雪だるま倶楽部

日々を離れ
日常から脱却した世界
そんな風景を切り取っています

蓮華寺

2008年10月31日 | 京都散策
若狭小浜から京へと結ばれた鯖街道
その終着近く洛北の地
高野川の畔

蓮華寺はひっそりと佇んでいます

    

天台宗の寺院
山号は帰命山

蓮華寺は元々はこの地になかった寺院
創建当時は七条塩小路にあったと伝えられています
創建当時の寺院は応仁の乱で焼失
廃寺となっていました
それを今枝近義が現在の地へと移して再建

        

紅葉の隠れた名所として
知る人ぞ知る場所です

   





蓮華寺の起源である西来院
時宗寺院であった
それを再建した折
比叡山の僧を開山として迎えたことから
今日では天台宗に属する寺院となっています

   

蓮華寺の魅力は
池泉観賞式庭園

庭園の作者は不明

  

書院の奥に座り
額縁風に見立てて見る庭園は見事
一服の清涼感を漂わせています

暫し
書院奥からの風景を堪能し
次は縁側まで出て観賞

      

浄土宗的な形式を以って表現された庭園
池の向こう側
すなわち対岸に浄土を意識させる造り

  

庭園を巡るのではなく
あくまで書院から観賞することに主眼が置かれた庭園

      

訪れる人の少ない蓮華寺
静寂の書院で
一人観賞する庭園は見事

    






続きます
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鹿鷺山 笠置寺2

2008年10月30日 | 京都散策
笠置寺は元弘の乱の地としても有名

文保2年に即位した後醍醐天皇は
元々、一代限りの天皇で
先々代の後二条天皇の遺児
皇太子邦良親王が成人して皇位につくまでの間として即位が許された天皇
ところが
実子が皇位を継承できない事に不満を募らせ
皇位継承に意見する鎌倉幕府に対し
反乱を計画するに至る

   

時は鎌倉時代後期
元寇によって疲弊した経済情勢の中で
異国警固番役としての負担
元寇の恩賞の停滞
貨幣経済の普及による経済の変革
訴訟問題の停滞
といった数々の問題を蓄積し
幕府の権威は落ちる一方だった

   

そんな中
大覚寺統の後醍醐天皇が即位
幕府の宮中に対する発言を嫌った後醍醐天皇は
1324年に正中の変が起きる
後醍醐天皇の側近
日野資朝
日野俊基らは諸国を巡り
各地の武士や有力者に討幕への参加を呼びかける
しかしこの事は
六波羅探題によって事前に察知された
後醍醐は赦されたものの
日野資朝は佐渡島へ流罪となった

       

倒幕を諦めない後醍醐天皇は
罪を免れた日野俊基と共に再び倒幕を計画する
しかし、次の倒幕計画は
側近の吉田定房が六波羅探題に密告
命辛々逃げ出した後醍醐天皇は
一端は比叡山へと逃げ込むと見せかけ
笠置山へと向い
笠置山で挙兵する

   

ここで行われたのが笠置山の戦い

    

幕府軍はこの地へ7万余の軍勢を送ったという
だが
笠置山は天然の要塞

        

   

後醍醐軍も良く善戦し
一旦は幕府軍を退けている

    

しかし
暴風雨の中
わずか50騎が城内へと侵入
寺社を焼き
後醍醐天皇も軍門に下っている

   


笠置
とても奇異な地でした

        
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鹿鷺山 笠置寺

2008年10月29日 | 京都散策
とんでもない秘境の様な寺院
京都府相楽郡笠置町
笠置山の笠置寺へと向いました

国道163号線
笠置町役場から南へ橋を渡り
JR関西本線を渡ってその先から山道へと入っていきます
山裾の町から約2km弱
道幅は狭く(道幅約2m)
ガードレールもないコンクリートの坂
すれ違いなんて不可能(100mくらいの間隔で一応エスケープゾーンはあります)
前から車が来ないようにと祈りながら車を走らせました
途中のヘアピンでは切り替さないと登れない場所もあります

運よく車と出くわす事無く
町営の駐車場へと到着

駐車場からは徒歩で笠置寺へと向います

道は一本道なんですが
この先で良いのかなって悩むような道を歩きます

        

