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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 二月の風物詩諏訪神社 氏神様の節分・初午・針供養風景

2008年02月14日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2008

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山谷の鎮守様諏訪神社
諏訪神社(大田区大森西2-23-6 地図参照)の創建は明らかでないが、1964年(昭和39年)には五百年祭が盛大に行われ、1936年(昭和11年)に村社に定められた、東京府下荏原郡大森村字山谷(東山谷:大森東二丁目、南山谷:大森西三丁目、北山谷:大森西二丁目)の鎮守様(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 諏訪神社その1」参照)です。

1938年(昭和13年)から大森町に住みついて山谷の鎮守様諏訪神社には、お祭りや神社にまつわる行事にはお参りするのが習わしで、子供や孫の七五三にはお祝いを行い、家族の無病息災を祈願しています。
2月の諏訪神社の行事には、節分のほかに初午、針供養が行われます。この古来のしきたりの祭りごとに、今年は鎮守様の諏訪神社で参加してきました。

節分
節分は、季節(立春・立夏・立秋・立冬)の始まりの前日のことで、特に江戸時代以後は立春の前日をさすことが多くなりました。今年は2月4日が立春で、節分は3日の日曜日に当たりました。
節分には、年男、年女により豆まきが行われますが、これは平安時代に中国から伝わった1年の最後の日に疫鬼を祓って新年を迎える宮中の行事の追儺の儀式からきたもので、立春を四季が一巡りした1年の最初の日であることから、その前日の節分は年の最後の日として都から鬼を追い厄を祓う豆まきが行われたと云われます。

今年は、大森町に住んで70年になり、年男を希望して豆まきに参加したのですが、当日は生憎と前夜からの雪のため豆まきはできずに、集まった人に手渡しで豆を授与しました。
諏訪神社の豆まきの行事は、豆まきを希望する37名の年男・年女を午後3時から3回に分けて行われました。


当日の年男の順番は、1組となりましたので午後3時前に社務所で羽織袴を付けて本殿に上がり、神官が祝詞を奉じた後で代表に合わせて2礼2拍手1礼をして御祭神にお詣りし、次に神官から授けられた一握りの豆を、「福は内」と唱え御祭神の内に2回捲いてから、外に「鬼は外」を唱え1回捲きます。儀式を終えてから、当日は悪天のため本殿内で御簾を下ろして記念写真を撮り、豆まきの準備は完了です。


雪のため豆が撒けないので、諏訪会館横で並んで待っている人に豆、お菓子などが入っている袋を手渡しで授与しました。写真は、2007年の豆まき風景(「大森町界隈あれこれ 大森町風景・風物詩 諏訪神社節分」参照)です。

           2007年豆まき風景

豆まきが済んでから、諏訪会館内で年男・年女一同が席に付き、食会(なおらい)で乾杯し今年は良い年であることを願って歓談します。帰りには、除禍招福祈祷守護のお札とお土産を頂戴して節分の儀式は終了です。

初午と針供養
・初午
今年の初午は、2月の12日ですが、やはり天気が悪く雨に祟られましたが、午後3時から開始の諏訪神社に見に行ってきました。
初午は、2月の最初の午の日の稲荷社の縁日で、稲荷本社の京都伏見稲荷の神が降りたのがこの日であったとされ、全国の稲荷社で祀りの行事が行われます。
初午の行事は、農耕を司る倉稲魂神(うがのみたまのかみ~宇迦之御霊神とも表記)を祀って五穀豊穣や福徳を祈願する稲荷信仰です。

昔の諏訪神社の周辺は、田圃と畑の農村でしたので、豊作を祈る農家の信仰が厚かったので、諏訪神社の境内に末社の稲荷様を祀られたのでしょう。
午後3時には、神社役員やお参りに来た人が諏訪会館に集まり、神主さんの先導でお稲荷さまで祝詞を挙げて儀式を行います。代表に合わせて参詣します。


初午の俗信に、4月初めの巳の日の菜の花祭りの夜と初午の何れかに雨が降らないと火に祟られるとか、初午の早い年は火事が多いとか云われますが、今年は雨が降り12日の最も遅い日が初午ですので、良い年に恵まれることが期待できるかも知れません。


・針供養
諏訪神社には、内川沿いに金山神社(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 諏訪神社その2」参照)という金山彦大神(カナヤマヒコノオオカミ)を祀った境外の別社があります。
針供養は、折れた縫い針を供養し淡島神社に収める行事で、2月8日に行われるのが一般ですが、諏訪神社では、初午の行事に合わせて2月12日に金山神社で針供養が営なまわれます。
昔は針仕事が女性にとっての重要な仕事でしたので、折れた針を供養して普段固いものばかり刺しているので、やわらかいコンニャクや豆腐に刺して休ませて、裁縫の上達をお祈りしたのです。

    針供養(写真拡大)

金山神社(地図参照)での針供養は、稲荷社の初午祭を済ませてから、神主さんと神社役員や針供養をする女性が参列して豆腐に針を刺して神殿に捧げ、祝詞を挙げて供養をして代表に合わせあて参拝します。

初午と針供養の儀式の後、15時30分から一般参詣者にお菓子が配られます。今年は雨模様のため、例年に比べて参詣者が少ない様でした。

穴八幡神社一陽来復御守のお祭り
江戸時代の元禄年間から穴八幡宮に伝来する一陽来復御守の祭り方(「風景・風物詩 初詣風物詩 穴八幡神社と放生寺 その2」参照)は、冬至、大晦日または節分の午前0時に、恵方の巳午(真南から少し東)方向にお守りの文字を向けて、反対の子亥(北)側の柱か壁の高いところに、糊を付けて貼らないとご利益が授からないと云われております。1月5日の初詣りで戴いてきた御守を、諏訪神社の節分の日に家の北側の壁に貼りお祭りしました。今年は、無病息災でいられることを願っております。


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大森町界隈あれこれ 内川風景 大森町を流れる昭和の面影 第2回

2008年02月07日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2008

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内川のルーツ
開桜小学校前を一直線に流れている内川は、前回その1に紹介の通りで私の父の転勤により、1939年(昭和14年)から大森町に住むことになり、諏訪神社に隣接した日新幼稚園の行き帰りに川沿いの道路を歩いたのが内川との出会い(地図再掲)でした。
その時に、内川の直線の川を見て、幼いながら何でまっすぐな川なのかと不思議に思ったのです。この時から、70年近くもの間わが大森町での生活に溶け込んだ内川で歴史が長い川ですが、残念ながら川についての記録が大変と少なく殆ど見当たりません。

