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雪だるま倶楽部

日々を離れ
日常から脱却した世界
そんな風景を切り取っています

一乗谷朝倉氏遺跡3

2009年10月30日 | 福井散策
朝倉氏の歴史は
朝倉始末記という史書が残されている

   

それによると
一乗谷を本拠としたのは
1471年の事とされている

       

朝倉敏景が一乗谷へと屋敷を移した
尤も
南北朝時代には
朝倉氏は勢力を一乗谷にまで広げており
諸説はある

    

家臣団も含め
一乗谷へと集住

  

そして
応仁の乱で戦乱を逃れた
京都の
多くの公家や高僧
文人
学者達が逃れてきた事から
一乗谷は京文化に包まれ
北ノ京と呼ばれた時期もあったようである

  

一乗谷にある
遺構庭園
その中でも最大の規模を残す
諏訪館跡庭園

  

回遊式林泉庭園
としてはかなりの規模
遺構ではあるが
京文化を感じさせる庭園がここには残っている

      

1573年
刀禰坂の戦いがあり
織田信長勢に大敗した朝倉義景は
一乗谷を放棄

   

翌日には織田信長の軍勢により
一乗谷は灰燼に帰している

       

戦国時代の闇の歴史
一乗谷朝倉氏遺跡で感じました
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一乗谷朝倉氏遺跡2

2009年10月29日 | 福井散策
標高473mの一乗城山
そこに築城された中世山城が一乗谷城

   

一乗谷城は遺跡のみであるが
かつて城が建っていた山から見下ろす場所に
城下町と朝倉氏の邸宅が建っていたという

一乗谷朝倉氏遺跡で一番知名度が高いのが
唐門

  

  

桜の季節や
降雪の頃の写真が有名
残念ながら当時の唐門は現存していない

       

今日見る唐門は
のちに建てられていた松雲院の寺門の様で
豊臣秀吉が寄進したもの

       

写真では掲載しないが
唐門には朝倉氏の三ッ木瓜の家紋の他
豊臣家の五三の桐の紋もある

   

唐門から先は朝倉氏の邸宅があったと伝わる場所
遺跡調査から
17棟の建物があったことが判っている

   

唯一残っているのが
朝倉館跡庭園
庭園の石が館の礎石でもあることが判明しており
箱庭のような庭園であったことだろう

   

庭園横の坂道を登り

   

上から屋敷跡を見下ろしました

続きます
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一乗谷朝倉氏遺跡

2009年10月28日 | 福井散策
越前を拠点としていた豪族
朝倉氏

   

元は
越前国守護であった
斯波氏の守護代

   

「朝倉始末記」
という文献が残っているが
これによると孝徳天皇の後裔
という記述もある

   

応仁の乱を引き起こす原因となった
斯波家の家督争いなどで
勢力を失っていく過程で
守護になった朝倉氏

   

その朝倉氏の
居館および山城と城下町が遺跡として残っている

   

今は無き城下町

       

発掘調査などで
計画的に町割りがされていた事が判明している
碁盤の目のように
区割りされた城下町
観光資源として
かつての城下町が再現されている

   

わずか200mほどではあるが
復元された町並み

   

かつての暮らしが見えてくるようである

  

続きます
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養浩館3

2009年10月27日 | 福井散策
養浩館庭園
1699年に完成した庭園

       

その後
幾多の手が加えられ
規模も拡大したり縮小したりと
姿を変えている

   

当時は御泉水屋敷と呼ばれていた
現在の養浩館と呼ばれるようになったのは
江戸末期に
越前松平家の16代当主
松平春嶽が明治時代になってから名前を変えたためである

   

松平春嶽は江戸末期
攘夷と尊王が日本を覆った時代の寵児
聡明で知れた人物で
あの坂本龍馬とも懇意であったことで知られる

       

明治時代になってからも
内国事務総督
民部官知事
大蔵卿
と、重職を歴任した

   

晩年は東京に在住し
この彼が名付けた養浩館へと戻る事はなかった

   

