入斗村と新井宿村が合併)、馬込村、池上村(池上、石川、雪ヶ谷、市野倉、桐ヶ谷、堤方、下池上、徳持、久ヶ原、道々橋の10村が合併)、調布村(鵜ノ木、嶺、下沼部、上沼部の4村が合併)の5村に編成されました。
1897年(明治30年)に 荏原郡大森村が町制を施行して大森町となりました。
その後、荏原郡の入新井村が大正8年(1919年)に入新井町に、池上村が大正15年(1926年)に池上町に、昭和3年(1928年)に馬込村と調布村が馬込町と東調布町に町制を施行しました。
1932年(昭和7年)に大森・入新井・池上・馬込・東調布の5町域をもって大森区が誕生し、東京市に編入されました。
1947年(昭和22年)に大森区が蒲田区を編入・改称し1文字ずつとって大田区が成立しました。大田区は東京23区の最南部に位置しています。

・大森村に隣接する旧村名と大森区・大田区の町名との対照
大森村絵図を読み解くために、絵図が描かれた1872年(明治5年)以前の大森村の隣接する村名と、明治22年(1889年)の市制町村制施行時の村名と大森区成立時の町名および現在の大田区の町名を対比して表示しておきます。

 大森村および隣接の村名、大森区・大田区の町名対照表

明治以前の大森村の歴史
明治時代以前の大森村の歴史を大森区史から抜粋してみました。
江戸時代の大森の資料を拾ってみると、「通俗荏原風土記」によれば大森海岸旧街道を三別して北、中、南原と呼ばれ、これを俗に三原と称せられ、昔は磐井神社領内に属し、八幡原耕地と称え、後年原八軒とも云ったとあり、家数八戸と記載されています。
徳川氏入国後、1573~1593年(天正年間)六郷領花井の郷大森村と称し、慶長、元和の頃に東大森村、西大森村、南大森村、北大森村の四個村に分割したが、元禄の頃廃置分合して東西北の三個村としました。
「新編武蔵風土記稿」によると、六郷領内の家屋総数は3700軒余で、最大は馬込村の307軒、最小は浜竹村の17軒となっている。地域的には大森地区に最も多く家屋の集中があり(東大森村300軒余・西大森村200軒余・北大森村180軒余)、平地、水田が多く、海浜で「漁猟・海苔」とされ、次いで羽田地区(羽田猟師町300軒余・羽田村270軒など)になっている。現六郷地区では、八幡塚村が152軒で筆頭、「水陸の田相半ば」とされ、その他の村はいずれも数十軒の規模であるとあります。
1605年(慶長9年)2月大久保長安幕命により、六十間を一町、三十六町を一里と定め、東海、東山、北陸三道に、一里塚を築き、新井宿、池上、多摩川の矢口に通じていたが廃せられて、鈴ヶ森磐井神社前から大森町を通過して、蒲田の梅屋敷に達する間、東海道、品川、川崎間の中宿として、大森は人足や駕籠かき等の替え場所となり、掛茶屋も街道に軒をつらねるようになり、当時の街道往来は想像以上の繁栄であったそうです。
その後、大森は幕府直轄の地となり、東、西、北の三村に分かれ、東海道の交通が煩雑になるにつれ、中宿大森村の人家が街道を挟んで増加し、街道の掛茶屋、旅人の荷物運搬人足の建場が設けられ、海路による交通荷物運搬等の利便のために、大森村の発展は他と比して急速な進展がみられました。
1854年(嘉永6年)に黒船が浦賀に来て通商を迫られたため幕府は沿岸警備の必要にせまわれ、「通俗荏原風土記」によれば東京湾防備として大森に台場を築き、幕府は加賀前田侯に警備にあたらせ中原の和中散の家を本陣としました。台場の跡は旧大森ガス会社(現ジャックニコラスG大森)の所在地でありました。

 江戸名所絵図大森和中散

「和中散」は、食あたり、暑気あたり等に効く、道中常備薬としてつくられ、旅人に珍重されました。1688~1716年(元禄から正徳)にかけて、大森村中原、谷戸、南原に三店が開業していました。このうち南原にあった店が、のちに北蒲田村の忠左衛門に譲られ、1818~1830年(文正年間)の始め、忠左衛門の子の久三郎の代に、梅屋敷に移転して庭園に梅の名木を集めて、休み茶屋を開きました。梅屋敷公園に1975年(昭和50年)3月19日指定の大田区指定史跡の和中散売薬所跡があります(「大森町界隈あれこれ 大森町風景 梅屋敷公園」参照)。

大森村の隣接の新井宿村と不入斗村全図
大森村絵図を見るにあたり、ここで隣接村の新井宿村と不入斗(いりやまず)村の地形図を見ておきましょう。
下図は、『入新井町史』(入新井町誌編纂部 編者 角田長藏 編集兼発行者 岩井和三郎 1927年(昭和2年)20日発行 非売品)の口絵で、明治9年に作成された新井宿村と不入斗村全図の絵図です。
絵図は右方が北で新井宿村と不入斗村の境界は、新井宿村は東海道線を境として上部分に、東海道線の下部分の紙田と永田が新井宿村であり、不入斗村は他の東海道線の下部分の大半と八景坂の一部が大森北一丁目に分かれて不入斗村に入ります。
明治時代には大森村ではありませんでしたが、大田区になった現在では、「長田、皿沼」は中央1、2、4丁目と山王3丁目ですが一部は大森北5丁目と大森西1丁目です。「河原作、西沼、新田」は大森西1、4丁目で、「八幡、潮田」が大森本町1丁目と大森北2、3丁目であります。「谷沢、谷中、川添」は大森北3、4、5、6丁目で、「中」は大森北1、3、4丁目で、「高田、堀後、根岸の一部」は大森北1、4丁目となっており、大森町界隈です。
明治初年頃は不入斗の多くは耕地であり、人家は少なかったのですが、現在になり人口の増加で町名が多くに分かれました。

 新井宿村と不入斗村全図

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大森町界隈あれこれ 大森町の昔を古地図で探る 大森村絵図その1

2010年07月12日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2010 荏原郡大森村内川橋(明治14年発行複製地図日本地図センター)

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古地図で昔の大森を探る
・大森町の過去の災害
大森町界隈は、過去に天災と戦災の大きな災害を2度被っています。その1は1923年(大正12年)9月1日に神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9の関東大震災による災害です。
2つ目戦災は、第二次世界大戦参戦により東京大空襲を受け、大森町の空襲被害は1945年4月15日(「大森町界隈あれこれ 鎮魂!大森町大空襲(第6~11回)」参照)の空襲で、京浜工業地帯の鶴見、川崎、蒲田、大森が精密工業の中心であることから、米軍は工場を破壊することを作戦として、B29爆撃部隊3航空団の1つが大森の平和島以南から蒲田以北の京浜国道を中央線とした大森町の工場破壊を目標として爆撃が行われ、他の2航空団が現在の川崎市小田、浅田、南渡田町を中心とした工場殲滅の爆撃が行われました。この空襲で、大森は6万8千戸を焼き尽くされ、特に大森町は壊滅的被害を蒙りました。川崎は3万5千戸を焼き尽くされました。
この2回に亘る災害で、大森町にあった遺産の建造物や資料類は、石造物以外は殆ど消失してしまいました。

