雪だるま倶楽部

日々を離れ
日常から脱却した世界
そんな風景を切り取っています

金崎宮

2012年02月22日 | 福井散策
建武中興十五社の一社
恒良親王と尊良親王を祭神とする
建立は
室町時代の歴史的事件に遡る



室町幕府
初代征夷大将軍といえば足利尊氏
室町幕府建国の折の政治的混乱
その一番の原因は
後醍醐天皇



鎌倉幕府討幕の立役者だったのは新田義貞
鎌倉陥落の折には
新田義貞へ軍忠状が絶えなかったというが
件の天皇は
論功行賞から先
足利氏と新田氏の二枚看板の間を
右往左往



政治的手腕に欠けたとされる新田義貞
足利尊氏との戦いで
勝利と敗北を数多く重ね
最後は
九州平定を成し遂げた足利尊氏と
湊川の戦いで破れ敗走



頼みの綱であった
後醍醐天皇は
しかし
足利尊氏と和議を行い新田義貞を切り捨てる






皇位を恒良親王に譲り
恒良親王と尊良親王を新田義貞に委任
官軍であるとはした



新田軍が北陸落ちし
辿り着いたのが此処金ヶ崎
追討軍との戦いにも敗れ
新田軍に従軍していた
尊良親王は自害
恒良親王は捕縛、毒殺されたとも



金ヶ崎宮は
桜の名所として知られているが
恒良親王と尊良親王の翻弄された歴史が埋もれている

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敦賀鉄道資料館

2012年02月20日 | 福井散策
明治維新後
日本の近代化が始まる
生活様式も変革し
都市も西洋風へと変貌
交通網も整備されてゆく



日本海側の都市で最初に鉄道網が整備されたのは敦賀



日本において鉄道事業が開始されたのは
明治維新の翌年
鉄道ファンならだれでも知っている
新橋-横浜間



日本海側へ線路が敷設された場所は
というと
ここ、敦賀が最初である





そして
明治45年からは
新橋-敦賀間の列車が走り
敦賀港からは連絡船でウラジオストクへ
そして
シベリア鉄道を経由して
パリまで
欧亜国際連絡列車が走っていた



日本海に面した
小さな都市であるが
鉄道との繋がりは深い



当時は、金ヶ崎駅
この鉄道資料館は当時とは全く違う位置に
つるがきらめきみなと博21の一環として建築されたが



建物は
往年の姿を留めているという

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シンボルロードモニュメント2

2011年08月05日 | 福井散策
敦賀のアーケード街にある
松本零士氏の作品をモニュメントにして
展示されている通り

前回は銀河鉄道999を紹介したが
今回は宇宙戦艦ヤマト
またも手抜きで写真だけを掲載























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シンボルロードモニュメント

2011年08月03日 | 福井散策
敦賀の街に
松本零士のモニュメントが在る
松本零士といえば日本を代表するアニメーター
子供のころ
彼の作品を見ずに育った日本人は稀有なくらい広く浸透している彼の作品
その中でも代表作となる
銀河鉄道999
宇宙戦艦ヤマト
二つの作品のモニュメントがメインストリートに並んでいる

まずは銀河鉄道999から



宇宙を駆け巡るなら宇宙船だろうという発想をせず
宇宙を旅するのだから機関車、という発想なのだろうか
初めて見た時驚いた記憶がある
それはともかく
今回は細かい解説はせず手抜きのように写真を掲載





























記憶にある
この作品の思い出が蘇っただろうか

次回は
またも手抜きで宇宙戦艦ヤマトのモニュメントを紹介
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福井県立歴史博物館3

2011年07月25日 | 福井散策
福井県立歴史博物館の
昭和の街並みを再現した展示ブース

       

昭和という時代
妄信で始まり
挫折を味わい
そして混沌
やがては復興と
そして夢の様な成長

       