参道?に隣接する
廃屋の様な、営業しているのかどうか不明な宿の脇を抜けて
石段を登った先に
ようやく笠置寺が見えてきました

    

笠置寺は真言宗智山派の寺院
開基は不明で
大友皇子とも天武天皇とも伝えられています

   

笠置の地は
かつては運送の要衝として知られていた地
平城京造営の折には
木津川の上流から水路にて運ばれた様で
賑わいを見せていたことでしょう

       

木津川沿いに連なる山の一つが笠置山
巨石信仰、山岳信仰が仏教思想と結び付いた山で
花崗岩の巨岩が露出している姿は
今日見ても
驚きの姿を見せてくれています

      

巨岩は磐座と呼ばれ
神の依代
神の宿る場所とされて崇拝を集めたという

      

笠置寺
有名なのが山中の巨岩に刻まれた仏像

写真では解かり辛いですが
花崗岩の大岩は高さ16mほど

      

その昔は色彩が施された事もあったようですが
度重なる火災で色彩は失われ
今日では仏の背景が残されているのみ

      

その大きさに感嘆




       

境内から奥
かつて修行場として僧侶が修行した場所
ここは一周800mほどの周回道があり
巨石の姿が
かつての姿に思いを馳せさせてもらえます

       

虚空蔵菩薩の姿を刻んだ虚空蔵石

      


この石も巨石です






続きます
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唐招提寺2

2008年10月28日 | 奈良散策
唐招提寺の開基
鑑真

生まれは唐の揚州江陽県
14歳で出家し、律宗・天台宗を学んだそうである

   

揚州の大明寺の住職にまでなったという
万人に授戒を授けていた頃
日本人の僧、栄叡、普照らに出合う
時は742年の事
鑑真に対した彼らは
日本へ渡り、戒律を伝えてもらえるよう懇請する

       

戒律とは
仏教で守らなければならない、道徳規範と規則
自分で自分に誓うものを「戒」
僧尼の間で誓い合うものを「律」

   

戒律伝授の依頼を受けた鑑真は
弟子達に日本への渡航希望者を募ったが
誰も応えず

そこで鑑真自ら日本への渡航を決意

ここから鑑真の苦難の旅が始まった

  

最初の渡航計画は
港を出ることなく潰える
鑑真の渡航を阻止しようとした弟子が
同伴の日本僧が海賊だと密告して終わる

二度目の渡航は海上で断念
激しい暴風で航海は終わる

      

三度目、四度目とも
鑑真の渡航を止めたい弟子によって渡航が阻まれる

    

五度目の渡航は嵐に合い漂流
渡航はならなかった

日本への渡航を依頼した栄叡が死去
また鑑真も両目を失明

   

六度目
ついに渡航が叶う
遣唐使の船に密航

       

実に10年の歳月
仏舎利を携えた鑑真は日本の地を踏む事となった

これが今日でも伝えられる鑑真の渡来の話

       

唐招提寺の蓮に鑑真の教えを見つけた気分

   
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唐招提寺

2008年10月27日 | 奈良散策
薬師寺から唐招提寺へ
薬師寺の北門から唐招提寺へは真直ぐ北へ
およそ400m
古い景観の残る道を北上します

   

時折降る雨
濡れた風景

唐招提寺に到着すると
門前には昭和の店が今でも営業していました

       

それほど昔の事ではないのですが
古き良き時代と言いたくなるほど懐かしい時代でした
そんな面影が、門前には広がっています

   








    

さて
話題を戻して
唐招提寺

    

南都六宗の1つ
律宗の総本山
開基は鑑真
鑑真は6度に渡る航海の末
唐から招来
東大寺に戒壇を開いた
日本で初めて戒律を授けた人物である

   

その鑑真が
新田部親王の旧宅跡を朝廷から譲り受け
寺としたのが唐招提寺

    

金堂は来年まで修繕工事中
金堂の撮影は諦めて、戒壇の方へと移動

戒壇の脇には蓮池

   

雨に打たれ
首を垂れた葉が見せる緑は
美しく
思わずシャッターを切りました

    