 大森町周辺戦災焼失地図(黄色部が焼失地域)(戰災燒失地域表示 新生 東京詳細地圖19460505 京極堂CD-ROMから)

・地図から昔の大森を見る
有形・無形の資産は、貴重な歴史資産ですが、記録資料も立派な歴史情報です。現在は、ITを活用することにより、誰でも簡単にいつでも記録情報を作成し保存することができますが、一昔前では情報を紙での記録しか残せませんでした。しかも、情報所有者の頭の中の情報を伝える手段に限りがありましたので、貴重なローカルな歴史情報が殆ど残されていないのが実情です。
現在、一般に使用している地図には、地形、交通道路は一見して見ることができますが、そのほか産業、文化、生活環境、人口、区域変遷、交通や時代反映などの表現されていない沢山の情報が秘められています。そこで、大森町界隈の残された数少ない歴史資料を補うため、各時代の大森の地図を見て歴史を探り、情報を纏めておく必要を感じて、「古地図で大森を探る」を開始します。
下記の現在の大森町周辺地図にオレンジ色で示された線は旧東海道を示すもので、第1京浜国道と分離した部分は三原通りと呼ばれ、昔から人家が賑わっていた場所であったので、第1京浜国道建設は離れた場所に造られました。第1京浜国道は、時代と共に何度となく道幅の幅員拡張が西側方向でお行われ、旧東海道端は東側サイドが一致しています。

 現在の大森町周辺地図

大森村絵図
古地図で大森を探るの第1回目の大森村絵図は、前回記事で掲載の様に昨年の秋に大森村の古図(東京府武蔵国荏原郡大森村明治14年5月発行複製)を購入するため日本地図センターに出かけた際、「大森村絵図」の紹介した雑誌が目に留まり、その絵図が「大田区史(資料編)諸家文書3」に所収されていることを知り、大田区役所で閲覧できたことにより大森村絵図を入手しました。絵図が描かれたと云われる明治元年7月から同5年の時代の大森村絵図は、この時代の大森村を知るためには貴重な資料であり、先ずは大森村絵図から昔の大森村を探ります。
下記に掲載の大森村絵図は4葉構成で、サイズが非常に大きく縦が1550mm、横が1875mmもあり、掲載のためのコピーには原版をA3サイズ24枚に分割コピーし、それを15枚に編集し割愛分割して作成したものです。

 荏原郡大森村絵図(大田区史(資料編)諸家文書3から)

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大森町界隈あれこれ 内川風景 変化する冬の内川を歩く(その3)

2010年02月08日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2010

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内川を歩く(下流)
一之橋の内川の下流には第1京浜国道の大森橋が架設されています。今回は、大森橋からの下流の内川を歩きます。一之橋から下流の内川の流れは、東京府武蔵国荏原郡大森村地図(陸軍省参謀本部測量明治14年第5月期測量)によると、以前からの源流(「大森町界隈あれこれ 内川風景 大森町を流れる昭和の面影 第2回」参照)に沿っています。

 内川下流の地図

第1京浜国道(国道15号線)は1927年(昭和2年)に八ッ山橋から六郷橋間が竣工し、旧東海道に沿って開通されましたが、北品川から鈴ヶ森間と、大森本町1丁目交番から大森警察署前の産業道路の三叉路間は旧東海道から西に離れています。

 内川橋から大森橋間の内川(:護岸工事前の内川橋から大森橋を望む060902、:護岸工事前の大森橋-内川橋間の内川071014、:大森橋-内川橋間の護岸工事080305)

この大森橋を越えて内川を下流に進むには同国道の中央部に高架路があるため横断できず、国道北方の大森橋信号交差点か、南方の大森警察署前交差点で国道を横断して、大森橋まで戻らないと渡れません。この大森橋と内川橋間の内川の護岸工事が2007年に行われ、2008年の秋には完了しました。

 護岸工事が完了した大森橋-内川橋間の内川(:護岸工事が完了した大森橋-内川橋間の内川081025、:現在の大森橋-内川橋間の内川、:第1京浜国道上から見た現在の内川0203)

内川橋界隈
大森橋から数10m下流には旧東海道(三原通り)(「大森町界隈あれこれ 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)があり、江戸時代には旅人が繁く通った街道で内川橋の袂には駿河屋という旅籠があり、川端にはするがや通りと呼ばれる羽田道の始点があります。

 内川橋風景(:内川橋から下流を見る0203、:護岸工事前の内川下流060902、:三原通りとするがや通り0203)

内川橋の下流には新橋が架設されており、この区間の護岸工事が北岸側から着手され、2007年秋には歩道の整備を残して護岸が完成しました。また、同年には南岸の護岸工事が開始され、2008年秋には完成しました。

 内川橋-新橋間の護岸工事(:北岸の護岸工事が完了し南岸の工事が始まる071014、:新橋までの南岸の護岸工事も完了081025、:新橋付近の内川0203)

2月3日に見ると、内川橋と新橋間は護岸工事により川幅が大分狭くなりましたが、両橋間の中央部から上流にかけて数多くの鴨が遊泳していました。新橋の下流近くでは大規模な護岸工事をしているため、鴨の遊泳は上流の方におり、内川橋の近くでも数は少ないですが回遊が見られました。

 新橋上流には多数の鴨が遊泳(:新橋から見た内川上流、:新橋-内川橋間には多数の鴨の遊泳が見られる0203)

内川下流護岸工事
内川の護岸工事も残るところ下流のみとなり、新橋の東側近くから内川水門付近まで大規模な工事の準備が行われており、完了予定は平成22年3月となっていますが遅れそうです。工事は、現場説明図を見ると下流左岸と右岸のその2工事(青)と、新橋際のその3工事(赤)が施工中ですが、既設護岸(黄)の部分は工事をしないのかは分かりません。

 内川下流護岸工事見取り図

護岸工事の方法は、双方とも同様工事方法の様ですが、その3工事の左岸側については不明です。

 内川下流工事(:その2工事、:その3工事)

2月3日に見た新橋東際のその3工事現場では、鋼矢板を打ち込んで工事の準備を行なっていました。

 その3工事現場(写真拡大)

内川左岸から見たその2工事現場では、クレーンが動き、コンクリートミキサー車や工事車が動き回り工事が進行していました。

 その2工事現場合成(左上中上右上左下中下右下写真拡大)

2008年には内川護岸工事その2およびその3工事現場には、数多くの鴨が回遊し、カモメが飛んでいましたが、工事で居場所がなくなりました。
また、大森海苔ふるさと館まえの河口運河にも、非常にたくさんのカゴメや鴨が見られましたが、浜辺橋下にわずかな鴨が泳いでいるのみでした。カモメは1羽も見かけません。

