昨日2月20日、ハチローのいちどぅしヤスーンの通夜が執り行われました。
霧雨が降る中、Tら~、ポン先生、森どぅ、砂吉、ミズエ、ちぃかぁ、ハチローの7名でヤスーンの実家を訪れました。亀さんは残念ながらシフト上の都合で見送りました(しかし深夜からの供花の手配、本当にありがとう)。
ヤスーンは棺の中で静かに横になっていました。顔色はすでに紫色になっており、さわってみると冷却用の氷のせいでとっても冷たくなっていました。
先日のテルおばぁのように「まだ生きているんじゃないか」という思い込みは、全く起こりませんでした。当然でしょう。先月19日に不慮の事故に遭い、それから約一ヶ月も病床での激闘の末、17日力尽き、静かに目を閉じたんです。棺の中のヤスーンに、生命の匂いはありませんでした。
しかし、ヤスーンを見れば、いなくなったことの実感がわくと思っていたハチロー。間違っていました。
ヤスーンにもう会えないということが、未だに信じられないのです。なぜでしょうか・・・。
お父さん、お母さん、弟さんをはじめ、たくさんのご親戚が迎えてくれました。ご両親がとても気丈にふるまっていたのは、連絡をくれたときの弟さん同様、長い入院期間を経て覚悟ができていらっしゃったのでしょう。日頃クールな砂吉が号泣していました。ミズエ、ちぃかぁの女性二人は、家に入る前から泣いてたね。
ハチローは今までの思い出の写真と、ヤスーンへの心からの感謝の言葉を綴った手紙を 棺に入れました。そして「東京の海は冷たかっただろう。俺達は君と出会えて本当に幸せだった。君の笑顔を見るのが年二回最高の楽しみだったよ。その喜びがもう訪れないというのはどんなにつらいことか。ヤスーン、お疲れ様。素晴らしい思い出を、本当にありがとう」と伝えました。頭はボーっとしていましたが、なぜだか涙は出てきませんでした。
もちろんヤスーンは何も言いませんでした。
部屋には、去年ハチローが撮影した真栄田岬でのヤスーンの写真(右)が置かれていまし た。お母さんが言いました。「ハチローさんのことはよく話していましたよ。この写真にはみんなで喜んでいました」と。ハチローは目頭が熱くなりました。あの時、照れながらもCOOLに受け取ったヤスーンが、実家で親戚中に披露し、こんなにも喜んでいてくれたとは・・・。そしてそのヤスーンは今、目の前に物言わず横たわっているのです。
どぅしぐわぁ一人ひとりがそれぞれの思いを棺の中に伝え、ヤスーンの実家を後にしました。まるでスプレーを吹きかけているような霧雨は、何とも表現しようのないハチローらの気持ちを表すかのようでした。
そのまま別れて帰る気にもなれず、近くの居酒屋へ。ヤスーンとの思い出が詰まった写真を眺めながら、みんなでしまぁを飲みました。暗くなりがちな場をTら~が精一杯明るくしてくれました。そんな陽気な彼も、まぶたがはれていました。昨晩一人涙を落としたのでしょう。Tら~、お前こそ無理するなよな。
下写真はみんなが「これいいね」と評した写真。こちらも以前、当ブログでもUPさせていただいておりますが再掲します。さよなら、ていう感じで手を振っている様子に見えて悲しくもありますが、「COOLなヤスーンの雰囲気が伝わってくる」とのこと。この二枚ともハチローにとってヤスーンと過ごした貴重な時間の証拠であり、大事な2枚であることに変りはありません。「かっこいい絵を撮りたい」とヤスーンにお願いをしていた2人の共作でもありますから。会社のD200という高級一眼レフも使用しましたし。
しかし、ハチローにとってヤスーン最高のショットは最後にUPする一枚なんです。
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話を戻して・・・。酒を飲み、写真を見ながら次第にこれまでの思い出話へと。ハチローの心にもヤスーンと過ごした数々のSCENEがよみがえりました。
