雪だるま倶楽部

日々を離れ
日常から脱却した世界
そんな風景を切り取っています

渡岸寺観音堂

2008年06月30日 | 滋賀散策
向源寺を訪れました

琵琶湖の最北部にある高月町に佇み
真宗大谷派の寺院

        

向源寺というのが正式な名前ですが
渡岸寺観音堂という通称で親しまれています

       

奈良時代の創建と伝えられています

聖武天皇の勅願により建立
開基は泰澄
観音堂に十一面観音立像を安置
その後、最澄が七堂伽藍を建立しています

  

残念ながら
創建当時の建物は現存していません

      
 
戦国時代に浅井・織田軍の戦で焼失してしまいます

    

建物は焼失していますが
本尊の十一面観音立像は創建当時のまま

戦の起こる前
土中に埋めて災禍を免れたとの事

        

今でも観音堂の脇にある資料館で
十一面観音立像を見ることが出来ます

    

新緑の頃

   

歴史に触れました

        
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近江孤篷庵

2008年06月29日 | 滋賀散策
1653年に建立した
小堀遠州の菩提を弔う寺を訪れました

    

小堀遠州は小室城主であった人物
大名としてだけではなく
千利休
古田織部
らと名前を連ねる日本三大茶人

        

小堀遠州の菩提を弔う為
2代目城主宗慶が創建

       

京都大徳寺より僧円恵を招いて開山

   

臨済宗大徳寺派の寺です

   

小堀遠州自身が京都大徳寺に建立した孤篷庵にちなみ
近江孤篷庵と名付けられた寺
京都の孤篷庵は非公開ですが
こちらの近江孤篷庵は常時公開しています

    

寺領内は静まり返り
ひっそりと佇んでいました

どうやら他に訪れている人も居ないようです

    

小堀家の菩提寺として歴史を刻んでいた寺

庭園は二つあって
ひとつは簡素な石組みの枯山水庭園
もうひとつは池泉回遊式庭園

   

どちらも遠州好みの庭園

    

在りし日の庭園の見事さを
現世にまで残しています

   

   

この近江孤篷庵
多難な歴史も持っています

創建後は菩提寺としての地位が続きますが
江戸時代後期

      

6代目藩主政方の折
小堀家改易とともに衰えます

       

その後は支援もなく衰え
明治維新後無住のままに荒廃となった歴史を持ちます

    



昭和になってから小堀定泰が再建
庭園もその時に整備されています

   

一人の檀家も持たない寺院

  

再建の苦労と寺院の維持管理の苦労が偲ばれます

    

美しい庭園
京都の名庭園と呼ばれる庭園と比べても引けを取りません

  

交通の便が悪い場所ですが
訪れる価値は十分ある寺院です

  
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滋賀県高月町のこいのぼりまつり

2008年06月27日 | 滋賀散策
毎年
こいのぼりの季節には
全国のあちこちでこいのぼり祭りが催されていました

いくつか訪れたのですが
その中で
一番気に入ったこいのぼり祭りを掲載することにしました

湖北の木之本町南には高月町がありますが
町の東側
高時川に沿って
こいのぼりが泳いでいました

   

川を渡すようにこいのぼりを上げるやり方が多いですが
ここのこいのぼりは
通常の上げ方

  

風にたなびくこいのぼり

        

高時川の岸に設けられた運動場では
バザーや模擬店の出店もあって
地元主催の祭りが行われていました

こういう手作りの祭り
楽しいですね

   

こいのぼりとは
江戸時代に入ってから
武家で始まった行事
旧暦の5月5日に男児の出世を願って飾られたもの

     

始まった当初は丁度梅雨の時期
雨の中でも力強く泳ぐ姿を見て
将来の辛苦を物ともしない立派な武士に育つようにとの願いがあったのですが

      

いつの頃からか晩春の晴天の空で泳ぐ姿が一般的になりました

 

鯉と出世のイメージが合致したのは中国の古事に習っての事
中国の史書「後漢書」によります
黄河には
竜門と呼ばれる急流がありますが
滝のような急流を多くの魚が登ろうと試みたが
鯉のみが登り切りることが出来
竜に成ることができたとあります
これに因んで鯉の滝登りが立身出世の象徴となったという事