 浜辺橋付近の数少なく淋しい鴨(写真拡大)

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大森町界隈あれこれ 内川風景 変化する冬の内川を歩く(その2)

2010年02月06日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2010 カモメと鴨が仲良く内川を泳ぐ

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内川を歩く(上流2)
諏訪橋界隈
その2では、前回に続いて諏訪橋周辺を歩いてみました。内川北岸を四之橋から少し東に進むと、川添の左手に諏訪神社の末社の金山神社(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 諏訪神社その2」参照)が見えます。その金山神社の少し先に、北に向かう細い小路があり、その路地の先は諏訪神社正門の横塀とつながっており、神社の手前には戦前に通園した日新幼稚園(「大森町界隈あれこれ 内川風景 大森町を流れる昭和の面影 その1」参照)がありました。

 内川中流地図2

・大森諏訪公園
川岸を進むと、諏訪神社参道に通ずる十字路に架かる橋が諏訪橋です。諏訪橋南岸の角の建物は区立大田福祉作業所で、南に隣接して区立大森諏訪公園があります。
もともと、諏訪公園は内川の南岸にありましたが、2007年2月に双方の場所を交換して古くなった区立大田福祉作業所を建替え直し、同10月にお披露目のふれあい祭りが開催(「大森町界隈あれこれ ニュース 大森町周辺の秋のイベント(2007.10.14)」参照)されました。新たな諏訪公園の築造は同10月に大田福祉作業所で説明会(「大森町界隈あれこれ ニュース 大森町周辺の秋のイベント(2007.10.22)」参照)を開き、2008年春に完成した新しい公園です。2009年11月にはこの公園で、大森三丁目連合町会が町会創立60周年に当たり、大田区長の出席のもとで、大森諏訪公園に区の木である白、ピンク、赤色の梅の木3本の記念植樹式典(「大森町界隈あれこれ ニュース 大森町周辺の秋のイベント(2009.11.29)」参照)が行われました。

2月3日に公園に立ち寄り植樹された梅の木を見ると、3本の梅のうち真ん中の木にピンクの花を咲かせていました。

 大森三丁目連合町会創立60周年記念植樹の梅の花(左・写真拡大)

・大森西交通公園
大森諏訪公園の斜向かいには兄弟公園の大森西交通公園があり、2009年7月には大森三丁目連合町会盆踊り大会が行われ、太鼓方が音頭を取る中央のやぐらの周囲で付近の住民が浴衣やカジュアルな平服を着て踊ります。交通公園では、樹齢24年の染井吉野が25本ほど植えられており、花見時には近隣の住民などで花見会を開き、この界隈では開桜小学校の花祭りとともに花見のポイント(「風景・風物誌 花見のはしご 今年は大森町界隈の花見と大田区の桜 その1」参照)です。

・開桜小学校前護岸遊歩道
諏訪橋から二之橋間の開桜小学校前の内川北岸の護岸遊歩道は、2年の工事期間をかけて2009年3月に完成し、大田区長出席のもとで桜の植樹が行われ、内川を案内する案内板や標柱が建てられ、大森町の新名所(「風景・風物誌 花見のはしご 今年は大森町界隈の花見と大田区の桜 その1」参照)が生まれました。同4月6日には、植樹した桜の木には花を付けていました。

昨年は開桜小学校前遊歩道護岸工事が2年間続いたので、内川への鴨の寄り付きが5羽程度と寂しいものでしたが、工事が完了した今冬の1月18日には開桜小学校前の護岸遊歩道の内川に、沢山の野鳥の鴨が姿を見せてくれました。

 回遊するカモメと鴨(写真拡大0118)

同31日にも、今年の集まった野鳥の中には、今までは姿を見せなかったカモメも鴨の集団に混じっており、自然回帰は喜こばしいものです。

 内川でカモメも交じって回遊する鴨(写真拡大0131)

しかし、大森第八中学校前の遊歩道護岸工事と内川下流の護岸工事が進んだ2月3日に見ると、開桜小学校前の内川にはカモメの姿が無く、鴨の数も心なしか減った様に感じました。工事が完了しないと、自然環境には厳しい様です。

 内川で回遊する鴨(写真拡大0203)

二之橋・一之橋界隈
開桜小学校の東側の二之橋から下流域には、京浜急行の上下線鉄橋の外に高架化工事の仮上り線の高架橋が架設されています。現在は、この仮高架橋上で線路敷設工事と電力線設備の電柱建立と電力架線の架設工事が行われています。
高架化工事の始まる前の在来線鉄橋に比し高架橋は高さが高いので、野鳥が飛び越えて内川上流に向かうのには困難さが増しました。野鳥が集団で橋の下を潜って進むのは、敬遠しているようです。

 内川上の京急仮高架橋と在来線内川橋梁(:二之橋から見た京急仮高架橋と在来線内川橋梁、:京急内川橋梁下の南岸道路、:京急内川橋梁下の北岸道路0131)

・一之橋下流の野鳥
京浜急行電鉄鉄橋に平行して架設されている一之橋下の内川には、海水の満潮時に下流から流れてくるゴミの上流への遡行を防止する柵が張られています。内川河口からやっとの思いで柵まで辿り着いた野鳥は、ここで上流への進路の抵抗となっています。
1月31日に見ると、ここまでたどり着いた10数羽の鴨が立ち往生していました。暫く見ていると、この集団はまだ人間に馴れていないので、人の気配で一斉に飛び立ち第1京浜国道を越えて河口へと去っていきました。なお、同2月5日にも来てみると、同一集団と思われる鴨が遊泳しているので、そっと立ち去りました。鴨も平穏の地に辿るまで懸命です。

 上流に行けずにいる鴨一族(:第1京浜国道から一之橋を見る、:ゴミ遡行防止柵を越えられずにいる鴨一族0131)

京急高架化工事関連側道整備
京急高架化工事関連側道が、内川の南岸の京浜急行高架化工事の線路際を始点として、大森町駅から梅屋敷商店街通りの大森町第4踏切までの区間を、幅員6mの道路を新たに整備する計画が進んでいます。その説明会(「大森町界隈あれこれ ニュース 変貌する大森町駅周辺の商店街(2010.1.26号)」参照)が、2月9日に大田区大森西特別出張所で開かれます。この道路も、今後の大森町界隈の内川に関連を持ってきます。

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大森町界隈あれこれ 内川風景 変化する冬の内川を歩く(その1)