高校時代からシャイだったヤスーン。ある英語の授業時間(「生きた英会話を」が流行りだしたころだったため)、ハチローらのクラスにも外国人教師がやってきました。大柄な白人男性だった彼は、日いずる国NIPPONの高校生と早く打ち解けようと必死でした。そして一人ひとりに「ワッチュアネイム?」と聞きまくりました。ハチローも聞かれたため答えると「Oh! ユー・アー・ハブロー!ベリーグッゥ」と(笑)。笑いをとろうとわざと間違えているのは一目瞭然でした。そしてその順番がヤスーンにも回ってきたのです。シャイだったヤスーンは顔を赤くしながら「マイ・ネイム・イズ・ヤスフミ」とボソッと答えました。すると外国人教師は大げさに手をひろげ「Oh! ユー・アー・ヤスーン!」と言ったのです。そうです、それが、ヤスーンというその後15年以上も続く愛称を拝命した瞬間だったのです。忘れかけていた淡い記憶が鮮明によみがえりました。
学校帰りはよく7人で歩いて帰りました。その時もシャイで寡黙なヤスーンは黙りっぱなし。周りのヤツらのギャグを聞いて静かに笑うだけでした。次第に「ヤスーンが笑ったらそのギャグは面白かった」という評価基準までできてしまったほどです(笑)。
またクラス会のあとの深夜のラーメン屋で一人しぶく「しお」と注文し、食後に一言「うまい」といっただけで、内輪でのそのラーメン屋の株が上がったこともあります。
中学時代は野球部だったらしいので、一緒にバッティングセンターにも行きました。しかしフォームとスイングスピードはいいのですが、なかなか快音が聞かれず。ハチローが「どうしたヤスーン?」と聞くと「ボールが見えない」とポツリ。かなり視力が悪いことを誰にも言ってなかったようです。それでも何も言わず黙々とバットを振り続けたヤスーン(笑)。友達との付き合いに自分の事情を持ち込みたくなかったのかな。彼らしいといえば彼らしい思い出。
高校を卒業すると、ヤスーンは急に音信不通になりました。物静かだった彼だけに、急激にその存在は薄れていきました。ハチローも宅ハチローだったころで、「市内の古本屋でバイトしているのを見た」という情報が入ってきたのみでした。二浪して地元の国立R大学に入学してから「ヤスーンは一浪で合格し工学部にいるらしい」という話を聞きましたが、学費を稼ぐためにバイトに明け暮れる毎日だったハチロー、結局在学中の四年間一度も会うことがありませんでした。そして「ヤスーンは別の目標があって3年次で中退したらしい」ということを風の便りに聞いたのです。
1999年、現在の会社に入社したハチローを待っていたのは、新入社員を震え上がらす営業ノルマでした。血縁の強いここ沖縄にとって、営業ノルマなんて本人の努力よりも親戚の数で達成率が決まってきます(笑)。育ちのいいボンボンほど左うちわで肩で風切って歩ける社風なんです(悲)。片親でしかも県内にいとこすらいないハチローにとってそれは大変な壁でした。もう友達を頼るしかない、と卒業アルバムの住所録をめくって電話攻勢にでました。その時、初めてヤスーンの実家にもかけたのです。ヤス母は言いました。「残念だけどヤスフミは今沖縄本島にはいないのよ。西表島でダイビングガイドをしているの。携帯番号教えるからかけてごらん」と。ハチローはビックリしました。あのシャイなヤスーンが離島でガイドをしていると! 国立大学を中退してまでやりたかったことはこれなのか、と。
早速かけてみました。ほぼ6年ぶりに聞く声は、照れくさそうに笑っていました。本島でダイビングガイドをやっていたが流れ流れて西表島までやってきたと。小さいショップで大変だが、何とか頑張っていると。ハチローの脳裏にはヤスーンの笑顔と西表島の大自然が浮かびました。「今度の夏休み遊びに行くからよ」と約束をして電話を切りました。結局ノルマは達成できませんでした(笑)