      

古事に因んで
江戸時代の武家にてこいのぼりが始まった当初は真鯉のみ
いわゆる、お父さん鯉だけだったのが
明治時代になって緋鯉との対になり
昭和に入ってから子鯉も加わって
家族として泳ぐようになった

      

昭和の後期から平成になると
家族全員分の鯉も泳ぐようになって
色とりどりの鯉が晩春の空に輝いています

 

祭りのバザーを見学し
模擬店で頂いた手羽先がとっても美味でした

      

手作りのこいのぼりまつり
堪能しました

 

   
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晴天の曼荼羅寺2

2008年06月26日 | 愛知散策
藤棚を下から見上げると
不思議な景色を見ることができます

藤は横から眺めて楽しむもの
それは解かっているのですが

  

吸い込まれるような
花房の先に別の風景が見えそうな

ほら
よく見てごらん

 

風に棚引き
筆先のように揺れる
描き出す字はナニ?

気の向くまま
風の吹くまま

      

別院深深夏簟清
柘榴開遍透簾明
樹陰満地日当午
夢覚流鴬時一声

日差しが未だ軟らかかった時期
出合う風景も未だ眩しかった頃

     

藤紫

       

光り輝き
その存在を誇示するように
でも
軽やかに風に遊ぶ

     

      

あはれしばしこの時過ぎでながめばや花の軒ばの匂ふあけぼの

   

春の色は柳のうへに見えそめて霞むものから空ぞさむけき

  

夢のうちもうつろふ花に風ふけばしづ心なき春のうたたね

  

  
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晴天の曼荼羅寺

2008年06月25日 | 愛知散策
前回も書きましたが
毎年晴天の藤を撮っていましたが
今年は生憎の小雨

それではと
花の咲いている内にもう一度訪れる事に

訪れてみて
やっぱり藤は晴天の方が似合います

      

けふ一日また金の風
大きい風には銀の鈴
けふ一日また金の風

        

女王の冠さながらに
卓の前には腰を掛け
かびろき窓にむかひます

   

外吹く風は金の風
大きい風には銀の鈴
けふ一日また金の風

   

枯草の音のかなしくて
煙は空に身をすさび
日影たのしく身を嫋ぶ

      

鳶色の土かをるれば
物干竿は空に往き
登る坂道なごめども

      

青き女の顎かと
岡に梢のとげとげし
今日一日また金の風

  

中原中也の「早春の風」
詩集に合わせて紹介しました

       
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大橋家庭園

2008年06月24日 | 京都散策
大橋仁兵衛の別荘庭園

大橋家庭園を訪れました

    

大橋仁兵衛といえば
瀬戸内の鮮魚卸として有名な人物

        

魚が大漁に捕れたという「大漁」にちなんで
「苔涼庭」と名付けられた庭園

   

しゃれたネーミング

小川治兵衛の監修による庭園

   

小川治兵衛は代々世襲で跡目を継ぐと小川治兵衛の名を継いでいる
代表的なのが7代目小川治兵衛

    

平安神宮
円山公園
無鄰庵
京都御苑
修学院離宮
桂離宮
二条城
清水寺
南禅寺
妙心寺
法然院
青蓮院
仁和寺

など多くの庭園の作庭・修景を行っている

        

この庭園も彼の傑作のひとつ

大橋仁兵衛が灯篭集めが趣味で
100坪ほどの庭に集めた灯篭を並べている
その数12基
多すぎる灯篭に小川治兵衛は数を減らすようにと進言

  

しかし大橋仁兵衛は譲らず
12基もの灯篭を目立たず、美しく並べるのに苦心したという

        

作庭の妙
拝見できるのも大橋家庭園の魅力

   

現当主は気さくな方で
訪れた人との談笑にも応じてくれます

    

縁側に座し
当主の方の説明を聞きながら
庭園を眺めました

        

水琴窟の音を楽しみ
趣の異なる灯篭を眺め

       