東京府武蔵国荏原郡大森村地図(陸軍省参謀本部測量明治14年第5月期測量)の復刻版(日本地図センター発行)地図(PDF地図版)を見ると、内川の源流は内川橋から上流に向かって左に折れ南下して、現在の大森町商店街通りの北側付近で右折して西に向かっています。本流は東邦医大通りの先付近で北上して、現在の内川を弦とした弓なり状に流れ、大田区北馬込付近の水源に達しています。本流の他2本の支流があり、1本は市野倉方面から、他の支流は池上方面の呑川から流れているのが見られます。

      東京府武蔵国荏原郡大森村地図から昔の内川の流れを再現

内川の語源は、「大田の史話その2」(東京都大田区 大田区史編纂委員1988年発行)によると、斎藤幸考の江戸近郊遊覧見聞記の1816年(文化13年)の条に、里人は川を苗川と云い、橋を苗川橋と呼び、この上流で稲の苗を洗ったと説明したとあり、江戸時代後期までは苗川と云い習わしてきた様であると記載されています。ナエカワが内川(ナイカワ)の語源として正しいかどうか、今この川をウチカワと称しているのはどうしたわけであろうと記載されてます。

江戸時代には、内川に架かっている旧東海道(三原通り)の内川橋付近は、品川と川崎の宿場の中間に当たり、江戸時代の東海道の旅人が休んだり、馬や籠かきが交代する「間の宿(あいのしゅく)」(「「大森町界隈あれこれ 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)があり、休息の茶店や土産物などのお店が沢山ありました。
明治時代の大森村は一面が田んぼや畑で、沿岸が海苔の養殖に適しており、農漁村を生活の糧とした寒村でした。

内川に関する資料
前回紹介した地元の開桜小学校では、眼前を流れる内川の歴史と地域社会の生活についての社会科副読本“開校5周年記念誌「わたしたちの郷土」(平成18年度)”を、平成19年3月に発行しました。
これには、 平成14年に大森第2小学校と第6小学校が統合され、 開桜小学校開校5周年を記念して地域教育連絡協議会が母体で、1982年(昭和57年)に大森第2小学校4年2組の父母と担任の小滝先生方が作られた「わたしたちの内川」を基にし、加筆編集した郷土の内川の貴重な104ページの資料としてまとめられた副読本で、地元大森町町会住民にも広く頒布されました。

     「大森町のむかしと今」(1969年発刊)

もう一つ別の内川の資料として、同じく大森第2小学校が編集した1969年(昭和44年)発刊の「大森町のむかしと今」(大森地区七校社会科研究部)という学習資料があります。
これは、当時子供が小学3年生の時に発刊されたもので、その内容には大森町の昔と今についてまとめたもので内川に関する資料もかなり掲載されております。この資料発行当時の今と云うのは、約40年前のことであり、その時代の情報自体も現在では貴重な資料となっています。

                     現在の内川橋

・内川物語

                        内川下流

現在、内川沿いでは、開桜小学校前や下流の内川橋から新橋の間で護岸工事が進められており、昨年4月には内川河口に大森ふるさとの浜辺公園がオープンして内川の姿も大分変わってきておりますので、これから大森町界隈あれこれの風景・風物の記録のシリーズに、上記の貴重な資料や、その他足で集める情報などにより「内川風景」を内川物語として記載して行きます。

              内川河口の「大森ふるさとの浜辺公園」

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大森町界隈あれこれ 内川風景 大森町を流れる昭和の面影 その1

2008年02月03日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2008

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現在の内川
現在の内川は、JR東海道線の東から開桜小学校前を流れ、旧東海道の内川橋を通って「ふるさと浜辺公園」(「大森町界隈あれこれ 大森町風景 オープンの大森ふるさとの浜辺公園」参照)の河口までの約1.5kmを東京湾に流れる二級水系の短い川です。
1976年頃に暗渠化される以前には、JRガード下から先に上流があり、大田区北馬込付近の水源から流れていた河川でした。

ここ数年前から内川には、親子連れの鴨が10数羽も住み着き、川の水がきれいになったので、人工河川にも自然が寄り着いて貰え、70年住んでいる大森町には癒しの素敵なプレゼントでうれしいことです。川渕をジョギングする愛好家には、大変な人気となっております。
また、開桜小学校では、開校5周年記念誌「わたしたちの郷土」(平成18年度)で、内川の特集号が発刊されましたので、これからブログでも内川物語をまとめて行きます。
わたしたちの郷土で関心を持った有志の計画で、旧内川暗渠部を「旧内川を親子で歩こう」の催しが2月3日に行われる予定でしたが、生憎と東京は朝からの雪で中止となりました。


 開桜小学校開校5周年記念誌           旧内川を親子で歩こう会

内川と日常生活

       内川は大森町中央を東西に一直線に流れる昭和の面影の川

・戦前
内川との出会いは、1939年(昭和14年)に父の転勤により大森町に居住して、幼稚園に通園した時に、内川沿いの道を毎日通ったのが始めて見た内川で、子供心にも何故かずいぶんと真っ直ぐな川であるなとの印象を持ちました。
通園の幼稚園は、日新幼稚園で当時の氏神様であった諏訪神社南側の並び(地図③参照)にあり、産業道路際の戦前の居宅(地図①参照)にありました。そこからの通園路は、内川北岸沿いの大森第2(現開桜)小学校前の道路で川景色を見ながら通いました。
新年やお祭りの際の氏神様のへの参拝(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 諏訪神社その3 戦時中のうら悲しいちょっとハメを外した樽神輿」参照)では、内川の風景を見ながら往復します。

               1939年(昭和14年)に通園した日新幼稚園

・終戦直後
世界大戦時(「大森町界隈あれこれ 空襲編若山武義氏手記 総目次 1/3~3/3」参照)は、大森第1国民学校生(小学生)であり、戦時体制が厳しくなり一時は縁故疎開となり、終戦とともに焼け野原の大森町に帰京して、住居難のため内川河口にあった父の会社事務所跡の雑居住宅で臨時仮住まい(地図②参照)(「大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第6回」参照)となりました。
終戦直後は大変な食糧難で、内川河口の堆積したヘドロで餌のゴカイを取りハゼ釣りや貝を掘って食糧の足しにしてたのです。

疎開から帰京後は、国民学校6年生で大森第1国民学校は戦災で焼失のため、美原通り北の焼け残った大森第5国民学校での居候校舎の授業で卒業しました。仮住まいの住居からの通学路は、当時あった東京ガス大森工場横を通り、内川に架かる「新橋」を渡り、川に並行した道を内川橋付近で美原通り南に出て、美原通り北まで通いました。

当時内川に架かる「新橋」付近は、魚や貝を採る漁業生計者が多く、終戦直後はアサリ、ハマグリ、トリ貝や青やぎなど沢山採れて、この辺りでは貝の殻を剥く剥き身屋さんが多く約100軒もあり、何時も貝殻山ができていました。
しかし、この辺りの終戦直後ののり養殖業は、まだ3~4軒が見られる程度でした。戦前からののり養殖産地は、旧呑川沿いの大森東と大森南の地域で盛んに生産されておりました。