そして2000年か01年の夏、ハチローは一人西表に旅に出ました。初の石垣、そして初の西表。旅疲れのハチローを迎えてくれたヤスーンは高校時代とは別人のようでした。茶色いアフロヘアーに小麦色で筋肉質の体! 高校時代「星の王子様」と呼ばれていた品のよさが消え去り、西表でつちかった野生の匂いがプンプンしていたのです。当時、体重がリバウンドし85㌔あった新人サラリーマン・ハチロー、わが身を恥じました(笑)。
その日一日、楽しかったよ、ヤスーン。カヌーでマングローブ流域を上り、沖縄最高の滝ピナイサーラまで行ったね。滝をバックに野郎二人で記念撮影をしたね。ショップに戻ってからは客のいないフロアーでビールを飲んだなぁ。そして「いつかTら~なんかとみんなで来て、店ごと貸し切るからよ」と出来ない約束までしたね(笑)。
その後、ヤスーンはそのショップも退職し、本格的に潜水作業士の道へ。やはり性格上、ハイテンションで来る観光客の相手をする接待業務につかれていたよう。君は、安っぽいお世辞を言える性格ではなかったからね。
西表での再会をきっかけにヤスーンとハチローらの交流も復活しました。下写真は貴重なレディースも揃ったいつかのビーチパーティー。ミィーも写ってますね。
そうそう、このときヤスーンは潜水作業で指を骨折したまま帰沖。ふくれた指にみんな絶句したよ。そしてヤスーンの誕生日が近いこともあって、みんなで救急箱をプレゼントしたなぁ(ポン先生が「俺の方が誕生日近くね?」とぼやいていたのを思い出します(笑))。そのころから、潜水業務の危険さをみんな感じてはいたんだけどね・・・。
ヤスーン、本当に楽しかったよ。一枚一枚の写真に数え切れないほどの思い出が詰まっています。
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ヤスーン。君に謝りたいことがあるんだ。二つある。
一つは4年前のハチローの披露宴のときのことだ。ヤスーンにはぜひ出席してほしくて前々から航空チケットを郵送していたね。ヤスーンも「喜んで出席する」と言ってくれてた。でも披露宴のまさに前日、君から電話が・・・。「ハチロー、ご免。いけそうにない・・・」と。俺は本当にショックだったよ。というのも、言い訳になるが、披露園前日の新郎というのはすべてのゴタゴタを背負っていてストレスもピークの状態ではある(ここまでは完全に言い訳)、さらにその1時間前に会社の同僚からも「明日やっぱり行けんやっさー。ご免なぁ」というアホな電話を2,3件も受けて怒り心頭に達していたハチロー(出席可否も確認したのに前日に言うなどアホ。席代として祝儀を渡すのは最低限の礼儀だろうが。お前らは社会人失格じゃ)。そんな状態ながら「明日までの我慢」と自分に言い聞かせていた矢先の君からの電話だったんだ。まさか、ヤスーンまでもが・・・と、俺はもうショックでショックで声を出すこともできなかったよ。君は言ったね「同僚が突然の事故死で俺がどうしても現場に入らなくちゃいけないことになって・・・」と。「分かったよ。ヤスーン。そんな事情なら仕方ないが、本当にガッカリだよ」と俺は言ってしまったんだ。
披露宴当日、どぅしぐわぁたぁの協力の下、無事宴席を終わらせ、2次会、3次会に移ったころ、君は目の前に現れたね。「ハチロー、遅れてご免。おめでとう」と。目を疑ったが、心の底から嬉しかったよ。代理業務を何とかこなし、急ぎ最終便でやってきたと。ほとんど作業服だったから聞かなくても分かったよ。握手した手も油で汚れていたね。相変わらず笑顔だったが、かなり疲れているのと、どことなく悲しげな目をしていたのを覚えています。