庭園を楽しみました

  
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伏見稲荷

2008年06月23日 | 京都散策
伏見稲荷
今年はよく訪れています

全国の伏見稲荷の総本山
千本鳥居が見たくての訪問です

        

稲荷神は、宇迦之御魂神を代表とする穀物の神様の総称
そこから稲荷神社に詣でる時
五穀を奉納したり、油揚げを奉納する神社まで色々

    

最近では産業の神様として信仰を集めています


さて
本題の千本鳥居
鳥居の奉納が始まったのは江戸時代
以来数百年

       

奉納された鳥居は一万基を越えると言われています

   

今回は少し斜に構えての撮影
普段撮らない角度から

ずばり言ってしまえば
千本鳥居を外から撮影

      

そりゃ反則技?

  

じゃあ戻って
普通に撮影

      

奥社までの鳥居参道は二つ
出合った先は奥社

       

狐形の絵馬に願いを書いて奉納

    

帰りは別のルートで

       

緑鮮やかな時期の訪問でした

   

    
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御香宮神社

2008年06月22日 | 京都散策
伏見地区の産土神
御香宮神社を訪れました

創建時期は不明
神功皇后を主祭神として祀っている神社です

    

産土神だけあって
赤ちゃんの祈祷に訪れる人がひっきりなしの神社
この日も本殿前では記念撮影が行われていました

   

御香宮神社は応仁の乱で荒廃
その後
豊臣秀吉が伏見城を築城した折
鬼門を守る神社として城内に再建されます

徳川政権になってから
現在の位置に戻り本殿が造営されたということです

  

その為か
東照宮に見られるような極彩色の壁画が描かれています


本殿の脇には神社の銘々の由来ともなった井戸があります

       

清和天皇在位の折
境内より良い香りの水が湧き出し
その水を飲むと病が治ったと伝えられています

       

完治を喜んだ清和天皇より
「御香宮」の名を賜ったことから御香宮神社の名前が付けられたといいます

雪だるまも銘水を頂きましたが
んんっ
確かにいい香がするような...


       



さて
ここを訪れた本題は庭園にあります

    

社務所で拝観料を払い
庭園見学に趣きます

  

この庭園は小堀遠州と縁深い庭園
小堀遠州が伏見奉行の折
造作したと云われている庭園を移設した庭園

  

移設時に多少手が加えられているのか
小堀風であり違うようでもあり

   

枯山水の作庭様式

   

庭園内に直線を取り入れている所なんかは
小堀風作庭

   

書院から見る庭園が美しい
あまり多くの花木を植えず
あくまで枯山水様式を貫く庭園

       

座して眺める庭園に感嘆

   

遠州庭園の美
また一つ見つけました

 
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寺田屋

2008年06月20日 | 京都散策
伏見の有名なスポットといえば
寺田屋
幕末、京都で勤皇と佐幕の嵐が吹き荒れる
いくつもの血生臭い事件が起きているが
ここ、寺田屋もそんな事件現場の一つ

    

事件は二回起きている
一つが文久2年に発生
薩摩藩尊皇派の粛清事件
もう一つが慶応2年に発生
伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件

       

一つ目の薩摩藩尊王派の粛清事件
凄惨を極める事件

        

薩摩藩の最高実験者として
島津久光は藩兵千名を率いて上洛
上洛の目的は、公武合体
しかし、倒幕派の薩摩藩士達は島津久光の上京を倒幕の機会到来と喜ぶ

    

    

倒幕の為ではないという事実が伝わるのにそれほどの時間は必要でなかった
このことに不満を持ったのは
有馬新七
真木和泉
田中河内介
過激派だった彼らは関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義邸を襲撃する事を企てる

    

集まったのは寺田屋

        

それを知った島津久光
大久保一蔵に命じ
この騒ぎを抑えようと試みるも失敗
事態は実力行使へと向う

    

寺田屋へと使わされたのは
大山綱良
奈良原繁
道島五郎兵衛
鈴木勇右衛門
鈴木昌之助
山口金之進
江夏仲左衛門
森岡善助
上床源助

    