   


さて戒壇
出家した者が
僧侶となる為、受戒を受ける場所のこと
元々は建物があったのですが
江戸時代に消失
現在は基礎の石組みだけが残っています

   

残念ながら傍へは行けませんが
参拝のために設けられた門から
戒壇を眺めました

   



続きます
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薬師寺

2008年10月26日 | 奈良散策
法相宗の大本山
薬師寺

南都七大寺のひとつ

    

天武天皇が開基した寺院として有名
創建当時は現在の地ではなく
橿原市に創建されました
創建から数十年後
平城京遷都に伴い、六条大路に面したこの地へと移ったものです

鵜野讃良皇后の病気平癒を祈願して創建された寺
創建当時の伽藍を見ることなく没した天武天皇
造営はその後、持統天皇、文武天皇が造営を続けたと云います

        

平城京遷都と共に薬師寺は移動しますが
創建当時の薬師寺はその後も残り続け
史料では10世紀頃までは存続したそうです

   

広大な敷地に建つ金堂

享禄元年
豪族の戦火に巻きこまれ消失
豊臣政権の折、再建に向け仮堂を造営しますが
豊臣家の滅亡と共に捨て置かれ
再建が叶ったのは昭和になってから

近代建築の為、見るべき場所は少ないものの
堂々とした建ち姿はいい絵になります

       

金堂に向って左側に建つのが西塔

鮮やかな色彩が目を引く塔
こちらも金堂と同じく、昭和の再建です

東塔を除き
その他はすべて近代建築の薬師寺ですが
当時の面影に思いを馳せることはできます

   

道昭が入唐留学して玄奘に師事し
日本に伝えられた法相宗

  

大本山の薬師寺巡り

   

    

この後
唐招提寺まで歩くことにしました

        









余談ですが
薬師寺は入場券を提示すれば再入場できますよ
薬師寺の駐車場へ車を停め
唐招提寺へと向い、再び薬師寺を抜けて駐車場へと戻れます
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薬師寺へ向って(休ヶ岡八幡宮)

2008年10月25日 | 奈良散策
法相宗の大本山
薬師寺へと足を向けました

薬師寺の南には広大な有料駐車場
そこに車を停め徒歩で薬師寺へと向います
駐車場から薬師寺までは約200mの道程
途中の風景からご紹介

参道の途中には
休ヶ岡八幡宮が鎮座

   

薬師寺を守護する神社
大分県宇佐から勧請された八幡宮であると伝えられています
伝説では
八幡神が京都府八幡市の男山へ向かう途中に休憩したと云う

        

寛平年間の創建というから
西暦で890年代
歴史ある八幡宮

       

尤も創建当時の建物は現存しておらず
現在の社殿は1603年建造によるもの
寄進したのは豊臣秀頼

  

薬師寺へと急ぐ観光客が多く
ここ休ヶ岡八幡宮で立ち止まる人は少ない
ひっそりとした境内

   

撮影していると
一人の老女が参拝に訪れました
着物姿の女性
絵になる風景です

       

石積みの上に建つ
本殿と脇殿
僧形八幡神が祀られています

   

境内から
隣接された近鉄の線路が見える環境
境内を見渡せば和の文化
振り返れば電車が走り抜ける線路
アンバランスが微妙にマッチ

       

休ヶ岡八幡宮を抜け
少し歩くと
薬師寺の塔が見えてきました

        


次回は薬師寺です
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矢田寺2

2008年10月24日 | 奈良散策
地上に存在する生命あるものの全てをやしなってくださる者

お地蔵様

    

矢田寺の境内
紫陽花の季節は終わり
訪れた日、紫陽花に変わって百日紅が境内を色どってくれていました

      

時折雨が降ったり
止んだり
人の居ない閑散とした境内
雨の情緒が似合う風景になっていました

    

濡れた石畳も
石畳が自己主張しているようで
撮って、って言われているようで
思わず一枚

       

境内へと足を踏み入れて
もう30分以上の時が経っていましたが
未だ境内には雪だるま一人

時間から取り残されているような
不思議な錯覚を覚えます

       