2010年02月04日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2010

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内川を歩く(上流1)
内川は大森町の中心をJR東海道線の東から開桜小学校前を流れ、旧東海道の内川橋を通って「ふるさと浜辺公園」の河口までの約1.5kmを東京湾に流れる二級水系の短い人工の川(「大森町界隈あれこれ 内川風景 大森町を流れる昭和の面影 その1」参照)です。
1939年(昭和14年)に父の転勤により大森町に居住して、幼稚園に通園した時に、内川沿いの道を毎日通ったのが始めて見た内川で、内川右岸の川岸から50mのところに氏神様の諏訪神社があり、高校時代は内川沿いの校舎に通い、また大戦後の疎開から帰京の仮住まいは河口岸に接した住宅で過ごし、内川は生活環境からは切れない存在の川なのです。

 大森町の中央を流れる内川

内川は江戸時代から明治時代には、第1京浜国道から下流は現在までその流れを引きついていますが、上流は現在の京浜急行電鉄の鉄橋付近から南方にカーブして、大森町駅付近で西に折れて本流は大田区北馬込付近の水源に達して(「大森町界隈あれこれ 内川風景 大森町を流れる昭和の面影 その2」参照)いました。

最近では、川の水がきれいになったので人口河川の内川でも自然回帰が見られ、上流では大森第八中学校付近から京浜急行内川鉄橋付近で、親子連れの鴨が遊泳している光景を見ると付近住民の気持ちが癒されます。
しかし、上流の大森第八中学校の遊歩道護岸工事(「大森町界隈あれこれ ニュース 大森町周辺の師走の出来事(2009.12.26号)」参照)と新橋から下流で大掛かりな護岸工事が行われていますので、野鳥にとっては居住し難いなかでところどころで何とか住み着いています。

 内川上流地図

ただ、2年前には内川河口の「ふるさとの浜辺公園」の対岸の「大森海苔のふるさと館」(「大森町界隈あれこれ 海苔の歴史を学び体験する 大森海苔のふるさと館オープン その1、2」参照)前のふるさとの広場にかけて多数のカモメが見られましたが、今年は1羽も見られないのは下流の護岸工事が本格的に開始されたためと思われます。
昨年は、内川中流の開桜小学校前で遊歩道護岸工事を2年連続で行っていましたので、鴨も殆ど見られませんでしたが、昨春の遊歩道完成(「風景・風物誌 花見のはしご 今年は大森町界隈の花見と大田区の桜 その1」参照)後の今冬の始めには開桜小学校前には多数の鴨が寄り付いており、その中に混じってカモメも見られました。
年が明けて下流の護岸工事が本格化すると、カモメは見られなくなり、鴨の数も減少した様です。そこで、2月3日に内川の河口から大森第八中学校付近まで歩いて、内川風景を見てきました。

大森第八中学校付近の鴨の遊泳
1月31日には大森第八中学校の第1期護岸工事現場のやや下流付近から四之橋付近の間を大型の鴨が1羽で回遊しており、2月3日には種類の異なるかもが4羽ほどが遊泳していました。

 大森第8中学校前の工事中の内川で鴨の遊泳(:[0131]、:[0203])

大森第八中学校の遊歩道護岸工事
大森第八中学校の遊歩道護岸工事は昨年11月から開始(「大森町界隈あれこれ ニュース 大森町周辺の師走の出来事(2009.12.26号)」参照)され今年の第1期は、東邦医大病院側の富士見橋から60mの遊歩道護岸が3月末に完成予定です。
護岸工事を1月18日に見ると、護岸外部を鋼矢板で仕切り、護岸部の水の汲みあげを行っていました。

 第1期内川護岸工事1(写真拡大0118)

同31日に見ると、鋼矢板内部の護岸壁の基礎土台が築かれ、遊歩道護岸部の補強仕切り板が築造されていました。

 第1期内川護岸工事2(写真拡大0131)

2月3日に見ると、遊歩道護岸部の底部の基礎工事が行われていました。

 第1期内川護岸工事3(写真拡大0203)

四之橋界隈
・大森学園高校の風力発電機
大森第八中学校から内川を下流に進むと五之橋が架かっており、その先の四之橋の間に大森学園高校の校舎があり、内川沿いの校舎の屋上に風力発電機の風車が2基回転しています。風力発電機とともに大森学園高校の紹介が、1月14日のテレビ東京「空から日本を見てみよう」で放映(19:58~22:00)されました。高校の紹介のなかで、昨年70周年の設立当時には画期的な徒弟学校からスタートした模様が紹介されました。徒弟学校については、このブログでも掲載中(「大森町界隈あれこれ 大森学園創立70周年 徒弟学校から戦後焼跡工場仮校舎の歴史を追う(第2回その1、2)」参照)です。

 大森学園高校(:大森学園高校遠望、:大森学園高校の風力発電機

・諏訪神社節分祭
四之橋を北に進むと道路右側が諏訪神社への裏門です。諏訪神社の正門の参道は、東方の諏訪橋を開桜小学校に沿って北に進んで、四つ角を左に曲がる道が表参道です。2月3日は、諏訪神社の節分祭(「大森町界隈あれこれ 二月の風景・風物誌 諏訪神社の節分・初午と金山神社の針供養2009」参照)が午後3時から行われましたので、参詣してきました。

 諏訪神社節分祭(写真拡大)

・老人クラブ新年会・誕生会
1月21日に諏訪神社境内の諏訪会館で、大寿会第一クラブの新年会・誕生会が開催されました。諏訪会館は、大森西町会や老人クラブなどの集会に使用されます。

 大寿会第一クラブの新年会・誕生会(写真拡大)

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大森町界隈あれこれ 2010年 大森町の正月・年始風景 その1(第86回箱根駅伝)

2010年01月19日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2010

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箱根駅伝
大森町の恒例の正月・年始風景は、2、3日に大森町を縦断する第1京浜国道を各大学の選手が走る箱根駅伝を、周辺の住民が連れだって新聞社が配る小旗を振って声援を送る情景を見て、新年のスタートを知らせる風物詩です。
今年の箱根駅伝は「第86回東京箱根間往復大学駅伝競走」で、シード校10校に予選会から選考された9校と、関東学連選抜チームを加えた20チームで争われましたので、昨年同様(「大森町界隈あれこれ 2009年 大森町の正月・年始風景(第85回箱根駅伝)その3」参照)に第1京浜国道大森町駅交差点付近で、2、3日に応援に行きました。

・往路コース
往路は、千代田区大手町の読売新聞東京本社前を2日午前8時にスタートして、鶴見、戸塚、平塚、小田原の各中継所を経て、神奈川県箱根町の芦ノ湖までの108.0kmを5人の選手がリレーして走ります。
第1京浜国道大森町駅交差点付近の通過は8時40分頃となりますので、初めはテレビ中継を見て、母校が今年はトップ集団を走っているので気を良くして、品川の御殿山を過ぎるころに腰をあげ国道で配っている応援の小旗を貰います。今年の小旗は昨年までと異なり、布製で一回り小型の旗(Top写真)となりましたが、紙製の旗では破れ易いのでエコを配慮したものです。

 箱根駅伝往路1区(:大森町駅交差点、:往路先頭集団グループ)