大山綱良は有馬新七に
「藩邸に同行するように」
と求めるも
有馬新七は拒否
激しい論争の後
同士討ちの斬りあいが始まってしまう

    

この戦闘によって
討手側は道島五郎兵衛が死亡
有馬新七側は
有馬新七
柴山愛次郎
橋口壮介
西田直五郎
弟子丸龍助
橋口伝蔵が死亡

田中謙助
森山新五左衛門
の二名が重症を負った

    


もう一つの坂本龍馬襲撃事件は
有名なのでここでの記載は省きます

        

この寺田屋
実は事件当時の建物ではありません
事件当時の寺田屋は
その後の鳥羽伏見の戦いで焼失しています

       

建物の位置も
元々の寺田屋は現在の建物の西隣にあったそうです
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長建寺と十石船

2008年06月19日 | 京都散策
        

月桂冠大倉記念館を出て南下すると
宇治川から引き込まれた用水の畔に出ます
橋から見下ろすと十石船が並んでいました

のどかな日差しの下
桜並木と柳の緑が彩る景観
ここからおよそ200mほど続く風景がとても美しい

   

堀沿いを歩く前に
長建寺を尋ねます

    

「島の弁天さん」という愛称で親しまれている真言宗の寺院です
中書島は昔、遊郭があったことでも知られていますが
遊女たちが祈願に訪れていたであろう寺院です

   

創建は1699年
中書島の開拓時に創建されたそうです
元々この地にあった即成院を改めて創建
即成院は、平安中期の橘俊綱の山荘であったもの
そういう歴史を持つので
本尊は平安中期の作と言われる八臂弁財天

島の弁天さんには、もう一つ別の楽しみがあります
それは、おみくじ
ここのみくじ
なんと和歌

    

和歌で占いなんて
なんて古風で奥ゆかしい趣
ここでおみくじを引く為だけに
伏見へと足を向けてみるのも良いかもしれません

   

        

伏見の名水「閼伽水」を頂いて
長建寺を後にしました

    

そこからは堀川沿いを散策しました
柳が緩やかに揺れ
心地よい風が運河沿いに流れてきます

    

十石船も軽快に進んできます

   

    

月桂冠大倉記念館の建物が
風景にマッチしていて
時代錯誤に陥りそう

        

足元をワンコが歩いていましたが
水に入りたがって纏わり付きます
暫し休憩してワンコが戯れるのを眺めました

   

       

散策するにはいい道です

   

暑さを忘れる風景の中
撮影を楽しみました

       
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月桂冠大倉記念館

2008年06月18日 | 京都散策
京都、伏見には月桂冠の大倉記念館があります

        

土蔵と白壁の通り
昔懐かしい風景
以前にも書きましたが
雪だるまは大正ロマンが大好きです
こういう風景
日本と西洋文化が交じり合った風景
好物なんです

        

そんな
雪だるまがヨダレが出る町並の一角に
月桂冠大倉記念館があります

   

貴酒造用具類と
伏見の酒造りと日本酒の歴史について
記念館のかたちで紹介しています

    

月桂冠の歴史は古く
創業は1637年というから今から4百年前
以来、日本酒の製造メーカーとして知らないものは居ないほど

   

入口では
受付で運転手の有無を聞かれます
運転手なら
胸に運転手のしるしとして
シールが貼られます
その人意外は、試飲コーナーで日本酒の利き酒ができますよ

    

ちなみに
入場料は300円ですが
180mlの日本酒が付いてきます
ほとんど無料の見学施設
訪れない手はありません

        


言いながら
本日は車での来訪
当然胸には運転手のシールが...