・学校生活と内川
大森町の中央を東西にほぼ直線で横断して流れる内川の川縁に、開桜(大森第2)小学校、大森第8中学校と大森学園高等学校があります。
大森第1小学校を卒業して、森が崎の焼け残り工場が校舎の旧制大森工業学校に入り、学生改革により新制の大森工業高等学校より内川縁りの現校舎で、毎日内川を見ながら学び(「大森町界隈あれこれ 大森町学びや もりこう会の集い(その1~4)」参照)ました。

また、子供たちも内川縁の小学校と中学に通い、親子して内川の懐のもとで学校生活を過ごした、大森町昭和の流れの内川は想い出深いものがあります。

  開桜(元大森第2)小学校    大森第8中学校      大森学園高等学校

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大森町界隈あれこれ お盆歳時記 大森町のお盆、先祖供養

2007年07月17日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2007 わらの牛と馬

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お盆行事
東京では、7月13~16日にお盆を迎えます。地方では、農作業の関係などにより8月13~16日に行われるのが一般的となり、東京の企業に勤務者はその時期の夏休みに合わせて故郷に帰り、先祖供養をするのが長い間の風習となってきました。
このお盆の正式名は、「盂蘭盆会」(うらぼんえ)といい、お釈迦様の弟子の目連が地獄に堕ちた母親を救い出すため、僧侶に食事を振る舞い、供養したという説話が起源だといわれています。それ以来、ご先祖を大切にする人々は、目蓮尊者のように7月15日にお盆供養を行うようになりました。

今年のお盆は、14~16日が土日・祝日と重なり3連休となりましたが、生憎なことに7月としては観測史上最強勢力の台風4号が、14日午後2時ごろ鹿児島県の大隅半島に上陸、高知県の足摺岬付近を北東に進み、15日夕には千葉県銚子市南東の太平洋を時速55キロで東に進み、本州から遠ざかりましたが、お天気は気になります。
毎年めぐってくるお盆は、ご先祖さまが帰ってくるお盆で、普段離れている家族や親類が来てお線香を上げて先祖を供養する日ですが、天候はさほど心配したほどではありませんでした。

         仏壇              正面:御本尊の大日如来、左:位牌
お盆の準備
大森に住んでからのお盆供養は、欠かしたことはありません。
お盆を迎えるには、先ず3、4日前に仏壇を清掃し、ご先祖様が喜んで帰っていただくように精霊棚(しょうろうだな)の準備をします。
精霊棚は、ご先祖様を供養する特別の祭壇で、一般に仏壇の前などに小卓などを利用して台を作り、台の上には真菰筵(まこもむしろ)や蓮の葉を敷き、仏壇から本尊さまとお位牌を移し中心にすえて、故人の好物やお供物、お灯明、盆花(ミソハギ・ききょう・おみなえし・なでしこ・ほうずき)などをお供えし飾り付けします。それに、ナスの牛やキュウリの馬を作ったり、四隅に笹竹を立てて十六ささげ(実のなるもの)を下げます。また、小鉢やどんぶりなどに、閼伽水(あかすい)と呼ばれる供養の水を入れ、ミソハギやシキビの小枝などで精霊棚にそそぎかけて拝みます。
精霊棚に飾る物は、お盆が近くなると、花屋さんや八百屋さんの店先にはいろいろな材料が見うけられるようになります。

 左:生花立に花を活け、上段にはほおずきを吊るす
 中:精霊棚にはゴザを敷き、線香入れ、香炉、ローソク立、リンなどを置き、先祖の好
   物の果物やソーメンを供える
 右:はすの葉にはキュウリとナスを細かく切りお米を入れ、供養の水を入れたミソハギ
   やシキビの小枝などを供える

大森町のお盆供養
東京の一般的の家庭では、本格的な精霊棚を飾る代わりにお仏壇の引き出しに精霊棚を設け、真菰(まこも)のゴザを敷き霊座上に精霊棚と同様に盆飾りをして、ご先祖様をお迎えします。
昔は、おがらか割り箸で四本の足をつけたナスの牛やキュウリの馬を飾りました。これは、先祖の霊がキュウリの馬に乗って一刻も早くこの世に帰り、ナスの牛に乗ってゆっくりあの世に戻っていくようにと言ういい伝えから作られるものですが、現在は、わら細工で出来た馬と牛に代わってきました。
13日の「盆の入り」から16日の「盆明け」までは、精霊棚に「霊供膳」と故人の好物だったものを添えて供えます。

仏壇の前には、ご住職さんをお迎えして読経をするためのお経台を置きます。
我が家の菩提樹は、茨城県古河市の神宮寺ですので、毎年14日にはご住職さんが東京の檀家を廻って読経して戴いておりましたが、昨年からご高齢のため出てこられなくなりました。

・迎え火

 左:玄関先でほうらくの素焼きの皿の上のおがらに火を点ける
 中:仏壇のロウソクを準備 
 右:迎え火を炊く

普通は、13日の夕方にお墓参りをしてするのですが、菩提樹が遠方のため毎年8月の月遅れのお盆と、春・秋の彼岸に日帰りで墓参りをして掃除をして来ます。
「迎え盆」は、13日の夕方にお寺から火を家に持ち帰ることが出来ませんので、我が家では玄関先で焙烙(ほうらく)の素焼きの皿の上でおがらを焚いて、ご先祖様を迎えます。おがらの火でろうそくを灯して、仏壇に共へてお線香を上げます。

 左:おがらの火でロウソクを点灯
 中左:ロウソク点灯
 中右:ロウソクからお線香を灯す
 右:お盆に帰って来たご先祖様

・親戚縁者の供養
今年は連休により、13日に長男夫妻、14日に池袋の親類、15日に次男一家、16日に親類の方が連日線香を上げに参り、先祖を偲びご馳走を囲み歓談して供養して頂きました。
・送り火

 左:送り火を点けるローソク
 中:庭の門前で送り火の準備
 右:仏壇のロウソクの火で送り火を点ける

16日の夕刻、庭の門前で仏壇から灯したろうそくで、焙烙のお皿でおがらに送り火を焚いて、帰り道を照らして先祖の精霊をあの世にお見送りします。

 左:先祖の帰り道を照らす送り火
 中:送り火の火種で仏壇の線香を灯す
 右:送り火の火渡りで無病息災家内安全を祈願

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大森町界隈あれこれ 大森町風景 梅屋敷公園京急高架化工事その後(第2回)