例年の大森町駅交差点付近の選手団の通過は、各校の選手が牽制しながら1団となって通りすぎて呆気ない応援となりますが、今年はトップ集団が飛ばして珍しくラスト選手との差を結構付けての通過となり、先頭は明治大、早稲田大、専修大、中央大の集団で、続く2番手集団には東洋大、山梨学大、城西大、関東学連などが通過しました。今年の母校明治大学の往路選手は4年生であり、通過集団の順位を見て期待して家に戻りテレビ観戦です。

 往路大森町を通過する選手団1(:往路大森町通過のテレビ中継1号車、:2番手集団通過、:3番手集団通過)

最初の第1区の鶴見中継所(21.4km)での成績を見ると、1位が母校の北條尚選手が1時間2分27秒で通過し、2位の早稲田大が1時間2分40秒、専修大が1時間2分46秒、関東学連が1時間3分で、以下東洋大、中央大、山梨学大と続きます。
第2区の鶴見- 戸塚間(23.2km)でも、明治大の石川卓哉選手が1位で10時11分23秒(区間5位の1時間8分56秒)で通過し、2位の日本大ダニエル選手が区間1位の1時間7分37秒の11人抜きで10時12分3秒と40秒差に詰められました。以下、山梨学大、東海大、青学大と続きます。

 今年は大森町付近から選手間隔が離れて通過(写真拡大)

続く第3区の戸塚- 平塚(21.5km)では昨年も健闘した鎧坂哲也選手が区間3位の11時14分31秒で通過し、山梨学大コスマスが追い上げてきましたが2位とは11時15分23秒で52秒差とかわし、第4区の平塚 – 小田原(18.5km)の安田昌倫選手も区間記録の55分57秒と奮闘して12時10分28秒と、2位の日体大の12時13分7秒を2分39秒と離しました。しかし、往路の1位通過はここまでで、第5区の小田原- 箱根(23.4km)では東洋大の2年生柏原竜二選手が、脅威的な区間新記録の1時間17分18秒と昨年の記録を破り13時32分2秒の1位で到着し、以下2位山梨学大、3位日体大、4位中央大、5位東京農大となり、明治大学は6位に沈みました。

・復路コース
明治大の復路は5分43秒差で出発ですが第6区の小田原では、1位東洋大、2位山梨学大、3位中央大の次に明治大が6分差の4位で通過して期待を抱かせてくれました。

 総合優勝校東洋大と復路優秀校駒沢大(:大手町読売新聞社1位ゴールの東洋大高見諒選手、:復路の大森町を通過するテレビ中継1号車、:大森町を2位通過の駒沢大藤山修一選手)

しかし、第7区では1位の東洋大とは7分50秒差の6位となり、次の第8区でも奮戦して1位とは9分2秒の差で6位を死守しましたが、第9区で明治大は8位に落ちてトップとは10分31秒差と開きました。

 大森町を通過するシード校選手達1(:3位通過の山梨学大大谷健太選手、:4位通過の中央大辻幸佑選手、:5位通過の東京農大木下潤哉選手)

いよいよ第10区では大森町の通過です。トップの東洋大に続き2位は復路優勝の駒沢大藤山修一選手、3位の山梨学大大谷健太選手、4位中央大辻幸佑選手、5位東京農大木下潤哉選手、6位城西大八巻賢選手、7位早稲田大神沢陽一選手に続き、明治大の渡辺真矢選手が8位を通過していきました。

 大森町を通過するシード校選手達2(:6位通過の城西大八巻賢選手、:7位通過の早稲田大神沢陽一選手、:大森町では8位通過の明治大渡辺真矢選手)

しかし、大森町では9位の青学大鈴木惇選手、10位日体大小柳津幸輝選手、中央学大、帝京大学、東海大、大東大、亜細亜大、日本大、上武大、関東学連、法政大、専修大と走り抜けていきましたが、品川を過ぎる頃には青学大に、ゴール寸前で日体大にも抜かされて明治大はかろうじて11時間21分57秒の総合10位(復路17位)でのゴールとなりトップとの差は11分44秒と開き、しかも11位でゴールの帝京大との差は僅かに2分55秒の差で何とかシード権を得ましたが、4年生の主力が抜けた来年は大変な頑張りが必要なようです。

 大森町を通過するシード校と惜しくも11、12位の大学(:大森町では9位通過の青学大鈴木惇選手、:大森町では10位通過の日体大小柳津幸輝選手、:惜しくもシード校落ちの中央学大と帝京大学)

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大森町界隈あれこれ 二月の風景・風物誌 諏訪神社の節分・初午と金山神社の針供養2009

2009年02月11日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2009 

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節分祭
節分祭は立春の前日に行われる風物誌で、今年は2月3日の火曜日に行われた諏訪神社節分追儺式での豆まきを見て行きました。

昨年の節分祭の時には、大森町に住んで70年の記念として年男に応募したのですが、生憎と当日は雪に見舞われ豆をまくことができずに、参加者に手渡しで渡すというあまり様にならない節分(「大森町界隈あれこれ 二月の風物詩諏訪神社 氏神様の節分・初午・針供養風景」参照)で、すっきりと鬼を追い払うことができませんでした。
・追儺式
諏訪神社の年男年女の芳名板には、節分追儺(ついな)式と書かれています。
追儺の儀式とは、「鬼やらい」「なやらい」「鬼走り」「厄払い」「厄おとし」「厄神送り」等と俗に称せられ、疫病などをもたらす悪い鬼を駆逐する行事をいいます。追儺式は、今では節分に神社寺院で豆を撒いて鬼を払う行事ですが、元は古代中国から伝わった宮中行事で大晦日に行なわれ、邪気を払うといわれる桃の木で作った弓や杖を持ち、祈祷をして鬼を払ったと伝えられています。

 諏訪神社節分追儺式(:節分祭・初午祭案内板、:諏訪神社、右:年男申込者芳名板)

・豆まき
中国では古くから小豆や五穀を用い邪気を払う習俗があり、日本もそれに倣ったといわれ、室町時代には宮中や幕府でも今とほぼ同じような形式の豆まきが行われていたようです。年の数だけ豆を食べるのは江戸時代の宮中の豆打で行われていたと云われています。
また、江戸時代になると追儺式は宮中の行事ではなくなり、農民行事として民間で広く行われるようになり、一般の神社やお寺で節分に豆まきが行われるようになりました。

・諏訪神社の追儺式
今年の諏訪神社(大森西2-23-6 地図参照)追儺式は、午後3時から応募の年男35名を3回に分けて豆まきを行います。年男の申込をして参加すると、裃を着用し神官を先頭にして本殿に入ります。追儺式は先ず、神主が祝詞をあげ、一同礼拝してから本殿内の内部に2回「福は内」と豆をまき、外部に向って1回の「鬼は外」と唱えて豆を撒きます。

 節分追儺式(左・中:追儺式で本殿に入る、右:本殿から「鬼は外」と唱えて鬼を払う)