という訳で
試飲コーナーはパスして
見学です

       

観光バスでの見学もある施設
それなりに混雑した記念館を見学しました

    

酒つくりの歴史から
実際の酒造方法まで
特に昔の酒造方法を念入りに解説してあります

焼酎派の雪だるまとしては
いささかではありましたが
でも
日本の伝統的文化である酒造
じっくりと拝見しました

    

    

日本酒の製造方法から近代の歴史まで
中には
昔の宣伝用ポスターまで

       

また
庭園もあり
以外に楽しめる施設でした

   

         
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乙訓寺2

2008年06月17日 | 京都散策
乙訓寺の2回目です

      

前回は空海について記しましたが
今回は乙訓寺のもう一つの歴史的な事件
早良親王幽閉について

  

早良親王は皇太子の一人であったが母方が下級貴族であったことから
皇太子への道は閉ざされてい為
早くに出家した人物
出家した後は親王禅師と称し
大安寺東院に住んでいたと云われています

   

兄の桓武天皇が即位すると
父、光仁上皇の勧めで還俗
それが彼の悲劇の始まりでした

       

桓武天皇の右腕
藤原種継
桓武天皇が平城京からの遷都を発願
その時、藤原種継は長岡京への遷都を提唱
翌年長岡京への遷都が行われている
時に785年の事

   

造営作業の監督に出掛けていた藤原種継が矢で射られ死去する事件が起きます
世に言う「藤原種継暗殺事件」
当初、実行犯だった大伴竹良が捕縛され
取調べの後、官僚を含む十数人が逮捕され斬首となっている
事件に連座し、多くの者が流罪を受けることになった

   

しかし
それでこの事件は解決しなかった
藤原種継と不仲であったとされる早良親王までもが容疑をかけられる事となった
廃嫡となり一時この乙訓寺に幽閉される事となるのです

   

無実を訴え続けた早良親王
淡路国へと流罪となる途中
無罪を訴え続け、絶食していた早良親王は途中憤死

   

その後、桓武天皇の長男安殿親王の発病
桓武天皇妃藤原乙牟漏の病死など
早良親王の祟りと思われた事件が相次ぎ
幾度かの鎮魂儀式が行われたという




最後に
今回はワンコを同伴させていましたので
牡丹とワンコでお別れです

  

 
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乙訓寺

2008年06月16日 | 京都散策
真言宗豊山派の寺院
乙訓寺を訪れました

聖徳太子が建立したと伝えられている寺院です

    

創建時期は不明
学術調査で奈良時代の創建であるらしいという事が判っています

      

ここは牡丹で有名
京都を代表する牡丹の寺
4月末から5月初旬にかけて
この寺は賑わいます

      

好天下で訪問する事が出来ました

   

乙訓寺
歴史上、有名な事が二つあります

一つは、弘法大師がここの住職を務めていた事
もう一つは、早良親王が幽閉された事

この二つについて語りながら乙訓寺の牡丹を紹介していこうと思います


弘法大師空海が遣唐使の一員として唐に渡ったのは延暦23年
西暦で804年の事
留学僧として唐の地を踏んだのです
留学期間は20年の約束

長安の西明寺にて梵語の勉強を続け
唐随一と呼ばれる密教の師、青龍寺の恵果和尚に師事し
瞬く間に密教を習得していったと伝えられています
伝法阿闍梨位の灌頂を受けたのは師事してから3ヶ月の後
何十年も懸けて得られない修行を弘法大師空海はたった3ヶ月で習得
彼の非凡さが窺えます

その年の内に空海は日本への帰路につきます
20年の約束を違え、2年経たずに日本へと帰国
その為か、京都への帰還はすぐには叶わず
大宰府で数年留め置かれたと伝えられています

京都への帰参が叶ったのはそれから3年後
当初は神護寺に入った空海
2年後には乙訓寺の別当として在住することとなったのです

   

さて話題を戻して牡丹
乙訓寺の境内には牡丹が咲き乱れています
創建当時から牡丹が植えられていた訳ではなく
乙訓寺で牡丹の栽培が始まったのは昭和15年
それまでは松の並木であったそうですが
室戸台風でほとんど倒木
その後牡丹の栽培を行うようになったとの事

      

今では牡丹の寺として有名になっています

    

一枝濃艶露凝香
雲雨巫山枉断腸
借問漢宮誰得似
可憐飛燕倚新粧

かの李白も牡丹を楊貴妃に例えて詠んでいます

   

さてまた話は戻って弘法大師空海
乙訓寺の別当に就いた後
最澄の訪問を受けたと云います
空海が中国から持ち帰った仏典
密教のエキスが詰った仏典
最澄が驚くほどのものであった
これまで日本に伝えられていなかった経典の数々