庶民の暮らしも徐々に変化を遂げ
生活感が感じられる風景がそこにはあった
現代の様な無機的な風景ではなく
人本来の生活が
そのまま街角にも滲み出ていた

       

古きよき時代

   

そう表現するにはまだ近すぎるのだが
それでももう、古き時代と表現しても良いくらい
街の装いも
歩く人の服装も
変わってしまった

       

   

近代的なって
精練されて
街の表情から人の顔が消え
機械的に無機質な風景が好まれるようになった

  

だからかもしれないが
こういう昭和の風景を見かけると
懐かしく
そして
物悲しくなる

       

どこかに置き忘れてきた風景

       

展示ブースではあるが楽しんだ
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福井県立歴史博物館2

2011年07月23日 | 福井散策
福井県立博物館
訪れた目的はというと

昭和の風景展示
これが見たかったのだ




   

昭和30年代~40年代にかけての庶民の暮らし
風景と共に展示してある

   

昭和
1926年から1989年までの期間
昭和の初期は
第1次世界大戦の戦後恐慌と関東大震災の影響から
金融恐慌が吹き荒れて始まっている
そして、世界でも世界恐慌の嵐となり
やがて続く第2次世界大戦へと
歴史は加速してゆく

  

昭和7年には五・一五事件
昭和11年に二・二六事件と
そして、昭和12年には日中戦争
日本は泥沼の戦争へ
そんな動乱の時代も昭和20年の敗戦を受け収束
戦後の混乱という時期を体験しながら
やがて
高度経済成長
の波がやってくる

       

戦後で全てのものを焼失し
復興による特需や
人口増加の追い風が
高度経済成長という時代を生んだ

       

この時代
世の中は急速な加速をしていたが
庶民の暮らしはまだ長閑な時代でもあった

  

仕事を終えた父親が
子供と夕暮れを楽しむ
そんな風景が
都会でも見れた時代

       

何を得て
何を失ったのか

       

博物館に再現された
昭和の懐かしい風景
平成生まれの人でも
きっと感じる事が出来るだろう

       

物が無くても
豊かだった時代
物に溢れ
心が荒んだ現代
そのギャップを
改めて感じる事ができる

  

続く
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福井県立歴史博物館

2011年07月21日 | 福井散策
福井県立歴史博物館を訪れた時の記憶





   

    

前々から行ってみたいと思っていた博物館
博物館めぐりが楽しい

       

ここは昭和59年に創館されている
当初は
自然
歴史
民俗
産業の各分野をあつかう
総合博物館として開館している

       

物造りの歴史を紹介する
福井県立博物館

   

訪れた目的は後の楽しみに取っておいて
先ずは
福井の物造りの展示から

      

福井はメガネフレーム生産が有名
日本のメガネフレームの95%が福井県で生産されている

       

ショーケースに浮かび上がるメガネフレーム

   

少し暗めに撮影するとアートになる

       

続く
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松原神社

2010年12月26日 | 福井散策
2010年
各県1箇所の紅葉巡り
第2回目は福井県



他にももっと有名な紅葉名所はあるのだが
敦賀の町中にある松原神社を訪れた



ここは
武田耕雲斎ら
水戸天狗党たちが眠る地でもある



武田耕雲斎とは
幕末の水戸藩士
元は跡部氏の家系の出であったようだが
姻戚関係などがあるとして
武田信玄の末裔を称して
武田の姓を名乗ったという



徳川斉昭の藩主擁立に尽力した功績で
水戸藩の藩政に参与したものの
その徳川斉昭の隠居謹慎処分で連座



斉昭の藩政復活で
再度表舞台に立ったが
斉昭の病死により
水戸藩藩政が混乱すると
各派閥同士が争うようになり
急進派であった天狗党が挙兵



諫めに尽力した武田耕雲斎であったが
天狗党の目的は
斉昭の子の徳川慶喜を
新たに水戸藩藩主とする事をスローガンとしてたため
結局担ぎあげられ
天狗党党首になってしまう