神官が太鼓を鳴らして儀式が終わると、豆の入った枡が各自に渡され、本殿前で記念写真を撮り、観客が待っている神楽殿に上がり、クライマックスの豆まきが行われます。

 儀式を終え豆撒き会場へ(左:儀式を終え豆を持って本殿を出る年男、中・右:豆撒き会場へ進む)

神楽殿での豆まきは、豆、お菓子、みかんが撒かれ観客がわれ先にと取り合います。豆まき風景を撮影していると、みかんが体にあたり、お菓子も目の前に飛んできて2個も縁起物が取れましたので、運の良い年であることを期待したいです。
豆まきで撒かれた縁起物をうまく取れた人は、今年1年は運がよい年に恵まれることを願う大森町鎮守様の春の風物詩です。

 豆撒き風景

・近隣神社の豆まき
諏訪神社の近隣の谷戸三輪神社(大森西5-18-1 地図参照)でも豆まきが行われますので、午前中に節分祭の準備風景を見てきました。例年は3回の豆撒きが行われ、今年は神楽殿から撒かれるようです。

 谷戸三輪神社節分祭準備の風景(:谷戸三輪神社、中:豆まき神楽殿と年男申込者芳名、:節分祭・初午祭案内板)

初午祭と針供養
・初午祭
お稲荷さんの総本社である伏見稲荷様は、711年(和銅4年)に降臨されたのが2月の初午だったと云われ、2月の最初の午の日に「初午祭」が行われます。
今年は2月6日が初午にあたり、諏訪神社では末社の伏見稲荷神社の御縁日の初午祭を午後3時から式典が行われました。

・キツネとお稲荷さん
初午祭の稲荷神社の信仰は、農耕を司る倉稲魂(うがのみたまのかみ~神宇迦之御魂神とも表記)を祀って五穀豊穣や商売繁盛を祈願します。昔の諏訪神社の周辺は、田圃と畑の農村でしたので、豊作を祈る農家の信仰が厚く、境内に末社の稲荷様を祀られたのでしょう。
宇迦之御魂神の別名を「御饌津神」(みけつのかみ)と称し、狐の古名を「けつ」と云い、三狐神と解して稲荷神の使いとなりました。時代とともに稲荷狐は格があがり白狐神として稲荷神社に祀られるようになりました。稲荷神社の前には、狛犬の代わりに狐の像が置かれますが、諏訪神社では白狐の像が置かれています。

 下社の伏見稲荷神社前の白狐像(写真拡大)

初午祭の式典は、神社役員やお参りに来た人が諏訪会館に集まり、神主さんの先導でお稲荷さまで祝詞を挙げて儀式を行い、代表に合わせて参詣します。

 初午祭(左・・右写真拡大)

・針供養
針の供養は江戸時代から、針の労をねぎらい裁縫上達を祈る祭りとして広まったそうで、関東では一般に2月8日に行われます。2月8日は、田畑に関する作業の始まりの日であることから、この日に行われるようになったのではと云われます。針供養は各地の寺院や神社で行われますが、起源は和歌山の淡島神社だとされています。

諏訪神社には、内川沿いに金山神社(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 諏訪神社その2」参照)という金山彦大神(カナヤマヒコノオオカミ)を祀った境外の別社があり、初午祭りを終えてから金山神社(地図参照)で針供養が行われます。
神主さんと神社役員や針供養をする女性が参列して豆腐に針を刺して神殿に捧げ、祝詞を挙げて供養をして代表に合わせあて参拝します。

 針供養(・中・写真拡大)

針供養が済むと一般参詣者にお菓子が配られます。

 初午祭のお菓子プレゼント

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大森町界隈あれこれ 2009年 大森町の正月・年始風景(第85回箱根駅伝)その3

2009年01月07日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2009 第10区の接戦 

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箱根駅伝風景
大森町の年明けの正月2日と3日は、箱根駅伝が住居近くの第1京浜国道を走り、沿道には大勢の地元の応援見物者が詰めかけ、新聞社が配る応援の小旗を振って声援する情景は初春の風物誌です。

箱根駅伝は、正式の呼称を、「東京箱根間往復大学駅伝競走」と云う長い名前で呼ばれ、今年は第85回記念大会で、それに伴い昨年より参加校を3校増やすことになり、シード校9校、予選会から選考した13校に関東学連選抜チームを加えた23チームで争われました。
参加23チームが、往路を千代田区大手町の読売新聞東京本社前を2日午前8時にスタートして、鶴見、戸塚、平塚、小田原の各中継所を経て、神奈川県箱根町の芦ノ湖までの108.0kmを5人の選手がリレーして走ります。

・往路
大森町駅入口の城南信金の前の通過は、8時40分頃に23人の選手が集団で牽制しながら走る個所のため、スローペースで一団となってあっと云う間に行き過ぎていきます。このあたりに応援に見に来た人達は選手の通過後自宅に帰り、中継テレビでその後の選手達の走法の展開を見るのがお決まりのパターンです。

 往路第2区第1京浜国道大森町駅入口の城南信金前(:城南信金前の応援見物、:選手団先導パトカー)

最初の第一区(21.4km)の鶴見中継所での上位通過者の成績を見ると、1位が早稲田大の矢沢選手で1時間4分48秒、2位が神奈川大の染谷選手で1時間4分52秒、3位が明治大の鎧坂選手で1時間4分53秒でした。なお、鶴見中継所での争いは熱烈で、4位以下の山梨学大、国土大、日体大までの通過時間は1時間4分58秒と接戦でした。母校の明治大が3位と健闘した戦績でしたので、シード校として残れるのではと期待が持てました。

 往路第1京浜国道大森町駅入口付近を選手団が一団で通過(:箱根駅伝テレビ1号中継車、:あっと云う間に通過の選手団)

往路の第五区の芦ノ湖までの成績は、東洋大が初の往路優勝で5時間33分24秒、以下2位が早稲田大で5時間33分46秒、3位が日体大で5時間35分7秒でした。母校の明治大は7位で5時間38分58秒でしたので、是非復路も頑張ってシード校として残って貰いたいものです。

・復路
2日目の復路は箱根から東京への109.9kmの合計217.9kmを、初日の到着順の時間差でスタートします。
2位スタートの早稲田大の加藤選手は往路優勝の東洋大を抜き、小田原、平塚中継所を早大が1位で通過したが、第8区で東洋大が抜き返してから1位をキープして初めての総合優勝を11時間9分14秒でさらいました。

 復路第10区第1京浜国道大森町駅付近の応援風景(:大森警察署付近の駅伝風景、中・右:本格の明大応援旗登場)

総合成績は、2位の早稲田大が11時間9分55秒、3位の日体大が11時間13分5秒でした。

 第10区大森町駅付近を通過の選手1(:1・2位争いの選手を待つ見物人、:2位早稲田大三戸選手、:3位日体大永井選手)