2007年06月19日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2007

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高架工事で占有された梅屋敷公園
梅屋敷公園の南口に来てみると、京急高架工事のため思ったより広く占有され、公園の内部が無粋な白い高い囲いの塀のため、景観の雰囲気が無粋な姿に変わり果てていました。
これでは、文政年間に「和中散」の売薬所の庭に梅の名木を集めて休み茶屋を開いたといわれ、広さも一時は1万平方メートルあり、広重の浮世絵にも描かれた梅屋敷はまるで形無しです。
明治維新後には、明治天皇が9回も行幸され、公園の名前にも「聖跡」が冠せられ聖跡蒲田梅屋敷公園と呼ばれています。
京急工事の占有以前の広さはおよそ4300平方メートルでしたが、思いのほか広範囲の占有(航空写真再掲 占有赤枠)であり、多数の梅の木も取り囲まれてました。


国道の拡幅でさらに削られる梅屋敷公園
梅屋敷公園は、旧東海道に接しており、昔の街道の幅は6mほどで現在の第一京浜国道の東端側面の位置にありました。1918年(大正7年)に国道の拡幅と、西側に京浜電鉄の開通により、公園はその都度狭められてきました。
現在、第一京浜国道は、東京都都市計画道路(幹線街路放射第19号線)による拡幅工事を、大森町駅付近から多摩堤通りまでの区間の1190mの工事計画で、幅員は約35~50mに広げることで進められてます。
この工事によりさらに削られて、梅屋敷公園(航空写真黄線道路拡幅 再掲)の分化遺産は消滅の運命にあります。


道路に面した境内を削られる近隣の神社
第一京浜国道の拡幅は、道の西側方向のみが広げられ、道路に面した公園の敷地や神社の境内がその都度削られてきました。第一京浜国道の西側道路に面した大森町近辺の神社には、盤井神社(大森北2丁目)、大森神社(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 大森神社(寄来神社)」参照)、貴菅神社(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 ささやかに鎮座する貴船(貴菅)神社」参照)などの諸社があり、これらのお社では道路拡張の都度境内が削られました。また、幹線街路放射第19号線拡幅工事により、境内がさらに削られる貴菅神社では、本殿を移して遷座する大きな問題を抱えております。


梅屋敷公園の昔の面影
工事で占有(航空写真赤枠内 再掲)の柵内の撮影は出来ませんが、2006年9月20日付けブログ(「大森町界隈あれこれ 大森町風景 梅屋敷公園」参照)で掲載していない公園の面影を求めててみました。
梅屋敷公園には、昔を示す「里程標」(復元)、狂歌堂真顔の歌碑(復元)、山本久蔵の句碑(復元)などの多数の石碑が残っております。

  里程標      山本久蔵句碑  狂歌堂真顔歌碑      歌碑説明板   

里程標の案内板には、「昔、梅屋敷山本家の門の傍に自然石の里程標の石碑がありました。
その高さは1メートルほどでその表面には、
 距日本橋三里十八丁 蒲田村山本屋
と刻されていたと伝えれています。木戸孝允、伊藤博文らが梅屋敷で新年宴会を開いた際、二人が合作した一幅中の木戸孝允の画にも描かれていました。戦後里程標は姿を消しましたが、資料をもとに復元しました。」と説明があります。

山本久蔵の句碑の案内板は、説明の文字が消滅して判読ができませんでした。

梅屋敷公園スポーツ施設
梅屋敷公園には、大田区のスポーツ施設として大田区体育館弓道場と相撲場があり、土曜日で両施設共に熱心な練習風景が見られました。




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大森町界隈あれこれ 大森町風景 梅屋敷公園京急高架化工事その後(第1回)

2007年06月17日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2007

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梅屋敷公園付近の高架化工事
京浜急行の高架化工事も急ピッチで、高架橋の架設準備が進んできました。
梅屋敷公園付近の高架化工事に伴い歴史ある文化遺産の姿を記録するため、昨年9月16日に梅屋敷公園を探索(「大森町界隈あれこれ(N32) 大森町風景 梅屋敷公園」参照)し、情報を集めました。

梅屋敷公園付近の高架橋の架設準備もかなり進展し、公園の一部を平成23年12月まで占有(公園の一部占有のお知らせ)して工事を行うため、かなりのスペースにわたり塀が設けられ、一般の利用が出来なくなることのお知らせがありました。
その状況を取材するため、前回から8ヶ月経過の5月19日に梅屋敷公園付近を探訪しました。

梅屋敷公園付近から多摩堤通り間の高架橋
先ず、梅屋敷公園付近の高架橋の架設状況を見るため、梅屋敷から京急本線沿いに多摩堤通りまで歩いてみました。歩いたコース(地図参照)は、梅屋敷駅から第一京浜国道に出て南下し、6輌編成の各駅停車の2輌のドアーを開けられない(ドアカット)理由の梅屋敷第1踏切(「大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 梅屋敷駅付近(第1回)」参照)を渡り、京急本線の西側通路を進みながら高架橋の架設状況を見てきました。

梅屋敷第2踏切(梅屋敷公園北側)付近の線路は、カーブ緩和のため下り線が平成17年12月に、上り線が平成18年2月に第一京浜国道側に約3mほど移動されております。

 左:梅屋敷第2踏切(地図①)から京急蒲田方面を望む(クリックで拡大)
 中:梅屋敷第2踏切(地図①)から梅屋敷駅方面を望む(クリックで拡大)
 右:梅屋敷第4踏切付近(地図②)から京急蒲田方面を望む(クリックで拡大)

梅屋敷第3踏切(梅屋敷公園南側)付近から梅屋敷第4踏切(多摩堤通り)の間では、部分的に高架橋の架設が進んでおり、この付近は京急蒲田駅に近く蒲田駅の高架化(「大森町界隈あれこれ(P32) 京浜急行の高架化 京急蒲田駅付近(第1回その3) 」参照)は上下線を別個にした2階建てで架設されるので、この付近の高架橋もその延長で2階建ての高架橋です。

 左:梅屋敷第4踏切付近(地図②)から京急蒲田方面を望む(クリックで拡大)
 中左・中右・右:梅屋敷第4踏切(地図②)から梅屋敷方面を望む(右クリックで拡大)


 左:第一京浜国道(地図④)から高架橋を望む(クリックで拡大)
 中:第一京浜国道(地図④)から高架橋を望む(クリックで拡大)
 右:梅屋敷第3踏切(地図⑤)から京急蒲田方面を望む(クリックで拡大)

文化遺産の消滅
梅屋敷第4踏切を渡り第一京浜国道に出て北上し、梅屋敷公園南側(梅屋敷第3踏切付近)から公園に入りました。公園の入り口付近は、高架化工事のための占有が思った以上に広く(梅屋敷公園航空写真参照)取られ柵が施され、柵内には貴重な文化遺産の複数の石碑が取り込められ、しかも工事のための建屋まで作られてました。

 左:高架化工事のため柵で占有された文化遺産の石碑(クリックで拡大)
 中:公園南口は工事のため人がやっと通れる程度に狭められた(クリックで拡大)
 右:工事のためかなりのエリアが占有され味気のない風情となった公園(クリックで拡大)