京へ向け
約800名の志士とともに行軍



敦賀の地で
幕府軍の追討を受け降伏
処罰は苛烈で
この地で353人もの天狗党が斬首された他
武田耕雲斎の妻や子、孫までもが斬首となっている



攘夷派としては穏健だったとされる武田耕雲斎
歴史の荒波に揉まれ
この地で眠っている
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柴田氏庭園

2010年06月15日 | 福井散策
元禄時代
というから江戸時代の頃

       

福井は敦賀の地
当時は小浜藩の支藩として
敦賀藩があった

   

敦賀藩とはいっても
敦賀郡の一部を領地としているに過ぎず
石高も1万石
城は無く
鞠山陣屋と呼ばれる陣屋があったのみ
この鞠山陣屋から名をとって
鞠山藩と呼ばれることもある

   

この敦賀藩には
豪農で柴田権右衛門という人物が居た

       

かなりの蓄財があったようだ
他の豪農と違ったことは
この屋敷を造営したことかもしれない

   

というのも
地割設計を依頼されたのは
狩野探幽

       

そう
江戸時代
狩野派を代表する絵師である

   

どういう伝手があったのか
それは今はもう解らない

       

参勤交代の時には
親藩である
小浜藩主が
休憩所として利用したという

   

柴田氏庭園を訪れた
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丸岡城

2009年11月12日 | 福井散策
築城されたのが天正4年というから
1576年の事

       

日本最古の天守が残る
丸岡城を訪れた

   

現存天守は全国で12箇所ある
一番有名なのが
姫路城だが
他にも彦根城、松本城、備中松山城、高知城、丸亀城などが有名である
訪れた丸岡城は最古の城とされている

      

異説もあり犬山城を最古とする説もある
それは天守の構造が慶長期の形をしており
改修されたので最古でないという反論もある

   

      

柴田勝家の甥
柴田勝豊が築城したと伝えられている丸岡城
独立式望楼型2重3階の天守
独特の景観を見せてくれる

       

さて
柴田勝豊は1576年に丸岡城を築城したとされている
城主であった時期は短く
1582年には清洲会議により
柴田家が長浜に移封
勝豊も長浜城へと移っている

      

その後柴田家の滅亡で
丹羽長秀の所領となり
豊臣家が滅亡すると
結城秀康の所領となっている

       

以後、改易などが繰り返され
後には有馬氏の所領となり
江戸末期まで有馬家6代が歴代城主を務める事になった

       

現存する天守といっても
丸岡城は1948年の福井地震で一度倒壊している

   

現在の天守は地震の7年後
倒壊材を元の通り組み直し
修復したものだ

       

修復したといっても
当時の建材を利用しての修復
小さいながらも威風堂々とした
風格を持つ天守であることには変わりはない
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東尋坊遊覧船

2009年11月11日 | 福井散策
東尋坊は
実は僧の名前である

       

平泉寺白山神社
昨年紹介した苔の美しい平泉寺の僧
東尋坊は
怪力の悪僧だったと伝えられている

   

在所の美しい姫君がおられたそうで
その姫君を一目見て
心を奪われた東尋坊

   

しかし姫君を想うもう一人の僧
真柄覚念
二人は姫君を巡って争いが絶えなかったと云う

   

そんな二人が
どういう経緯があったのか
この東尋坊の岩場で
酒宴を催したそうだ

      

いがみ合う二人が何故東尋坊で酒宴を開いたのか
謎は多いがそこは昔の話
伝説とはそういった謎の話が多い

       

さて
岩場で酒宴を開いた二人
酒を酌み交わしながら
真柄覚念はとある思惑があった
この場所で恋敵で悪僧の東尋坊を亡き者にしようとしたのだ

       

隙を見計らい
東尋坊を断崖絶壁から突き落とした真柄覚念

   

そんな古事から名付けられた東尋坊

      

