雪だるま倶楽部

日々を離れ
日常から脱却した世界
そんな風景を切り取っています

鹿鷺山 笠置寺2

2008年10月30日 | 京都散策
笠置寺は元弘の乱の地としても有名

文保2年に即位した後醍醐天皇は
元々、一代限りの天皇で
先々代の後二条天皇の遺児
皇太子邦良親王が成人して皇位につくまでの間として即位が許された天皇
ところが
実子が皇位を継承できない事に不満を募らせ
皇位継承に意見する鎌倉幕府に対し
反乱を計画するに至る

   

時は鎌倉時代後期
元寇によって疲弊した経済情勢の中で
異国警固番役としての負担
元寇の恩賞の停滞
貨幣経済の普及による経済の変革
訴訟問題の停滞
といった数々の問題を蓄積し
幕府の権威は落ちる一方だった

   

そんな中
大覚寺統の後醍醐天皇が即位
幕府の宮中に対する発言を嫌った後醍醐天皇は
1324年に正中の変が起きる
後醍醐天皇の側近
日野資朝
日野俊基らは諸国を巡り
各地の武士や有力者に討幕への参加を呼びかける
しかしこの事は
六波羅探題によって事前に察知された
後醍醐は赦されたものの
日野資朝は佐渡島へ流罪となった

       

倒幕を諦めない後醍醐天皇は
罪を免れた日野俊基と共に再び倒幕を計画する
しかし、次の倒幕計画は
側近の吉田定房が六波羅探題に密告
命辛々逃げ出した後醍醐天皇は
一端は比叡山へと逃げ込むと見せかけ
笠置山へと向い
笠置山で挙兵する

   

ここで行われたのが笠置山の戦い

    

幕府軍はこの地へ7万余の軍勢を送ったという
だが
笠置山は天然の要塞

        

   

後醍醐軍も良く善戦し
一旦は幕府軍を退けている

    

しかし
暴風雨の中
わずか50騎が城内へと侵入
寺社を焼き
後醍醐天皇も軍門に下っている

   


笠置
とても奇異な地でした

        
コメント (8)
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