如何に、交通緩和のための公共事業とはいえ、文化遺産の保護の配慮を犠牲にした工事は寂しい感じです。特に、無形の文化遺産は、なくなれば二度と再現できません。このようにして、歴史的貴重な遺産は徐々に消えていきます。

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大森町界隈あれこれ 風景 満開の八重桜の穴場平和島流通センター

2007年04月15日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2007 庭で初めて開花した八重桜

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4月14日の夕刊各紙に、首相主催の「桜を見る会」が14日の午前東京新宿御苑で、1万1千人を招待して満開の八重桜を楽しんだと出ておりました。
東京のソメイヨシノはもう葉桜になって(「風景・風物詩(B16) 花見 サクラ前線に合わせて花見のハシゴ」参照)しまいました。

東京流通センター
今は八重桜の季節です。新聞の八重桜を見る記事をみて、3年前平和島に行った時に八重桜並木のあることを思い出して、4月15日の午後に時間の都合をつけて平和島流通センターの八重桜を見に行きました。
平和島流通センターは、平和島のほぼ中央にあり正式呼び名は東京流通センター(TRC 東京都大田区平和島6-1-1 地図参照)と云い、展示会、商談受注会、セミナーの展示場・会議室を提供しております。流通センターには、京浜急行電鉄平和島駅からバスで5分または東京モノレールの流通センター前で下車します。
流通センターは、流通センター前に東ゲートの入り口があり、ゲートの北側には第一・第二の展示場とセンタービルがあります。ゲートの南側には巨大な建物の物流ビルのA・B棟があります。

八重桜並木
東京流通センターの広大な敷地の周囲には、非常に沢山の数の八重桜が間断なく植えられており、その桜並木は今頃の時期に満開となり見事な景観を見せてくれます。
沢山の八重桜が流通センターの周囲に植えられていますが、桜がセンターの巨大な建物の影に隠れる形であることと、センター周囲の道路を一巡して歩行しながら花見しか出来ないのです。
しかし、東ゲート付近には僅かですが、芝生が植えられてベンチが置いてありますので、休憩は可能です。
したがって、沢山の八重桜がありますが、広場に座って花見が出来ないため、一般にはあまり存在を知られておらず、花見の客は来ません。地元の知っている者が八重桜を楽しんでおります。そのため、ちょっと八重桜を見るだけであれば穴場です。


流通センターの八重桜
流通センターの周囲に植えられている八重桜は、殆どが関山<かんざん>で濃いピンクの花で遠くから目立ちます。
東口のゲート脇には、かなりの年数の鬱金<うこん>の桜が一本植えられております。

                           写真拡大

また、敷地のところどころには、普賢象<ふげんぞう>の八重桜が薄いピンク色の花を付けております。

   写真拡大           写真拡大

満開の八重桜は、花びらの枚数が沢山あり、目の良い保養になりました。

       写真拡大             写真拡大               写真拡大

生憎とこの日は、流通センターのビルが電源保守のため、建物が閉鎖しており残念ながらコーヒーショップも営業してませんので、流通センターの周囲を一巡して八重桜を堪能した後、JRの大森駅までタクシーで行き、お茶は大森駅の駅ビルで一服しました。

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大森町界隈あれこれ 大森町風景 オープンの大森ふるさとの浜辺公園

2007年04月05日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2007

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今年の4月1日は日曜日で、昔懐かしい所縁の場所に「大森ふるさとの浜辺公園」がオープンしましたので午後から行ってみました。
「大森ふるさとの浜辺公園」は、昨年の8月6日に工事中の砂浜を一般に公開されましたが、一日前の5日に様子を見に行ってみました(「大森町界隈あれこれ(N30) 大森町風景 大森ふるさとの浜辺公園の砂浜開放」参照)が砂浜には入れませんでした。
大森ふるさとの浜辺公園は、大森町の中心を流れる内川の河口を埋め立て浜辺が造られました。

浜辺公園はゆかりの場所
この内川の河口は、大変所縁のある所で、今から62年前の世界大戦の終戦により学童疎開から引き上げてきて、焼け残った会社事務所を改造し複数世帯で共同住宅として、戦後初めて住み着いた感慨深い場所(地図再掲)(「大森町界隈あれこれ 昭和戦後史 第1編 太平洋戦争の終結 第6回」参照)なのです。
元東京ガス大森ガス工場の東側の通称「ガス裏」と呼ばれていた、以前の東京湾の海岸線であった所を埋め立て、人工の砂浜には小豆島の白砂を運んで造られたのが大森ふるさとの浜辺公園です。現在の東京湾の海岸線は、平和島、昭和島、城南島で埋め立てられ数キロも離れた遥か先となっており、浜辺公園は運河に造られたのです。

浜辺公園の沖合いの大森で採れた浅草海苔の歴史は古く、寛永15年(1638年)の書物に登場した海苔は、東京湾の埋め立て事業により1963年に漁業権が放棄され、大森周辺での海苔生産の幕が退かれました。
また、江戸時代の東海道は、海岸線に沿っており、戦前の大森海岸には海水浴場(「大森町界隈あれこれ(3) 大森町に住んで65年!(その3)」参照)がありました。

大森ふるさとの浜辺公園
大田区では、海と川の結節点である特色を生かして、緑豊かな親水空間を整備し約 5.0haの公園・緑地を確保し、砂浜、魚つり施設を設け、人が海に触れられる接点を回復することを目的として、人工海浜・人工干潟(1.4ha)・人工磯・魚つり護岸・覆砂等の工事を、埋立工事金額 60億円の規模で大田区単独事業として完成しました。
将来には、海苔博物館を作る計画もあるそうです。

      (拡大写真)             (拡大写真)               (拡大写真)

大森ふるさとの浜辺公園には、京浜急行電鉄の大森町駅か平和島駅から徒歩で行く(地図参照)こととなります。
先ず、大森町駅からは東口で下車し国道15号線(第一京浜国道)の交差点を渡り、直進し国道131号線(産業道路)の交差点も渡りさらに進むと、道路がやや北東方向に向きそこを直進するとジャックニクラス・ゴルフ練習場 (元大森ガス会社) の塀に出ますので左折し、塀の切れたところを右折して内川河口で右折すると浜辺公園に到着で、およそ15分の距離です。

      (拡大写真)             (拡大写真)               (拡大写真)

