雪だるま倶楽部

日々を離れ
日常から脱却した世界
そんな風景を切り取っています

三井寺

2008年10月12日 | 滋賀散策
天台寺門宗の総本山
滋賀県大津の三井寺を訪れました
一般的には三井寺として知られていますが
園城寺というのが正式名称

山号は長等山
開基は大友与多王

    

西国三十三箇所観音霊場
第14番札所の観音堂があることでも知られています

大友氏の氏寺として草創されたのが7世紀の事
667年
近江大津京が造営されます
遷都したのは天智天皇
飛鳥からの遷都でした

        

672年に天智天皇が崩御すると壬申の乱が勃発
大友皇子と大海人皇子が皇位継承をめぐって争ったのが「壬申の乱」
壬申の乱に勝利したのは大海人皇子

天智天皇治世の折には
大海人皇子は、大友皇子を皇太子として推挙し
自ら出家を申し出て、吉野宮に下ったものの
崩御すると、東海道・東山道の諸国から兵を募り
反旗を翻す
瀬田橋の戦いで大友皇子が大敗
大友皇子は自決して果てる

       

大海人皇子は天武天皇となり
敗れた大友皇子は
息子の大友与多王が弔う事となる

       

大友与多王が父の霊を弔うため
「田園城邑」を寄進して寺を創建したのが園城寺の始まりと伝えられています

      

天武天皇は都を再び飛鳥に遷都
近江大津京はわずか五年で廃都
園城寺は衰退する近江大津京とともに荒廃し再興を果たすのは2世紀の後の事となる

再興したのは
唐から帰国した留学僧円珍
  
   

再興後は、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えた
東大寺・興福寺・延暦寺と共に「本朝四箇大寺」の一つに数えられるほどとなる

しかし円珍の死後
円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化
比叡山延暦寺から円珍門流がこぞって下る事となった
これ以降
園城寺と比叡山との対立が確執を生む事となる

      

度重なる争いから
園城寺は幾度か焼き討ちされることとなった
それだけでなく
源平の争乱
南北朝の争乱等
争乱の都度、戦火に晒されている

  

安土桃山時代になると
豊臣秀吉に寺領を没収され廃寺となったこともあったが

遷都による衰退
幾多の戦乱
寺領の没収

幾度もの災難によって衰退、再興を繰り返し
それでも存続していることから
「不死鳥の寺」とも言われている

  



さて園城寺
なぜ、三井寺と呼ばれているかというと
寺に涌く霊泉が理由

天智天皇
天武天皇
持統天皇
と3代の天皇の産湯として使用されている

この事から、御井の寺との別名で呼ばれるようになり
御井が転じて三井寺となったという

   

多難な歴史を持つ園城寺

        

広い境内を巡り

   

歴史に触れると

  

在りし日の三井寺が蘇ってくるようでした

   
コメント (2)
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