母校の明治大学は、小田原中継所を7位で通過して、平塚中継所を総合順位が6位で戸塚中継所では4位と順位を上げて奮闘しましたが、ゴールでな総合順位は11時間18分16秒の8位で、43年ぶりのシード権を獲得しました。これは、1区鎧坂選手が区間3位、2区石川選手が区間8位、4区松本選手が区間3位、6区中村選手が区間4位、7区安田選手が区間4位、8区細川選手が区間7位と、10人中の6人が区間1桁の順位の力走を見せてくれました。

 第10区熱戦の駅伝風景(:7位日大吉田選手、: 9位に入った関東学連選抜の佐野選手、:13位の駒大太田選手)

今年の第85回記念大会駅伝の特徴は、出場校が増えたにも関わらず、熱戦が広げられ、見物人のほとんどは最後の選手が通過するまで帰らずに応援していたことが、これまでの駅伝とは異なっていました。従来は、ラストの走者がくるまでには時間が空いて見物人は途中で帰りましたが、今回は選手間の間隔が殆んど開かなくて、1位から22位までの時間差が20分と接近して連なっておりましたので、出場校のレベル差がなくなったようで、見ていて楽しく興味ある駅伝競技でした。

・予選会
箱根駅伝への出場は、総合成績が10位までの出場校がシード校として、翌年の駅伝に参加できます。第85回大会のシード校は、東洋大、早稲田大、日本体育大、大東文化大、中央学院大、山梨学院大、日本大、明治大、中央大と関東学連選抜チームとなりました。
シードを落とすと、予選会に出て出場権を獲得しなければ出られません。明治大は、第84回大会の予選会で、小差で敗れましたので出場できませんでした。なお、明治大学の第85回大会の予選会順位は、9位に入って今回の総合成績が8位となりました。

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大森町界隈あれこれ 2009年 大森町の正月・年始風景その2

2009年01月05日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2009 

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大森町界隈の正月・年始風景
最近都会では、正月風景がなかなか見られなくなってきました。そこで、大森町の正月・年始風景を、大森町界隈の神社の初参りを見て歩き、地元氏子神社の元朝参りの様子と共に街や公園から正月風景を拾ってきました。

地元諏訪神社の元朝参り風景
大晦日の夜年越しそばを食べて、テレビから除夜の鐘が聞こえ始めると支度して、地元の諏訪神社(大田区大森西2-23-6)に元朝参りに行くのが、昨年に次いで今年で2回目の行事となりました。
大晦日の諏訪神社の元朝参りの風景は、境内に暖をとる火を燃やし、今年は初めて本殿前の参列通路に大型の通風暖房器を設置して、参詣者へのサービスが行われていました。諏訪神社では、元朝参りの参詣者にお神酒と甘酒をふるまわれます。また、社務所前では、縁起物の破魔矢が売らますが、人気があり売り切れとなります。

 地元神社の元朝参り1

元朝参りは本殿前に行列して並び、元旦を迎えるまで待ちます。参詣者の行列は、年が明ける頃には境内入口の鳥居を越えて、神社前の道路上まで続きます。元旦と共に、神社の太鼓を神官が打ち鳴らすと参詣が始まります。氏神様への参拝は、お賽銭を上げて一年間の無病息災や願い事を祈願します。参詣が始まると、参拝の列はかなり増してきて、年々参詣者が増えていると毎年お参りに来ている方の話です。

 地元神社の元朝参り2

お参りが済んで、ふるまいの甘酒と焚き火に当たり暖をとり、新たな年を迎えたばかりの清々しい気持ちで家に帰りました。

 地元神社の元朝参り3

大森町界隈の神社の正月風景
初詣に対応する神社では、門松やしめ飾りが付けられ、普段では見られない風景が見られます。今年の新年は、大森に住んで初めて大森町界隈の神社のお正月風景を、元日、2、5日の3日間かけてハシゴの初詣りで廻って見ました。

 谷戸三輪神社(写真拡大)

大森町界隈の神社は、北は磐井神社から、南の堀之内三輪神社までの11社(地図参照)があります。

 浅間神社(写真拡大)

先ずは、元日の午後に廻った貴管神社、谷戸三輪神社、浅間神社、大森神社の4社は、お正月初日でしたので、午後でしたが初詣りの参詣者が三々五々と訪れていました。浅間神社では、お札・お守りや破魔矢やおみくじに縁起物を発売しており、沢山の方が求めておりました。なお、浅間神社本殿には、鈴が付けられていない神社で、靖国神社や護国神社には鈴がありません。

 大森神社(写真拡大)

また、5日に廻った磐井神社は、東海七福神の弁財天が祀られており、特にお正月には目出度いので大勢のグループ参詣者が訪れていました。記念に、ご朱印を受けてきました。
今回は、この中から谷戸三輪神社(大森西5-18-1)、浅間神社(大森西2-2-7)、大森神社(大田区大森北6-32-12)と磐井神社(大田区大森北2-20-8)の4社の正月風景を見てみます。

 磐井神社(上段:磐井神社本殿 写真拡大、下段:弁財天 写真拡大)

元日の大森町商店街での獅子舞風景
元日の大森町商店街の中程を歩いていると、笛や鉦のお囃子の音が聞こえてきましたので、音の方向に進むとグループの一行が獅子舞を演じているのに出会いましたので、お目出度い正月のスナップ風景として撮らせて頂きました。

 大森町商店街通りでの獅子舞(写真拡大)

海浜公園での凧揚げ
2日に、大森ふるさとの浜辺公園に行くと、天気が良く凧揚げをしているのが見られました。最近は、街中で子供の遊び姿が見られなくなり、羽根付き遊びなどは姿を消しました。

 大森ふるさとの浜辺公園で凧揚げ

昨年には、浜辺公園の内川の河口には、沢山のカモメやカモの群遊が見られましたが、今年は内川の護岸工事のためか、餌が少なくなり越冬する鳥の数が少ないようです。

 内川河口で越冬する鳥

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大森町界隈あれこれ 2009年ゆく年・くる年 大森町の歳末・正月風景その1

2009年01月03日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2009 

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大森町の歳末風景
今年は、100年に1度の不景気に見舞われ、2009年はどのような年になるのかよく見えません。ゆく年・くる年を、大森町界隈のあれこれから見ることとし、まず、大森町の歳末風景を見てみました。
・歳末時別警戒
今冬の酉の市(「風景・風物詩 秋の風物詩 2008年酉の市 大森鷲神社」参照)は三の酉まであり、三の酉のある年は火事が多いと云われていますが、東京消防署の消防雑学事典(三の酉の年は火災が多い?) によると、明治時代に吉原に寄る亭主を引き戻すための俗信を作ったのではとの説があります。