創建当時は
十一面観世音菩薩と吉祥天女を本尊としていた矢田寺

弘仁年間になって
満米上人により地蔵菩薩が安置されて以来
地蔵信仰の中心地として栄えるようになる

    

       

四季折々
花が咲き
境内を楽しませてくれるという

       

    

閑散としたこの季節

案外、ここは紫陽花の時期よりも
こんな季節の方が似合うのかもしれない

      

一人
境内を巡って楽しみました

   
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矢田寺

2008年10月23日 | 奈良散策
奈良で紫陽花といえば
一番有名なのが、矢田寺
何故か
紫陽花の時期ではない矢田寺を訪れました

駐車場から先は細い路地を真直ぐ進みます
参道というよりも、山腹の農村を巡る感じです

    

参道を進むと
ようやく山門が見えてきます
この先が矢田寺

    

紫陽花の時期以外は散策自由
山門から先は
山寺らしく長く続く石段

   



矢田寺
高野山真言宗の寺院
山号は矢田山
正式には金剛山寺というが
山号から由来する、矢田寺として知られている

       

境内には8,000本を数える紫陽花が植わっていて
紫陽花の時期には多くの人が訪れるが
それ以外の時期は閑散としている

訪れた日、石段に人の姿はない
静けさ漂う石段を一段一段登る

      

矢田寺は天武天皇の勅願によって創建された寺
開基は智通
七堂伽欄四十八ヶ所坊を造営したのが矢田寺の始まりとされている

  

矢田山に壬申の乱の戦勝祈願の為登った天武天皇(当時は大海人皇子)
戦勝を得
天皇に即位した後
祈願が叶った礼としてここに寺を建立

かつて天武天皇も登ったであろう矢田山を今は石段で登ります

       

石段が終わると矢田寺の境内
真直ぐ続く石畳

懐かしい風景に出会った気分

       

雨に濡れた石畳
雪だるまの好物なんです

素朴な雰囲気の寺院
いい風景に出会えると心が躍ります

       

見たままの風景を
ファインダーに収める喜び
噛み締めました

   




続きます
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松尾寺2

2008年10月22日 | 奈良散策
松尾寺を創建した舎人親王
天皇にならなかった実力者

       

父は天武天皇
母は新田部皇女

   

天武天皇の子としては他に
草壁皇子
弓削皇子
長親王
大津皇子
高市皇子
などの子が居た

   

草壁皇子、弓削皇子は早世
長親王は、後継争いから脱落し、40代で薨去
大津皇子は、天武天皇が崩御すると、川島皇子の密告で「謀反」を疑われ死を賜っている
高市皇子は、持統天皇の治世に太政大臣にまで登り詰めている

   

   

舎人親王は、右大臣藤原不比等薨去に伴い知太政官事に就任、右大臣(後、左大臣)の長屋王とともに皇親政権を樹立する

  

有名な事件としては
天平1年2月
長屋王の変での事
新田部親王と共に長屋王を糾問、自害させた事件が歴史的にも有名

       

彼はまた、日本書紀の編纂者としても知られています

    

天武天皇の皇子の中で
長寿を全うした人物で
終焉は、平城京
天然痘が蔓延する平城京で60歳の生涯を終えている
最終官位は太政大臣

       

また、大炊王が淳仁天皇として即位の折
天皇の父として崇道尽敬皇帝との追号を受けている

    

舎人親王の歴史と共に
散策した松尾寺でした

       
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松尾寺

2008年10月21日 | 奈良散策
奈良県大和郡山市にある松尾寺を訪れました

真言宗醍醐派の別格本山
山号は松尾山とも補陀洛山とも云われています

       

開基は舎人親王


山門からは長い石段が続いています
山寺独特の風景を楽しみながら石段を登る

    

雨の合間を縫っての参拝

       



開基の舎人親王
天武天皇の皇子だった人物
天皇にはならなかった人物ですが
長屋王とともに皇親政権を樹立して権勢を誇った人物として知られています

没後は崇道尽敬皇帝の追号も受けています

    



話は戻って松尾寺

   