4月1日の天気は、うす曇りで心地よい風が吹いており、絶好の散策日和でした。先ず、感激したのは、それまで思ってもいなかった磯の心地よい香りがするのです。都心の人口砂浜とは思えない、磯の香りが戻ってきたのは嬉しいことでした。
砂浜は、400mにわたり岸辺には一面に芝が植え付けてあり、松などの植林のある人を和ませる空間です。隣のベンチに越しかけている方も、同じような感想を語っておりました。
開園には、沢山の人が来ており、子供達は波打ち際に入ったり、凧揚げしたりで楽しんでおりました。また、海辺では大森青べかカヌークラブの主催で、E-ボートやカヤックの乗船体験が行われておりました。
夏から秋には、海が馴染み昔のようにハゼ釣りが楽しめることを期待したいものです。

      (拡大写真)             (拡大写真)               (拡大写真)

帰りは、内川を跨いて新設された浜辺橋を渡り、内川沿いに進み大森東小学校を廻って美原通りへ出て北進すると環七通りです。第一京浜国道の交差点から京浜急行の平和島の高架駅が見えます。

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大森町界隈あれこれ(N33) 大森町風景・風物詩 諏訪神社節分

2007年02月09日 | 大森町界隈あれこれ 風景
kan-haru blog 2007

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節分
今年は、2月3日の土曜日が節分に当たりました。
節分とは、季節の分かれ目を示し、元は「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の前日をさしていました。特に、立春は冬から春に向かう1年の初めと考えられ、年の境として重視されて、一般には立春の前日を節分としてさす様になりました。春の節分は、新年の前日にあたり現在の大晦日に相当するものです。

豆まき
節分に行われる代表的な行事に、豆まきがあります。節分に行われる行事を、「追儺(ついな)」と呼ばれ、疫病などをもたらす悪い鬼を追い払う儀式で、706年(文武天皇の慶雲3年)に宮中で行われたのが始まりとされてます。
また、20年ほど前に私の母が健在の頃、毎年節分には柊(ひいらぎ)の小枝を求めてきて、それに鰯(いわし)の頭を刺して戸口に挿す風習があり、夕刻になると家庭では、年男または一家の主人が「福は内、鬼は外」といいながら煎った大豆をまき、これから1年病気にならないと言われてみんな自分の年の数だけ豆を食べました。
子供は、与えられる豆の数が少ないのが不満で、撒かれた豆を拾って食べたことが楽しい行事であったのです。
これは、近世以降行われるようになったもので、これも魔除けのための行事で今では家庭では行われなくなりましたが、節分の頃になると懐かしく想い出す風物詩です。

諏訪神社の豆まき
豆まきは、もともと宮中の行事が一般家庭に普及したものとされますが、最近では大きな神社などで芸能人やスポーツ選手などを招いて豆まき大会を行っております。
大森町の諏訪神社(「大森町界隈あれこれ(20) 大森町の社寺(1) 諏訪神社その1~3」参照)や三輪神社(「大森町界隈あれこれ(L32) 大森町の社寺 谷戸三輪神社秋の例祭」参照)でも、毎年豆まき大会を行っております。
今年の節分は、土曜日で、家族が年女に当たり氏子様の諏訪神社で豆まきに出るというので、3時半からの開催の豆まきを見に行きました。

豆まきの参加者は、年男・年女30数名で希望者を3組に分けて追儺式を行います。参加者するには1万円を奉納して、裃を着用し神官を先頭にして本殿に入ります。追儺式は先ず、神主が祝詞をあげ、一同礼拝してから本殿内で内部に2回の「福は内」と外部に1回「鬼は外」と唱えて豆を撒きます。

・・・・・・・・豆まき第2組・・・・・・・・・・・・・豆まき第1組・・・・・・・・・・・・追儺式芳名

豆の入った枡が渡され、本殿前で記念写真を撮り、観客が待っている神楽殿に上がり、追儺クライマックスの豆まきが行われます。

・・・・・神社正門・・・・・・・・・・・・記念撮影第2組・・・・・・・・・・・・・記念撮影第1組

神楽殿での豆まきは、豆、お菓子、みかんやのりが撒かれ、観客がわれ先にと取り合います。

・・・・・・・豆まき風景1・・・・・・・・・・・・豆まき風景2・・・・・・・・・・・・・豆まき風景3

撒かれた縁起物の品物を、うまく取れた人は、今年1年は運がよい年に恵まれることを願う、春の風物詩です。
3組の豆まきが終わると、社務所で祝い善が振舞われ、諏訪神社のお札とお赤飯、紅白のお菓子やのりを貰い、厄病を払い元気な1年を過ごせる儀式の参加です。

縁起物の豆が飛んできたきた

今回は家族が豆まきに参加したので、その厄除けにあやかろうと思ったのですが、運悪く節分の直前に内科の検査と重なり、豆や祝いの赤飯などを食することが出来ず残念なことでした。
また、2年前には、年男で豆まきに参加したいと思っていたのですが、手の怪我により参加を断念したりで、豆まきには何か縁が遠いのですが、節分は戦前の小学生時代から家庭で豆まきをした遠い想い出の懐かしい風物詩なのです。

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大森町界隈あれこれ(N32) 大森町風景 梅屋敷公園

2006年09月20日 | 大森町界隈あれこれ 風景
京浜急行電鉄大森町駅の南隣の梅屋敷駅から第一京浜国道にでて、蒲田方向に歩くと数分で大田区体育館と対面して梅屋敷公園(蒲田3-25-6)(地図参照)があります。
梅屋敷は、旧東海道の三原通り(「大森町界隈あれこれ(N31) 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1」参照)から谷戸(「大森町界隈あれこれ(L32) 大森町の社寺 谷戸三輪神社秋の例祭」参照)、梅屋敷にかけた一体が間(あい)の宿として賑わい、江戸時代の旅人にとって休息地で、和中散を売る店や茶屋が開かれ、大森名物の麦わら細工も密接な関係があります。したがいまして、地域的には大森村に隣接した蒲田地区の蒲田村ですが、梅屋敷公園については大森町界隈の大森町風景としました。

梅屋敷の歴史
梅屋敷(梅屋敷由来説明板)は、1820年(文政)の初め頃、和中散を商い(梅屋敷と和中散売薬所跡 大田区文化財1975年3月19日指定)山本忠左衛門の子孫の久三郎が、街道の両側に跨る約3千坪の庭園に梅を植え、休み茶屋も設けて酒肴をだしたので、遊興や見物人が集まり賑わったと云われてます。花時には、見事で広重の江戸名所百景に画かれております。


この地域は、古くから梅の栽培が盛んで、品質もよく梅干や梅びしを江戸の人に供給されたと云います。
梅屋敷には、徳川将軍家慶が、鷹狩りの途中に立ち寄り、明治天皇や大正天皇が休息され庭園はますます整備されました。
大田区の1988年(昭和63年)「明治天皇と梅屋敷」の説明板によると、梅屋敷には1868年(明治元年)から1897(明治30年)の間に天皇の九度の行幸がありました。天皇はことのほか梅屋敷の風致を好まれ、1873年(明治6年)3月6日のご観梅のときには小梅一株をみずからお手植なされ、この梅は仙粧梅と称されて後に人々に愛されたといわれています。その後、1933年(昭和8年)史蹟として保存指定を受け、1938年(昭和13年)に東京市へ寄付され、現在に至っています。