それから数年たって、Tら~(多分)から聞きました。その時事故死したのはヤスーンの最高のバディだったと。ヤスーンは自分の相棒の事故死という悲しみのどん底にいながら、ハチローに電話をかけていたのだと。そんな彼にハチローは「ガッカリだ」と言ってしまったのだと・・・。
いつか謝ろうと思っていたが、ヤスーンの笑顔を見るたびに、結局できなかったよ。ご免よ。あの時は、俺が悪かった。自分のことで頭がいっぱいだった小さな俺は、大事な友達の心の痛みに気付かなかったんだ。親友として失格だね。
でもこれだけは間違いない。あの日、ヤスーンの顔を見て初めて、俺は「やっと終わった」という実感を感じたんだよ。みんなに祝ってもらえた、という幸せを感じたんだよ。ありがとう。
もう一つは、二週間前のこと。ヤンバル異動が確定してから、早速君にメールを送ったね。ヤンバルは君がかつて働いていたリゾートホテルもあるし、いつかそのショップでダイビングしようと約束もしていたからね。異動は君も喜んでくれるだろうと・・・。でも待てども待てども返信がなかった。「何だよ。ヤスーン、つれないなぁ」と俺は思っていた。昨夜、自分の送信履歴を確認してみたよ。2月7日の送信だった。返信がなくて当たり前だ。
その時、君はすでに脳死状態で病室に横たわっていたんだね。
俺は本当に自分のことしか頭にない小さな男だね。君が一人、東京の海中で苦しんでいるときに、俺は自分の人事の話で浮き足立っていたんだ。そして君が一人生死の境をさまよっているときに、メールの返信を求めていた・・・。本当に親友として失格だよ、俺は。
ご免な、ヤスーン。これだけは謝っても謝りきれないよ。
いつか天国で逢ったときに、一番最初に、まず謝らせてくれ。
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今日21日、告別式に参列しました。通夜には来れなかった亀さんとミスミの顔もありました。そして久々に見るN高生の顔もチラホラ。ヤスーンの人柄を偲び、みんな顔がくしゃくしゃでした。
ヤスーン、君の弟さんは立派だったよ。遺族代表あいさつでもしっかりと話していた。高校のころ一回見たことがある、あのひょろっとした眼鏡っ子だろ。それがここまで立派になっていて・・・。顔立ち、声、君に似ていたよ(笑)。
ヤスーン。親友として言わせてくれ。ご両親のことは心配するなと。「親より先に死ぬのが一番の親不幸」という。俺もそれを心配していた。もし、ヤスーンのご両親が泣き崩れて立ち直れなかったら・・・と。でも弟さんを見て安心したよ。年老いた親を守る子としての義務、彼なら大丈夫だ。
だからヤスーン、何の心配もせず、ゆっくりと安息の地を探せばいいさ。
通夜のあと、居酒屋でみんなと話したよ。「悲しむだけなら友達じゃないのでは」と。俺達は悲しむだけじゃなく、君と一緒に過ごした大切な思い出を守っていくという義務があるんだとね。それは写真という形もあると思う。でも一番大切なのは、今後もみんなが仲良く集まるということだと。Tら~が強く言ってたよ。飲みたいだけかもしれないが(笑)。でも、それが今までもこれからも一番の理由だよ。もちろん、その場にはヤスーンの席も用意しているからな。
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でもね、ヤスーン。
君が海の世界に目覚めたという慶良間の海。今年こそ、シーサーのボートで行って3DIVEして、帰りの船上からビールを飲んで、そのまま焼き鳥屋へ直行しよう!っていう約束。もう果たせないんだね。俺にとっての最高のバディがいなくなってしまったという現実。本当に、本当に寂しいよ。どんだけきれいごと書いても、この心にぽっかりと出来た空洞は埋まらないんだ。俺はこれから誰と沖縄の海に潜ればいいんだい? 海が嫌いになってしまうかもしれないよ。先に逝った君を恨むことがあるかもしれません。