日本最古の厄除けの寺として伝わっています
2月と3月の初午の日の縁日には多くの参拝客で賑わいますが
この日は、閑散とした境内の風景を見せてくれていました

   

寺伝によると
舎人親王が養老2年
42歳の厄除けの為と
「日本書紀」編纂の完成を祈願して建立したと伝わっています

        

創建当時は独立寺院だったものが
中世以降、興福寺一乗院の傘下となり
法隆寺の別院の側面も併せ持つ事になる

       

時代は下って室町時代
修験道当山派の拠点として栄えることになる

「当山派」とは
吉野の金峯山を主な修行の場とした修験道のことを指し

別派である本山派と区別する為に呼称された
ちなみに、本山派とは
醍醐寺三宝院を本山とした真言宗系の修験道

   

松尾寺の本堂
創建当時の姿は留めていません
1277年に創建当時の建物は焼失
現在の建物は1337年に再建されたもの


境内で一際目を引くのが三重塔

      

こちらは本堂よりもずっと遅い明治21年の再建

 

杉と竹林に覆われた場所に立つ三重塔
朱色の塔は鮮やかな姿を見せてくれています

     

この三重塔
何故か気に入りました

  




続く
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滋賀院門跡

2008年10月20日 | 滋賀散策
滋賀院門跡

元々は京都にあった法勝寺を移築した寺院です
移築したのは江戸時代初期と伝えられていて
後水尾上皇から滋賀院の号を賜わり今日まで続いています

    

穴太積み石垣の道を散策
ふらりと迷い込んだ先
そんな場所に佇んでいます

門跡という称号がついているのは
移築後、江戸時代末期まで天台座主となった皇族代々の居所であった為である

        

堂内には皇族が居住した為か
狩野派の絵画なども並び
盛隆ぶりを窺わせます

       

滋賀院門跡を創建したのは
黒の宰相「天海」
後陽成天皇から法勝寺を下賜され、建立している

残念ながら、創建当時の建物は残っていません
明治11年に焼失
現在の建物はその後、比叡山無動寺谷法曼院の建物3棟を移築したものです

    

まずはお参りして

    

見学に移ります



滋賀院門跡からは琵琶湖も望めます

       

       

2万㎡を誇る境内
庭園散策は出来ませんが
堂内から望む庭園は見事

       


滋賀院門跡には二階書院という珍しい構造になっていて
書院からは明治期に作庭された庭園を望めます

    

暑い夏の最中だったので
苔が茶色になっているのが少し残念

       

この後、宸殿前の庭園へと向います

       

池泉式庭園

       

坂本の名勝庭園
観賞しました

   
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律院

2008年10月19日 | 滋賀散策
坂本の表参道

    

通りの左右には穴太衆積みと呼ばれる
独特の石垣が続いている

        

さながら城塞都市のような井出達
穴太とは現在も残る地名を指す
この地方の人々のことを穴太衆と呼び
土木営繕的な御用に長けていたと云う

切り出さない自然石
石の大小を巧みに積み上げて造られた石塁
独特の景観です

   

穴太衆積みの道を歩くと
途中に律院が見えてきます

かつて松禅院と呼ばれた里坊
境内は自由散策

    




里坊は延暦寺の修行を引退し
隠居した老僧が余生を過ごした寺院

延暦寺の修行は苛烈だという
中でも千日回峰行は尋常ではない

    

好相という、毎日一日三千回の五体投地を行う行で
好相とは一種の神秘体験
好相行を満行すると
十二年籠山という修行が認められる

そして十二年籠山行と百日回峰行という修行を終えた者のなかから
選ばれたものにだけ許されるのが千日回峰行
7年かかる修行

行に入った者は途中で決して行を止める事はできない
万が一、行者が途中で行を続けられなくなったときは

自害

       

行は初日から700日目までは
1日30kmを深夜2時から歩く
歩くコースは
東塔から始まり西塔、横川、日吉大社まで
約6時間かけて歩く

700日経つと
堂入り行が行われる
無動寺谷明王堂にて、断食・断水・断眠・断臥の行を9日間行う

       