辞世の句が残っている
なき数に よしや入るとも 天翔り 御代をまもらむ すめ國のため

       

さて
養浩館と共通拝観券になっている
歴史博物館も訪れた

   

こちらでは
松平春嶽はもちろん
福井の歴史について展示してある

   

充実した施設内展示に感嘆し

   

養浩館の旅を終えました
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養浩館2

2009年10月26日 | 福井散策
越前松平家
先の記事でも書いたが
徳川家康の次男
結城秀康を家祖とする名家である

       

関ヶ原の戦いの後
越前を与えられ
75万石の大名家となった
おそらく、金沢の前田家に対する楔の意味もあったことだろう

       

先の記事では
晩年、結城家を廃し
松平家を継いだと書いたが
別論もある
秀康は、生涯結城家を名乗っていたというもの

       

ただ、秀康の長男、忠直が家督を継いだときには
越前松平家となっている

       

紆余曲折があったが
幕末まで続いた、越前松平家
その歴代の藩主が過ごした別邸

       

養浩館
作庭されたのは1699年の事と伝えられている

      

作庭された当時は
御泉水屋敷
と、呼ばれていたらしい

   

現在では
林立するビルによって
景観を随分と損ねているものの

  

当時を偲ばせる
庭園の美しさをみせてもくれる

  

続きます
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養浩館

2009年10月23日 | 福井散策
福井城
1583年に賤ヶ岳の戦いで敗れた柴田勝家が
自害して果て
城と共に灰燼に帰すと
その後
結城氏によって北ノ庄城が築城されている

   

その城も1669年に焼失
今では城郭のみが残り
福井県庁、県会議事堂、県警察本部
といった建物が建つ公園になっている

       

その福井城跡から北へ約400m
養浩館はビルに囲まれた場所にある

   

ここは旧福井藩主
松平家の別邸跡

       

松平家というのは元は徳川家康の次男
松平秀康を家祖とする
徳川家重鎮の一家である

       

松平秀康、結城秀康と書く方がわかりやすいと思う
徳川家から豊臣秀吉の養子として
差し出された人物である

       

小田原攻めの後
有力大名の下を点々と渡っていた結城家が
小田原攻めの戦功で徳川家に隣接する所領を得た事から
徳川家の次男で豊臣家へと養子に出されていた
秀康を養子にむかえたもの

   

秀康は
その後も結城家を名乗っていたが
晩年、松平家と改め
越前松平家の家祖となった

   

写真とは関係ない
記事で紹介しているが
次回は松平家の話でもしながら
ここを紹介しようと思う

       
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明治村5

2009年10月22日 | 愛知散策
さて
5回に渡り明治の歴史と共にお届けしてきた
明治村の風景
これがラストです

   

明治という時代
そこには過去を清算する大胆な改革もあり
今では当たり前の事となっているが
往来の自由が初めて民衆にまで広まったりと
革新的な事もあったが
新たな痛みも与える結果ともなった

        

それ以外に劇的な変化を遂げたのが
街並みの風景だった

       

土塀や堀
長屋や町屋といった風景が当たり前だったのが

   

西洋文明を取り入れた革新的な建物が
最初は特権階級の民家から始まり
やがて庶民が暮らす近隣
学校などの公共建築物にも採用されていった

        

そんな建物が
集合したテーマパークが
ここ明治村

   

巡ると
何時か見たような光景に出会うこともある

   

きっとデジャブーなのだろうが
そんなデジャブーに出会いに出掛けてみたくなるのもここの魅力のひとつ

   

さあて
次回は何時訪れようかな

    

5回に渡って明治村をお届けしました
お付き合い
ありがとうございました
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明治村4

2009年10月21日 | 愛知散策
明治村の4回目

       

明治時代を語りながら
明治村の風景をお届けしています

       

富国強兵が国家として謳われた時代
昭和20年まで続く徴兵制が施行されたのも
明治6年のこと

       