梅屋敷公園周辺の環境変化
1818年(大正7年)に、京浜国道の拡幅工事のため、公園の東側が削られ縮小されました。また、同じ頃京浜電車が梅屋敷公園の西側を通ることになり、西側も縮小され往時の面影は無くなりました。
1928年(昭和13年)には、東京市に寄贈されて一般公園として公開され、戦後は都から区に移管され区の小公園となりました。
さらに、歴史は繰り返すで今日現在も、京浜急行電鉄の高架化工事( 「大森町界隈あれこれ(P30) 京浜急行 京浜急行の高架化(その1)」参照)で、さらなる梅屋敷公園の西側の削減が行われ、工事が開始しております。
また、第一京浜国道の拡幅工事も開始され、公園の東側も削減されると梅屋敷公園の歴史文化は消える運命にあります。

消え往く梅屋敷公園を見る
昔、栄えた梅屋敷公園には、いろいろな石碑や名残がまだ少し残っておりますので、大森町界隈の歴史の面影が消えない前にと、9月16日に散策しました。
先述のように、梅屋敷公園は京急梅屋敷駅の近くですが、大森町駅から10数分の距離ですので、昔の間(あい)の宿の面影を辿り、常夜灯の置かれていたと云う谷戸や、第一京浜工事と京急高架化工事の状況を見ながら歩いてみました。

梅屋敷近辺(地図参照)には、第一京浜国道を渡り産業通り方向に進むと、堀の内三輪神社と蜜薬院があります。堀の内三輪神社(大森中3-17-15)は、1923年(大正12年)の関東大震災で、常夜灯灯篭が倒壊して破損し、東海道を拡幅して第一京浜国道が建設の時に移転して一時的に安置された神社です(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 堀の内三輪神社」掲載予定)。
蜜乗院(大森中2-17-5)は、大森の乾海苔を1670(宝永)年間に作り出した野口六郎左衛門の墓と、1868年(明治初年)にこの寺で私塾を開き、貴船(現大一)、寄来(現開桜)小学校の校長を歴任した山口琢磨の懐徳碑があります(「大森町界隈あれこれ 大森町の社寺 蜜乗院」掲載予定)。

梅屋敷公園は、第一京浜国道に二ヶ所の入口と南側路地入口の三ヶ所があり、第一京浜国道南側の入口には「明治天皇行幸所蒲田梅屋敷」の石碑が建っております。
京急高架化工事前の梅屋敷公園(空中写真)には、昔の名残で梅の木がかなり植えられておりましたが、工事があまり進まないうちに昔の面影を見ておきましょう。
公園の中央には、池があり藤棚の下では風流に尺八を奏でる人や憩いの談笑する人で、公園の潤いを感じました。また、小滝から清流を受ける池があり、梅屋敷に相応しい梅の木も結構あり、古い石碑(石碑1石碑2)も何個か見られました。
また、公園に隣接した大田区体育館弓道場では、何人かの練習風景も見られました。

梅屋敷公園にかかる京急高架化と第一京浜国道工事
しかし、京浜急行電鉄の高架化工事は一部開始されており、閑散であった公園の一部が工事の囲いで無残にも引き裂かれ、その中には多くの梅の木(工事現場内の梅1)が見られました。

さらに、未だ工事が始まっておりませんが、近々第一京浜国道の拡幅工事が始まると、写真で見たのどかな歴史ある公園は、姿を消すのみです。歴史の文化を簡単に抹消するのは、元に戻すことはできないのです。何か、侘びしい思いをしながら帰ってきました。

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大森町界隈あれこれ(N31) 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1

2006年09月13日 | 大森町界隈あれこれ 風景
三原通り商店街

現在、旧東海道(三原通り)が第一京浜国道とは別個に独立して存在しているのはどうしてかを追い、旧東海道の面影を辿りました。


徳川幕府時代の東海道の整備
徳川幕府時代の1601年(慶長6年)に道路網整備を行い、この時東海道の要所要所に人馬の常備を義務つけた宿駅が配置され、江戸から一番目の宿駅として品川宿が置かれ、その次の宿として神奈川宿が置かれました。その後、1615年か1627年頃川崎宿が置かれることになりました。
東海道の利用者は、京・大阪に赴く旅行者のほか、川崎大師、池上本門寺や古川薬師などの江戸近郊の名所旧跡、社寺を廻る日帰りあるいは一、二泊宿泊の旅行者も多く通行しました。

立場茶屋
品川宿と川崎宿の中間に当たる品川や大森には、立場茶屋が設けられました。当初、立場茶屋は、馬子人足の休息のために設けられましたが、旅行者の増加に伴って、これらの人びとの利用にも供されるようになり、この立場茶屋を間(あい)の宿とも呼ばれました。大森の立場は、三原通りの南約500m付近の東大森村の谷戸(やと)の立場(現在の大森中二丁目、西六丁目付近 地図参照)がありました。大田区には、このほか雑色村の花の立場(現在の六郷二丁目、仲六郷二丁目付近)の二か所の立場茶屋がありました。
 東海道
立場には、馬子人足の溜場や、旅行者の休息のための煮売茶屋がありました。後になって、歩行不能となった旅行者に、宿泊を提供する煮売茶屋がでてきたので、宿駅を保護するために煮売茶屋の旅籠行為と、立場付近の村民による馬による運送業務の禁止令がだされました。しかし、1820年頃の江戸後期には、東海道は相当数の社寺参詣者が通行して、大森の間(あい)の宿ではかなりの旅籠の類似行為が行なわれていたと見られております。
(出展 大田の史話その2 大田区史編纂委員会編集 昭和63年3月発行)

三原通りの繁華街の生い立ち
三原通り周辺の大森村は、大部分は田畑でしたが、海辺では塩も生産し、1733年(亨保18年)には海苔の生産地としての記録があります。

海苔採り
東海道利用者は、相当数の社寺参詣者も通行するようになり、川崎大師、池上本門寺や古川薬師などの江戸近郊の名所旧跡、社寺を廻る日帰りあるいは一、二泊宿泊の旅行者も増えてきました。旅行者の休息のための煮売茶屋では、名産の海苔茶漬を出す茶屋も多くありました。江戸時代の後期には、歩行不能となった旅行者に、宿泊を提供する煮売茶屋もでてきました。

旅行者の増加に伴ってこれらの人びとでとても賑わい、三原通りは人家や商家が増加してきました。三原通りの名前(石碑)は、旧東海道のうち北原、中原、南原の三つをまとめて総称したもので、現在旧東海道は美原通りと呼ばれております。
この頃の三原通りは、城南では北品川と大井三ツ又とともに大変な賑わいを見せるようになってきました。