出堂すると大阿闍梨と呼ばれるようになる
そして出堂したら
それまでの行程に更に赤山禅院への行程も増えて1日60kmを歩くことになる
7年の修行の最後の年には
京都大回りという84kmの道程を歩く

   

これまでに千日回峰行を終えた者は50名に満たないという

        

修行を続けた僧侶が隠居を許されて住まいを設けた坂本の町
余生を過ごすにはいい町なのでしょう

   
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日吉大社2

2008年10月18日 | 滋賀散策
日吉大社の2回目
西本宮参拝後は東本宮へと向います

東本宮までには
宇佐宮
白山宮を通り抜けます

   

先の記事で
八王子山山頂に磐座があり
2社の奥宮が鎮座していると書きましたが
奥宮のうち牛尾神社の里宮として創祀されたのが東本宮

  


日吉大社が勧請されたのは大津京造営後
天智天皇治世の折のことだった

   

その後
大津京から平安京へと遷都するとともに
衰退する憂き目を見たが

平安京からみて
日吉大社は東北に在り
京の鬼門として
鬼門除け
災難除けの社として発展することになる

       

往年の姿を想像できる記述は
延喜式神名帳にみられる

      

延喜式神名帳によると
名神大社に列格している


日吉大社をして有名ならしめたのは
最澄

       


比叡山に延暦寺を建立した折
地主神を、天台宗・延暦寺の守護神として崇敬

全国に約2,000あるという日吉・日枝・山王神社は
天台宗が全国に広がるのと歩調を合わせて勧請・創建された為

   


残念ながら
最澄が見た当時の日吉大社は現存していません
織田信長の比叡山焼き討ちの戦乱の中
ここ、日吉大社も灰燼に帰しています

        

再建されたのは
豊臣秀吉の造営によるもの

織田信長の焼き放ったものを元部下が修繕したという話ではなく
豊臣秀吉の幼名が「日吉丸」であり
良く知られている彼のあだ名が「猿」であったことから
当社を特別な神社と考えたと云われています

そうここ日吉大社は、猿を神の使いとして崇拝しているのです

       


元々は比叡山のお膝元にあり
神社でありながら仏教色が強かった日吉大社も
明治時代に入り、廃仏毀釈の流れの中で
仏教色を落とし
今日では、単立の神社として
参拝人を招き入れています

   

巡るにはそれなりの時間が必要な日吉大社
余裕のある時にどうぞ

       
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日吉大社

2008年10月17日 | 滋賀散策
日本全国に約2,000社あるとも言われている
日吉・日枝・山王神社の総本宮
日吉大社を訪れました

    

坂本ケーブルに続く道の途中
入口にある鳥居がなければ
通過してしまいそうな佇まい
広大な敷地を誇る、日吉大社の参道は質素

       

日吉大社が文献に登場したのは古事記が最初である
八王子山の山頂に磐座があったそうで
これが山岳信仰として信仰を集めていたと云う
何時の頃か
磐座を挟んで2社の奥宮が造営された
牛尾神社、三宮神社がそれである

       

日吉大社には二つの本宮がある
西本宮と東本宮

    

参道から真直ぐ進むとあるのが西本宮
広大な敷地を誇る日吉大社は
山王二十一社とも呼ばれ
多くの神社の集合体である

    

参道を進むと
見えてくるのが山王鳥居
独特の形状をしている鳥居が目に留まる
風雪で淡くなった朱色が
この独特な鳥居の雰囲気を醸し出している

  

笠木の部分の上端に合掌のように破風を付し
別名、合掌鳥居ともいわれている

  

日吉大社の他
東京の日枝神社でも見ることができる鳥居
大山咋神を祀ったお社に用いられる
ここ日吉大社では
東本宮に大山咋神が祀られている



古木の茂る参道を歩き

  

突き当たりに見えてくるのが西本宮

   

西本宮は大国主神を祀っている
出雲神話に登場する、大地の神
多くの別名を持つ大国主神
別々の神を集合体として祀っているとの説もある

   

拝殿には
5本の鈴を鳴らす綱
これも八百万を象徴しているのか?

   

拝殿から西本宮にお参りして

       

次は
東本宮へと向かう事にしました

   





続く
コメント (8)
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