徴兵されたのは次男三男や貧しい貧困層の青年達
四民平等で晴れて自由の身になったのに
農民は今度は徴兵という不自由を押し付けられる

       

   

この不満に対し明治6年発生したのが血税一揆
渡会県牟婁郡神内村にその端を発している

   

その後
北条県・鳥取県会見郡・名東と飛び火していった
徴兵令反対
学校入費反対
の称廃止反対
参加した農民は口を揃えて訴えたという

       

血税一揆が西日本に集中したのは
一説には西日本でだけ
徴兵率が高かったという説もある

       

しかしその影には
廃藩置県で収入源と社会的地位を失った藩士の影もあった事だろう

       

結果として
その後の征韓論が興り
やがて日本は日清戦争へと突き進んでゆくことになる

       

その歴史はまた後ほど
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明治村3

2009年10月20日 | 愛知散策
明治時代の歴史と共に
お伝えしている明治村の風景
3回目です

       

さて今回は廃藩置県について

   

公布されたのは明治4年7月14日の事
江戸時代から続いてきた藩政を廃し
地方統治を改めている
治世を中央管下とし
府と県に一元化したのである

       

遡る事2年前に
版籍奉還を公布してはいたものの、依然として地方行政は
知藩事となったかつての大名が行なっており
それまでの江戸時代と何も変わらなかった
これを改めたのが廃藩置県だった

       

廃藩置県により
年貢(税金)は中央集約され富国強兵の礎となったのだが
喜んでもいられない
その影で
全国で約200万人以上居た
藩士たちが大量に解雇されている

   

反対に喜ばしい事もあった
それが庶民の権利が増大した事

       

身分の撤廃で四民平等となった事
国内往来の自由が認められた事

       

明治時代までは行きたい場所へ自由に出掛けられないという
今では考えられない時代だったという事を
明治時代の廃藩置県が教えてくれる

       

街並みも
そこを往来する人の服装も
そして髪型も
急速に西洋化していった時代

       

和洋折衷が都市の至る場所で見れたのが明治という時代
城もあり
長屋もあり
西洋風建築物もあり

       

タイムスリップして見たみたいものである

続きます
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明治村2

2009年10月19日 | 愛知散策
明治の歴史と共に
明治村の風景をお届けしています
第2回目は
明治2年の歴史から始める

   

        

この年
新政府はそれまでの国の体制を大きく改める政策を公布する
それが版籍奉還

       

明治政府樹立後
それまでの各藩の立場を変え
大名領を藩とする
大名を知事に任命
諸大名統治というそれまで体制のまま
府藩県三部制を確立

   

このため明治政府の諸藩に対する統率力は低く
強制力の無い太政官達という方法で行なわれるのみだった

   

   

中央権力集中を目差す明治政府は
国家体制を見直そうと公布したのが版籍奉還だった訳である
これは後に行なわれる廃藩置県の布石でもあった

   

廃藩置県が行なわれたのは版籍奉還の後
2年後のことだった

       

廃藩置県によって日本の構造は大きく様変わりをみせる
これまでの日本の歴史では考えられなかった
大きな変革をみたのが廃藩置県である

       

次回は廃藩置県について語りながら
再び明治村の風景をお届けしたいと思う

   
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明治村

2009年10月18日 | 愛知散策
再び訪れた明治村
今回はシリーズで紹介
明治時代について語りながら
明治村のその時代に建築された建物の写真を紹介していこう

   

明治の始まりは
西暦で書くと、1868年1月25日から

   

徳川慶喜が統治権返上を明治天皇に上奏したのが大政奉還
1867年11月9日の事である

   

大政奉還から約二ヶ月
その期間
朝廷の王政復古宣言

   

戊辰戦争とキナ臭い歴史の暗部があったものの
明治時代は始まっている

       

3月14日に五箇条の御誓文が公示され
9月には年号を明治としている

   

最初に明治時代が始まったのは1月25日と書いたが
これら全ては1月1日に遡って適用された為

明治時代の始まりの正式な日時は1868年1月1日とするのが正しいだろう

   