大森三丁目連合町会では大森西三都団地連合会と共同で、年末になると歳末特別警戒を行い会役員が交代で夜警の夜回りを行い、火の用心を呼びかけ、指定外のごみの投棄がないかなどを見て廻ります。平成20年12月の歳末特別警戒は、24~29日の21時から22時30分までの時間を、A~Cコースの3班構成でパトロールをします。
丁度、冬休みで小学4年の孫が泊りがけで遊びに来ており、夜回りを体験したいというので、12月27日にAコースを巡回しているパトロール隊に出会い、社会勉強にと申し入れると快く受け入れてもらいました。早速、懐中電灯を持って歩いたり、拍子木を打ったりの体験が出来良い勉強となりました。

 歳末特別警戒パトロール隊に参加の社会勉強

12月24日には火災の通報により、消防車が第1京浜国道の大森町駅口付近に消火のため集合しました。調査の結果は、火事では無かったようで安心しました。最近のテレビの火災のニュースでは、死亡者の発生が報道されています。特に、一人暮らしの老人の火の扱いには十分と注意が必要であり、暫く前に近所でガスの消し忘れがあり、危うく火災に至らずに済んだ事故がありました。防止策として、火を直接使用しない、電気調理器を用いるなどの安全対策をとることが望ましいと思われます。

 火災通報により消防車が集合

・お焚きあげ
年末になると、地元の神社では、歳末行事のお焚きあげが行われます。
お焚きあげは、年の初めに健康や安全などを祈願して求めたお札・お守りや大根じめを求めて1年が経過すると、ご利益が抜けていくといわれています。お札・お守りなどは、1年たったら新しいものにします。
では、古くなったお札・お守りはどうすればよいのでしょうか。地元の神社では、暮れにお札・お守りや大根じめを納めると、「魂ぬき」のお祓いをしてお焚きあげを行います。氏子の諏訪神社では、12月28日午後2時に毎年恒例のお焚きあげが行われました。

 お焚きあげの儀式(左上:納められた古いしめ縄やお札・お守り、中上:「魂ぬき」のお祓い、右上:お焚きあげののお祓い、左下・中下・右下:お焚きあげ)

・大祓い
年末になると地元の諏訪神社では、小さな袋に入った紙の人形(ひとがた)が配布され、昔から行われている人形に災厄を乗せて、今年の無病息災を願う歳末に行われる大祓いの行事です。
大祓いの行事ではひとがたに、氏子の家族毎に人形に氏名と年齢または生年月日を書きます。自分の体の悪いところに当てて息を三度吹きかけて、災厄を人形に移して神棚に上げておきます。大祓い式典は、12月28日に執り行われますので、大祓人形は28日正午までに御厚志を添えて神社に持参します。
この人形は家族の身代わりとなり、大祓いの神事を通して祓い清められます。

 人形(ひとがた)

・年越しそば
年越しそばは、大晦日に縁起をかついで食べる、古くからの風習です。
年越しそばの風習は江戸時代の中頃のようで、1年の締めくくりに食べる年越しそばは、人の生活はそばの様に細く長く達者に暮らせることを願って食べると云う説や、蕎麦が切れやすいことから一年間の苦労を切り捨て翌年に持ち越さないようにと願った説などと云われています。
大晦日はお正月の準備を終え年越しそばを食べて、夜中に初詣りに出かける人が、多くなったようです。

 年越しそば

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風景・風物詩 秋の風物詩 2008年酉の市 大森鷲神社

2008年12月13日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2008

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大森鷲神社酉の市
2008年の酉の市は、11月5、17と29日の三の酉でした。大森での酉の市は、1939年に大森に転居してきた父の代から、大森鷲神社より「熊手守り」の授与を受け、戦時中の混乱期を除いて、親の代から現在まで引き継いでいます。
今年は、29日の土曜日の三の酉の夕刻の6時半頃大森鷲神社に出かけました。今年の酉の市は、休日のせいもあり例年よりかなりの人出で、通路が大変混雑していました。自宅からは、大森警察署前からバスでNTT大森の前で降り、大森駅近くの五差路交差点を南に進み、三差路交差点右の大森銀座商店街のカラフルなアーケードのMilpaを見ると、昨年と比べ相当混雑しておりました。
今年の混雑は、休日で最後の三の酉の関係だけで無く、米国発の金融関係による不況到来を予期して、その影響を少しでも避けたいとの神頼みでの参詣が多いのではとの勘ぐりもあります。

 休日で大変混雑の大森鷲神社酉の市(:三の酉で混雑のMilpaアーケード 、:例年より大変な混雑の鷲神社参道)

交差点の鷲神社参道は、例年の様に露天が目白押しで、狭い道路は参拝客でなかなか進みません。鷲神社に参詣するため、人の後に続いて進むと何時ものように詣内の参詣路は長い行列で一杯です。参詣の行列を辿り、八幡通りの方向を列の最後尾へと進みましたが、例年の列最終は辿れません。何時もの最後尾の場所を過ぎて、神社の曲がり角にきましたが、行列はそこを曲がってさらに続いているのには驚きました(いつもは、下図の×付近が最後尾)。

 大森鷲神社近辺地図と参詣者の例年にない長い行列

例年の行列の最後尾は鷲神社参道の途中なのですが、今年の行列はその先に続き、道を曲がり「おおとり会館」の先まで並んでいました。この行列では、神社参詣に1時間以上も待たされそうなので、列に並ばずにおおとり会館脇から境内に入りました。

 熱気が伝わる鷲神社本殿の参詣風景(:鷲神社本殿参詣の長い列、:酉の市を盛り上げるお囃子)

境内に入ると、沢山の縁起物の熊手を売る店が出ており、神楽殿ではお囃子で酉の市を盛り上げておりました。

 縁起物の熊手を売る店(写真拡大)

何時もは行列に並んで参詣した後に、縁起物として頌布される家内安全、商売繁盛を祈念した開運の守札を結んだ、神様の御分霊の「かっこめ(熊手御守)」を求めるのですが、今年は参道で頌布される熊手を直接に求め、鷲神社本殿の下から家内安全と健康を祈願して、縁起物の熊手を売る店を眺めながら境内参道を西出口に出ました。

 かっこめの頌布を頂き、本殿を参詣

出口門前で毎年店を出している露天で運勢歴を買い求め、混雑しているMilpaアーケードを抜けて大森駅東口に出て、夕食をとり帰宅しました。

 混雑した今年の酉の市風景(:鷲神社西出口、:酉の市案内、:帰路混雑のMilpaアーケード)

酉の市の熊手と三の酉
関東地方で11月の酉の日に行われる酉の市は鷲神社の祭礼で、おかめや招福の縁起物を飾った「縁起熊手」を売る露店が立ち並びます。酉の市を行う神社では、小さな竹熊手に稲穂や札をつけた「熊手守り」を授与し、福を「掃き込む、かきこむ」との洒落にことよせ「かっこめ」と呼ばれています。
昔の東京では、火事が多く「三の酉」まである年は火事が多いと云われておりましたが、火の用心を心がけて、火事には気を付けることが大事であるとの注意を促しているのです。

 「かっこめ」と運勢歴

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