果たして突き落とした真柄覚念が悪僧なのか
突き落とされ、地名ともなった東尋坊が悪僧なのか
判断に困る昔話である

  

いづれにせよ
姫君に恋したり
岩場で酒宴を開いたり
色恋沙汰で殺人に及んだり
昔の僧は還俗していたのかも

東尋坊の名前の由来と共に
遊覧船からの風景を紹介しました
コメント (20)
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東尋坊

2009年11月10日 | 福井散策
三国の観光名所
東尋坊を訪れた
東尋坊の楽しみ方は二つ

   

東尋坊商店街と東尋坊景観巡り

   

バス停近くの市営駐車場に車を停めたなら
商店街を通って東尋坊へと至ることになる

   

水産資源が豊富な町
商店街には美味しそうな
魚たちが並んでいる

   

先ずは腹ごしらえ




さて東尋坊
輝石安山岩の柱状節理の
25mの高さをもつ岸壁

   

近づいて
見下ろせば
背筋が寒くなる光景を覗ける

      

地質学上も極めて貴重な岸壁で
これだけの規模を持つ輝石安山岩は世界でも3箇所しかないと云う

      

   

岸壁にぎりぎりまで近づいた遊覧船
岸壁の規模との対比になる

       

       

岸壁の上に立つ人のシルエットが
まるで米粒のようだ

   

さて次回は
遊覧船からの風景を紹介します
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みくに龍翔館

2009年11月09日 | 福井散策
公立総合博物館
みくに龍翔館を訪れた

       

1981年に
福井県三国町の歴史や風土、自然を展示してある

   

三国町は九頭竜川の河口の町
古くから日本海側の要衝の町として
物資が集約される港町

        

釣りバカ日誌7のロケ地としても有名
記憶には薄くなったが
1997年にロシアのナホトカ号重油流出事件があった町でもある

    

戦国時代は朝倉氏の所領であった場所
展示にはかつての庶民の暮らしぶりも再現されていた

   

太平洋側と違い
起伏のある平地面積のすくない土地柄
龍翔館の展望台から
町を眺める事もできる

   

   

でも
一番の見所は建物だろう
建物は龍翔小学校を再現して建築されている

   

       

オランダ人エッセルがデザインした
木造五階建八角形の建物
見るほどに美しい
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瀧谷寺2

2009年11月08日 | 福井散策
瀧谷寺には
名勝庭園がある

   

作者は不明
作庭時期も定かではなく
江戸時代初期から中期で作庭されたと
そう考えられているだけである

   

名勝庭園としては
福井県で一番最初に指定された庭園

   

   

山水型庭園

   

眺めるほどに
築山と石組が美しい庭園である

       

庭園は本堂の裏手
本堂裏側が書院の様な造りになっており
座して眺めることができる

   

真言宗智山派は総本山を
京都の智積院とする
覚鑁を開祖としている

   

庭園にも京の香りが漂ってくる

   

福井の三国の地で
見事な庭園に出会えました

   
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瀧谷寺

2009年11月06日 | 福井散策
福井県坂井市にある
真言宗智山派の寺院
瀧谷寺を訪れた

   

「たきだんじ」と読む

      

総門を経て
長い参道を登ると
やがて見えてくるのが山門
此処からが瀧谷寺の風景

       

見下ろせば登ってきた参道が覗える

       

さて
瀧谷寺の創建は睿憲上人と伝えられている
時は南北朝時代の事

   

遣明使として明王朝への渡航を目差した
睿憲上人であったが
天は渡航を許さなかった

   

難破して
命逃れた地は
崎浦の浜

   

瀧谷寺があるのが福井県
崎浦は石川県
崎浦に構えた庵が
やがて三国の地へと移された訳である

  

真言宗智山派の寺院として
三国最古の寺である

       

早朝、一番の拝観
木々を渡る鳥の音だけが
境内に木霊していた

   

続きます
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