徳川政権から薩摩長州を中心とした志士達が明治天皇を担ぎ上げた明治政権へ
歴史が大きく変わったのが明治という時代

   

天皇を中心とした中央集権国家の樹立を目差した
これは黒船来航から始まる
列強各国の軍事的経済的圧力に対抗するための必然だったと云えるかもしれない

   

続きます
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尚古荘

2009年10月16日 | 愛知散策
愛知県西尾市にある庭園
尚古荘を訪れた

   

ここには西尾城がかつてあった
いつからここに砦があったのか不明だが
史書には1585年
酒井重忠が
東の丸、堀、石塁
櫓門、櫓類、天守などを増築したという記録が残っている

   

       

その西尾城への入口に当たる場所に
西尾市の豪商であった
大黒屋岩崎明三郎が造営したとされているのが
尚古荘

       

西尾城の入口の門は新門
その新門と内堀の一部
そして
東の丸丑寅櫓跡を利用して
日本庭園が造営されている

   

見学は自由

       

庭園内には
別邸として建てられた茶室や東屋が残り

   

京風に造られた庭園は
一時の安らぎを与えてくれる

   

縁側に座し
暮れ往く夏の名残を楽しむ

   

庭園内を巡ると

    

夏の記憶が残っていました
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海辺の文学記念館

2009年10月15日 | 愛知散策
海の眺めは蒲郡

   

全5集
334番
明治時代
鉄道唱歌というものが創られた

   

鉄道唱歌に謳われた景勝地

   

時は明治末期
名古屋の豪商滝信四郎が竹島の眼前に
料理旅館「常磐館」を建てる

       

常磐館からの眺めは格別のものだったと
数多くの文人が語っている

    

残念ながら常磐館は現存していない
老朽化により昭和57年に取壊されている

       

その常磐館を偲ぶように建設されたのが
海辺の文学記念館

       

志賀直哉
谷崎潤一郎
山本有三
川端康成
井上靖
名立たる文学家に愛された常磐館

       

その姿

       

藤原俊成の像がひっそりと眺めていました
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竹島2

2009年10月14日 | 愛知散策
竹島弁天の別名も持つ
八百富神社

   

竹島は全て
八百富神社の境内
1930年には
竹島八百富神社社叢として天然記念物に指定されてもいる

      

さて八百富神社
創建は1181年の事と伝えられている
藤原俊成という三河国国司が創建

   

かの徳川家康も
この八百富神社を参拝した歴史を持つ

       

参拝を終えると
島に沿って竹島を巡れる

       

ここは浅蜊の産地
磯部は砂地ではなく
浅蜊の貝殻

   

三河湾対岸を眺めながら

   

磯部まで降りると
小さな小指の先ほども無い
ヤドカリが歩き回る姿を見ることが出来る

   

対岸の蒲郡プリンスホテルの緑の屋根も眩しい風景
眺めて歩くのも面白い

       

珍しい神社
竹島、八百富神社を紹介しました
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竹島

2009年10月13日 | 愛知散策
愛知県蒲郡市の三河湾
今でも豊かな海産物資源が残り
大都市名古屋の海の玄関でもある

   

その三河湾に竹島という
周囲680m
面積約1.90ha
の小さな島がある

島までは徒歩で行ける
約400mの橋が竹島に架かっている

   

  

橋から見下ろせば
地元名産の浅蜊を採る姿を見ることが出来る

   

引き潮で腰ほどの水位となった海で
浅蜊猟が行なわれている
水面下10mまでの
塩分の少ない海に育つ

      

夏の最中の訪れであったが
橋を渡る海風はとても涼しく
夏を忘れさせてくれる

       

約10分歩くと
鳥居が橋を囲っている
竹島は島全域が神域
八百富神社が鎮座

   

   

海辺に立つ灯篭が
ここを神域だと伝えてくれている

       

さて
次回は
八百富神社と竹島を紹介しよう

   
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