       

この地で
空海と最澄は会い
空海は真言の法を最澄に伝えた
その後10年に渡り二人の間には交流があった

      

しかし
二人の仏教に対する考え方には隔たりがあった
密厳一乗を標榜する空海
法華一乗を掲げる最澄

      

やがては袂を分かつ二人が
この寺で、真言の法について語り合ったのでしょう

     

続く...
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長岡天満宮 霧島ツツジ2

2008年06月15日 | 京都散策
長岡天満宮の2回目です

      

毎年見ている霧島ツツジ
今年は南面の花は見頃を過ぎていましたが
北面はまさに見頃
北面の霧島ツツジをメインに撮影することとなりました

        

昨年撮った写真は赤が飛びそうなくらい光ってしまったので
今年は色彩を抑えるような撮影方法を取り
花びらの輪郭をしっかり出せたと思います

     

水上橋の中央やや西よりには
八条が池の南北を通す水路があり
そこには石橋が架かっていますが
この周辺が人気の撮影ポイント
この日も三脚と脚立を持った人が
30分以上撮影してみえ
他のカメラマン達が、手薬煉引いて撮影が終わるのを待ってみえました

       

雪だるまはというと
三脚を避けるように切り取って表現
というか待ってられなかっただけですが...

現地の施設整備をしてらっしゃる方でしょうか?
三脚を立てた人を邪魔になると怒鳴っていらっしゃって
怒鳴る声が風景にマッチせず
また
三脚を構える人も迷惑になるほど足を広げていて
どっちもどっちの戦い

      

雪だるまは今回は手持ち撮影でしたので
どちらの戦いにも参加せず

      

水道橋には二列の霧島ツツジ
真ん中を歩くのは至極

    

一面赤ではなく
何箇所かは緑があります
それがいいアクセントになります

  

  

霧島ツツジ
学名はRhododendron obtusum
久留米ツツジとも呼ばれていますが
九州の霧島山に多く地植していたことから
一般的に霧島ツツジと呼ばれているそうです

  

さて訪れてから
もう1時間は経過
そろそろお暇する時間かな?

 

身の丈よりも高いツツジ

      

名残惜しげに眺め

       

八条が池側から去ることにしました

最後に池にある休憩所から遠望

    

     
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長岡天満宮 霧島ツツジ

2008年06月13日 | 京都散策
さてさてまたも公開時期が遅れた京都散策
遅れましての霧島ツツジです

霧島ツツジ撮影で
毎年訪れている長岡天満宮
今年も満開の時期に訪れる事が出来ました

       

毎年
6時過ぎには到着していたのですが
今年は遅れて7時の現着
すでに沢山の方が霧島ツツジを見学してみえました

    

この長岡天満宮
菅原道真と縁が深い
名前に天満宮とあるように
菅原道真を神格化して祀っています

  

幼少の頃より詩歌に類まれなる才能をみせた菅原道真
才覚を見せ
出世をする

   

宇多天皇の信任を受け
要職を担うようになる
醍醐天皇の治世でも順調に出世を続け
最終的には右大臣まで上り詰め、従二位に叙せられる

そして悲劇が訪れる

政治的不遇を被った菅原道真
罪状は、斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀ったというもの
明らかな冤罪

流刑された大宰府で頓死すると
京都では天災が相次ぐ
ついには、清涼殿への落雷で大納言の藤原清貴が死亡
慌てた朝廷は菅原道真の怒りを鎮める為に
大宰府に天満宮を造営し彼を神格化

京都でも彼と縁深いここ長岡に天満宮を設けたのです

       

なんとも陰妙な歴史を持っています

  






さて
話題を戻して霧島ツツジ

     

樹齢130年とも伝えられ
毎年見事な花を咲かせてくれています
初めてこの水上橋を見た時は夏の時期

それほどの感動を覚えませんでした
その翌年
満開の霧島ツツジを見て
無情の感動

   

八条が池に紅い帯が映りこむ風景

       

燃えるように紅いツツジ

     

      

更に続きます

  
コメント (6)
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