今頃、涙があふれてきた俺を許してくれ。
この34歳、鼻水もとまらないよ。
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ここで、ハチローが撮ったヤスーン最高のショットをUPします(下写真)。カメラは自身最初で最後のフィルム一眼レフ(CANONのEOS KISS α)で、2000年前後の撮影かと。ヤスーン、Tら~、亀さん、ハチローという彼女いない寂しい男4名(当時)でドライブしたときのものです。夕暮れ時バイクに乗るヤスーンを、亀さん自家用車の後部座席から撮影。
どこが、いい絵かって? ただのアップじゃないかって? 分からない人には分からないんです。構図、ピント、色彩、背景、そんなことどうだっていいんです。
まず、男4名のドライブでなぜ彼だけバイクに乗っているのか。それはTら~のプチわがままがあったからなのです。不免許ながらなぜかバイクの運転がうまかったTら~。ドライブが決まったときに「ヤスーン!お前のバイク持ってきてぇ。警官の来ない荒地で乗らせてくれ」という彼の破天荒なお願いを断りきれず、ヤスーンは一人だけバイク出動したからです(笑)。確か読谷あたりまで行ったよなぁ。ひどいっ。
三人が乗る車を一人がバイクで追う。こんなドライブ見たことありませんがね(笑)。でもこの写真は、信号待ちしていたハチローらの車にやっと追いついたときのヤスーンの照れた笑顔、その瞬間を切り取った一枚なんです。ハチローらが年二回会うのを楽しみにしていたヤスーンの最高の笑顔なんです。上の海中写真は、確かにかっこいいかもしれません。でもヤスーンにポーズをお願いした時点で本当のヤスーンではないのです。少なくともハチローらにとって。
スタンドを立てたまま、国道を走行し(危険!)、それをTら~に指摘された後だっただけに、照れくささがいっそう笑顔ににじみ出ていますね。
最高の笑顔を見せてくれたヤスーンはもういない。
でもこの写真で、いつまでも変らないヤスーンに会える。
間違いなくハチローのベストショットです。
すべての思いが詰まった一枚だからです。
新城安史(アラシロ・ヤスフミ)
享年36歳(数え年) 職業:ダイバー
沖縄の海をこよなく愛した生粋のウチナーンチュ
2008年2月17日 不慮の事故が原因で天国に召される
ヤスーン、俺はしぶとくあと何十年も生きるはず。だから天国で逢うのは、まだ先だな。
でもいい案がある。寂しくなったら、海の中に来ればいい。
(陸上だと幽霊だからな)
美しいさんご礁の前で、再会できる日を、心から楽しみにしています。
ヤスーン、最高の笑顔と思い出を、本当にありがとう。
これからも最高のどぅしぐわぁでいてくれ。
このような内容に逐一コメントを返すというのも変なので・・・。一言だけ。そして初コメントのサミーさんへ。
訃報に驚き、いまでも信じられないのは皆さん一緒のようです。安らかな旅立ちを祈るしかないのでしょうね。
ヤスーン、君にはたくさんの友達がいたんだね。
サミーさん。初めまして。県内のダイバーの方でしょうか。もしかして水中写真家の方でしょうか?どちらにしろ、ヤスーンと思い出深いときを過ごされたようですね。ヤスーンの笑顔はお互い一生忘れることはないでしょう。僕がいう事ではないでしょうが、ヤスーンの分までこれからも沖縄の海を愛してくださるようお願いします。
一緒に1年間ダイビングの勉強をした者です。
私も正月に呑んだのが最後となってしまいました。
いつも、別れ際に「ヤッサン事故するな」「生還しろ」と言い続けたのに・・・・・・・
私たちは、「ヤスーン」のこと「ヤッサン」って呼んでいたんです。
ヤッサンは本当に穏やかで優しい奴だった。
ブログにあるバイクのヤッサンの笑顔はヤッサンの象徴だね。
ずっと忘れません。
ご冥福をお祈ります。