沖縄 8 Scene

沖縄で生まれ沖縄に生きる
      8郎家の日記

ある沖縄おばぁのトーカチ

2006年12月07日 | 家族、親戚

 先日。無事にハチローの祖母てるおばぁのトーカチ(米寿祝い)を済ませてきました。正Zennkei_1 直、帰宅し てドッと疲れがでましたねぇ。やはり精神的なものだと思います。親戚づきあいの盛んなここ沖縄。しかしハチロー一家は、訳あってそういう機会がほとんどないまま過ごしてきました。普通の家庭ならお盆や正月、シーミー(清明祭)には親戚らが一同に集まり、懇談するものです。そういう経験はハチローら3兄妹にはなかったのです。それが今回は少ないなりにも、10数名の親戚に集まってもらい、祝うことになりました。

 そういう場にまったく慣れていないハチロー。父にいきなり乾杯の音頭、そして最後の 締めのあいさつをふられしどろもどろ!(普通そういうのは親戚の大御所がやるものでしょ!)。何を言っていいか分からずの状態でしたが、とりあえず、てるおばぁに対する心からの感謝の意を述べたつもりです。伝わったかなぁ? 

 家庭的にかなり不安定だった幼少時代、誰も信じられなかった三兄妹にとって、唯一心のよりどころがてるおばぁだったのです。その感謝の気持ちは、とても書き表すことができKaraokeません。

 ところで意外だったのが、てるおばぁが泣かなかったことです。絶対、涙を流すだろうと思っていたハチロー、予想はまたまた外れました。恐らく、久々に人が集まる場なので、恥ずかしい姿は見せないと心に決めていたのでしょう。負けず嫌いの糸満いなぐですから。でも終始笑顔だったのでホッとしました。楽しんでもらえたかな。左写真はひ孫二人とカラオケを歌うてるおばぁです。マイクを握ると何時間でも歌えるてるおばぁです(笑)。

 妊娠中に沖縄戦が始まり、夫(おじぃ)を軍隊に取られ、陣痛に苦しむ中、那覇から大宜味村(約80㌔)を夜な夜な歩いて疎開し、ハチロー父を出産。米軍に拘束、捕虜となりながらも、捕虜収容所では、みんなが怖がる米軍人と最初に友達になり、ガムやチョコレート、乳児用ミルクをもらったのが今でも自慢。いつも父に向かって「あんたはアメリカぁがいなかったら育てきれんかったよぉ」と言っています(笑)。終戦後は、港近くの小さな商店Manyu を女手一つで繁盛させ、息子二人を本土の私立大学にまで行かせました(バイトもさせず全て仕送り)。稼いだお金で念願の一軒家も建てました。すごいっす! まさに細腕繁盛記です。しかし私生活では涙涙の連続だったようです。息子二人は定職につかず、さらには離婚。汗水流した貯金から借金の肩代わりもしました。また超頑固モノのおじぃのせいで大好きだった琴も三線も弾くことを許されませんでした。ダメ男らに苦しめられた女性なんです。それでもいつもハチローらのことを気遣い、「おいしいものばっかり食べたらだめよぉ。医者が体にいいと言うものを食べなさい」というのが口ぐせ。しかしたまに電話をかけてきて「美味しいもの食べに連れてってくれんかねぇ」(笑)というお茶目な面も。※右写真は料亭ことぶきのお食事。おいしゅうございました。

 最近は車の乗り降りも、スムーズには行かなくなってきましたが、出来るだけ長く、元気でいてもらいたいものです。よくいう「これまで人のためだけに生きてきたんだから、これからは自分のために生きてください」という言葉を贈りたいのです。

 どんな企業家、政治家よりも、ハチローが尊敬するてるおばぁ。彼女の深い深い年輪を祝った素朴なトーカチ祝いでした。

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