大森村商店街の誕生
・『海苔の松尾』は1669年に創業し、御膳海苔を将軍家に献上した歴史を持ち、江戸前の大森産の海苔をつくり、三原通りに開業しました。現在まで240年に亘り、三原通りで開業(大田区大森東1-6-3)を続けている大老舗です。
・1711年頃には、谷戸(やと)の間(あい)の宿には、和中散を売る老舗の『梅木堂』が開業し、東海道沿いの大森村では和中散を売る店が3軒あったと云われております。
・1783年頃には、『麦わら細工』が、江戸中期頃から作られた麦わらを編んで作る細工もので、大林寺の12世日好により、村民の困窮を救うために始められたと云い、「海苔」、「和中散」と共に東海道の名産として有名な土産物として喜ばれたと云われております。
 麦わら細工

・1715年に、元祖甚三郎が駿府駿河の国安倍川のほとりより、三原通りに出て『駿河屋』の屋号で開業し、東海道を往来する旅人の疲れを癒す為、一辺の餅に特製のみつと黄名粉をかけ、茶を添え、旅情を慰める茶店ができました。駿河屋は、代々甚三郎という名を継いできました。しかし、明治の後期に八代目甚三郎が主に餅を扱っている事から餅甚という名に改め、現在も、和菓子店として、名代のあべ川餅をお勧めの餅菓子として営業を続けている老舗です。
・現存する三原通りの商店には、三浦屋提灯店もまた、江戸時代から続く伝統的な店です。手書きで丹念に江戸文字を書く提灯は、主に祭りや婚礼用のもの。絵馬や駒札に文字を書くこともでき、勘亭流、行書体、楷書などの文字を巧みに使い分ける仕事は、江戸時代からの流れをくむ昔懐かしい、今も昔も職人気質のお店です。

和中散(わちゅうさん)
江戸時代に、食傷の薬として有名な売薬である。時には万能薬とも宣伝されました。草創の地は近江国栗太郡六地蔵村の梅木で、東海道の草津宿に近い間の宿の地の利と、和中散の薬効から、「梅木の和中散」として諸国に流布しました。
1711年頃、大森の南原で『梅木堂』は開業して、その後、忠左衛門が譲り受け北蒲田村に移転しました。忠左右衛門の子である久三郎の代に、庭に梅木を集めて休み茶屋を開き、これが今も残る『梅屋敷』です。
麦わら細工
1783年(天明3年)大森の麦わら細工職人は、第10代徳川家冶将軍の前で麦わら細工の製作を御覧に入れました。
その後麦わら細工は、東海道土産として盛んに作られ、旅人の土産として大変好評でした。最盛期は明治時代から昭和時代の前期の頃でしたが、しかし、大森では戦後作る人が全く姿を消してしまいました。

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大森町界隈あれこれ(N30) 大森町風景 大森ふるさとの浜辺公園の砂浜開放

2006年08月07日 | 大森町界隈あれこれ 風景
拡大図
8月6日の日曜日の一日間に限り、「大森ふるさとの浜辺公園」(仮称)一部の砂浜が一般に開放され、ハゼ釣りや砂浜遊びを楽しむことができました。
「大森ふるさとの浜辺公園」は、平成19年に開園が予定される公園で、場所は大森町を流れる内川の東端河口部の大森東三丁目の元東京ガス会社大森工場跡の裏手(通称ガス裏)にあります。
一般開放日の前日の8月5日に探索に出かけてみましたが、一般公開日でないため砂浜には入ることが出来ませんでした。

浜辺公園隣接地は戦後の仮住まい跡
実は、「大森ふるさとの浜辺公園」の隣接地は、戦後の疎開先から引上げた1945年秋頃から1949年までの間、仮居住宅として複数の家庭が共同住まいをしていた懐かしい場所なのです(「大森町界隈あれこれ(1) 大森町に住んで65年!(その1) 」参照)。
61年前の内川河口先端にあった、父の勤務先事務所を改造した共同住宅付近地図で見られるように、ガス裏の小道が東京湾の海岸線でした。

元東京ガス会社大森工場の2基のガスタンクは、1基がガスの貯蔵量に応じて上下動する露出型のガスタンクで、片方のタンクは周囲を覆われたタイプのもので、鋳物川口のキューポラや千住のお化け煙突のように、大森町のシンボルでありました。
内川の対岸には、当時日本特殊鋼(「大森町界隈あれこれ(16) 鎮魂!大森町大空襲(第9回)」写真参照)があり、軍需工場であった製品の残渣などの廃棄物で埋め立てられた小島がありました。
現在、日本特殊鋼は既に存続しておらず、跡地にはマンションが建てられ、その小島も大森ふるさとの浜辺公園の敷地の一部として埋没され、戦争の歴史の痕跡は無くなります。

ガス裏の小道
ガス裏の小道は、現在公園工事のため閉鎖されておりますが、昨年の10月には歩行者や自転車通行は可能でした。
戦時中(1943年頃)のガス裏小道の地形を当時撮影の写真(左・小道の脇は海、中・海に接しているガス会社、右・防潮提)でみると、ガス会社の塀際に沿って小道があり、道が海岸線を形成しております。また、今では沖が広大な埋立地で覆われておりますので、無用となった防潮提も残っています。
戦後、ガス裏の小道はハゼ釣りの釣り場で、小1時間も釣ればたちどころに1束ほどの収穫があり、食料難時代の絶好なタンパク質、カルシュム源でした。
当時、小・中学生で引き潮時には露出したヘドロに膝下まで入って、釣りえさのゴカイを掘って自前で調達しました。

仮住まいからの通学
仮住まいからの通学は、小学校は大森第一小学校が戦災で焼失したので大森第五小学校に間借りで、旧東海道(美原通り)の外れまで通いました。当時は、戦後の混乱期で卒業式も行えず、卒業証書や通信簿を貰えませんでした。
中学校は一年生の時は旧制中学でしたが、二年生からは学制が変わり新制中学となり、やはり本校が戦災で焼失してましたので、森ヶ崎の大森第四小学校近くの工場跡地の仮校舎通いでした。

大森ふるさとの浜辺公園開放の入場口
公園開放の入場口は、元東京ガス会社大森工場の周囲を張り巡る南端の道路から行きます。南端の道路に沿って運河(サテライト)があり、海の入り口には水門が備わっています。
探索した日は、一般公開日でないため観察が出来なかったので、地図航空写真で大森ふるさとの浜辺公園の完成予想を想像してみました。
公園の工事は、平成17年10月から行われて、平成19年4月が開園予定で、完成すると昔日の大森海岸風景が復元されるとのことで楽しみです。公園には、内川の北岸と結ぶ連絡橋が掛けられ、京急平和島駅方面から公園に来られるようになります。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
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